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 バレンタイン・チョコレート


 これはお空の上の、誰も知らない天国でのお話。


      ☆      

 裸木にしがみついた一枚の木の葉がヒラリと、北風に吹かれて宙に舞いました。
 まだ寒風吹きすさぶ、二月の中頃。
 肌寒い季節ゆえに、人は心に温もりを求めるのでしょうか。
 菓子会社の戦略に乗せられ、浮足立つ乙女たちがチョコレート売り場に殺到する様を、丸い球体は映し出していました。
 後光を背負い悠然と大きな椅子に座っていた神様は、地上の光景にポツリと呟きました。
「そうか、バレンタインか」
 人間という生き物は実にお祭りが好きな人種らしく、事あるごとに記念日を作っては、イベントに盛り上がります。
 人間たちのお祭り騒ぎは、このお空の上では無関係であったはずなのですが、地上の様子を眺めていると、つい自分も当事者になったような気がしてしまうから、不思議です。
 神様はチラリと、傍らに控えます天使様に視線を向けました。
 すると、神様の視線に気がついたのでしょうか。天使様が肩越しに神様を振り返ってきます。
「よもやと思いますが、まさかチョコレートが欲しいなんて思っていやしないでしょうね」
 澄み切った空色の瞳は、冬の外気のように冷たく神様を見つめて、問いました。
「――ててててっ天使君は、もしかして千里眼の持ち主かい?」
 図星を突かれて、思わず神様はどもってしまいます。慌てふためく神様を見つめる天使様の瞳はどこまでも冷淡でした。
 銀の月色の髪をゆるく編み込み右肩に垂らし、純白の衣装を纏った天使様の背中には、雪のように真っ白な翼。その羽は、肩を竦める天使様の動きに合わせてパサリと乾いた音を立てました。
「千里眼など持ち得ていなくとも、貴方の程度の低い頭の中身を覗くことは誰にでも出来ます」
 ズバッと、何かを裁断したような音が胸の内側で聞こえたのは、神様の気のせいでしょうか。
 じくじくと痛む胸を撫でながら、神様は天使様のお顔を紺碧の海の色をした瞳で、上目遣いに伺います。
「……もしかして、私は馬鹿にされているのかい?」
「誰かに問わなければ答えがわからないとは、貴方の頭の中には脳味噌が詰まっていないようですね」
 ズサッと、何かが突き刺さったような音が再び胸の内側で聞こえたのは、気のせいでしょう。
 微妙に引きつってしまう頬を持ち上げて、神様は笑いました。
「最近、私も学んだよ、天使君。君のその態度は、私への深い愛の証だとね」
「寝言は目を開けたまま、言うものではありません。棺桶の中に入ってから言ってください」
「それって、永眠?」
「おや、珍しく冴えているじゃないですか。普段もそれぐらいの冴が欲しいですね」
 グサグサグサッと立て続けに突かれたような音が聞こえたのは、きっと――きっと、気のせいなのでしょう。
 神様は出血多量で息も絶え絶えの、瀕死の心を抱えながら、天使様に言いました。
「いやいや、ちゃんとわかっているんだ。天使君には私に対する愛があること。夜なべして雑巾を山ほど作ってくれるほどの、深い愛が!」
 神様はクリスマスに天使様から頂いたプレゼントを思い出して、胸を張りました。
 一晩で百枚近くの雑巾を縫うのは、愛がなければ出来ないことのはずです。
 もっともその雑巾も、年末の大掃除でズタズタのボロボロの真っ黒けに変ってしまいましたが。
 神様は天使様から頂いたプレゼントを大事に宝箱にしまっていました。
 何故なら、二度とプレゼントを貰えないような気がしていたのです。
 もう、確実に貰えない気がするのです。
 ですが……それでも、ちょっとだけチョコレートを貰えないかと、神様は期待してしまいます。
 一応、神様は天使様にとって上司のはずなのですから。
「ああ、百円均一で買った雑巾がそれほど気に入ったのですか。ならばまた買ってきますよ」
「ええっ? 百円均一っ? ええええっ?」
 神様は大きく目を見開きました。
「嘘だったのか? 天使君っ! 君は天使君だよね?」
「天使であるから嘘をついてはいけないという決まりはなかったように思えますが?」
「えっ? いや、……そ、そうだけど」
「ならば、別に嘘をついて構わないですよね」
 無表情な天使様を前に、神様はそっと目を逸らしました。
「えっと、何の話をしていたっけ」
 どうやら神様は、何も聞かなかったことにするつもりのようです。
「俺が貴方に愛があるとか、ないとか」
「――あるよね? 嫌いじゃないよね?」
 天使様を見上げる神様の目は涙に濡れていました。
 このお空の国でたった二人で暮らしている神様と天使様です。もう長年連れ添った夫婦のような愛がそこにあって、よいのではないでしょうか。
 でないと、あまりに寂し過ぎると、神様は思うのです。
「まあ、ありますよ。吹けば消えるような」
「愛は愛だよ!」
 神様は天使様の後半のセリフをかき消すように、叫びました。
「うるさい人は嫌いですけどね」
「……愛は愛だよ」
 神様は身を縮めながら、小声で囁きました。
「そういうことにしてもいいですよ。面倒ですから」
「投げやりになってないかい、天使君」
「貴方のテンションに付き合っていたら、疲れますからね。何事もほどほどが一番です」
 パサリと天使様は、白い翼をはためかせました。
「ああ、それでバレンタインのチョコレートですが」
