ぐるぐる
「不幸だ……」
しみじみと呟いた俺を、弟の透は冷たく見返してきた。
「何を言っているのさ。兄さんの不幸は今に始まったことじゃないだろう?」
「それからして、不幸だ。何で、俺ばっかり不幸なんだ」
「兄さんばっかりが不幸っていうわけじゃないと思うけれど。まぁ、確かに普通の人に比べればかなり不幸だろうね。それは同情するよ。何と言っても、空き缶の代わりに死に掛けたんだもの。これ以上、情けなく悲惨な死に方っていうのは、やっぱり、ないだろうしね」
「言っておくが、俺はまだ生きているぞ」
「そうだったね。今度は死ぬかもしれないけれど。とりあえず、生還おめでとう」
合掌しながら言うか? そんなこと。
「お前なぁ──もうちょっと、いたわりのっ……痛っ!」
声を張り上げようとすると、身体のあちこちで激痛が走った。
「ここで死んだら、本当に空き缶の代わりに死んだ人になるよ」
声にならない悲鳴を上げる俺を目に止めて、透は笑って言った。
冗談にならねぇっての!
オレはベッドに寝たままの格好で、透を睨みつけた。奴はそんな俺の眼光などものともせずに、少し童顔の入った女受けのいい顔で涼しげに続けた。
「無茶しないの。怪我人なんだから、安静にしてなきゃ」
「透、お前が……」
「それにしても、とことん不幸を絵に描いたような人生だね、兄さん」
「そう、それだ。何で俺ばっかり不幸なんだ」
話を逸らされた気がしないでもなかったが、俺は提示された事実に憤る。
「そういえば、生まれた時からついてなかったんだっけ? いや、生まれる前からだった? 確か、兄さんのお母様が妊娠八ヶ月の時に家が火事に」
「隣からの飛び火でな。原因はいつだって相手側にあるっていうのに、何で俺だけ死にそうな目に会うんだ? ……いや、俺だけってことはないけど」
その際は、俺を腹に宿していたお袋が死にかけたわけで……。
「今回の事故の原因は空き缶だったね。捨てられた空き缶を猫と勘違いした愛猫家がハンドルを切り損ねて、歩道を歩いていた兄さんに車を突っ込ませた……と」
「……思い出したくもない」
呻いた俺を面白そうに見やって、透は続けた。俺の不幸人生は終わらない。
「その前は通学バスが事故って二ヶ月ほど入院していたよね? もしかして、二年生に進級して無事に高校生活を送ったのって、ひと月もないんじゃない?」
「早くも出席日数が……」
「黄色信号だね。兄さんってば、一年生の時と変わらないよね。入学式の帰りにマンションから落ちてきた植木鉢の直撃を受けて、一週間の意識不明の重体で」
「…………そんなこともあったな」
俺は遠い目で病室の窓から見える景色を眺めた。
「やっと退院したと思ったら、駅のホームから突き落とされて危うくミンチになりかけた。これは足一本の怪我で済んだけれど」
「……あれ以来、電車に乗れなくなったんだよな、俺」
いわゆる、トラウマってやつだ。
「それで松葉杖で生活していたら、その杖が折れて階段から転げ落ちたんだよね。結局、一ヶ月の入院を余儀なくされて」
「それで一学期は殆ど、出られなくて……夏休みは補習で潰れた」
一年前の夏の青空も、焼けるような日差しの暑さも記憶にない。補習用に出されたプリントを片付けるのに、費やされた。
「そうそう。で、夏は夏で部活動の夏合宿の花火大会で、火達磨になって」
「よく生きていたよな……俺」
次々とあげられる不幸のオンパレードに、体験してきた俺は、本当によく生きていられたものだと感慨にふける。
