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 花、ふるる。


 雪みたいだな……。
 そんなことを思いながら、ぼんやりと視界に映る光景に目を細める。
 早咲きの薄紅色の桜の花びらが陽光を透かして、白く輝いていた。
 ふわふわ、ふわり。
 風に踊れば、それは雪のように見える。
 目の前に降ってきた白い欠片をベランダから身を乗り出し、手のひらで受け止めて、ふっと息を吹きかけた。
 ひらひら、ひらり。
 ため息にも似た吐息に、花びらは手のひらから逃げて行った。
 私の胸に溜まった憂鬱も、こんな感じで吹き飛ばせたらいいのにな。
 もしくは、本物の雪みたいに溶けちゃえばいい。
 そんなことを思っていても、時間は刻々と流れて、明日はやって来る。お別れは、直ぐそこに。
 はらはら、はらり。
 涙みたいに、花が降る。

「――優希」

 低いけど、柔らかで甘い声が「ゆき」と私の名を呼ぶ。
 私が本物の雪だったなら、きっと声の熱に溶けてしまうだろう。
 だけど、私は雪みたいに儚くはない。子供みたいにわがままな執着を胸に抱えているの。
「荷物運びを手伝いに来てくれたんじゃないわけ? ベランダで一人、お花見ですか」
 後ろから声が掛って、私は肩越しに振り返った。
 ぐるりと首を巡らせれば、六畳の部屋は既に空っぽだ。この部屋の主が最後の段ボール箱を廊下へと押し出している。
「手伝いも何も、もうほとんど荷物はないよ、チィちゃん」
 千春という名前だから、チィちゃん。
 四月から社会人になろうという人に、しかも男の人に、「ちゃん」付けはないだろうと思うけれど、十年来の習性はなかなか変えられない。
「全部運びだしましたからねー。誰かさんが手伝ってくれないから、俺一人で」
 チィちゃんは、拗ねたような口調で言ってから、形のいい唇の端で小さく笑う。
 黒眼がちの優しい目元が穏やかに和んでいるから、怒っていないのはわかる。
 第一に、チィちゃんは私に甘い。
 昔から重たい荷物を持たせてなんてくれなかった。少しでもふらつくと、危ないと言って背中を支えて、私から荷物を取り上げた。
 数日分の着替え以外の荷物は既に、あちらに送ってある。最後まで残っていたのは、本を詰め込んだ重たい箱ばかりだったから、私は邪魔にならないように部屋の片隅にいるしかなかった。
 先に送った荷物は旅行がてらにと、引越しの手伝いを買って出た私のお父さんとお母さんが、チィちゃんの家で受け取っている頃だろう。
 チィちゃんが明日から暮らすあちらは、まだ雪が残っていると電話で聞いた。
 早々に桜が咲いたこちらとの距離を実感せずにはいられない。
「役立たずで、ごめんなさい」
「冗談だろ。優希は後で、掃除機をかけるの手伝ってくれたらいいよ」
 チィちゃんの、春空のような柔らかな笑顔が私の胸に沁みる。だけど、私の中の憂鬱は雪のように溶けて流れてはくれない。
 切なさが澱のように胸の底にたまって、行き場を失い、息が詰まりそう。胸が苦しくなる。
 お別れに、悲しんでいるのは私一人みたい。
 行かないで、寂しいよ、と。
 唇からこぼれそうになる言葉を呑みこんで、私は早咲きの桜に目を戻した。
 ほろほろ、ほろり。
 泣けない私の代わりに、花が泣く。
「ここから見る桜も、今日で最後だね」
「そうなるかな。卒業式の日にはこっちに来る予定だけど」
 新生活の準備に、チィちゃんはあちらに向かう。大学の卒業式の少し前にこちらに一度戻って来て滞在する予定だから、これっきりのお別れというわけじゃない。だから、私のように寂しがってくれないのかな。
 ……寂しいと感じてくれるのなら、あちらで就職を決めずにこちらに残ってくれたはずだと思えば、チィちゃんにとっての私の存在はその程度なんだろう。
「その頃には、この桜は散っているよ。そうでしょ?」
「優希はたまには遊びに来いとか、言わないわけ? オジサンたちはいつでも帰って来いって、言ってくれたけど」
「帰りたいときに帰ってくれば?」
 気のないふりして、強がりを言う。
 帰ってきてなんて、言わないよ。行かないでって言わないように、我慢しているんだから、少しは私の気持ちを察して欲しい。
 もう十年も一緒に暮らしてきたのに、私の気持ちは何一つとして届いていない。
 ひと月前にあげたバレンタインデーのチョコレートも、毎年のように義理として受け取ったんだろう。
 チィちゃんの鈍感。馬鹿。馬鹿……。なんて、馬鹿は私かな。
 二十二歳の大人が、十七歳の子供を相手にする方がおかしい。
