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 天使様、ヘタレ悪魔に愛の手を!


 赤みを帯びたオレンジ色の月と銀の星が瞬く夜の下、セイエは探し求めていた白い影を見つけ、紫色の瞳を爛々と輝かせた。
 胸に抱いていた微かな不安が吹き飛ばされ、期待に彼の鼓動は躍る。思わず笑顔で駆け寄ろうとしたが、最初が肝心と緩みそうになる口元を引き締めた。
 そうして威厳を見せつけるよう胸を張り――ハト胸のようになって、傍から見るとすこぶるカッコ悪いのだが、本人は気づいていない――黒いロングマントの裾をひらめかせ、大股で近づいた。
「ここで逢ったが百年目!」
 よく透る声を高らかに張り上げ、セイエは黒く尖った爪の先を差し向けた。彼の指先には白銀の後光を背負った、美貌の天使アンジェラがいた。
 黄金色の巻き毛を腰まで伸ばし、踝まである白絹ロング丈のパブスリーブドレスを着た彼女は、頭上、数センチのところに白銀の光輪を飾っていた。背中には真っ白な翼が広がっているところを見れば、まごうことなき天使であろう。
 とはいえ、今宵はハロウィンの夜であるのだから、天使の仮装という可能性もあるのだが、まあ、そんなことはどうでもいいとセイエは思う。
 彼女が人間であろうが、天使であろうが、関係ない。
 何しろ自分は悪魔であるのだからというのが、セイエの言い分である。
 漆黒の髪に、すらりとした長身の青年姿をした自称悪魔は一応、疑問符付きの天使の美貌に負けず劣らずの美形である。
 夜より深い漆黒の黒髪。酷薄そうな薄い唇と、冷酷そうな切れ長の目元、尖った耳に、今は隠している大きな皮膜の翼――広げれば服を素通りして出し入れが出来る、ドラゴンも真っ青な立派な翼というのがセイエの秘かな自慢でもある――鋼鉄も貫きさえする硬く尖った黒い爪は悪魔らしいといえば、悪魔らしいのだが。
 仄かに滲み出る威厳とは程遠い何かには、セイエは気づいていない。
 そして、彼以外はその何かに敏感に気づくところが、セイエの不幸の始まりか。
 紫色の瞳に見据えられた天使は、ゆっくりと首を傾げて見せた。
 さらりと肩を流れる金の髪を救いあげる指先は繊細で白く、爪は淡い桃色である。白磁のような極め細やかで艶やかな白肌に、唇は瑞々しく潤っていた。
 ワンピースの大きく開いた襟ぐりから覗く首筋も鎖骨も無駄な肉などなく、それでいて胸元の柔らかなラインはドレスラインを優美に描いていた。細く絞られたウエストから裾へと広がるスカートは二枚重ねの仕様で、オーバースカートは中央で左右に開かれ、ドレープを作りながら後ろへと流れていた。アンダースカートの裾には幾重にも重ねられたレースが波うっている。
 背中で広げられた真白き翼と頭上の光輪がなければ、舞踏会に出掛けるお姫さまといった装いだ。いや、しかし、悪魔であるセイエに対して一つも感じられない貫録が、天使であるアンジェラからは漂っていた。
 麗しき美貌の天使は、深海の群青色の瞳をセイエに差し向け、サクランボ色の唇を動かした。
 玲瓏たる声音はその美貌に相応しく、また口調は丁寧なれど、きりっと歯切れよく響く。
「残念ながら、どちらさまでしょうか? わたくしが貴方様にお目にかかったのは、今宵が初めてと存じますが」
 名前も名乗らんような残念な奴のことなど知らんと、声は言外に告げていた。
 セイエは目を見開いて、大袈裟にのぞけった。
 この一年――百年ではなかったらしい――彼女と再会できるこの日を待ち侘びてきたというのに、この仕打ち。
 なんてことだ! と、セイエは驚愕に震える。
「そんな馬鹿なっ! 俺のことを忘れたというのかっ?」
 顎が外れんばかりに大口を開けて、叫んだ。
 微かに紫の瞳が潤んでいることに、セイエ自身は気づかずに、そんなはずはないと訴えるようにアンジェラを見つめた。
「馬鹿とはお口が悪いですわね。そのように他者を愚弄されるお方など、わたくしの知り合いにはおりません」
 天使はツンと顎を反らした。そっぽを向かれ、セイエは慌てて言い繕う。
