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 堕ちていく者たちの挽歌


 ――運命は、私に味方した。

 銀色に鋭く尖ったナイフの薄い刃を、手のひらに滑らせた。
 白い肌に薄く引かれた紅の線は、やがて滲み出た血の色に赤く染まる。 肌を侵食する赤に伴う、焼け付くような痛みを味わいながら、私はすべての元凶は何であったのか、過去に想いを馳せた。
 あの日、敵国の兵に襲われそうなっていた私を救い出した、二人の騎士か。それとも若くして国を継ぐことになった王か。はたまた、母の美貌を受け継いで生まれてしまった我が身のせいか。
 ――レイア、お前は美しい。
 何人もの口が、そう私を讃えた。だけど、鏡に見る私の姿は、どこか私とは遠かった。
 白磁の肌は艶やかに輝いて、赤みがかった金色の巻き毛が華やかに面を包んでいる。蜜色の瞳を縁取る長い睫に、薔薇色の唇。柔らかな曲線を描く胸元と腰の線は、流行の薄い生地のドレスには露わで艶めかしい。
 それは男たちの視線を好奇に集めるだけでしかない。
 大きく開いた胸元、ハイウエストで切り替えたスカートは薄く、生地を贅沢に使いながらもラインは真っ直ぐ、すとんと足元まで落ちている。胸元から両腕を覆う生地も柔らかでハリがないから肌に寄り添い、身体の線を隠せない。
 鏡面に映る姿は、幼い頃に見ていた母の姿に似ていた。隣国との国境沿いにあった辺境の街で、踊り子であった母に――。
 きっと母なら、男たちの視線を集めて、喜んでいただろう。
 だけど、私は違う。
 自分に男たちの好奇の視線が集まるたびに、心の中で嫌悪が先立っていた。それを顔に出せば、楽であっただろう。
 だが今は、その相手は父や、王であり、命の恩人である二人の兄たちだ。
 自力で生きていく術を知らない、後ろ盾のない女には男たちの機嫌を損ねたら、死活に関わる問題だった。
 ここが貴族社会でなければ、もしくは私がそう生きていたならば、もっと違ったのかも知れない。
 しかし、三年前まで辺境の街で母と二人暮らしていた娘が、貴族の一家に養女として迎えられた事実は、美談として受け入れられたが、私にはあまりにも世界が違いすぎて受け入れ難い出来事だった。
 故に自分が自分ではないような、他人の人生を生きているような、どこか地面に足が着いていない心地で、暮らしてきた。
 絹のドレスもストッキングも、レースで縁取ったハンカチ。天蓋付きの寝台や、柔らかな羽布団。火がはぜる暖炉も、毛足の長い絨毯も、宝石を縫い込んだサテンの室内履きなど、全て。
 そもそも自分だけの部屋を、私はここに訪れるまで、自分が得られるとは思っていなかったのだ。
 母と暮らしていた日々のなかで私が望んだ未来は、せめて私に誠実な男性と結ばれる――そんなささやかで、だけど実現は難しいだろうと思うものだった。
 決して裕福ではない女が、女手ひとつで子供を育てようとするならば、その手段は限られていた。母の現実を見ていれば、私の願いは大それた野望に思えた。
 ――野望っ!
