ホワイトデー・ギフト これはお空の上の、誰も知らない天国でのお話。 ☆ 冬の凍えるような寒さが少しずつ緩和され、穏やかな日差しによって暖められて、かたく蕾んでいた花々も綻び始めた三月の中頃です。 ひっそりと訪れる春の予感と共に、ホワイトデーというこの日に人間たちの心はいつになく浮ついていました。 バレンタインデーに、意中の相手にチョコレートを贈った乙女たちは、その返事を。 義理チョコ、感謝チョコなどとの名目で、職場の男性たちに愛想をばらまいた女性たちは、お返しを。 三倍返しという、いつの間にか定着してしまった常識に縛られ、男性方は泣く泣く財布のひもを解きながら、それでも何かしらの期待を込めて。 恋の花が咲くこともあれば、春本番を待たずに早々と散ってしまう花もある。 そんな下界と遠く離れた、お空の上。神様と天使様が住まう二人だけの誰も知らない天国。 こちらでは当然ながら、人間たちのイベントなど関係のないことで、銀の月色の髪をゆるく編み込み右肩に垂らし、純白の衣装を纏った背中には、雪のように真っ白な翼の天使様はいつもの如く淡々とお仕事をこなしていました。 しかして、肝心の上司である神様は地上の様子を映し出す球体の中の人間たち同様に、浮足立っていました。 太陽の光を縒ったような金糸の髪が広い肩の上で踊ります。紺碧の海色の瞳は楽しげに細くなっています。そんな神様に天使様は舌打ちしてみますが、浮かれた神様の耳には届かなかったようです。 神様が浮かれているのは、他でもありません。 何しろ今日は、ホワイトデーなのです。 バレンタインデーにチョコレートを貰った以上、お返しをしなければなりません。 ということは、今日に限って言えば、どんなに暑苦しくとも、どんなに鬱陶しがられようとも――鬱陶しがられていると自覚していることは、この際目を瞑りましょう――堂々と愛を叫んで構わないのです。 一ヵ月前のバレンタインデーの日、神様は天使様にチョコレートを頂きました。 それは神様が天使様にねだったものですし、チョコレートをプレゼントしてくださる際の天使様のお顔は、珍しく――いつもは無表情の天使様です――嫌々という表情が浮かんでいたわけですが……。 それでも、天使様は神様にチョコレートを贈られました。 最高の手作りチョコレートを用意するという名目で、一週間のお休みを貰い、地上へと降りた天使様は文字通り羽を伸ばしながら、手作りチョコレートを探しました。 手作りチョコを上げると、神様に約束した天使様でしたが、厳密には自分が作ってあげるとは一言も言っていません。 聞き取り方によっては、手作りをするというそんなニュアンスで聞こえたかもしれませんが、「手作りチョコレートに毒を入れてもいいか?」と言った天使様の提案を、神様が却下されたわけですから、その時点で天使様自身が作った手作りチョコの話は立ち消えになっています。 そのことに文句を言われても、天使様は嘘をついたわけではありません。 ただ、約束を破ったと、うるさく言われては面倒ですから、「手作りチョコレートを用意する」という約束を守るために、天使様は極上のカカオを用いて職人が手作りしたチョコレートを探しました。 フランス、ベルギー、などなど。 チョコレートで名の知れたヨーロッパ諸国を観光しつつ――それはそれは、とても有意義な旅でした。ルーブル美術館での絵画鑑賞は、心が洗われるようで。フランス料理は実に美味でした。年末年始のゆったりした温泉旅行も良かったですが、今回の観光旅行も激務に追われ、殺伐としていた天使様の心を潤してくれました。 天使様は何だか、旅行が癖になりそうだと呟きながら――神様に贈るチョコレートを探しました。 色々と買い込んだ果てに、天国へと戻った天使様は、チョコレートを一つ味見してみました。 それは口の中ですっと溶けて、甘味はしつこくなく口当たりも爽やか。 なるほど、さすがに高級品です。一粒当たりのお値段が何かの間違いでは? と、思いたくなるような金額でも納得せざるをえませんでした。 