 ううん、世の中にはそういう関係もあり得るのかも知れないけれど、私たちは恋愛をするにはきっと互いのことを知り過ぎている。
 何しろ、十年も同じ屋根の下で暮らしてきた。
 ……十年前、ご両親が事故で亡くなって、身寄りがなく施設に預けられていたチィちゃんを、身寄りがないことを心配していたチィちゃんのお父さんから、「もしもの時には」と後見人を頼まれていた私のお父さんが引き取った。
 そうして、チィちゃんが我が家にやって来たのは十二歳のとき。私は七歳。お互い、ランドセルを背負っている小学生だった。
 男とか女とか、異性を意識することもなく、一つのお布団で眠ったこともあれば、今さら恋だ愛だなんて感情を私たちの間に持ち込むのは、チィちゃんにとって場違いなものだろう。
 私たちは幼馴染みで、血の繋がりはまったくないけれど、多分、兄妹みたいなものだ。
 バレンタインデーのチョコレートもお父さんに渡したものと同じだと思っているに違いない。
 そうして、ホワイトデーにはいつもと同じように、可愛い小箱に入ったキャンデーか、マシュマロなどのお菓子が返ってくるんだろう。
 ゆらゆら、ゆらり。
 私だけが気持ちを持て余して、一人宙ぶらりん。
「……そうするよ」
 溜息をつくように笑って、チィちゃんは私の隣に並んだ。
 狭いベランダに肩を並べて、二人でしばしお花見タイム。
 まったり、ゆったり、のんびり。
 このまま時が止まればいい、明日なんて来なければいい。
 そう願ってしまう静かな時が流れるけれど。結局、長い沈黙に耐えかねて、私は胸にくすぶっていた疑問を口にした。
「……どうして、あっちに帰ることにしたの?」
 ご両親を事故で亡くしたチィちゃんは、早春のこの季節にも雪が残っている故郷には、あまりいい思い出がない。
 お墓参りに行こうと、チィちゃんの故郷へ家族旅行を予定したけれど、出発当日の朝、チィちゃんが発作を起こした。
 発熱と嘔吐。精神的なものからくる過呼吸。
 旅行鞄を脇に置いて、玄関先から立ち上がれなくなったチィちゃんを私は背中から抱きしめて、お父さんとお母さんを大声で呼んだ。
 ご両親の事故は、チィちゃんの精神に大きな傷を残していた。
 ある意味、当然だろうと思う。
 チィちゃんのご両親は、チィちゃんの目の前で亡くなった。
 正確に言えば、チィちゃんを抱いたまま逝った。
 親子三人で横断歩道を渡っているとき、スピード違反の車が信号を無視して突っ込んできたのが、事故の原因だった。
 チィちゃんのお父さんとお母さんは、チィちゃんを抱いて庇った。二人は全身打撲に脳挫傷、引きずられたせいで遺体もかなり損傷していたと、青い顔して眠るチィちゃんの部屋の外でお父さんとお母さんが話していた。
 チィちゃんたちをはねた車は逃げようとしたらしい。結局、ハンドル操作を誤って、歩道に乗り上げ、横転する形になった。
 そんな中で、チィちゃんは奇跡的に無傷だった。ご両親が卵の殻のように、チィちゃんを守っていた。
 救急車が来て、横転した車の下から助け出されるまで、チィちゃんはご両親の腕に抱かれていた。
 溢れる血と冷たくなっていくご両親の体温を感じながら、チィちゃんは意識を失うことなく、泣いていたそうだ。
 チィちゃんは涙で曇った視界で、一部始終を目撃していたことになる。
 日常的に存在していた車が、人を殺す凶器になるところを……。
 そして、大事な人たちの命が儚く散ってしまう瞬間を……。
 その記憶が、どれだけチィちゃんを苦しめたのか、私は知っている。
 小学校の登下校、車の行き来に過剰反応しては、チィちゃんは青信号になっても横断歩道をなかなか渡れなかった。
 集団登校の際、そんなチィちゃんを皆は弱虫と笑って、私たちを置いて行った。
 臆病と恐怖が違うということを知らない子供の無知は、なんて残酷なんだろうと、今思い返しても苦しくなる。
 何も知らないうちから怯えてしまう臆病と、車という凶器の恐ろしさを知っているからこその恐怖は余りに違いすぎる。
 車という存在を目にするたびに、チィちゃんはご両親が亡くなった事故のことを思い出してしまう。
 殺すつもりがなくとも、人を殺してしまう現実が確かに存在することを考えざるをえなくなってしまう。
 身体を動かすことを忘れてしまってもしょうがないくらいの思考がチィちゃんの中で巡り巡ってしまう。
 それは弱虫と笑って切り捨てていいものじゃない。けれど、何も知らない人は皆、チィちゃんを笑う。
 私もチィちゃんの事情を知らなかったら、笑っていたのだろうか?