「こ、この言動は俺の悪魔たる証だからしょうがないんだ。気を悪くしたら許せ!」
 上から目線なれど、セイエは謝罪した。
 威張っている割に即座に謝ってくる辺り、悪魔らしくないのではないかという突っ込みも入れたくなるのだが、まだ話は始まったばかりであるから、茶々を入れるのは慎もう。
「悪魔と仰いましたか?」
 アンジェラは、先程とは反対側に首を傾げて問う。
「どう見ても、悪魔だろう?」
 嫌われたのではないかと、ビクビクしながらもセイエは胸を張って見せた。自慢の爪をさりげなく見せつけるように首元のタイをいじって見せるが、全体的に覇気が足りない。
「そうですか。わたくしには貴方様のびてい骨の辺りに、左右に振れる尻尾が視えた気がしましたので。ええ、それはまるでワンコのような」
「……ワンコ? 犬か?」
 セイエは首を巡らし背後を振り返ってみた。
 夜に沈むパークは所々に点在する街灯が秋色に色付けされた樹木を照らしているだけだ。人間たちはハロウィンの祭りに興じて、住宅街を仮装で踊り歩いているのだろう。
 人もまばらとなる夜間のビル街にあるパークには、祭りに浮かれる者など誰ひとりとしていなければ、まして犬など存在しない。
 敏感な獣であるならば、上級悪魔である自分の気配に怯え尻尾を巻いて逃げたはずと、セイエは片眉を吊り上げながら、天使に視線を戻した。
「犬など居らぬが」
「そうですか。では、わたくしの見間違いでしょう」
 スッと、アンジェラは流れるような所作でセイエに背を向け、立ち去ろうとする。そんな天使を悪魔は慌てて呼び止めた。
「ま、待て。まだ、俺の用件が終わっていないぞっ!」
 彼の切羽詰まった声に、アンジェラは上半身を捻って振り返った。
「わたくしの方には貴方様に用など、ございません」
「そんなはずはない。何故なら俺たちは一年前に約束したはずではないかっ!」
 握り拳をふるって、セイエは彼女に訴えた。
 一年前のハロウィンの夜。あの日、天使である彼女は麗しき美貌で言い放ったのだ。
『では、一年後の夜に再びお逢いいたしましょう。そのときには、貴方様がわたくしに貸し付けたツケをお支払い頂きます』
 身ぐるみ剥がされ、下着一枚となったセイエを傲然と見据えて、冷然と。
 あの夜の出来事をセイエはこの一年、片時たりとも忘れたことはない。
 ハロウィンの夜に天界から降りてきた本物の天使か、それとも類い稀なる美貌の人間が祭りに乗じて仮装した姿だったのか。夜の闇に光り輝いて佇む彼女を見つけた時、セイエは彼女が欲しいと思った。
 魔界ではなかなかお目に掛かれない上玉だ。
 まあ、魔界の女というものがそもそも、頭髪が数十匹にも及ぶ蛇であったり、胴体から下が大蛇であったり、またまた口が両耳まで裂けている者もいれば、顔がなく腹に大きな口があったりと様々だ。
 人型の悪魔であるセイエからしてみれば、形容が異なるそれら女たちの美醜について語るほどの理解もないのだが。
 ただ、魔界の女の愛情表現は甚だ激しく、幼い頃には口裂け女に頭から呑み込まれ、危うく喰われかけた。大蛇の身体を持つ女からはがんじがらめに締めつけられて、骨を砕かれ白目を剥く結果に陥った挙句、だらしがないと振られた。
 あんな女たちはこっちから願い下げだと、セイエは虚勢を張ってみるも、とにもかくにも魔界の女は苦手になった。
 苦手というより、ぶちまければ怖くなった。ヘタレである。
 そんな魔界の女たちに比べれば、天使の美貌は称賛出来るものであった。
 何より、自分と同じ人型だ。そして口が小さいのがいい、とセイエは狂喜乱舞した。よほど、トラウマになっていたらしい。
 さらに胸も豊かで腰が細く、両腕はしなやかで手首も細い。締めつけられて殺される心配をする必要がないのが、幸いだ。実際は本物か偽物かわかりはしないが、もし本物の天使であるのならば、その魂も無垢で甘露なことであろうと、舌なめずりをする勢いで、セイエは彼女に近づいた。
 そうして言葉巧みに彼女を罠に嵌めようとした結果――完全に、手玉に取られたセイエだった。