 何というおぞましい言葉だろう。
 私のささやかな願いと、あの男の野心が同じ皿の上に並べられるなんて。
 鏡に映る薔薇色の唇が苦々しげに歪むのを見て、そこでようやく私は私を認識した。
 母はいつも男に見られているのを意識して、常に美しく振る舞っていた。執着も嫉妬も見栄もないように見せかけ、手軽に遊べる女を装い、男たちを虜にした。
 そうして街の男たちに気分良くさせながら、ドレスや生活費を賄わせていたのだから、舌を巻く。
 狡猾な処世術を母が会得したのは、一番の獲物だった私の実の父に捨てられたせいなのか、私にはわからない。
 私を産む前の母がどんな生活を送っていたのか、知らないのだ。
 ただ、権威のない母の美貌は男たちに媚びを売る以外、ひとつも役には立たないことは実証できる。
 王侯貴族の姫君にでも生まれていれば、崇拝されるだろうが、片田舎では女たちの嫉妬を買うだけでしかなかった。
 母には身寄りがなく、男たちの妻や恋人たちを敵に回したので、彼女の人生を語ってくれる者が誰一人としていなかったことからも、わかるだろう。
 そんな母は、敵国の侵攻に飛んできた砲弾で潰された建物の下敷きとなり、死んだ。
 生きていれば、侵攻してきた敵国兵に目を付けられ、陵辱されていただろうから、その死は幸いだったかもしれない。
 私自身、王国軍の騎士たちが駆けつけるのが遅れていたら、悲惨な目に遭っていただろう。紙一重の幸運であったと思う。
 手のひらを濡らす赤を唇に持って行って、そっと舌を這わせ口の中に含む。赤い血が喉を通り、唾液とともに身体の奥へ流れていく。
 苦い想いを心の奥底に飲み込んで、手のひらについた赤い滴をハンカチで拭った。
 純潔を散らされた花嫁の床は、このような感じであろうか。
 白に滲む赤を見やって、私はそれを遠く投げ捨てた。しかしハンカチはひらりと宙を漂い、足元にゆっくりと舞い落ちる。
 私がどれだけ拒もうと、離れられない宿命として付きまとう。だけど……。
「運命は、私に味方したのよ」
 そっと唇に言葉を載せ、私は足を一歩踏み出し、ハンカチを室内履きの靴の下で踏みにじった。
 とんとん――と、ドアがノックされる音で私は現実に引き戻され、身を竦めた。
「レイア、いるかい?」
 扉の向こうから響く声は私を養女として迎えたエネイア家の、双子の一人だ。
 ペリオンとレイオスの二人は私の義兄であり、敵国兵に襲われかけていた私を助けてくれた騎士たちだ。
 エネイア家は王家に代々仕える騎士の家系だ。辺境に領地を持つが――私の故郷の街だ――普段は王都に居を構え、王に仕えている。
 双子の兄たちもまた騎士となり、先の隣国侵攻の心痛から亡くなった先王の後継、ティノス新王の友人として、また頼もしい臣下として王宮に出入りしていた。
「――お兄様?」
 私は靴の下のハンカチを拾い刃に巻き付けると、ドレスの裾をたくし上げ、ガーターリングにナイフを差し込んで隠した。
 小ぶりのナイフなので、気づかれやしないだろう。だが、布地越しに刃の冷たさが伝わってきて、所持していることの危うさに心臓が跳ねる。
「ああ、ペリオンだ。入っていいかい?」
 名乗るのは、声では二人を区別できないからだ。声以外にも二人はそっくりで、私はいまだに双子を見分けられないでいた。
「ええ、どうぞ」
 鏡台近くからドアへと向かい、扉を開いた。
 樫の扉の向こうから現れたのは、背が高い金髪の青年だ。年は私より六つ年上で、二十三歳になる。ティノス新王と同い年だ。
 光沢のある緑色の生地で作られた上着は前身頃の部分は短く、後ろ身頃は膝裏まであり、上着の縁は金糸で縁取られた刺繍が施されている。下は白の細身の下衣に黒革の長靴という装い。大きく折り曲げられたカフスをとめるボタンは金の台座に嵌まったサファイアだ。腰には細身のサーベルが佩かせてある。