「貰えるのかい?」
「何故、俺が貴方にあげなければならないのですか? 恋人同士でもあるまいし」
 神様の期待は、今回もバッサリと一刀両断で叩き伏せられました。
「いや、昨今、人間の世では感謝チョコなるものもあるって言うし」
「俺が貴方に感謝チョコ? 不出来な上司の世話をしている俺の方が逆に貰いたいところですね。もっとも、貴方からチョコなんて頂きたくもありませんが」
 何気に酷い一言です。
「お、お友達チョコもあるって言うし、義理チョコでもチョコはチョコだし」
 神様は天使様の声を聞かなかったふりをして、涙を流しながら続けました。
 神様としては天使様から貰えるのなら、義理でも構わないようです。
「そんなにチョコが欲しいのでしたら、買ってあげましょうか。チロルチョコ」
「……具体的な商品名が出ると、切なくなるね」
 その昔、地上へと放浪していたことのある神様は、そのチョコの値段を知っているだけに、寂しくなりました。
 私への愛は十円の価値しかないのだろうか? と、神様は膝を抱えて、ウジウジします。
 義理でも良いと考えていましたが、やっぱり愛が欲しいようです。
 そんな神様の頭の上で、天使様の声はどこまでも無感動に響かせました。
「五円チョコは今も売っているでしょうか」
「何気に、値段下がっているし!」
「いっそ、ココアパウダーでも舐めますか?」
「もうチョコじゃないし!」
「何ですか、チョコであればなんだって構わないでしょう?」
「いや、最後の奴はチョコじゃないよ? えーと、やっぱり、愛が入った手作りチョコレートが欲しいかな?」
 ダメもと覚悟で、神様は言ってみました。
 すると天使様は割と素直に返してきました。
「まあ、いいでしょう。俺はこう見えましても、裁縫が得意なら料理全般も得意です。手作りにしましょう。その代り、毒を入れても構いませんか」
「調味料を間違えたら駄目だよ、天使君っ!」
 思わず叫んでしまう神様の傍らで、舌打ちする音が聞こえた気がしたのは――ええ、恐らくは神様の気のせいでしょう。
「大体、手作りを欲しがるとは、貴方はどういう神経をしているのですか? それは世の女性たちを侮辱する発言ですよ」
「えっ? 何か、間違っているかな?」
 天使様の言葉に、神様は首を捻りました。
「手作りに失敗し、油分が分離、パサパサした不味いチョコレートではなく、普通に食べられるチョコレートを――と、既製品を選んでいる女性たちに対する侮辱ですね」
「……天使君の発言の方が、問題があるような気がするのは、私の気のせいかな?」
「被害妄想もいい加減にしないと、人格を疑われますよ」
「えっと……」
 思わず俯いてしまう神様を前に、天使様は盛大な溜息を吐きつつ言いました。
「これ以上、貴方と無益な会話をするのは時間の無駄に他なりませんから、あげますよ、手作りチョコレート」
 天使様は神様のお願いを聞いてくださるようです。
 しかして、ちょっとだけ、神様の心がじくじくと痛むのは……何故なのでしょう。
「その代り、交換条件があります」
「交換条件?」
「俺がチョコを用意する間、俺の代わりに仕事をして貰えますか? 流石に、俺に通常の仕事をさせながら、チョコを用意しろとは仰いませんよね? 神様ともあろうお方が」
 そうじっとりと冷たい目で見据えられて、神様はコクコクと頷きました。
「取引成立ですね。では、書類の整理をお願いします」
 ドンと床が揺れたかと思うと、神様の目の前には山のような書類の束がそびえ立ちました。
「これ全部?」
 書類の山を見上げますと、天辺は天井に届きそうです。
「ええ、どこかの無能上司のお陰で、山のように溜まってしまいました。これの片づけ、よろしくお願いしますね」
「えっと、チョコレートは……作って貰えるんだよね?」
 神様は天使様に訊ねました。
 そのご褒美があれば、神様もがんばれそうな気がしたのです。
「はい、極上のカカオを仕入れるところから始めましょう。というわけで、一週間ほど留守にします」
「そうかい。それは寂しいね」
 つい最近、似たようなことがあったような――と。
 神様は軽い既視感を覚えながらも、
「でも、チョコレートのためだ。がまんするよ」
 と、頷きました。
 天使様からチョコレートを貰える機会なんて、そうそう――と言いますか、金輪際あり得なさそうなので、神様は張り切ります。
「では、行って参ります」
 神様の答えに天使様は満足そうに頷きますと、背中を向けました。
 部屋を出ていく天使様を見送って、神様は書類の山に向き直りました。
 この書類を片付ければ、天使様からチョコレートを貰えるとなれば、お仕事が嫌いな神様もがんばってみようと思えるのでした。
 そうして、書類を手にしたところで、神様はハタリと気が付きました。
「ちょっと待って、天使君っ! バレンタインって、こういうイベントだったけっ?」
 確か、感謝の念や愛情を伝えるために贈り物をするのがそもそものバレンタインであったはずです。
 しかして、神様はチョコレートを貰うために天使様のお仕事を肩代わりしているこの現状。
 何かが違うっ! ――と、気づいた時にはもう既に遅し?


                    「バレンタイン・チョコレート 完」



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