「火達磨に──実際は足にちょっと火傷を負っただけだけれど。それを聞いた時は、僕としてはどうしようかと思ったよ」
「透……お前、俺のことを心配してくれ……」
少し感激した俺は、透の次の言葉に自分の甘さを知る。
「だって、兄さんってば顔だけが取り柄なのに。それも失くしちゃったら、この先、お先真っ暗じゃない? その時点で早くも留年か、って噂されていたし」
「顔だけが取り柄っていうのは余計だ。これでも、一応、進学校に通っているんだぞ」
ちなみに、透もこの春、俺と同じ高校に進学してきた。首席合格で、新入生代表挨拶なんぞしてくれた。
「授業に出られないせいで、最後のほうから数えたほうが早いけどね」
「俺のせいなのか? 全て? ──っ痛い」
「だから、無茶しないの。全治三ヶ月の重傷なんだから。内臓なんてグチャグチャだったって話だよ。幸いに、生命維持器官は無事だっていうのだから、本当のところ、不幸だか幸運だかわからないよね? それに顔も無傷で良かったよ」
「ちっ、顔なんてどうでもいいんだよ」
「良くはないよ。顔だけしか、兄さんには残されていないんだから」
「透……お前、言っていること、結構、酷いぞ?」
「そう? でも、本当のことでしょ? 去年はその後、腕の骨折だけで比較的、授業に出られたおかげで留年は免れたけれど。今年は今度の事故で、出席日数が足りないかもしれないんだから。先生たちが事情を酌んで、テストの点数が良かったら大目に見てくれると言っても、その肝心のテストは赤点間違いなしじゃない」
「まだ、わからんだろうっ! 決め付けるな」
叫んだ途端に、ぐぉぉぉぉっ! また、激痛が。
ベッドの上でのた打ち回る俺を無視して、透は言った。
「こうなったら、女性教師を口説き落として成績に花丸をつけてもらうしか、留年を免れる方法はないんだよ」
「そこまで俺を貶めるか、お前は?」
無慈悲な弟に呆れる俺を余所に、透は指折り数え始めた。
「英語と数学と化学、兄さんの嫌いな科目って、みんな女性教師じゃない。やったね、これならなんとか留年は免れそうだよ」
「俺の年の倍の教員歴を持っているぞ、みんな」
「そんなの努力と根性でカバーするんだよ。大丈夫、兄さんの顔ならちょっとガードが固くったって、にっこり笑えばコロリと態度を変えるって。チョロイよ」
「俺が言いたいのはそういうことじゃなくって……」
俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。
透がこっちの言い分を聞きやしないのは目に見えていた。
長年の付き合いで嫌になるくらいに思い知らされた。愛想の良い表とは裏腹に、自己中心的な奴なのだ、この弟は。
面白ければ兄貴を苛めるのも、何とも思わない。
年上の男にまで天使みたいに可愛いと言わせる、母さん似の愛らしい笑顔を見せるけれど、心の中では何を企んでいることか。
透の猫かぶりは周囲に悟らせない徹底振りで、透の仕打ちを誰かに訴えても「何言っているんだ、お前は」で終わってしまう。
多分、透の本性を知っているのは俺だけだろう。
母さんは透を産んだだけあって、少しは察しているかも知れないが、親父なんて騙されまくりだ。透にねだられて、この間もパソコンを買ってやっていた。
「長男の俺には何も買ってくれないのに」と言ったら、「お前の入院費でどれだけの大枚が飛んだと思っているんだ」なんて返されて、黙り込んだ俺だったが……。
ん? ちょっと待て、俺の事故は大抵、加害者がいるから、入院費はそちら持ちであんまり懐は痛まないんじゃないか?
