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 エピローグまで、あと少し。


 ――拷問だった……。
 うっかり、そんなことを思ってしまった責任が誰にあるのかと問われれば、他でもない私自身にあるわけだけど。
 でも、まさか、実際のところ、一ヵ月も反応がないなんて思いもしなかった。
 私は遠い目をして、教室の窓の外に広がる空を見上げた。もう既に冬は遠ざかり、うららかな春の日差しが空を青く見せている。一ヵ月前の灰色に水色を溶かしたような、薄寒い空の色とは青さが異なる。
 明るさを増した太陽の陽射しも暖かくて、そろそろと早咲きの桜や桃の蕾を膨らませつつあった。少しずつ固い蕾が解れていく感じは、花が春の訪れを喜んでいるようで、いつもなら見ているこちらもウキウキするのだけれど。
 もう三月――そして、今日は十四日だ。
 このひと月が何と長く感じられたことだろう。すべては、一ヵ月前に彼に贈ったチョコレートにあった。
 二月の十四日、私は生まれて十七年の人生で、初めて男子に本命チョコを贈った。
 他人からしたらね、それ何の冗談だと笑われるかもしれない。
 まあね、バレンタイン直前のデパートの食品売り場で、小学生の女の子たちが生クリームや無塩バターを物色していたのを横目に、バレンタインのチョコ売り場で既製品を買い求めた時点で色々、負けたという気がしないでもなかったけれど。
 でも、世のなかには、マイペースな人間がいるわけですよ。既に、彼氏持ちが大勢いるなかで、秋まで初恋もまだなんて言っていた私ですが、何か?
 まだ十七歳で別に、急いで恋愛する必要もないし。
 恋愛だけが世の中の全てでもないし。
 そんなことを言ってました、私ですよ。
 だから、何となく友達にも相談をし損ねた。元々、周りの恋愛話に冷めた反応を見せていた――たまに露骨にうんざりした顔を見せて、大顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまったこともある手前、好きな人が出来ましたなんて、言いにくい。
 第一に、うん。好きな人というより、気になる人といった感じで、まだ自分の気持ちをはかりかねていた。
 彼と恋人同士になって、ずっと一緒に居たいのかと言われれば、よくわからない。私は周りから「冷めすぎ」と言われるくらい、人づきあいにはクールな方だ。
 友達とだって四六時中一緒に居ると、息苦しくなってくる。適度な距離が欲しい、一緒にトイレとか、何それって話。
 ……女の子同士がべったりくっつくのも理解できない私は、彼氏からメールの返信が直ぐに来ないからと言って、不機嫌になる彼女の気持ちもわかりませんでした。最近までは。
 実際、私より乙女らしい男の子もいるし。もしかしたら、私は女じゃないかもと思ったこともあるくらいだ。
 そんな自分がバレンタインにチョコを贈ろうと考えただなんて――青天の霹靂(へきれき)とで言おうか。
 大荒れに荒れた二月下旬の嵐が――全国で吹雪による大雪が、ニュースを騒がせていた――他ならぬ、私が引き起こしたのではなかろうかと、胃が痛くなったくらいだ。
 まあ、その胃痛も、彼からの反応がなかったことによるものだけど。
 ――本当に、拷問だった。
 この一ヵ月で何キロ、体重が減ったと…………ごめんなさい、大袈裟に言いました。せいぜい、何百グラムです。はい。
 バレンタインのお返しは、ホワイトデーにという話だけれど。
 実際のところはどうなのか、わからなかった。普通、気のある子からチョコを貰ったら、即座に返答するよね?
 義理だったらまあ、反応なしなのはわかる。
 ……となると、義理と思われたのか。
 バレンタインデーのあの日、彼に直接、チョコレートを手渡した。その勇気は結構、褒めていいと思う。既に公認のカップル以外は、人伝に渡して貰ったりしていたんだから。
 だけど、私はチョコを押し付けるようにして、渡したのまでは良かったのだけれど。
 ――何も言えなかったのよね……。
 己の所業を思い返すと大きなため息が漏れ、がっくりと首が下がる。
 机の天板にくっつきそうになる額を持ち上げるべく、頬づえをついて手のひらで顎を支えた。伏せた視線に自分の尖った唇が目に映る。
 ああ、私ってば今、ものすごく不細工な顔をしている……。駄目じゃない、そんなんじゃ百年の恋も冷めるよ。
 客観的意識が自分に駄目だしをする。
 素顔が不細工じゃないのかと言われたら、わかりませんけど。でも、不機嫌そうな顔をしても美人に見える人間なんて、数えるほどしかいないだろう。
 凡人が周りに可愛く見て貰いたいと思うなら、相応の努力はすべきだと言っていたのは誰だっけ? 誰だったか忘れたけれど。意中の相手がいる場で酷い顔は見せるべきじゃない。
 私の視線は教室の反対側に向かう。廊下側の列の、前から三番目の席に私の片想いの相手はいる。彼はいつものごとく、授業が終わった放課後も友達と話すことなく、手にした本を片手に活字を追っている。
 ――全然、私のことなんて気にしてないのよ。
 さっきの酷い顔も。現在、彼を見つめ続けている私の視線も。
 彼には別世界のこと。ミステリマニアの読書家さんは、どんな事件に夢中なのやら。
 教室の端と端では距離があり過ぎて、彼が読んでいる本がどんなものかはわからない。第一に、本屋さんのカバーが被せられているから、どんなに目がよくったって見えやしない。
 再びため息をついて、窓の外へと視線をやる。
 チョコレートと一緒に用意したプレゼントは、使われていない。青色のブックカバーと透かし模様が入った金属の栞を贈ったのだけれど……迷惑だったのか。そのうち、突っ返されるのかもしれない。もしかしたら、このまま何事もなかったように、スルーされたりして?