 堕落させ魂を奪うつもりが身ぐるみ剥がされ、アンジェラに対し借金を負い、今日はそのツケを支払うことになっていた。
 ツケを支払いにくる辺り律義と言われそうだが、彼には彼なりの目的があったのだ。だがここで先に種明かしをしてしまっては面白くないので、彼本人が目的を達するまで、我らは黙って事の成り行きを見守ろうか。
「……ああ、でしたらやはり」
 アンジェラは深い青の瞳を微かに眇め、思い出すような間を置いて、言った。
「貴方様はあの時の、負け犬でしたか。では先程、視えた尻尾も、わたくしの目の錯覚ではなかったということですわね」
 片方の手を腰に当て、心なし威張るように、アンジェラは胸を張った。その格好が彼女にはよく似合うのは、人格の差か。
「負け犬じゃないだろ? 悪魔だと言っているだろっ?」
「貴方様はわたくしにカードゲームを挑み、負けました。その事実を否定なさるとは往生際の悪いお方ですわね。そんなに女であるわたくしに負けたことが屈辱でしたか?」
 アンジェラはセイエと向き合い、冷ややかに問いかけた。
 揺るぎのない美貌を前に、セイエは気圧され、喉の奥を呑み込んだ息で鳴らす。
 天使の美貌はカードゲームの際には、鉄仮面の如き固さで、セイエに手札を読ませなかった。それでもゲームの最初の方は、初心者らしい天使を相手にセイエに有利だったのだが、中盤辺りからズルズルと負けが続き、逆転できるものと思いきや完敗に終わった。
 第三者がその場に居たのなら、序盤、アンジェラがセイエに花を持たせながら、彼のゲーム運びを冷静に分析していたことを指摘するだろう。
 なにより本人は気づいていないようだが、心の内が駄々漏れな残念な悪魔では、三歳児だって勝てるという現実を教えてやりたい――ところであるが、それでは面白くないので、やはり黙っているべきか。
「ま、負けたことは認める」
「賢明ですこと。褒めて差し上げますわ」
 アンジェラは初めて笑みらしきものを口元に浮かべた。
 セイエはその微笑みに、パァっと表情を輝かせた――が、褒められてよい内容なのだろうか?
 彼がその事実に気づく前にアンジェラは続けた。
「それでは、負け犬さん」
 貴方様――から、明らかに降格された敬称でアンジェラはセイエに微笑みかける。
 輝く微笑みだが、群青の瞳は欠片にも笑っておらず、美貌に目眩まされた残念悪魔以外の者が目にしたならば背筋に冷たいものを感じたことであろう。
 借金を支払って貰う立場にあるアンジェラからすれば、この場にはセイエが先に姿を見せていて良かったはずなのだ。それなのに後から登場しては、一向に要件が片付かないことに苛立ちを感じてもおかしくはなかろう。
 だがそれを面に見せない辺り、どこかの悪魔をゲームで完全に負かしただけのことはある。もっとも、セイエが鈍感なだけだったのかも知れない。
 今宵もまた、鈍い悪魔は、
「――待て。負けたのは認めるが、犬ではなかろう。犬では」
 本来持ちだすべき要件はそこではなかろうに、犬呼ばわりされたことに反論する。
 彼女に負い目があるのだから、「負け犬」呼ばわりは受け入れる範囲なのかもしれないが、なけなしの矜持が許さぬらしい。いや、そもそもセイエに矜持があるのかすら怪しいところであるのだが。
「まあ。やはり、往生際の悪い方ですわね。借金を踏み倒すおつもりかしら」
 天使は胸の前で両腕を組んで見せた。貫録のある姐御といった風情である。背中の白い翼をばさりと一振りすれば、強い風がセイエを吹き飛ばそうとする。
「そんなつもりはない。ここに来た俺が証拠だっ!」
 セイエはアンジェラが作りだした突風に負けないよう、足場を踏みしめながら、自らの胸を叩いて見せた。
 借金を踏み倒すつもりなら、そもそもこの場に現れやしない! と、訴えるセイエに、アンジェラは翼を大人しく閉じた。
「では、負け犬さん、ツケをお支払いくださいな。こう見えてもわたくしはとても忙しいのです」
 アンジェラは冷ややかにセイエを見据えた。
 動く翼を持つ彼女は正真正銘の上級天使であった。