天使様は納得するとともに、神様にチョコレートを贈るのが何だか惜しくなりました。 大体、どうして俺があの神様にチョコレートを贈らなければならないのだ? と、天使様は首を傾げます。 天使様は神様が嫌いというわけではありませんでした。 ただ、特別興味もありません。 天使様が天使様である以上、神様にお仕えするだけ。 冷徹な天使様は、お仕事と割り切っていましたから、そこに愛という感情を差し挟む必然性を全く感じないのです。 しかし、天国では神様と天使様しかいません。それに長い間、一緒にいれば、まあ、愛着というものも湧いてくるものなのかもしれません。 少しだけ、愛情という物を神様に感じたこともありました。同時に、憎らしさも。 愛憎は表裏一体と言うのは、どこの名言でしょう。 神様に対する天使様の態度が酷く冷たいと思われるのは――誰が思っているのかは、この場合、横に置いておきましょう――その憎らしさに刺激されてのこと。 だけれども、誤解なきように綴っておかねばなりません。何故なら、それはすべて神様の行いに起因するもの。 神様はその昔、神様であることを嫌って、お仕事を放り出され、地上を放浪していたのです。 神様というお仕事は、人間たちの声を聞いて、ときおり奇跡を施します。 その奇跡は、不幸な人々を救いますが、地上の人間たちの数に対して、神様はただ一人。そのために、救えなかった人間たちがどれほどいたでしょう。 自分たちの無力さに、神様や天使様が傷ついたことは数知れず。 だから、神様がそのお仕事を嫌っていても、致し方のないことだと天使様も思いました。 ……思っていました。 思っていたうちは、僅かばかりとも、愛情はあったのかも知れません。 しかし、神様がお仕事をさぼることで、積み重なっていく書類の山を見上げると、天使様も神様に同情する気持ちも失せて、憎しみを覚え始めました。 激務に追われ、すさむ心が余裕をなくし、それが言葉の端々に現れたとして、誰が責められましょうか? ときに毒を吐いて、ときに冷たい態度であしらい、ときに神様を手のひらの上で転がせて、こき使ってストレスを解消するのは、不出来な上司を持った部下の処世術だと理解して欲しいと思うのは、いけないことでしょうか? ――と。 天使様は誰にともなく問いかけ、たくさん買い込んだチョコレートのなかから一粒だけを取り出し、百円均一で買ってきた――百円均一は天国の財政を預かる天使様にとって心強い味方です。そんな天国の財政がどうなっているのかは、深く追求しないのが大人の優しさです――梱包材で、手作り感を演出しました。 そうして、天使様が神様に贈ったバレンタインチョコレート。 神様が歓喜の涙を流して喜んだチョコレートに、そのような真実が隠されていたことは、神様の心情をはばかって、口外しないようにしましょう。 月日が巡って三月のホワイトデーの本日、天使様の前には山ほどのお菓子やらプレゼントの包みがうずたかく積まれました。 「天使君、今日はホワイトデーだね! 先月、君がくれたチョコレートのお返しを用意したよ」 神様はニッコリ笑って、 「これが私の君に対する愛の証だ!」 背負った後光を燦然と輝かせ胸を張ります。 天使様はうずたかく積まれたプレゼントの山に、澄みわたる空色の瞳を向けました。 赤、青、黄色、オレンジ色にピンク色と、色とりどりのラッピング材で飾られた包みの中身は、マシュマロ、クッキー、キャンディといったお菓子もあれば、ぬいぐるみや絢爛豪華な宝石を飾ったアクセサリー、情熱的な深紅の薔薇といった――実に暑苦しい愛情を前面に押し出した品々と。 ざっと見積もっただけでも、天使様が百円均一で切り詰め節約した苦労は、泡沫に消えると思われます。 山の下の方に隠れて見えない品々を細かく検分すれば、下手すると天国の国家予算一年分が吹き飛ぶかもしれません――くれぐれも、天国の財政について追及するのは止めましょう。 どこまでも無表情に装う天使様の瞳の奥で、怒りに火がつき、燃え盛ったことは言葉にするまでもないでしょう。 天使様は静かに怒っていました。 