 ナルチーゾ王国軍正騎士の制服だ。
 これから王宮に伺候するのだろう。今夜は王宮で大きな催し物が開かれるのだ。
「邪魔したかい?」
 緑色の瞳を瞬かせ、尋ねてくる。
 こちらを気遣うペリオンを始め、双子の弟であるレイオス、ティノス新王は私が知っている「男」という生き物とは違っていた。
 見目麗しく、礼儀正しく紳士だ。
 片田舎で育った娘をまるで貴族の娘の如く扱い、時間が許す限り付き合ってくれたおかげで、私はこの三年間で社交界に出ても恥ずかしくないだけのマナーを身につけることができた。
 街を焼き払い市民を虐殺、蹂躙した野蛮な兵士や、母に寄ってくる好色な男たちを目にしていた私には、それだけで別の生き物に思えた。
 誠実な男性など、理想であって現実にはいないと思っていたが、目の前の彼は――他の二人も――体現してくれていた。
「いいえ、大丈夫ですわ。どうかされましたか?」
 扉を閉めながら私は首を横に振って、問題ないと示した。
 年頃の女の部屋に男性が居るときに扉を閉じるなど、あってはならないと教えられたが、かといって扉を開けたままであるのも、彼を信用していないと受け取られかねない。
 この場合、私はペリオンを信用していた。
「ああ、少し話をしたいと思って。時間は大丈夫かな」
 この夜は、王宮主催の舞踏会が開かれる。まだ妻帯していない国王の花嫁探しが目的であるのは公然の事実であった。それが故に私の元にも招待状が届いたのは驚いた。
 周りは反対しただろうが、ティノス新王が気を利かせてくれたのか。
 彼は双子を臣下というより友人として扱い、暇を見てはエネイア家に遊びに来ていた。
 漆黒の髪に深い藍色の瞳を持つ新王は、裏表のなさそうな快活な笑顔で人々を魅了するような御仁だった。
 王位を継いで忙しい日々に、気心が知れた双子と過ごすことが唯一の息抜きなのだろう。その繋がりで、私は王に顔を覚えてもらい、声を掛けられるようになった。
 今ではお茶の時間の同席も許されていた。王が望んだからだ。
 だが、養女として迎えられたが、私は踊り子の娘。
 片田舎の踊り子など、酒場の娼婦と多くの人間が見なしている。その娘の私も同類に見られているに違いなかった。
 隣国クエルランドの、我が国ナルチーゾへの侵攻は、クエルランドを当時二分していた王弟派の暴走だった。玉座を狙う王弟がナルチーゾとの間に戦火を交えることで国内に混乱を起こし、宮廷を揺さぶろうとしたらしい。
 ナルチーゾを襲った軍は、王弟を含めてクエルランド国内で処罰が下った。噂では、頭角を現し始めた王弟を処罰するための陰謀だったという話もあるが、それはあの国の問題だ。
 いずれにせよ、クエルランドから我が国へ、賠償金が支払われたが、復興は遅れていた。
 そこに積もる領民たちの不満を解消しようとしたのだろう。
 敵国兵にほぼ焼き払われた街から、国王の覚えめでたい騎士たちが救い出した娘が、貴族に迎えられる――私の養女の話は、決してエネイア家が領地の民を見捨てていないことを印象づける意味で、一部では熱狂的に受け入れられた。
 だが、貴族階級では私の存在によい顔をしない者が多い。いや、貴族階級だけではなく、エネイアの王都邸宅に仕える使用人たちもよい顔はしなかった。
 自分たちと同等の、いいえ、それ以下の人間が主人たちと同じ席に着き、まして王宮に客として招かれる。彼らのはらわたは、煮えくりかえる思いだろう。
 それを少し滑稽に思うくらいには、私も邪悪だ。
 本来ならば、ここに侍女なり家庭教師が居るべきだが、嫌われ者の私の元には彼女らは居着かない。おかげで私も自由にできた。
「レイア?」