まあ、実の息子と再婚相手の息子。家族関係を円滑にしたいなら、やっぱり、再婚相手の息子か。実の息子はグレている暇なんてないほど、災難に遭いまくりだからな。
***
──と、兄弟の(俺と透は親の再婚で兄弟になったので、実質、血の繋がりはない)微笑ましくもなんともない会話の発端は、昨日の通学時に遡る。
バスの事故に巻き込まれ、約二ヶ月の入院を終えての、復帰第一日だ。結局、俺は事故のトラウマをねじ伏せながらバス通学をしていた。
それはなぜかと言えば、一年生のときは電車通学をしていたが、ホームからの転落事故があって以来、電車に乗るのが怖くなってしまったのだ。
だからと、バスなら大丈夫かと言えば、この春にバスの運転手の居眠り運転による横転事故を経験していたわけで、ハッキリ言って電車もバスも遠慮したい。しかし、俺の家から学校まではかなりの距離があるので、徒歩は難しい。自転車通学は以前、遅くなった夜の帰り道で無灯火運転の末、車道から外れ、畑の中に突っ込んだ。泥まみれで帰った俺を見て、母さんが卒倒してからは自重している。
それで電車とバスだが、事故のデカさから言えば、ホームからの転落事故なんてたいしたことはない。あれは俺の足一本で済んだのだから。
バス事故のほうは死者まで出した大事故だった。
しかし、朝のラッシュに日々、命の危険性を感じるより、バスは事故の記憶が新しい分、運転手も注意するだろう。再発の可能性はバス事故のほうが確率的に低いと思われた。
「兄さん、降りないの?」
透が出口に向かいながら、まだ座席に座ったままの俺を振り返った。
俺は我に返って、慌てて透の後を追う。
バスが排気ガスを吐き出して去ると、透は呆れたような声を出した。
「二ヵ月も学校に行っていなかったからって、自分が降りるバス停を忘れるかな、普通」
「ちよっと、考え事をしていただけだろ?」
全治三ヵ月の怪我を二ヵ月で治した俺は、今日は久々の学校だった。
確かに久しぶりだったこともあって、緊張していた。何度もバスの運賃を確かめたりしていたけれど……。
降りるバス停を忘れたわけじゃない。ちょっとド忘れしただけだ。
内心で言い訳がましいことを述べながら──誰に? ──俺は透を置いて、歩き出す。
「本当に大丈夫かな? 何なら、教室まで送っていこうか?」
要らぬ世話だとわかっているだろうに、透はわざわざそんなことを言う。ホント、人の神経を逆撫でることに関しては天才的だな、こいつは。
それでイチイチ腹を立てるのは大人気ないから、平静を装う俺だけど。ホントは短気なんだぜ、俺は。
母さんの手前、仲のいい兄弟をやって見せているけど。
「要らん。教室ぐらいはちゃんと覚えている」
声が刺々しくなってしまうのは若さ故か。なんてったって、俺もまだ十六歳だもんな。
「僕が心配しているのは、また何かの事故に巻き込まれるんじゃないかって、ことなんだけど」
「そのときはお前がいたって、どうしようもないだろう? 巻き込まれるものは巻き込まれてしまうんだ」
過去、二十以上の経験に照らし合わせて、俺はキッパリ、ハッキリ、スッパリと言い切った。
「まあ、そうなんだけど。……悟っちゃっているね、兄さん」
透の後半のセリフを無視して──こんなことを悟って、どうするんだ? ──返す。
「要らん世話はしなくていい。大体、学校まで目と鼻の先だぞ。まさか、こんな朝っぱらから居眠り運転をしている奴もいねぇだろう」
偏見に満ちたことをぶちまける俺に、透はゆるゆると首を振った。
「わかっていないな、兄さんは」
「何だ?」
「交通事故だけが災難じゃないよ、兄さん。現に、小学校のとき、廊下を歩いていてグランドから飛んできたボールがガラス窓を割ってさ。ガラスをハリネズミみたいに身体に突き刺して、救急車に運ばれたのは他ならぬ、兄さんだったじゃない」
「お前は……どうして、事細かに説明するんだ? 思い出してしまうじゃないか」
げんなりと、俺は呻いた。
割れたガラスが腕に突き刺さったときの感触は、思い出して楽しいものではない。
その破片がナイフのように身体のあちこちに刺さった図は、想像するだけでも恐ろしい。幸いにも、俺自身が被害者だったので、悲惨な姿を見ることはなかったわけだが。
「何にしても、十分すぎるほど、気をつけなきゃ駄目だよ。兄さんはもしかしたら、地上最悪の災難男かもしれない」