 ハロウィンの夜は、死者たちの魂が地上に還ることが許された日でもある――とは言え、これは人間たちが決めた習慣なのだが。
 古の信仰も、昨今の信仰も、全ては人間たちが定めたことで、死者の魂が行きつく先は極楽浄土も天国もそう変わらないというか、同じ天界だ。
 ただ魂たちは人間であったので、肉体を失おうともその習慣は生きた頃とさほど変わらない。よって彼らそれぞれの習慣に従い、ハロウィンやお盆に魂を地上に帰してやる。
 魂たちが地上に還るとき迷子にならぬよう、また魔界から出てきた悪魔や魔物たちがそれら魂に悪戯せぬように、監視する役目をアンジェラは神から任されていた。
 昨年も同じよう、故郷に還る魂を地上に導き、また夜明けと共に天界へと連れ帰る役目を担っていた。各々の家に帰っていく魂たちを見送り、再び集合するまでの時間をパークで潰していたところ、このお尻のあたりにふさふさした尻尾が視えなくもない、悪魔と遭遇したのである。
 そうして悪魔はアンジェラを遊びに誘った。カードゲームの賭博で、こちらを堕落させようとしたのだろう。
 だが、翼を隠していようと、セイエから漂う魔界の匂いは嗅ぎつけた――どこかの残念悪魔とは、やはり何かが違う――アンジェラは、彼の企みを叩き潰そうと計画した。
 追い払った先で、人間たちに悪さをされては天使としては見過ごせない。だから自分のところに留めつつ、その心を折ってやろうと思ったのだった。
 天界で人間たちの魂と接しているアンジェラには、ゲームのルールを教えて貰う必要などなかったが、何も知らないふりして誘いに乗れば、悪魔は面白いように罠に引っかかった。
 地上に降りた天使を見たことがある者が描いた絵画や物語では、天使たちは翼を持つ無垢な存在のように語られるが――それもまた、人間たちの勝手な思い込みだ。
 人間たちが信仰するような崇高な神は天界にはいない。
 長年神をやっていると飽きるらしく、初代の神が出奔した後、上級天使たちが交代で神を勤めるているのだ。
 時にまったく無能の神が君臨することがあり、その折は人間界もまた影響を受けて荒れることがしばしばというのが、人間たちの知らない天界の真実だった。
 そんな天界で、アンジェラは天使仲間の間でも実務的で有能であるが故に、非情の天使と称されるほどには、優しくなかった。
 一年前、セイエを下着一枚、秋の寒空に放り出すことに躊躇したりはしなかったし、涙目になっている悪魔に「負け犬」呼ばわりを止める気もさらさらない。
 厳しく借金返済を迫る辺り、実態は悪魔に近いかもしれない。どこかの残念な悪魔とは違う、本物の悪魔に――。
「うむ」
 セイエは神妙な顔つきで一歩前に出ると、アンジェラを見つめた。背丈は彼の方が頭一つ分高い。
「そう言えば、まだ、俺の名を教えていなかったな」
「今頃気づかれたのですか。しかし、今さら名を教えて貰ったところで、何かが変わるとは思えませんけど」
 負け犬は、負け犬だと言わんばかりに、アンジェラは鼻を鳴らす。
 段々と、この美貌の天使の地金が見え始めてきたことに、セイエは気づいているのか、否か。悪魔は変わらぬ態度で続けた。
 どこまでも鈍感な彼である。
「俺はセイエ。魔界に一国を構える領主だ」
「それはさぞかし……」
 領民も哀れなと、ほんの幾ばくかの同情を天使は眉の端に載せた。彼女がそんな表情を見せるのは十年に一度ぐらいのことだということは、内密にしておくべきか。
「だから」
 セイエが天使の手を恭しくとった瞬間、ビシッと、アンジェラの眉間に稲妻のような皺が寄った。それは彼女の美貌に凄みを与え、空気は凍りつかんばかりに張り詰めたが……そこはどこまでも、鈍感な悪魔であった。
 この先の運命を知る由もなく、セイエはアンジェラに告げた。
「俺がそなたの婿になろう!」
 悪魔が満面の笑みで告げれば、アンジェラは一瞬、何を言われたのかわからずに固まった。この展開は明らかに理解不能というか、予想を超えていた。
 婿? 悪魔が天使の婿になる? いや、その前に借金返済の話はどこへ行った?
