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 恋の林檎をつかまえて

  ―アップル・ボビング―


 水音を響かせて、林檎は深く沈み、やがて跳ねるようにして水面に浮かびあがる。
 まるで踊るみたいに、水面を泳ぐ果実。その林檎を手を使わずに、口でとって競うゲームが【アップル・ボビング】だ。
 村人総出で行うハロウィン・パーティの目玉の一つだ。昼間、皆でゲームやご馳走を楽しんだ後、夜は仮装行列で村を練り歩く。
 娯楽の少ない田舎の村で、ハロウィンは楽しみなお祭りだ。数日前から、村中が活気に満ちていた。
 その【アップル・ボビング】に使う林檎を用意するため、アリエルは籐のバスケットを片手に林檎の果樹園に向かっていた。
 彼女もまた、ハロウィンを楽しみにしていた。
 この日のために用意したワイン・レッドのワンピースは袖を丸く膨らませ、手首部分にはレースフリルをあしらっていた。胴着部分は胸元を大胆に開いて、ウェストをきゅっと絞る。布をふんだんに使ったペチコートを下にはき込んで膨らませた膝丈のスカートはギャザーたっぷりで、ふわふわと裾が風に踊る。
 夜にはこの上にミニマントを羽織り、とんがり帽子を被れば魔女の出来上がり。
 少しばかり少女趣味な感じがするけれど、こんな服を着れるのも十代のうちだと言い訳する。
 あとひと月すれば、アリエルは二十歳になる。そうなったら、いやでも大人らしさを求められるだろう。
 だから、いいじゃない?
 アリエルは赤みがかった栗色の髪を背中に流しながら、心の中でうそぶく。
 常に落ち着いて大人顔負けのお嬢さんだと、周りから称されている彼女に、今さら大人らしさもないだろう。
 村の長的な地位にあるアリエルの家は、祭りの際、人々が集まる場となるのが常だった。今日のハロウィン・パーティも彼女の屋敷の広い庭で行われる。アリエルの母は幼い頃に亡くなったので、早くから自立を促されていた。そうして、ここ数年はアリエルは村の集まりがある度に、父の片腕として色々なことを取り仕切って来た。
 広い庭に持ちだしたテーブルに、真っ白のクロスを掛けて、花を生ける代わりに目や口をくり抜いたカボチャを飾り付けた。庭の木々の枝葉には、モールなどが煌めいている。
 パーティのご馳走は、家政婦や料理人たちに任せてある。あとは、ゲームに使用する林檎を用意しなきゃねと、そう言ってアリエルは騒々しい家を抜け出してきた。
 黒の編みあげブーツで、色が変わって散った葉を踏みしめながら、枝に赤い実をぶら下げた林檎園に入る。鼻腔が甘酸っぱい匂いで満たされた。
 売り物にする林檎の収穫が終わっているので、果樹園に残っている赤い実はそれほど多くない。だけど、香りはアリエルにまといつくように漂っていた。
 その香りを胸一杯に吸い込んで、アリエルは唇に笑みを浮かべるとゲームに使う林檎を探す。あまり大き過ぎると、口にくわえるのが難しくなるので、小振りの方がゲームに適している。
【アップル・ボビング】は主に子供たちのお遊びだが、実は女性たちも秘かに楽しみにしていた。子供たちが遊び終わった後、年頃の女性たちだけが集まって、ゲームを始める。
 赤い果実にナイフで想い人の名前を刻み水に浮かべ、それを数回でとることが出来たら恋が叶うと伝えられていた。占いとも、おまじないとも言えるそれをなかば本気で信じて、はしゃぐのだ。