 ――ありそうで、困る。だとしたら、拷問は終わらない……。
 いや、もうすっぱり、駄目だったと結論付けて諦めてしまえば、終わるのかも。
 帰ろうかな、と腕時計を見る。
 次のバスまで、後七分ほどだ。それを乗り過ごしても、三十分後には別のバスが来るから、急いで帰る必要もない。
 とはいえ、用もなしに教室に居残っているのも何だか居心地悪い。彼みたいに本でも読んでいたら、時間なんて気にならないのだろうけど、生憎と私はそこまで本好きというわけでもなく、時間を潰せるような本は持ち合わせてない。
 大体、そうまでして残っている必要なんてあるのか、疑問に思えてきた。
 もしかしたら、もしかするかも……なんて、期待しつつ声をかけてくれるのをバス停ではなく教室で時間を潰すふりをして待ってみたけれど。全然だし。
 義理というか、あの時のお礼として、受け取られたのかもしれない。
 ほんの少しも好意を疑われなかったのかと思うと、もうそれで答えが出ている気がする。つまるところ、脈なしですか。
 私の初恋は――失恋で終わりました……。
 そう、自分でエンドマークをつけてみれば、ちょっとだけ鼻の奥がツンとした。
 ふうん、何だ。気になるとか言っていたけれど、結構やっぱり、好きだったのかと、他人事のように思う。
 自覚と失恋が同時なんてところが、私らしい気もする。一人苦笑いをこぼして、机の天板に頬を寄せて突っ伏した。暫く、ぼんやりとその姿勢でいたら、頭の上から声が降って来た。
「バスの時間だけど。春咲(はるさき)さん……具合、悪いの?」
 ぼそりとどこか素っ気ない声は彼の声だ。桃月(ももつき)くん、桃月弥生(やよい)くん。
 春と桃――何となく季節感が近い、そんなどうでもいいことに親近感を勝手に覚えて、一人盛り上がっていたのは私、春咲初音(はつね)です。
 がばっと顔を上げれば、こちらを覗き込む彼の目とあった。少し長めの前髪に隠れた切れ長の目元は涼やかで、物静かな態度から何となく大人っぽく知的に見える。常に本を片手に持っている彼は活字中毒の読書家のようだが、本人の談によれば単なるミステリマニアらしい。国語の成績だって、普通だしと言っていた。
 まあ、上の下というレベルは、あながち外れてはいないと思うけれど。
「保健室、行く?」
 階下の保健室を指しているのだろう、指を床の方に向けて訊ねて来る。
「……えっ、あ、いや」
 単に不貞寝していましたとは何となく言いづらく、口ごもる。
「……別に、具合が悪いとか、そういうのじゃないから……」
「そう?」
「あ、うん……」
「…………」
 頷いたら、会話が終わってしまった。しんと静まり返った空気が辛い。私たちと同じように南町方面のバスの時間待ちをしていた生徒が数名、残っていた教室には今は誰もいなくなっていた。
 遠くでバスが走り去る音がした。つまり、後三十分は居残り決定ということだ。
 何か、話題。話題。私は視線を彼に固定したまま、頭の中を話題を探して、めまぐるしく駆け回る。
 あわあわと心ばかりが焦る。意図せずに声をかけて貰ったのが、嬉しいはずなのに不意打ち過ぎて、気持ちが追いつかない。
 ただ、頭の奥がじんわりと熱くなる。いや、熱いのは頬か、耳たぶか。
 あ、どうしよう、心配して貰った。
 ――相変わらず、優しいな……。
 彼が気になりだした、秋の修学旅行のことを思い出した。
 枕が変わると眠れなくなる繊細な――ここ、突っ込み不要――私は寝不足がたたって、バス移動で車酔いしてしまった。
 その日は、班での自由行動日で皆が色々と計画を立てて、ルートを選択していた。皆が楽しみにしているなかで具合が悪いとは言い出しにくく、青い顔をして黙っていた――口を開く気力もなかったというところが、正確なんだけれど――私の異変に気づいてくれたのが、桃月くんだった。
 彼の一言で、皆も私の顔色の悪さに気づいて、ホテルに戻ろうかと言ってくれた。それは有難い申し出だったけれど、皆の楽しみを潰すのも忍びなく、第一にもうその場から一歩も動きたくない心境だった私は、泣き笑いの顔で立ち往生してしまった。そこへ桃月くんが機転を利かせてくれた。
『俺が春咲さんに付き添っているから、皆は楽しんできたら?』
 そう言って、彼は文庫本を取り出して近くのベンチに座った。彼の本好きはクラスメイトの承知するところだったので、「あ、こいつ、動き回るのが嫌なんだな」と皆、顔に浮かべては頷き合い、あっさりとその後の方針は決まった。