 思考が逸れ、言葉を返さない私をレイオス――違う、ペリオンが不思議そうに見やる。
「ええ、時間は大丈夫です。お話とは何でしょう?」
 ペリオンは部屋の入り口近くに置かれたテーブルセットの椅子に軽く腰掛けた。長い足をもてあまし気味に組みながら、口を開く。
「今夜の舞踏会だけど、出席するのかい?」
 私は足に隠したナイフを極力意識しないよう気をつけながら、彼の方に目を向けた。少しでも動きがおかしければ、騎士の目を誤魔化せないのではないか。まだ目的を果たすまで、あのナイフは取り上げられてはならない。私の唯一の切り札なのだ。
「出席するようにと、お義父様には言われております」
 その命令の裏に何が企まれているのか、ペリオンもレイオス、ティノス新王も知らないに違いない。
「まあ、そうだろうね」
 国王直々の誘いを断るなんて、ペリオンには想像できないだろう。単に話を繋ぐための枕詞のようなものだろうか。
「それが何か」
「あ、うん……」
 ペリオンは言葉を探すみたいに、緑の瞳を彷徨わせた。
 部屋を眺め回す精悍な横顔を見つめ、私はじわりと背中に汗が浮かぶのを実感した。
 血は床に落としていないはずだが……しかし。
「……今夜の舞踏会の趣旨は、レイアもわかっているよね」
「ええ、存じております」
 それが、何か? と、ペリオンに首を傾げてみせる。
 花嫁探しの舞踏会が自分に関わるとは、思ってもいないかのような無邪気さを装うくらいには、私は母の娘なのかも知れない。
 男に媚びを売るつもりはないが、胸の内をさらけ出すほど、正直ではないのだ。
 微笑んでみせる私に、ペリオンも笑った。唇の端に苦い影を宿して、囁き声で告げた。
「もしかしたら、陛下は……君を選ぶかも知れない」
「ダンスを――でしょうか。きっと、生徒の上達ぶりを確認するためでしょう」
 エネイア家に訪れたティノス新王は、私のダンスレッスンに付き合ってくれたこともある。友人たちの妹として、彼は私の出自など一向に気にする様子はなかった。
 どこの馬の骨だろうが関係ないといった、誰であれ身分を問わない態度は、公私共々に広く評判になっていた。
 まだ王太子であった頃には市中にお忍びで出掛けては、教会の炊き出しを手伝っていたりしたようである。
 身分を隠していたはずが、その話は市井に広まり、彼の人気は当時の国王を凌いだ。
 先王が亡くなり、ティノスが王位に就くことになったとき、誰もが新王を歓迎した。
 よって、国民たちは彼の花嫁を待望していた。
 例えば息子の結婚を親が望むように。早く孫を見たいと思うように。
 自分たちの願望が、まるでその人の幸運でもあると信じて、人は無邪気に他人の人生をチェス盤の駒みたいに操ろうとする。
 新王に選ばれる花嫁は幸せだと、誰もが信じて疑わない。
 だけど、選ばれるのはただ一人であるのを忘れている。ティノス新王は大勢の中から誰もが納得する花嫁を選ばなければならないのだ。
 そこにどれほどの自由があるのだろう。そして、そこに集う腹黒い思惑は――。
「レイア――」
 自分に注意を引き寄せるようと切実さを滲ませた声で、ペリオンが私の名を口にした。
「はい?」
 彼を見つめ返せば、青い瞳に宿る熱を知る。そこにある想いを私は知っていた。
 男たちが母を、そして私を見つめるときに宿る熱と同じ。だけど、欲望だけではない。少しだけ違う。
 男たちは何時だって、自分たちの意のままに私たちを操れると思っているのだ。
 だがペリオンは違う。己の願望を押しつけるのではなく、私の意思を尊重してくれるが故に、臆病な慎重さがその熱を別の色に変えていた。
 だからこそ私は、嫌悪に心をかき乱されずに、彼を兄として受け入れられたのだろう。
