下記の小説は、新年のご挨拶と、サイト一周年のお礼をかねて書いたものです。
「夜の夢/松原冬夜」 |
ひととせ 睦月、如月、弥生――。 吹きかけた吐息に白く曇った硝子。そこに、あなたがなぞった文字を覚えていますか? 白い雪の間から、芽を吹いた緑を見つけた日を覚えていますか? 冷たい風の間に乗った、微かな梅の香りを覚えていますか? 卯月、皐月、水無月――。 春に咲きます薄紅の、桜の色を覚えていますか? 寂しく散ったその花弁に染まった道を覚えていますか? あなたは目を赤くして、鼻を啜っていましたね。 空を泳ぐ大きな魚を見上げていたわたくしに、美味しそうだね、と笑った日のことを覚えていますか? 雨に濡れた歩道に、飛び出してきた蛙に驚いたわたくしを、弱虫だね、と笑ったあなたを忘れていません。 文月、葉月、長月――。 木々の木漏れ日の眩しさに、目を細めた日を覚えていますか? 暑さに弱かったわたくしに、内緒だよ、とわけてくれた氷菓の甘さを覚えていますか? 土手に寝転んだあなたの髪に、とまった赤とんぼの目の色を、わたくしはよく覚えています。 神無月、霜月、師走――。 秋に枯れた葉を敷いた歩道を、あなたとわたくしは歩きましたね。 季節が巡って、また星の綺麗な冬を迎えました。 早いものですね。 凍える夜の狭間に、命を振り絞って、ないたわたくしの声を、あなたが聞いたそのときから一年の月日を数えました。 鐘の音が余韻を残して響く、その一瞬の隙間に。 わたくしの声は、あなたへと届きました。 あなたは、あの日のことを覚えていてくださっていますか? あなたが、前日から溶け切らずにいた残雪を掻き分けて、伸ばしてくれたその手のおかげで、わたくしはこうして、ここに生きています。 誰にも省みられることなく、打ち捨てられたわたくしの命を、救ってくださったあなたの手の暖かさは、今もしっかりと覚えております。 まだ光を知らなかったわたくしの目でも、あなたの穏やかな笑顔が見えたような気がしてなりません。 今、思い返してみても。 優しく笑んで、そっと、わたくしを撫でて、暖かい息を吹きかけて。 凍ったわたくしの四肢を、心を、温めてくださった。抱いてくださった。 途切れそうな命の糸を、あなたは必死に手繰って繋いで。 だから、わたくしは、今を生きています。 全てはあなたのおかげです。 わたくしはこれから先、何があっても、あなたに触れたあの日の温もりを忘れることはないでしょう。 ――絶対に。 「なあ、覚えてる? 去年の、今日、ここでお前と会ったんだよ」 いつもの散歩道の途中で不意に立ち止まって、あなたはわたくしを振り返った。 あなたもあの日のことを覚えていてくださったのですね。 わたくしは嬉しくて首を振り、頷きます。 わたくしの仕草を目に留めたあなたは、星影の下で、いつものように優しく微笑んでくださる。その笑顔が嬉しくて、わたくしは拙い言葉を繋ぎます。 ――ありがとうございます。 とても、とても、感謝しています。 あなたの耳には、ただのなき声にしか聞こえないでしょうが。 「覚えてたんだ? 俺も忘れてないよ。お前、とっても冷たくて、死にそうだった。でも、ないてた声は、生きたいって言っているみたいで、俺、必死で温めたんだよ」 ええ、その手の温もりは今もまだ、わたくしの心を温めております。 「生きてて、良かった」 あなただけです、わたくしのことをそこまで心砕いてくださるのは。 「早いな、もう一年が経つんだよ――」 白い息を吐いて、あなたは感慨深げに呟く。 振り返れば、三百六十五日。 一年という言葉で、括ってしまうには、あまりにも勿体ない月日です。 わたくしは、あなたと出会って、あなたと歩くこの道で、紡いできた思い出を一つたりとも忘れてはいません。 「のんびりしすぎたかな? もう目の前に、受験が迫ってるよ。ねぇ、俺、無事に大学に受かると思う?」 ちょっとだけ不安そうに、眉根を寄せて、あなたはわたくしに問いかける。 その答えを、わたくしは応えることは出来ません。 ですが――あなたが夜深くまで、机に向かっているその姿をわたくしは知っています。 その息抜きに、わたくしを連れ出して歩くこの道が、わたくしとあなたとの始まりでした。 あなたがあの日の夜に、歩いたから――わたくしは、あなたと出会うことが出来ました。 そして、出会ってからずっと、あなたが絶え間ない努力を積み重ねてきたことを、わたくしは知っています。 だから――あなたの未来が輝けることを願っております。 「神社に寄って、初詣しようか。神様に、お願い。大学に受かりますようにって。お前も、一緒に祈ってくれるだろ?」 ――ええ、もちろん。 あなたの未来は、わたくしの未来です。 「財布は持ってきてないけど、確か……小銭があったんだよ」 あなたはコートのポケットを探る。神様へのお賽銭は、やはり、金額が大きいほど、効果があるものでしょうか? 「……五百、五円ある」 ポケットから引き出したあなたの左手には、五百円玉硬貨と五円硬貨。 少し迷ったあなたは、大きい銀の硬貨を右手に取ると、そっとポケットにしまう。 「……彼女欲しいから、五円にしよう」 …………信心のないあなたの代わりに、わたくしが誠心誠意、神様にお祈りします。 神様、どうかお願いいたします。 この方の未来が、光り輝いていますように。 信じるままに歩いていける道をお与えください。 そして、この方に相応しい女性が現れますように。 この方と、その女性との間に幸せな家庭が築けますように。 この方の命尽きるそのときまで、笑顔が絶えませんように。 さすがに、五円硬貨でそこまでお願いするのは、欲張りすぎでございましょうか? ですが、どうか……。 この方が、わたくしに与えて下った幸の数の幸せを――。 いいえ、それ以上の幸せを――。 神様、この方に与えてくださいませ。 わたくしが、この方に焦がれる想いなど、捨て置きください。 この方が幸せであるのなら――。 わたくしはただただ、願います。 ――あなたの幸せを。 感謝しているのです。 あの日、あなたが繋げてくれたこの絆を。この命を。わたくしという存在を。 だから、幸せになってください。 笑っていてください。 「それじゃ、ちょっと遠回りになるけど、行こうか?」 ゆっくりと振り返って、あなたはわたくしの名前を口にする。 「――ネコちゃん」 犬と言う種族であるわたくしに、その名を与え下さったセンスにだけは正直、如何なものかと思いますが。 きっと、あなたの未来のお子には、奥様が素敵なお名前を与えてくださるでしょう。 ええ――。 ――神様、どうか、そこのところを一つ、よろしくお願いいたします。 「そうだ、ネコちゃん。明けまして、おめでとう。今年も一年、よろしくな?」 「――ワン」 こちらこそ、よろしくお願いいたします。 「ひととせ 完」 |