 本来なら、想いは胸に秘めておくものだろう。でも、この時ばかりは誰もが林檎に恋の相手の名を刻む。一種の告白大会だった。
 林檎がとれても、とれなくても、お互いの想いを打ち明けることで女性たちの結束は固まる。そうして次の日から、それぞれの恋が叶うように助け合う。
 たまに想い人がかち合って、友情にヒビが入るとか、入らないとか。去年まで、アリエルはそんな女性たちを傍で見ていた。
 そして恐らくは、今年も自分は傍観者なのだろう。
 ちらりと脳裏を過ぎるものがあったけれど、「あれ」はなかったことだと、彼女はそれを封印した。
 アリエルは目についた赤い林檎を見上げた。
 手を伸ばしたら、届きそうな微妙な高さだ。爪先立ちになって、手を伸ばす。指先に林檎の皮の感触が伝わるが、果実はつるりとアリエルの指先から逃げ出した。
「あ、残念っ!」
 脚立を持ってくるべきかと、アリエルは辺りを見回す。その視線がこちらにやって来る人影を目に映して、どきりと心臓が大きく跳ねた。
 白いドレスシャツに黒のベストとスラックスという少し余所行きの装いは、アリエルと同じように仮装の前準備なのだろう。吸血鬼あたりを意識しているのか。
 寄宿学校を卒業して村に帰って来た少年は、この一年で雰囲気ががらりと変わっていた。もう少年と称するにはいささか、疑問を覚えるほどに。だけど艶やかな黒髪はいつもと同じように、額にこぼれている。
 アリエルは彼の姿を目にして唇に浮かんでいた笑みが、ゆっくりと消えていくのがわかった。
 強張った顔をしているアリエルの前で、彼は歩みを止めて、彼女を見つめ返してきた。
「何してるんですか、お嬢様?」
 腰に片手を添えて、青い瞳は見下ろしてくる。二つ年下の幼馴染みエディは、いつの間にやら驚くほど背筋が伸びていた。
 ――お嬢様、ですって?
 去年までは「アリィ」と馴れ馴れしく、愛称で呼んでた癖にどういう風の吹きまわしだ。
「見てわからないの、林檎を摘んでいるのよ」
 見下ろされている居心地の悪さに、声が尖る。そんなアリエルをさして気にしていない感じでエディの目はアリエルの空のバスケットに向けられる。
「一つも摘めていないようですが」
 口調はやたらと丁寧であるのだが鼻で笑うような含みに、アリエルは眉間に皺を寄せ、肩を怒らせる。
「今から摘むんでしょ、邪魔しないで」
 大体、何でここに居るのよ、とアリエルは彼に背を向けながら思う。
 まだパーティには時間があるとはいえ、村人たちはそれぞれおもいおもいの仮装をしては、仲間たちと集まり始める頃だ。
 おまじないに頼らない積極的な女の子は意中の男性を誘って、カップルとしてパーティに現われてはライバルたちを牽制することを忘れない。
 この幼馴染みは、背が伸びたのと同時に、村の女の子たちに注目されていた。彼を誘う女の子が一人や二人いたところでおかしくない。
 十九年、恋を知らないアリエルからしてみれば、憎たらしいくらいのモテっぷりだ。
 エディのことは自分が一番知っているつもりだったのに、大体、去年までは私の方が背は高かったのに、見下ろしてくるなんて、ズルイじゃない。
 アリエルは己を置いて成長していくエディに、自分でも持て余すくらいの嫉妬を覚えていた。だけど、それを面に出すのも腹立たしい。
「お手伝いしますよ、お嬢様」
 声がアリエルの背中を追ってくる。
 ――お嬢様って、また言った!