「……意味がわかりませんわ」
「だから、俺が婿になろうと言っておるのだ。さすれば、そなたは我が国の主となる。ああ、ところでそなたの名は何だったかな、我が妻よ」
 今さら聞くなよと、アンジェラはセイエを横目で睨むも、ひとり悦に入っている悪魔は気づかない。
 この愚鈍さはある意味、敬意に値するかもしれない。
 ヘタレの癖に、真の恐怖を味わうまでは恐れを感じないというのはハッキリ言って、馬鹿だろう。危機感に鈍いのだ。故に痛い目にあってから、トラウマを増やすのだろう。
「アンジェラと申しますが、わたくしは結婚を承諾した覚えはございませんので、妻と呼ぶのはおよしください」
 つっけんどんに、天使は悪魔の手を振り払った。
「俺の国は時価にして、金貨四百億枚くらいの価値はある。借金返済には充分に足りるだろう」
 セイエはそう言って胸を張った。
 昨年の勝負にて、彼が負った借金は金貨三百億枚分だ――こんな金額を賭けている時点で、疑いようもなくこの悪魔は馬鹿だろう――百億枚分ぐらいは余る。国は彼女に譲ることになり、アンジェラが国をそのまま維持するか、売り払うことになるだろうが、夫婦となっているのだから、どちらかが金に飢えるということもない。
 借金を返済し、欲しかった女を手に入れた。彼女が望むなら天界について行くのも、また面白いではないか。
 一度、天界に行ってみたかったと、セイエの妄想は膨らみ、自らの妙案に満悦していたが――。
「まったく、足りませんわ」
 ぼそりと吐き捨てられたアンジェラの言葉に、目を見張った。
「何? そんなはずはない。俺の借金は金貨三百億枚のはず」
「それは一年前のことです。トイチの利子がつくわけですから、九億二万七千三百億枚になりますわ」
 アンジェラの口から出た金額に、思わずセイエの目玉は眼窩から飛び出しそうになった。
「何故、そんな金額になるんだっ? 大体、トイチって何だっ!」
 のけぞりながら悲鳴を上げる悪魔に、天使はどこまでも淡々と告げた。
 正直なところ、悪魔にツケた借金の返済など、アンジェラにとってはどうでもよかった。実際問題、馬鹿正直に返しに来るとは思ってもみなかったどころか、求婚されるとは予想外だった。
 彼の申し出を受ける気は毛頭ないが、セイエがどこまで本気なのか試したくなるのは、誰しもが持つ本能か。
 はたまた、非情の天使と呼ばわれるアンジェラのアンジェラたる所以か。
「人間界のお金の貸付に関するルールの一つですわ。人間界でゲームをしたんですもの、人間界のルールを適用して当たり前じゃありませんこと?」
 パクパクと、セイエは金魚のように口を開閉させる。反論したいが、頭が追いつかないらしい。
 人間界のルールを適応するなら、トイチは悪徳過ぎて違法であるから、無効であるのだがセイエの知恵はそこまでないようだった。
 そんな彼にアンジェラは畳みかけるように言った。
「負け犬さん、貴方の国はわたくしが貰い受け、借金返済の足しにしましょう。しかし、残りの金貨九億二万六千九百億枚はどうなさるおつもりかしら?」
 名前を聞かされても、口にしてやる気はないらしいアンジェラは口元に薄い笑みを浮かべた。
「そ、それは……」
 言葉に詰まるセイエに一歩詰め寄って、アンジェラはさらに冷酷に微笑んだ。
「本当でしたら、金貨九億二万六千九百億枚にもトイチの利息がつくわけですが」
 セイエの紫の瞳から涙がこぼれる。国を失った彼に、返済のめどなどあるはずがない。絶望に、知らず涙をこぼす。