 そして傷つけたくないと願ってしまう。それは無理な話だと頭ではわかっていたが……。
「君が誰を選ぼうと構わない。でも、どうしても僕の気持ちを伝えておきたくて」
 椅子から立ち上がったペリオンが片手を私の方に差し出してくる。
 手を握って欲しいのか。それとも私に触れたいだけなのか。
 その手を握れば、簡単に答えは返せるだろう。だが、私にはペリオンの手を取ることはできない。
 宙に浮いた彼の手を前にして、私は首を横に振った。
「いけませんわ、ペリオンお兄様」
 兄であることを強調するよう、声に力を込めた。彼がどう思っていようと、双子は私にとっては「兄」なのだ。
「……レイア」
 顔を伏せた私の鼓膜に悲しげな声が響く。同時にまた、部屋のドアがノックされた。
「レイア、俺だ。レイオスだけど」
 双子の片割れは、ペリオンと同じ声で名乗る。私はペリオンに一瞥をくれた後、彼の横をすり抜けて扉を顔が覗ける分だけ開けた。
 隙間から、金髪に緑の瞳の青年が顔を見せた。
 肌の色も眉の形も、鼻の高さも唇の色も、この二人は鏡に映したかの如くそっくりだ。
 兄弟と同じく騎士の制服に身を包んでいたレイオスは、私を見て笑う。
「父上が君を呼んでいる」
「はい?」
「書斎で待っていらっしゃる、今すぐいいか」
 そう言って、レイオスは私に片腕を差し出した。私をエスコートしようというのだろう。
 ドアで作られた死角のせいで、部屋にペリオンが居ることに彼は気づいていない。
 私はそのまま部屋を出て、レイオスの腕に手を預けた。
 ペリオンが今日、私の部屋に個人的に訪れたのをレイオスが知れば、その目的が何であったのか直ぐに悟るだろう。
 この双子は外見だけではなく、中身もまたよく似ていた。
 ひとつの卵から二匹の雛が孵ってしまったかのような、ひとつだったものがふたつに分かたれてしまったかのような二人が並んでしまえば、私には見分けが付かない双子の騎士。私の兄たち。
 見分けが付かない時点で私の感情は、こちらに差し出された以上のものを返すことは、できやしなかった。
 いいえ、はじめから私には二人を「兄」以上に思えやしなかった。
「レイア……あのさ」
 廊下を歩きながら、レイオスがこちらをちらりと見やる視線を感じる。
 顔を上げてその瞳を覗き込めば、緑の瞳にペリオンと同じ熱を、同じ想いを見つけるだろう。
 私は気づかないふりをして、視線を前に固定した。
 レイオスは気を引くように、彼の腕に掛けた私の手に自分の手を重ねてきた。上着の生地にこすれたせいで、ナイフでつけた傷が激しく痛んだ。無視してきた痛みが、熱を持って訴えてくる。
 私は思わず手を引くと、レイオスは驚きに目を丸くした。
「レイア?」
「何でもありません、レイオスお兄様。これから王宮に向かわれるのでしょう? 夜、そちらでお目にかかれるのを楽しみにしております」
 私は廊下に彼を置き去りにして、エネイア家の当主であり双子の父であるクロテピストの書斎へ足早に急いだ。屋敷の二階、右翼にクロテピストの書斎はある。
 双子の気さくさとは違い、気難し屋と評判の当主の書斎には呼び出されない限り、誰も近づきやしない。
 それでも他の者の目がないことを確かめて、私は足に隠したナイフを手のひらの内側に持ち替えた。
 手首まである服の袖に柄を差し込み、手の指を添えれば、外からはナイフの存在は悟られまい。このときの為に、手首にはチャームがついたブレスレットを巻いていた。二重に縛られたナイフは落ちないだろう。
 本番は今宵の舞踏会だが、もしも直接、叶うのならばここで終わらせても良かった。そうすれば、これ以上誰も傷つけずに済むかも知れない。
 双子を傷つけないというのは無理だった。彼らが私を妹以上に想ってしまったら、それを受け入れるのは無理なのだ。