「何だ、それは……」
イチイチ引っ掛かる言い方をする弟だ。俺の反応を見ながら言葉を選ぶところが小憎らしい。
「世界一不運な男っていうより、何かカッコいいでしょ? 響きかさぁ」
……そうか? そういう問題じゃねぇと思うが。
絶句する俺に気付かずに、透は第二候補を提示した。
「嫌なら、世界一の災難男っていうのにしようか。ちょっと言葉の響きがダサイんだけど」
「……だから、そういう問題じゃなく」
弟の脳味噌の中を一度見てみたい欲求に駆られながら、俺は透に視線を返した。
「俺が世界一の不運だとは決まっていないだろ?」
「でも、世界一不運じゃないとも限らないと思うよ」
「そんなに俺を世界一の不運男にしたいのか?」
「ええっ? だって二番よりは一番のほうが凄いじゃない」
「馬鹿か、お前はっ! この世の中に不運で世界一になりたい奴なんぞ、いるわけねぇだろうが。言っておくが、俺は不運で世界一になりなくないっ!」
拳を握り締め、俺は力説した。
何の因果か、生まれてから十六年余りの間に死に掛けたこと、五回。実際に死んだこと、二回ある──心臓が止まったらしい。一瞬だったらしいが。
この人生を振り返って、確かに世界で一番不運なんじゃねぇか? と思ったことはある。
けれど、それを認めてはならない。認めてしまったら、俺は世界一不運な人生を歩まなければならなくなってしまうではないかっ!
別にそんな義務なんてないだろうが、何となくそんな気になってしまうのだ。俺という人間は。
最近じゃ、自分でも災難男だなー、と思っては災難に遭うことをある意味、諦めてしまっている。
これではいかんと思うのだが、災難はお構いなしにやって来る。
そう、この瞬間にも……災厄が俺を手招いているかもしれない。
そう思った瞬間、前を歩いていた奴が手にしていた空き缶を歩道に捨てた。
カランコロンとアスファルトに空き缶が転がる音とともに、キキキッーという急ブレーキをかける音が響いて、ガードレールの隙間から黒い車体が突っ込んでくる光景が目の前に迫ったかと思えば――俺を跳ね飛ばしやがったっ!
そして、集中治療室を出た俺が運び込まれた個室の天井には、どこかで見たような染みがあって、記憶を辿ればなんてことはない、前日に、退院するまで厄介になっていた部屋だったというわけだ。
***
クスクスという笑い声とナースシューズの廊下を歩く音が聞こえなくなって――検診に来た看護師は、俺たち兄弟の会話を立ち聞きしていたらしい――透は思い出したように、声を上げた。
「あ、そうだ。兄さんに聞きたいことがあったんだ」
「何だ?」
「着替えとか、持ってくるのに兄さんの部屋に入ったんだけど……」
透は鞄の中から、一冊の本を取り出した。それは受験生に必須の参考書。ただ、表紙には、べったりと黒い染みがついていた。
「……何だ、それ」
「やっぱり、兄さんのじゃないよね?」
透は既に確信しているような口調で言った。
「違う」
どこの世の中に、留年に恐れおののいている高二生が、大学受験用の参考書なんて持っているんだよ? (いや、いるかもしんねぇけど)受験より、進級だろう? 当面の目的は。
「……別の人のを間違えて、持って帰ってきたみたいだね、母さん」
「それ……」
「この間のバスの事故のとき、兄さんのものじゃないかって、お医者さんが。兄さんが握っていたっていうから、母さんも確認せずに持ってきたみたい」
「…………」
バスの横転事故に巻き込まれた俺は、意識不明で救急車によって、この病院に運ばれた。そのときに、俺が持っていたってことか。
曖昧な事故当時の記憶を探る。
「……ああ、それ」
「誰のものか、わかるの? わかるなら、返しておくけど」
「うん。えーと、お前も知っているだろ、三年の……」
名前が直ぐに出てこない。えーと、何と言ったか。
考え込む俺に、透は慎重にページを剥がしながら――血糊でくっ付いてしまっている――中身を確認する。
「どうして、兄さんがこれを持っていたの」
「ああ、あの日、バスの中で拾ったんだ」
***
事故の日、透は日直だからと一本、早いバスに乗って登校していたために難を逃れていた。何故? そんなタイミングで俺だけ、事故に会うのか。
まあ、兄弟二人で事故に遭っていたら、母さんはショック死しかねないだろうし、親父は禿げるだろう。良かったといえば良かったのか?