 アリエルの家の家政婦の一人息子であるエディからしてみれば、確かに彼女はお屋敷のお嬢様なのかもしれないけれど。アリエルの家がこの近隣で一番の果樹園と林檎酒工場を持っているだけで、貴族でも何でもない。小さい頃から姉弟のように一緒に育ってきたというのに、どうして一線を引くのか。
 お嬢様とエディが口にする、その呼び方がアリエルの神経を逆撫でる。
「要らない、一人で出来るわ」
 地面を蹴って飛び上がる。手を広げて林檎を掴もうとするけれど、丸い果実は指先からまたも巧く逃げだす。
 空振りに終わったアリエルは着地に失敗して、よろけた。バランスを崩して倒れそうになる背中を大きな手のひらが支えた。
「危ないだろ」
 昔ながらの少しぶっきら棒な物言いが肩越しに響いて、エディのホッとした吐息がアリエルの首筋にかかる。
 ワンピースの襟もとは大きく開かれているから、肌が敏感に息を感じてしまう。この位置からだと、開いた胸元の谷間がエディに見えるのではないかと、アリエルは突如として自分の恰好に心もとなさを覚えた。
 心臓が早鐘のように鳴り響く。
 果たして、こちらの動揺を察しているのか否か。アリエルを真っ直ぐに立たせると、エディの手は彼女から離れた。
 そして微かな衣擦れの音を立てて、彼が動けばアリエルの視界が翳った。彼女の前に割り込み、しなやかに背筋を伸ばすと、エディの長い腕はアリエルがとれなかった林檎をやすやすと枝から摘み取る。赤い果実がアリエルの瞳の前に突き出された。
「幾つ、いるんですか」
 手のひらに林檎を受け取り、顔を上げればエディが問う。視線が合いそうになった一瞬、彼は顎を反らし枝葉が広がる天上を仰いだ。
「……えっと、三十個くらい、かしら」
 子供たちが遊ぶ分と、女性たちが恋占いに使う分。占いには名前を刻むので、林檎の使い回しは出来ない。ざっと勘定したら、それくらいは必要なのかもしれない。
「…………それ、一人で摘む気だった?」
 呆れたような青い瞳がこちらを見下ろしてくる。彼の視線はアリエルが持つバスケットに向けられていた。
 どう考えても、この中には入りきれないだろう。三十個となれば、かなりの重量になる。一人の仕事としては荷が重い。
「何で、声を掛けない?」
 エディの声に苛立ちが微かに紛れれば、口調は丁寧さを忘れていた。
「往復すればいいだけの話だわ。関係ないでしょ」
 頭ごなしの非難にムッとして、アリエルもまた苛立ちをぶつけ返す。
 他の女の子と約束をしているかも知れない相手に、声を掛けるなんてどうしてできようか。
 自分とエディは、単なる幼馴染みだ。その幼馴染みも寄宿舎生活をしていた間に、何だか別人のように変わってしまった。
 休暇の際は帰省していたけれど、それでもここまで背が伸びているなんて、思ってもみなかった。背中を支えた手のひらも大きくて、まるで知らない人の手だ。
 昔、彼とどのように言葉を交わしていたのか、アリエルは思い出せなくなってる。
 それと、さっきから自分の心臓がうるさくて堪らない。考えがまとまらずに、頭で考えるより先に口が声を発していた。
「一人で大丈夫だから、放っておいて」
 胸の内側の音を聞かれたくなくて、アリエルはエディから距離を取るよう身を翻す。歩き出そうとした彼女の腕を大きな手が掴んで、引きとめた。引っ張れた反動で、後頭部が彼の胸にぶつかる。
「一人で大丈夫だって? この前、失恋して泣いていたのはどこの誰だよ?」
「失恋なんか、していないわよっ!」
 封印していた記憶に触れられて、アリエルは肩越しに振り返った。
 あれは断じて、失恋なんかではない。ただ、ちょっと、都会から観光に来ていた青年の口説き文句に浮足立っただけだ。
 殆ど変わり映えがしない村の生活の中で、その青年の登場は村の女性たちの心を騒がせた。アリエルも少しばかり甘く囁かれて、一瞬、その気になってしまったが。
 かの青年が女という女、全員に甘い顔をしているのに気付いて、浮かれてしまった自分が情けなくなった。
 情けなくなって涙をこぼしていたところ、休暇帰省から学校へ戻る途中のエディに見られた。
 ――ああ、だから。
 エディに対して、腹立たしいのは自分の弱みを知られているからだろう。
 そうして彼はあの時、泣いているアリエルを黙らせるためか、あり得ないことにキスをしたのだ。鉄道の時間が迫っていて、慰める時間がなかったせいだろうとは思うが――乙女の唇を奪うなんて、何事だっ!