 私は彼の隣に座って、休むことにした。もっとも、皆が視界から消えた直後、堪え切れなくなって胃の中身を口から吐き出すことになったけれど……汚い話で、ごめん。
 公衆トイレからふらふらと、亡霊のように出てきた私に、彼は飲み物を売店で買ってきてくれたりと、かいがいしく世話を焼いてくれた。
 読書にいそしむ暇なんて、ありはしない。
『ごめんね、本読みたいんでしょ?』と平謝りする私に、桃月くんはさらりと首を振る。
『いや、いいよ。実は昨日の晩に読んでしまったし』
 目をまるくする私に、彼は苦笑した。
『集団行動って、ちょっと苦手で。正直、助かったよ。こっちこそ、春咲さんをだしにしてごめんね』
 言い訳のように謝っていたけれど、それは私に気を使わせないための、方便だった。
 修学旅行の一件で、気心が知れたせいか。帰りのバス待ちの時間とか、それから何となく喋る機会が増えれば、あの日、周るルートには彼が好きな小説の舞台が含まれていて、班でのルート選びの時にさり気なく誘導していたことが会話の端で知れた。
 他人に興味なさそうに見えて、実は気配り上手な人なんだと、気がついたときにはその発見が嬉しくて、誰かに言ってまわりたいような、誰にも教えたくないような、複雑な感情が私の中で渦巻いていた。
 今にして思えば、友達に相談できなかったのも、彼のことを知られたくなかったのかもしれない。
 すごく優しい人なんて知られたら、誰かにとられてしまいそうで、私はそれが嫌だったんだ。
 醜い独占欲に向き合うことになったけれど、その答えは私のなかの空白にストンとはまり込む。不思議な充足感にハッキリと気づけば、涙がこぼれそうになる。
 ――どうして、もっと早く気づかなかったんだろう。
 チョコと一緒に、気持ちを伝えていれば、もやもやした形で終わることもなかったのに。
 後悔が苦い思いと共に、込み上げてくる。でも、泣けない状況に、私の口元が半笑いの形をとる。
 桃月くんは、そんな私を見て、思い出したように鞄から小さな包みを取り出した。
「あ、春咲さん、これ――バレンタインのお返し」
 私の机に置かれたそれは私が贈ったブックカバーと色違いのものだった。そのブックカバーの内側には、一冊の文庫本が収まっている。
「……これ」
「春咲さんが好きそうかなと思う本を探してみた。あまり本は読まないって言っていたけれど、俺が話す本の話は割と興味深く聞いてくれたよね? 読書自体はそんなに嫌いってわけじゃないでしょ?」
 少し細くなった目元が優しく笑いかけてくれる。
 私が桃月くんの話に熱心に耳を傾けていたように見えたなら、それは彼が話してくれたからだろう。無意識の恋心が、彼のことを知りたがっていたからだ。
 彼とずっと一緒に居たいのかは、よくわからなかった。けれど、桃月くんの話を聞いている時間は、私の知らない本の話でも、楽しかった。
 ――ああ、そうか。
 友達の恋愛話に、私が冷めていたのは、それは私にとって他人事だったからだ。
 今なら、彼女たちの話にも熱心に耳を傾ける自分がいることがわかる。そして、私の悩みを聞いて欲しかった。
 ねぇ、こんなときはどうしたら、いいのかな。
 彼にはお返し以外の気持ちなんてないのかもしれない。それでもちゃんと、私の気持ちを知っていて貰いたいと思うんだ。
 あの日のお礼や、義理なんかじゃない。私の初めての恋の相手が、桃月くんなんだって、伝えてもいいよね?
「ありがとう、嬉しい」
 私は桃月くんのプレゼントを胸に抱いて、嬉しさを素直に打ち明けた。それから告白の言葉を少ない語彙(ごい)から引っ張り出そうとしたとき、彼は私が贈ったブックカバーを取り出して言って来た。
「それで、俺も明日からこれを人前で使おうと思うんだけど……いいかな?」
 もごもごと問いかけてきた彼の耳が少し赤くなっていて、可愛いと思ったことは、友達にも内緒にしておこう。
 そしてこの一ヵ月、桃月くんが私が贈ったチョコに込められている意味について、義理か、本命なのか、と悩まされたことを知らされたのは、私の初恋がハッピーエンドを迎えてからのことだ。

 ――惚気まじりのエピローグで、ごめんね?


                        「エピローグまで、あと少し。 完」



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