というわけで、俺は一人でバスに乗っていた。乗客は俺と同じ学校の生徒が五、六人。特に会話を交わすという関係ではないが、顔見知り程度にはなっていた。
俺はいつもの定位置でバスの振動に揺れていた。肘掛に腕を掛け、背もたれに完全に背中を預けていると、何だか眠くなってくる。
学校まで距離があるので、登校時間は早い。そうなってくると、早起きは必須だし。まあ、朝っぱらから眠くなってもしょうがない。いい天気だったし、当日は。運転手までもが眠ってしまったのはどうかと思うけどな。
そんなところで、俺があくびをこぼした瞬間、前の席からバサリと何かを落とすような音がした。
ん? と、通路に首を出してみれば、足元に参考書が落ちていたわけだ。前列の客が落としたらしい。ちょいと、手を伸ばして参考書を拾い上げた俺は、前の座席を覗き込んだ。
参考書の持ち主はコクリと首を泳がせながら、眠っていた。
果てさて、どうしたものかと思案する。学校まではもう暫く時間がある。このまま寝かせてやるべきか、どうか。
そう考えていると、人の気配に気付いたらしい。メガネのレンズ越しに、薄目を開けて参考書の主は俺を見た。
***
「ああ、そうだ。……確か、高遠」
思い出した名前を俺が口にするのと、透がバリッと参考書の表紙を破いたのは同時だった。
「あ、何やってんだよ、人のものを」
「……くっついて、剥がれなかったんだよ。それより、高遠?」
「そう、お前も知っているだろ? バスでよく一緒になる三年の」
「高遠先輩……?」
「そう。その人のだよ」
***
高遠は一瞬、胡散臭そうに俺を見た。
名前は知っていた。学校では有名だ。常に成績トップの秀才。東大確実だとか言われている、学校期待の星。
「……何?」
高遠はメガネの奥で目を細め、警戒もあらわな低い声で問いかけてくる。
「あの、これ、落ちて」
俺は言い訳するように参考書を見せた。すると、高遠は「ああ」と嘆息するように呟いて、メガネを取った。あふ、と小さなあくびをして、目尻に浮かんだ涙を指で拭う。
色白の肌、目元を微かに青く染めているくまに、俺は気付いて言っていた。
「大変ですね」
「え、何が?」
メガネを掛け直すと、高遠は不思議そうに小首を傾げてきた。
「勉強。遅くまで、やっているんでしょう?」
「ああ……でも、やりたいことがあるから」
微かに笑う、その笑顔には苦労なんて、大したことはないと言っているようだった。
何だか、凄いと感心してしまった。俺は日々、出席日数を稼ぐのと、留年回避に精一杯だっていうのに。
「ありがとう……」
参考書を受け取るために伸ばしてきた手は、結局、そのまま空振りした。
バスが横転したんだ。
***
「高遠先輩の……」
透が神妙な面持ちで、参考書に目を落とす。開いたページには書き込みが多々あった。
高遠が何を目指していたのか、わからない。けれど、将来と向き合って、努力をしていた後がクッキリとそこに見える。
「返しといてくれよ、それ。汚れてしまっているが……」
「兄さん、……忘れたの?」
「えっ?」
「……高遠先輩は亡くなっているよ、あの事故で」
「……何、言って……」
俺は言葉に詰まった。何を言っているんだ? という問いかけが、それこそ、何を言っているんだ? だ。
だって……俺は見たんだから。
***
バスの横転に座席から腰を上げていた俺は、勢いよく投げ出された。まるでボールのように翻弄される身体は天井部に、背中を打ちつけ、横敷きになった反対側の座席へと転がる。あちこちに身体を打ち付けては、割れたガラスで傷ついた肌に熱を感じる。
痛いと、そう自覚するより、身体が痺れて俺は身動きができなかった。
でも、目を見開いて現状を見極めようとした視界に飛び込んできたのは……。
ひしゃげた窓枠を胸に突き刺して、絶命している高遠の姿だった。
***
「兄さんも事故の新聞を見たでしょう? 先輩は歪んだ車体の一部で胸を突き刺して……即死だって」
透が言うとおり、意識が戻った俺は、新聞で自分が遭遇した事故の大きさを確認していた。死傷者も出た惨事は一面を飾り、死者は顔写真まで載っていた。
丸枠にメガネを掛けた高遠の写真を俺は確認していた。
それだけならともかく、高遠が死んだ姿もこの目にしていたのに、何で……俺は。
あいつの死をなかったことにしてしまったのか。
二ヶ月前の事故はトラウマとなって、昨日、登校する際に俺を苦しめたというのに。
情けないことに、バスに乗る瞬間、思わず悲鳴を上げてしまったというのに。
「だって……」
俺は自覚もないまま、口走る。
「じゃあ、何で、俺は生きてるんだっ?」
叫んだ俺を、透は驚いた顔で見つめ返してきた。
「何、言っているの?」
「だって……」
何で、俺は生きているのか?