 エディの企み通り、驚きのあまり、アリエルの涙は一瞬で止まったのだけど。
 その後、駈け足で学校に戻ったエディに、アリエルは一人悶絶させられた。手紙で謝って来るかと思いきや、梨の礫。卒業して帰ってきても、彼は大学生活と家業手伝いに忙しく――いずれ、果樹園経営をするアリエルの父親の手伝いをしてくれることになっている――アリエルとまともに顔を合わせようとしなかった。
 そして今日、ようやく二人きりになったと思ったら、「お嬢様」だ。
 境界線を踏み越えたのはエディの方なのに、今度は彼の方から壁を造った。
 どうして二つも年下の彼相手に、私が振り回されなければならないと言うの。
「勝手に勘違いして、勝手に私を泣き虫に仕立てないで! 私は一人で平気なんだから、放っておいてよ」
 エディの腕を払い、彼を突き飛ばそうとするけれど、突き出した腕に彼はピクリとも動じない。手のひらの下には、鍛えたであろう硬い胸板がある。
 手を引こうとすれば、手首を捕まえられる。強い力に逃げられない。
 ――昔は私の方が強かったのにっ! 
 今だって、二つの年の差は歴然としているのに。
 いつの間に、自分は彼に勝てなくなってしまったのだろう。こんなの、ズルイじゃない。
「放っておけるはずがないだろ?」
「それは私が、お嬢様だから?」
 キッと睨みつければ、エディは僅かに眉を顰めた。最初に「お嬢様」を持ち出したのは、彼のほうであるから、違うとは言い切れないだろう。
 一瞬、言葉を詰まらせながらも彼は首を振った。
「…………っ! そうじゃないって、わかってんだろ?」
「そうじゃないって、何よ?」
「だから――」
 身を屈めたエディの唇がアリエルの首筋に触れる。あ、と思う瞬間に微かな痛みが肌を刺した。
「俺が本物の吸血鬼なら、今すぐに思い通りにしてやるのに」
「何するのよっ!」
 アリエルはエディの後頭部をぽかりと殴りつけて、素早く一歩後ずさった。手首を掴まれたままなので逃げられないのが、口惜しい。
「って、ここまでしてんのに――」
 殴られた頭を撫でながらエディは顔を上げた。そうして睨みつけるアリエルの視線に戸惑うように、青い瞳が揺れる。心もとなげな声が問う。
「……本当に、わかんないわけ?」
 わかる――気がするけれど。
 それを認めてやるのは、アリエルとしては癪だった。キスされたあの日から今日まで、振り回された感情をなかったことにしてやるものか。
 だから彼女はキッパリと言い切った。
「わかるわけないでしょ?」
「鈍感過ぎるだろ……」
 泣き出しそうな声でエディは呻く。
「男心を弄んで、アリィは本物の魔女か。大体、その格好はなんだよ。俺以外の男が欲情したらどうするんだ。無防備過ぎるだろ、だから都会者に騙されそうになるんだぞ」
「何ですって?」
 村の女の子たちを騒がせている吸血鬼が、モテない魔女にお説教するとは甚だしいにもほどがある。
 眉を吊り上げるアリエルを前に、エディは空を仰いで二人の上に実っていた林檎をもいだ。手にしたそれに、ベストのポケットから小型のナイフを取り出せば、甘い果実の匂いがアリエルの鼻腔を満たした。
「これ、とれよ」
 突き出された林檎にはエディの名が刻まれている。
「他の女に渡すなよ?」
 つまり【アップル・ボビング】のおまじないで、恋を叶えろということか。
 どこまでもわかりづらいことを言ってくる幼馴染みの耳が赤く染まっているのに、アリエルは気づいた。
 ――ふうん?
 背丈も伸びて、力も強くなったけれど。
 水に踊る林檎のように、気持ちが浮いたり、沈んだりするのは彼も変わらないらしい。
 照れた顔を反らし、林檎を摘み始めたエディの背中にアリエルはそっと声を掛けた。
「ねえ、エディ」
 振り返ったエディの瞳を捉えて、アリエルは彼の名前が刻まれた林檎にそっと口づけた。そうして魔女が流し目を送り妖艶に微笑めば、吸血鬼は顔を真っ赤に染め上げた。
 腕に抱えた林檎をぽろぽろとこぼすに至って、アリエルは勝利を確信した。

 ――どうやら、まだまだ私の方が強いらしい。


           「恋の林檎をつかまえて ―アップル・ボビング― 完」



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