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 灰と散りても


 ――この魔女、火刑に処す。

 宣告の声が壇上から響いた。静寂という水面に小石を投げ入れたかのようにざわめきを誘う。
 自らに告げられた言葉に対して、わたくし以外に抗弁してくれたのは、長年仕えてくれた侍女だった。彼女は傍聴席から立ち上がり悲鳴のように叫んだ。
奸策(かんさく)ですっ! これは王妃様を陥れようとする者の企みによるものっ!」
 波紋が大きな波を呼ぶが如く、聖堂に混乱を招く。
 宮廷に仕える重臣たちの顔には、何をいまさらと言いたげな表情と、いまだに現状を理解できていない困惑が浮かんでいた。
 一国の王妃が――異端審問にかけられ、魔女と判決が下った。
 その事実をどう判断すべきなのか、知らぬ者はいまい。ただ、それをどう受け止めるべきか、決めかねているのだろう。 
 この国において、魔女は不吉な存在。災いを呼び、いずれは国を滅ぼすとまで言われ、存在自体が罪だとされている。
 魔女と認定されれば、火あぶりの刑によって処されるのが定石。
 その例に基づけば、――わたくしは火に焼かれるのだ。
 この国の王妃が……聖母と皆から崇められたわたくしが……。
「神にお仕えする方が愚かしい企みの片棒を担ぐなど、あってはならぬことです。ああっ、どうか、その判決を撤回なさってくださいませっ!」
 訴える彼女の声に、応えたのは冷徹な声。
「魔女を庇えば、そなたも同罪と見なすぞ」
 わたくしを魔女と認定した教皇が侍女へと鋭い視線を投げる。その視線を受けて、警備にあたっていた騎士が侍女を聖堂の外へと連れ出す。判決の場に集まった者たちの視線は好奇を孕み一時、わたくしから逸れた。
 変わらずにわたくしを見つめているのは、薔薇窓の下に置かれた神の彫像。古の神々を駆逐して、この国の――果ては大陸の人心を掌握した唯一神。その威光はまるで天に輝く太陽のようで、神の前では王家や貴族の権威もいまや霞んで見えるほど。
 そんな唯一神の支配下に属さぬ者たちを、神の教えを説く聖職者たちは悪魔や魔女と呼んだ。悪魔や魔女は、神の力を変じて持っていると言われている。
 わたくしが幼き頃から持っていた神の力――人を癒す力は、神の奇跡と呼ばれ、わたくしは聖母と謳われた。しかし、現在では神の名を(かた)った(ゆる)しがたき行為と見なされ、魔女の烙印を押された。
 穢れしわたくしを見下ろす形で唯一神が君臨し、その足元に置かれた壇上には、神の代弁者である教皇がこの裁判を仕切っている。そして教皇の斜め後ろ、一段高い場所に玉座を据え、傍観者と化した王をわたくしは見上げた。
 国を背負う労に、幾ばくか年より上に見られるが、美貌の青年は静かに藍色の瞳でわたくしを睥睨し、ゆっくりと玉座から立った。物も言わずに踵を返し、聖堂から去れば、それは裁判の終わりを告げた。
「刑は三日後に執り行うこととする」
 教皇が処刑の日取りを言い放つや、わたくしの腕を牢番の看守が掴む。荒々しい力で抵抗むなしく引っ張られ、わたくしは人々の侮蔑の視線に晒されながら、聖堂から連れ出された後、石造りの地下牢へと放り込まれた。
 その牢は三方向、石を積み上げていた。鉄格子の側は石を少しばかり積み上げた形で、半地下となっている。入口から突き落とされるような形で、わたくしは牢へと入れられた。
 湿気によって黴臭く淀んだ空気が支配する牢は暗く冷ややかで、床に敷かれた藁は倒れたわたくしの肌をちくちくと突き刺した。
 両手をついて、上半身を起こす頃には看守は鉄格子を閉じ出て行った。魔女であるわたくしに関わるのが嫌なのであろう。
 鉄格子の向こうに置かれた小さな卓に乗せられたランプだけが唯一の光源だった。
 闇を塗り込めたなかで小さく燃えるランプの灯りは、時の感覚を麻痺させる。
 彼の人の到来が、予想よりも早かったのか、遅かったのか、よくわからないままに石床に響いた靴音にわたくしは顔を上げた。
 片手に蝋燭(ろうそく)を灯した蜀台を持った王は鉄格子の向こうから、わたくしを黙って見つめた。
 望まれるままに宮廷に入り、右も左もわからなかった十五のわたくしを愛し慈しんでくれた藍色の瞳は、揺れる小さな炎を映してもなお暗く沈んでいるように見えた。