 クロテピストの過去も思惑も双子は知らない。
 真実は私だけが知っていた。だからこそ、私は全てを正さなければならない。運命は私に味方したのだから……。
 手のひらをこちらに返して、ドアをノックする。
「レイアです」
「入れ」と、扉の向こうから不機嫌な声が応じる。いつだってこんな声だ。自分の中にある黒い企みが、他人に対して後ろめたさを抱かせるのか。
 扉を開けると、両脇の壁を本棚で隠した部屋の奥。窓を背景に置かれた重厚な書き物机についていた人間が立ち上がる所だった。
 双子と同じ金髪の、だけど双子とは違う瞳は蜜色だ。
 昔は双子のように背が高く引き締まった身体つきをしていたのだろうが、今は腰回りに年齢を感じさせる脂肪が見て取れた。
 しかつめらしい面には年相応の皺が刻まれ、切れ長の目元はまるで射るごとく鋭い。いつも何かを企んでいるような眼差しのクロテピストに私は軽く膝を折って、挨拶をする。
「御機嫌、麗しゅうございます、お父様。私に御用がおありだとお聞きしましたので、参じました」
 そっと顔を上げれば、クロテピストはふんと鼻を鳴らした。
 目線に、表情に、仕草に尊大さが滲み出る――そう思うのは、私が過剰反応しているだけなのだろうか。
「今日の夜の準備はできているのか。まさか、その格好で行くのではないだろうな?」
 私を上から下へと眺め回す視線に、私は「いえ」と否定した。
 今着ているドレスは柔らかな若草色のシフォンをたっぷりとあしらったものだが、色味的には地味と言わざるをえない。クロテピストもそう思っていたようで、不機嫌な顔のまま頷いた。
「よろしい。なるだけ目を引くドレスにするんだ。できれば、赤や青といった目立つ色を。前に作れと言っておいただろう。用意したのか」
「ええ、おっしゃるとおりに、ディカンシャの仕立屋に注文して作らせました」
 従順な表情で私は告げた。よろしい、とまた繰り返した。
「ではこれを。我が家に伝わる首飾りだ。これを付けていれば、誰もがお前をエネイアの娘と認めるだろう」
 クロテピストは天鵞絨を内張りした細長い箱を私の方に差し出した。
 蓋は既に開けられ、首飾りが窓から差し込む陽光を反射して、煌びやかに輝いている。二重に連ねたパールの鎖に、コインよりも大きい滴型のダイヤモンドがペンダントトップとして輝いていた。パールの間には等間隔に並べられたピンクサファイアが控えめながら主張している。
「お借りいたします、お義父様」
 首飾りをくれてやるとは、言わないだろう。あくまで貸すのだ。私がティノス新王の注意を引きやすくするために。
 そのために、この目の前の男は私を養女に引き取ったのだから。
 屋敷に出入りしていた王の目が私を追いかけるのを、目敏く見つけたときから、クロテピストは私を王宮に入れることを企んだに違いない。
 ティノスを私に溺れさせ、私を通じてこの国ナルチーゾの実権を握ろうとせんが為に。
 息子たちが王の友人であるとしても、エネイア家の人間は所詮、騎士だ。政治的関与はできないが故に、クロテピストはほぞをかむ思いをしてきた。
 それが私という切り札を得た。この好機を見逃すはずがない。
 この男にとって女は所詮、駒なのだ。
 欲望を満たすために踊り子をもてあそび、子供ができたと知るや捨て去って、領地に寄りつかなくなった男にとっては、簡単に捨てられる駒だった。
 そう、私の蜜色の瞳は母譲りではなく、目の前のおぞましい男から受け継いだものだ。
 クロテピストは恐らく、私が実の娘であると知っている。だが、その事実に触れずに黙っているのは、私が気づいていないと思っているからか。