 自分もいつか事故に巻き込まれるかも知れない現実を考えもせずに。
 私はチィちゃん手をギュッと握って、チィちゃんが歩きだせるようになるまで、一緒に待った。
 そんな日は眠れなくて泣いているチィちゃんに付き合って、一緒のお布団にくるまった。
『大丈夫だよ、一人じゃないよ。私がいるよ。冷たくないでしょ?』
 ぎゅっと、チィちゃんの身体を抱きしめて、震える肩を温める。
『ちゃんと生きてる、生きているから、安心して』
 呪文のように、何度も何度も繰り返した。
 チィちゃんが高校生になってからは、いつまでも子供扱いしているみたいで、さすがに抱きしめることに後ろめたさを感じるようになった。
 ……ううん、違う。
 多分、あの頃から、私はチィちゃんが好きだった。だから、幼馴染みの感覚で抱擁なんてしたくなかった。
 それからは、眠れぬ夜は二人で本を読んだり、勉強したりして過ごした。それも、チィちゃんが大学生になってからは減った。
 チィちゃんが深夜のアルバイトを始めたこともあったけれど、その頃からいつまでもこのままじゃいけないと、チィちゃん自身が感じ始めていたんだろう。
 きっと、今回の帰郷も悩んだ末に、結論したことだ。
 あの事故の苦しみと決別するために、チィちゃんは自分が住んでいた故郷に戻って、過去の記憶と立ち向かうことを決めたんだろう。
「強くなりたいんだ」
 私の推測を裏付けるように、チィちゃんは言った。
 横を振り仰げば、黒い瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。
「俺も強くなりたいよ。父さんや母さんのように、大切な人を守りたいんだ」
 切実に声を響かせる。
 チィちゃんは一人で歩くことを願ったんだ。
 就職活動の際、あちらの地に足を運ぶのにも勇気がいっただろうと思う。
 大人になっても、チィちゃんの心に刻まれた苦しみは深くて、大学進学の際、通学のために車の免許を取ろうとしたけれど、やっぱり発作を起こして、断念した。
 それでもバイクの免許をとって、車道を走るようになったけれど、交通量が多いところは「まだ怖い」とため息をついては、唇を噛んでいた。
 そんなチィちゃんが悲しい記憶しか残っていない故郷に帰ろうとする。きっと、何度も踵を返そうとしただろう。指先が震えて、身体を強張らせたに違いない。
 それでも、あの地に足を踏み入れた。
 変化を求めるチィちゃんに、行かないでなんて、言えるはずがない。
「一人で大丈夫?」
 私が首を傾げて訊ねれば、チィちゃんは苦笑した。
「どうだろ? ホントいうと、怖いよ」
 ふっと伸ばされた手が私の手を掴んだ。
 今まで、手を繋いだことは何度もあった。だけど、今は繋いだ手から私の気持ちが伝わってしまいそうな気がした。
 行かないで。寂しい――そう思う心は私のわがままだ。
 私はチィちゃんのために、笑って見送らなければいけない。
 この心を知られてしまったら、駄目だ。
 逃げようと腕を引こうとする私に、チィちゃんは私の肩を掴んだ。
 引き寄せられるままに、チィちゃんの胸に抱かれる。胸板の向こうで、チィちゃんの鼓動が響く。
 嫌だよ、チィちゃん。もうこんな、幼馴染みにするような抱擁なんてしたくない。
 抱きしめるなら、私を好きだと言って。
 私を一人の女として、抱きしめて。
「離れている間に……優希が消えたら、どうしようって思うよ。父さんや母さんみたいに、ある日突然いなくなったらどうしよって、考えだしたら、怖いよ」
「私はチィちゃんのお父さんやお母さんとは違うよ」
 もう慰めるために、優しく抱きしめてあげることはできない。
 誰かの変わりなんて、なってあげられない。
 私は私として、チィちゃんの特別になりたい。
「知っているよ。優希は生きている。だから、ずっと手を繋いでいるわけにはいかないんだ。抱きしめて、束縛して、腕の中でその温もりに縋りついて、甘えていいような子供じゃない。人形じゃない」
「……チィちゃん」
「一人の女の子だよ。優希は俺にとって、一人の。たった一人の、大切な女の子だよ。だから、強くなりたい。これから先、何年も。ずっと一緒に生きていきたいから……俺は強くならなければいけないんだ」
「そのために、繋いだ手を離すのね?」
 過去の記憶に立ち向かうように、チィちゃんは私と向き合ってくれるのだと信じていい?