 この方と夫婦の契りを結んでから、五年になるだろうか。
 わたくしより二つ年上だった少年王は人懐っこい笑みで、わたくしの緊張を解いてくれた。その優しさに心惹かれるのに、さして時間を要しなかったことは覚えている。
 あの穏やかだった面差しは目元を縁取る蒼い影が濃さを増し、頬はやつれ、顎は鋭さを増した。仮面のような無表情でナイフの刃のような銀色の冷たさが、秀麗な顔を飾っている。
 いつの頃からだろう、わたくしに対し、王の面から笑みが絶えたのは……。
 それでもわたくしはいつだって、微笑んでいた。
 今も――微笑もう。
 例え、王がわたくしをこの現状から救ってくださらないことを知っていても、わたくしは微笑むのだろう。
 年若いままに王位に就いた彼の人の威光を世に知らしめるため、奇跡の力を持っていたわたくしは王の花嫁に選ばれた。
 そして王の屈託のない笑顔に心を支配されたときから、わたくしは王のために生きることを胸の奥で決めた。
 悲しいことに、わたくしの決断と王の願いは今日まですれ違ってしまったが、あの日の決心は例え火に焼かれようと、変わらない。
 王がわたくしの死を望むのならば、わたくしは王の望みのままに、灰になろう。
 王の藍色の視線を前に、わたくしは唇にそっと笑みを宿す。
「――何故」
 温もりを感じさせない無機質な声が小さく問う。地下牢の冷たい石壁が、声を反響させた。
「何故、もう二度とあの力を使わぬと約束しなかった? さすれば、改心を認められ、命だけは保証されたであろうに」
 そう結論を出す王は、わたくしが何のために王の花嫁に選ばれたのか、わかっておられぬのだろう。
 わたくしからあの力を奪えば、わたくしが王のお傍に居続けることは叶わぬのだということをおわかりになっていない。
「それほどまで、そなたは私を拒むのか」
 悲痛な王の声に、わたくしは抗弁すべき言葉を喉の奥にしまった。
 応える代わりに、静かに微笑む。
 拒むのではなく、王を愛しているからこそ、わたくしは最後まで神の奇跡を施す聖母であらねばならなかった。
 人を支配できるのは唯一神だけだという――今や大陸全土を染めつつある宗教の教えにより、民衆が王家による支配の歴史に疑問を抱き始めていることを王は知らない。
 王家が神に選ばれた存在だと知らしめるため、わたくしが王の花嫁に選ばれた事実も、王にとっては花嫁候補の一人がたまたまわたくしであっただけのことなのだろう。
 右も左もわからなかったのは、わたくしだけではなかった。
 王もまた幼き時に王位に就き、重臣たちの意見を頼りに動く駒でしかなかったのだろう。
 だからこそ、わたくしたちは互いを求め合った。
 王の前ではわたくしはただの女であり、わたくしにとって王はわたくしの全てを捧げる殿方であった。
 二人だけの世界に生きられたのならば、わたくしは神の力など捨ててしまえただろう。
 だけれど、外の世界はわたくしたちを放っておいてはくれなかった。
 王は王であり――わたくしは王妃であった。
 国は民によって成り立ち、王は国に生かされる。
 奸策と侍女が訴えたように、企みはあった。王に己が娘を嫁がせたいと考えた重臣の奸計がわたくしを魔女へと貶めた。
 嫁いで二年目に、わたくしは王の御子を宿し、死なせてしまった。その際に、わたくし自身も生死の境を彷徨ったらしい。
 わたくしはその折に一度、死んだのだという。そして、悪魔と契約を交わし、魔女として生まれ変わったのだと――審判では語られた。
 あの日を境に変わったものがあったとしたら、王が神を信じなくなったことだろう。血まみれの御子の亡骸を抱いて、王は神を呪ったのだ。
 もう一つはいずれ、わたくしの身にこのような災いが降りかかるという確信が生まれたことだろう。
 毒がもたらした熱が、わたくしの子宮と御子を焼いたときから、王には新たな妃が必要だった。そのために企みは静かに進行し、今日に実を結んだ。
 そのような後ろ暗き背景を、重臣たちに信頼を置く王は知らない。知ってはならないのだと、わたくしは隠した。
 王が信頼に疑念を抱き、企みを看破すれば、わたくしのみならず王の身も危うくする。宮廷にとって、王が御しやすい駒である限り、その身は安全だ。
 例え、一人が邪な野望で王の命を狙おうとも、他の重臣たちが王をお守りくださる。