この三日ほど、神様の姿が見えなかったことの真相を知って、思わずこめかみに青筋を浮かべたくなるくらいに、怒っていました。 どうやら、神様は天使様へのお返しを用意すべくこの三日、お仕事をさぼっていたようなのです。 もともと、チョコレートは神様がねだったもの。そのお返しなど、天使様は欲しくありません。 むしろ、神様に何かを貰うなど、迷惑千万。何も要らない。もしくは、労働力を提供しろなどと――それを言ってしまうと、方々から非難の声が聞こえてきそうなので、天使様もやむをえず口をつぐんでいたわけですが。 庶民の生活苦を知らない暴君の所業を目の当たりにしては、さすがの天使様とて堪忍袋の緒が切れます。 折角、バレンタインのチョコレート探しの旅で潤った心が、猛り狂う怒りの炎で灰と化しました。 もう何も、天使様の口を塞ぐものはありません。 「――これが、貴方の愛の形ですか?」 押し殺された声が天使様の唇から吐き出されて、神様は天使様の様子が少しおかしなことに気づいたようです。 「…………天使君?」 こわごわと首を傾げる神様に、天使様は冷たい視線を差し向けました。 「つまり、貴方が求める愛の形とは、こういう形のあるものなんですね?」 「えっと」 「つまり、この程度のものなのですね、貴方の愛の形は」 と、天使様はおもむろにライターを取り出しますと、神様から頂いたギフトの山に火を放ちました。 放たれた火は、天使様の怒りの炎に似て、あっという間に贈り物を灰に変えます。 「この灰が、貴方の愛? この程度のものが? ほう、貴方の愛の程度を知り、俺は軽く絶望しそうですね。こんなに軽々しく、吹けば飛んで行ってしまうようなものが、貴方の愛ですか」 「…………い、いや、その、これは」 神様はきょろきょろと視線を彷徨わせます。 プレゼントの一つでも残っていないかと、目を凝らしますが、貴金属まで灰になっていました。何という、恐ろしいまでの火力でしょう。 神様はここに来て、初めて天使様の怒りを知りました。 「えっと、いや、そんなことはないよ! 私の天使君への愛は海より深い!」 しかし、ここで挫けては意味がありません。今日は正面きって愛を訴えられる日なのです。神様は声の限り、叫びました。 「では、その海より深いといわれる貴方の愛情を俺に見せてください」 「……ど、どうすればいいのかな?」 冷やかな天使様の視線に晒された神様の瞳は潤んでいました。天使様の視線が痛かったようです。 「何、簡単なことですよ。とりあえず、向こう百年、貴方の給料カット」 「給料なんてあったのかいっ?」 愕然と呟く神様。 実はあったのです。天使様が神様に給料を支払うのが面倒なので、そのまま天国の国庫に戻していました。 そんな事実を知らない神様は、国庫自体が自分の財布だと勘違いしていました。 ちなみに、天使様が行った年末年始の温泉旅行やチョコレート探しのための旅行は、全部天使様の自腹です。 家計をやりくりし、節約に努め、貯金をし、予算を組みたてた日々の努力を思えば、今回ばかりは天使様の怒りもご理解して頂けるでしょう。 「ハウスキーパーを雇う費用を節約するために、これから自分の部屋の掃除は自分でしてください」 「ハウスキーパーなんて、どこにいたんだい?」 「ついでに、城の中も全部掃除してください」 「私がかい?」 「妖精を雇うお金なんて、どこにあるというのです」 「妖精が掃除していたのか!」 「それから――」 「まだあるのかいっ?」 「おや、貴方の愛はこの程度でもう一杯一杯なのですか。実にがっかりしますね。失望を禁じ得ません」 「い、いや、まだまだ大丈夫だよ」 神様は天使様に嫌われるのが怖くて、胸を叩きます。 「では、食費節約のために三時のおやつを廃止し、残業手当もなし、年末年始の休みも没収――」 三秒後、神様が後悔したことは言うまでもないでしょう。 その後、灰にしたように見せかけた神様からのギフトを、質屋で換金し国庫に納め直しながら、電卓を叩く天使様の姿があったことは、お願いですから内緒にしておいてください。 「ホワイトデー・ギフト 完」 |