「ああ、いつまでも優希に手を引っ張って貰うのは、男としてカッコ悪いだろ? 一人で歩けるように、強くなりたい。そして、今度は俺が優希の手を引っ張って歩いていけるように、なりたいんだ」
 瞳を上げれば、チィちゃんが笑う。
「たった一年で、どれだけ強くなれるかわからないけれど」
「一年?」
「そう、優希はH大に志望変更しただろ」
 H大はチィちゃんの故郷にある大学だ。幾つかの志望校の中で、ここだけは行くことはないだろうと、チィちゃんが就職を決めるまでは思っていたけれど。
「それは……」
 チィちゃんが故郷に帰ると聞いて、少しでも近くに行けたらと思ったからだなんて……言っていいのかな?
 思わず顔を赤らめる私に、チィちゃんが見透かしたように笑う。
 ああ、私の気持ちなんて既に筒抜けだ。
 チィちゃんの気持ちが、今の私には筒抜けなように。
「大学に受かったら、俺のところから通えばいいよ。そのために、放っておいた実家を父さんたちが遺してくれた金で、リフォームしたんだ。オジさんたちには、ちゃんと話を通している。優希の苗字が変わるかもしれないことも」
「苗字が変わる?」
 チィちゃんの指が私の左手の指をくすぐった。
 気がつけば、薬指に銀の指輪が嵌まっている。
 これって、もしかして……。
「ホワイトデーのお返しと言いつつ、虫よけ。外さないでくれると、助かるよ。一応、アルバイト三ヶ月分をつぎ込んだ。オジさんたちもこれから一年、一人で自立できるようだったら後は優希の返答次第だって、了解してくれた。だから、優希。一年後に迎えに来るから、俺の嫁になってください」
 神妙な顔つきのチィちゃんに、私が目を瞬かせれば、
「こんなプロポーズは、駄目か? でも、情けないことに今の俺には黙ってついてこいなんて言える強さはないんだ。だから、一年も待たせることになるけれど……でも、きっと強くなるから。胸張って迎えに来られるように、がんばるから」
 不安そうなチィちゃんに、私はふるふる、ふるりと、首を横に振った。
「駄目じゃない。全然駄目じゃない。嬉しいよ。私も、チィちゃんの傍に行けるようにがんばる」
「あ、そうか。優希が合格しないことには、この話は流れるのか」
 今さら思い当ったように言うチィちゃんの意地悪に、私は怒った。
「絶対に、受かるもん」
 くすくす、くすり。
 チィちゃんは柔らかな声で笑った。
「受からなくても、攫いに来るよ。俺が勉強を教えて、一浪だけで終わらせることでオジさんたちに納得してもらうか」
「だから、がんばるんだって!」
「ああ、離れてしまうけど。お互い、がんばろう。これはその約束な?」
 チィちゃんが私の手を取り、銀の指輪に口付けた。
 私は伸びあがって、チィちゃんの首に抱きつく。
「好きだよ、優希」
 耳元で囁かれた甘い声の熱が私の中の憂鬱を溶かして、流していく。
「うん」
 今までとは違う熱で抱きしめたその肩越しに、春風にのって花が降る。
 旅立ちと始まりの季節に、はらはら、はらりと。
 優しい雪の花が、嬉し泣く。


                          「花、ふるる。 完」



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