今まで、あえて触れなかったことが、もう、どうしようもなく思考を支配する。
何で、俺は生きているのか?
だって、俺には何もないのに……。
「何で、俺だけ生き残るんだ?」
「兄さん?」
「お袋も高遠も死んだ。なのに、俺は生き残って……」
お袋が死んだのは俺のせいだった。
八ヶ月のとき、隣からの飛び火でうちが火事になったとき、お袋は体調を崩してそのまま入院。出産は危ぶまれた。
医者は母体と赤ん坊、どっちを取るのかと二つの選択肢を突き出してきた。
親父はお袋の命を選ぼうとした。まだ生まれていない命なら……。そう言い訳しながら。
でも、お袋は赤ん坊を優先してくれ、と医者に頼んだ。
結果、俺は無事に生まれたが、お袋はその二日後に死んだ。
何を思って、お袋が俺を産み落としたのか、わからない。
それが母親というものなのか?
でも、俺に、お袋の命を奪ってまで、ここに生きる価値はあったのか?
そう考えると、いつも思考迷路にはまり込む。
親父の選択のほうが正しかったんじゃないかって。
高遠のことにしても、そう。
あいつには何か、夢があった。目標があった。十八年の人生を捧げて、それを叶えようと努力してきたあいつは……死んだ。
十六年の人生で何度も死に掛けながら、生き延びた俺には将来の展望なんて、何もない。
もし、願いが叶うなら平和な日常が欲しい。そんなことばかり、望んでいる。
つまらない願望。つまらない人生。
「……俺は何も持っていないのに」
俺は呻いた。透の前で一応、兄貴としての立場を考え、虚勢を張ってきたけれど。
そんなこと構っていられないくらいに、思考はグチャグチャだ。
思う端から、声になる。
「……透、俺は生きてていいのか?」
自分で見つけられない答えを透に求めた。
透は眉をひそめて、俺を見つめてきた。
「何を言い出すの?」
「だって、俺はこんなに死にそうな目にばかりあって。けれど、俺には何もないんだ。夢も持っていなければ、未来に期待しているわけでもない。ただ平凡に生きたい。そんなつまらないことばかり考えている。そんな俺が生きてていいのか、わからなくなった」
……高遠の死に、罪悪感を覚える。
何も持っていないことの罪。
「頭を打って、どっかおかしくなったんじゃないの?」
「かもしれない。……多分、そうなんだろう。今まで何とも思っていなかった。けど、気になりだしたらしょうがないんだ。なあ、俺は生きてていいのか?」
縋るように見上げた俺に、透は真面目な顔をした。
「あのね、平凡であることが悪いわけないでしょう? それを悪いことだと言い出したら、僕はどうなっちゃうのさ。僕なんて、兄さんを苛めることだけが唯一の生きがいなんだから」
と、透は意味もなく胸を張る。
ちょっと、待て。それは聞き捨てならんぞ。
「――なんて、冗談だけど」
フッと鼻から息を吐き出すようにして、笑う。
冗談か? ……透、お前、目が笑ってないぞ?