 被災した地から貴族社会へと迎えられ、助けられたと思っている私に真実を話せば、恨まれるとわかっているのだろう。告げずにいれば、私は彼に感謝し、命じられるままに動かせると信じている。
 ――そう思い通りにいかせるものか。
 母の生き方は私には真似できなかったし、その生き方を推奨するわけではない。だが、男たちの欲望の目から私を守り育ててくれたのは、母だった。
 この男の本質に、その野望に気づかされたとき、私の中で母に対する決意が芽生えた。
 私は一歩、前へ踏み出して宝石を受け取ろうと手を伸ばす。男の手に私の手が触れた瞬間、クロテピストは驚いて手を引いた。
「何だっ?」
 怒りに似た声を吐いて、己の手を見やる。日に焼けた分厚い手に、薄く滲み出る赤い血。それは私のナイフが傷つけたものである。
 でも、それは知られてはならない。私は宝石の箱を手前に引き寄せながら、言った。
「申し訳ありません、お義父様。ブレスレットが引っ掛かってしまったようですわ」
 手のひらを相手に見せないようにしながら、手首に巻いた鎖を見せた。鎖に付いた飾りのひとつに、傷つけられたと思ってくれれば良いのだが。一線から退いたとはいえ、腐っても騎士と言ったところか。先程の動きは誤算だった。これ以上、ここに留まるべきではないだろう。
「では、急いで着替えて参ります」
 渋面で傷口をなぞるクロテピストに背を向けて、私は部屋を出た。もう後は、舞踏会の会場が本番だ。私は震える唇を噛んで、部屋へと戻った。
 途中、レイオスにもペリオンにも会わなかった。二人は王宮に先に行ったのだろう。王の側に仕えて、ティノスを警護するのだ。
 それが彼らの役目。そして血が繋がっているとは知れず、恋情を抱いてしまった相手を友人に奪われるところを見届けるのだ。
 ティノス新王は私を求めるだろう。
 いつからか、かの人の瞳に宿った熱を知っていた。物事に捕らわれない彼は、周りが反対しようと踊り子の娘を花嫁に迎えるだろう。
 もっとも、今や私は貴族の娘だ。身分的には問題はない。いざとなれば、クロテピストは自分が実の父親であることを名乗り、周囲を黙らせるに違いない。
 全てはあの男の思惑通りに、事が運ぶ。
「そんなこと、させないわ……」
 私は喉の奥から声を絞り出して言った。
 双子の兄たちを傷つけて、この人ならと思った王の寵愛を拒んで、私が選び取る運命。それは――。
「運命は私に味方したのよ」
 深紅のドレスを着た私をティノス新王が選んだとき、クロテピストはこの先に訪れる栄華に酔いしれるだろう。
 瞬きの間、その喜びに浸ればいい。だが、あの男の野望を私は決して叶えやしない。
 私が散らす赤は、花嫁の純潔ではない。
「これが私の復讐よ……」
 宮廷の誰もが見守るなかで、私は赤い血を流すだろう。
 蛇の毒を何度も塗り込んだナイフは、母の客だった行商人から貰ったものだ。毒は速効性がない故に――実際に、毒が効くかどうかの保証もなければ、相手に傷を付けなければ役には立たない。
 暗殺道具としては使い物にはならないが、護身用ぐらいにはなるだろうと言うことだった。
 それでも、私のなかで蠢く毒を知れば、唇は薄く笑みを刻む。
 蛇の毒が体中を巡り、やがて私の身体から血が吹き出る。王宮の大理石の床を汚すのは毒に犯された、復讐の赤。
 その幻影がまざまざと目の前に広がり、身体が火照る。
 惜しいのは、あの男の死に様を見届けるのが叶わないことであるが。
 数刻遅れでクロテピストの生に、死神の鎌が振り下ろされたその真相は――誰にも語らず、ただひっそりと母の元へ持って行こう…………。


                    「堕ちていく者たちの挽歌 完」




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