 彼らにとって、都合のよい王であったのならば……だけど、王はわたくしをただ一人の妃として、新たな花嫁を迎えよという重臣たちの要求を拒んだ。
 聖母として神の力を使い、人心を宮廷に集められる間はわたくしにも価値はあった。
 そして王は、わたくしだけを愛してくださったが、わたくしが聖母と崇められるのを嫌った。神を信じなくなった王は、力を使うことによって疲弊するわたくしの身を案じ、その力を使うなと、禁じられた。
 だが、力を使わず、御子を生めない女が宮廷において何の役に立とう? 重臣たちにとってわたくしの存在が厄介な荷物になることは目に見えていた。
 だからわたくしは王の意に首を振り、王妃で在り続けるために力を使った。
 望んだのは一刻でも長く、王のお傍に居たい。王のお役に立ちたいという、願いのために。
 だが、わたくしが聖母として力を使えば使うほど、わたくしと王の想いは乖離していき、王はわたくしの心を信じられなくなった。
 王の言葉に従わず、魔女という疑いを掛けられても抗弁もせず、運命に身を委ねるわたくしは死して、王から逃れようとしているのだ――と。
 王は奥歯をぎりと噛みしめ、それから一歩前に出て、鉄格子を掴んだ。強く握りしめた手の甲に青い血管が浮かび上がる。
「奇跡を信じているのか、神がそなたを救うと」
 歪んだ唇から、憎悪を感じさせる声で問う。
 神を信じなくなった王にしてみれば、わたくしが神の力を使い続けることは裏切りであったのだろう。
 わたくしが王の言葉に抗い、力を使い続けたことで、どれほど王が傷ついたか。
 お傍に居たいという我儘な願いのために、わたくしは王の気遣いを踏みにじった。
 そして、裏切りに堪えられなくなった王は心を狂わせた。
「神など、いるものかっ!」
 怨嗟の声を叩きつけて、王はわたくしを睨む。
「例え、神がいたとしてもそなたは「魔女」だ。悪しき者を救いはしない」
 その一言が、他でもなく裁判で王が口を噤んだ理由。
「誰もそなたを救いはしない――誰ひとりも」
 そのような働きかけをする者が居たとしも、許しはしないと、その目は語っていた。
 審判の場で、王がわたくしの命の嘆願を口にしなかったときから、王の心はわかっていた。
 王はわたくしの死をお望みだ。神に奪われるのなら、わたくしを殺してしまいたいと願っている。
 それが痛いほどわかるから、わたくしはそっと微笑んだ。これほどまでに王に愛されたことを嬉しがるわたくしも、王と同様に狂っているのだろう。
「そなたは永遠に我のものだ。誰にも奪わせない」
 死という形で、わたくしは永遠に王のものとなる。この身亡くして、灰と変わることで、王はわたくしの魂を手に入れる。
「――誰にも奪わせない」
 王は最後の宣告を口にして、格子に絡めていた指を突き離すようにして、身体を反転させた。
 二度と王を裏切らず、その胸に傷として、残り続ける。
 それこそが、今ではわたくしの願いだと、王は御存じないだろう。
 灰になれば、わたくしは聖母でも、魔女でもなくただ一人の女として、王を愛すことができる。
 叶うことなら、初めから一人の女として、王と出会い王に愛されたかった。しかし宮廷とは縁のない下級貴族の娘であったわたくしが、どうすれば王と出会えたというのだろう。
 この世に運命というものがあるのならば、わたくしが奇跡の力を持った事実が王に出会うための定めであったのだろう。
 その先に待ち受けるのが、我が身を焼く業火であったとしても、出会えたことを幸いとわたくしはこの運命の悪戯に感謝するのだ。
 果たして、感謝すべき相手が神であるのか、それとも悪魔であるのかわからないけれど、決定された運命を前にすれば些末な問題のように思う。
「――王の御心のままに」
 わたくしは遠くなる靴音に紛れるよう、そっと囁いた。
 燃え盛る炎が王の(かいな)であるのなら、わたくしは喜んで身を投げよう。その結果、この身が炎に焼かれ、灰に変わろうとも……。
 いいえ、灰と散っても――わたくしは、あなただけの妃です。


                         「灰と散りても 完」




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