「わたくしは寛大な心の持ち主ですから、今後の利息はチャラにして差し上げますわ」
 あくまでも、今後の利息分についての話であるのだが、セイエは差し伸べられた救済の手に瞳を輝かせた。
「おおっ! さすがは、俺が見込んだ女だっ! 何と寛容なことか!」
 どこまでも――馬鹿らしい。はてして、このままこの悪魔に付きあって良いものか? と、アンジェラは疑問を持ち始めた。そろそろ、お暇させて貰おうか。
 こんな馬鹿な悪魔なら、放置していても魂に害を与えることはないだろう。そんな器ではないことをアンジェラは冷静に見抜いた。
「いえ、お気になさらず。それでは負け犬さん、来年のこの日に残りのツケを支払って頂くことをお約束して、今宵はお別れしましょうか」
 小首を傾げ、アンジェラは罪なき微笑みで告げた。
 そうして、背を向けて立ち去ろうとする天使にセイエは追いすがる。
「待ってくれ、我が妻よっ! 国はどうなるっ? 俺を置いていくのかっ?」
「だから、わたくしは妻ではありません。お国は貴方に預けますから、どうぞご自由に。領民に重税を強いて、借金返済の足しになさるとよろしいのでは?」
 この領主に支配される民を気の毒がっていたことなど、忘却の彼方に追いやってアンジェラは提案した。
 悪魔たちが住む魔界である。秩序などあって無きのごとしであろうから、心配には及ばないだろう。
「おおっ! 何と賢い妻であろうか。早速、家令に命じて国のことは奴に任せることにしよう」
「それは……」
「というわけで、アンジェラよ、共に天界へ参ろうか!」
 瞳を輝かせ、本人には視えない尻尾を盛大に振って、喜色を表すセイエに、アンジェラは軽い眩暈を覚えた。
 この馬鹿はどこまでも予測不能な反応を返してくる。別れの言葉に乗じて、これ幸いにと立ち去ればいいものを――自ら、天界に乗り込んでこようとは。
 呆れると同時に、さて、今後どんな反応をしてくれるのかと、気にもなった。
 アンジェラは少し思案して、言った。
 現在、神を勤めている上級天使の任期は今年までだ。来年辺り、アンジェラにお鉢が回って来る頃かもしれない。となれば、顎でこき使える人材は幾らあっても困らないだろう。
 脳味噌の方は期待はできないが、悪魔であるから体力面には不安はないだろう。
「そうですわね。一緒に、天界へ参りましょうか。但し、覚えておいてください。借金の返済が終わるまで、貴方はわたくしの下僕であるということを」
「――下僕?」
 散々こき使ってやったら、尻尾をまいて逃げるだろう。そうアンジェラは賭けることにした。
 予想外の反応をしてくれる悪魔だが、賭けに関してアンジェラは最終的に負けたことはない。今回も利用するだけ、利用させて貰おうと、心の奥で酷薄に微笑む。
「ええ。それがお厭でしたら、この場でお別れいたしましょう」
「むむむっ、それは厭だ。そなたのように心の広い女は、きっともう二度と出会えやしないだろう。わかった、借金返済まで、夫婦の契りはお預けにして下僕に甘んじようぞ」
 悪魔は実に甘い現実認識で、天使の持ちかけた賭けに知らずに乗った。

 こうして、ハロウィンの夜に繰り広げられた賭けの行く末は――神のみぞ、知る?


                 「天使様、ヘタレ悪魔に愛の手を! 完」



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