「平凡な人生が駄目だなんて、どうしてそんな疑問を持っちゃうのか、僕には不思議だよ。大体、世の中の大半の人がそれこそ、平凡な人生を送っていると思うよ。それは兄さんも認めるよね? 父さんも母さんも、そりゃ大事な人と死に別れている経験を持つけれど、平凡な中年のオジサンとオバサンだよ。そんな二人のことも、平凡に生きているというだけで、悪いことをしていると思うの?」
「いや……そんなことは……ない」
「つまり、そういうことでしょう? 兄さんが望む平凡な人生っていうのは、決して悪いことじゃないよ」
「……でも、俺のせいでお袋は死んだ。一人の人間を犠牲にした俺が、こんな……何もない生き方をしていていいのかよ?」
「…………兄さん、そんなこと、気にしていたの?」
透の意外そうな声。
それはとてもクダラナイことだと言わんばかりの反応に、俺は透を睨みつけた。気にならない方がおかしいじゃないか。
「本当に頭を打って、馬鹿になっちゃったんだね」
しみじみと言いやがる透に、俺は思わず上体を起こした。
「――透っ!」
「兄さん、兄さんは自分の名前の由来を忘れちゃったの?」
「俺の名前なんて……」
何が関係あるんだ? そう言いかけた声を遮って、告げられたのは俺の名前。
「……恵。この字ってメグミっても呼ぶよね。この名前、兄さんのお母様がつけたんでしょう? 兄さん、この字の意味、考えてみた?」
「意味?」
「沢山の幸運に恵まれますように――。昔、小学校の作文の宿題で、あったじゃない。名前の由来を調べるっていうの」
「そんなの……」
覚えていない。そう言った俺に、透は呆れたように息を吐く。
「忘れちゃったの? 父さんにその話を聞いてた兄さんの隣で、僕なんて感動して泣いちゃったっていうのに」
「感動して泣くような性格だったか、お前」
「人間成長するからね」
うそぶいて、透は笑った。
「つまり、幸せになって、っていうことでしょう? それは他人から見た幸せじゃなくて、兄さん自身の幸せのことだよ。他の誰の目にも、平凡でクダラナイ人生でも、兄さんにとって幸せなら、それでいいんじゃないかな。少なくとも、お母様はそれを願ったと思うよ。だから、兄さんが幸せを感じて生きているのなら、それはお母様の想いに応えることになるんじゃない?」
「……………………」
「お母様は兄さんが幸せだと感じているのなら、それでいいんだと思う。ただ一つの、その願いを兄さんに託して、お母様は自分の命より兄さんを選んで生んだんだよ。そりゃね、命の重さとか考え出すと、ちょっとシンドイかもしれないけど。兄さんはそのままでいいと思うよ。平凡でもね」
「俺……」
生きていても良いのか?
何も持っていないけれど……。それでも……。
「それにね、僕や母さん、父さんは、兄さんが死んだら悲しいよ。そりゃ、兄さんが事故に遭うたびに、母さんは寿命を確実に縮めているだろうし、父さんは髪の毛がさらに薄くなって――色々、考えるところはあるだろうけど」
…………考えることって、何だ?
「それでも、兄さんが生きている、無事だって――まあ、怪我はしているけれど――知らせを聞くと、良かったって思うんだよ。僕だって、兄さんがいなければ、こんな軽口だって叩けやしない」
そう言って、透は含みのある笑みを見せた。
「やっぱり、兄さんは世界一の災難男だね」
「お前なぁっ!」
フフフッと笑って、透は病室の窓辺に寄った。
「そして、世界一幸運に恵まれた男だと思うよ? 何度も死に掛けて、その度に生き残っているんだから……ねぇ、恵兄さん」
そう俺の名前を口にして振り返った透に、俺は不覚にも涙した。
でも……悔しいから、窓の外から差し込んだ光が眩しかったことにしておこう。
「ぐるぐる 完」