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 彼女のはなし。


 梅の香が匂い始める、二月の中頃。
 冬の寒さの間に、春の訪れを感じさせる今日この頃。この時期に恋の告白イベント――すなわち、バレンタインデーが製菓会社の企みにより、定番化したのは結構、意味合いが深いと思うよ。
 このイベントで春を迎える人もいれば、寒い孤独に涙する(やから)もいるだろう。
 それは貰う側の男にとってだけの話じゃない。
 チョコレートを贈る口実で、告白しようとする女の子にとっても、この変わり目は重要だと言えるだろうね。
 丁度いい機会だから、僕が好きな女の子、薫子(かおるこ)さんのバレンタインの話をしよう。


 薫子さんという古風な名前の彼女は現在、僕と同い年の十七歳だ。
 その昔、小学生の頃の薫子さんは鴉の濡羽色の黒髪を、前も横も真っ直ぐに切り揃えたボブカットで――大人たちはおかっぱ頭と呼んでいた――純和風の市松人形を思わせた。
 きめ細かい色白の肌に、子供ながらの頬のふくよかさ。唇の赤さが、確かに人形によく似ていたと思う。
 綺麗に整った顔立ちは実際のところ、称賛に値すべきものだっただろう。
 もっとも、大人ならともかくも、同年代の子供たちには、薫子さんの類い稀なる美貌の真価に気づける者はいなかった。
 当時、薫子さんにつけられたあだ名は【呪いの人形】だ。
 テレビ番組の怪奇特集で、薫子さんそっくりの人形が取り上げられた。何でも、その人形を入手した家々には災厄が訪れるという話だった。
 それを見たクラスメイトが、薫子さんに向かって【呪いの人形】と言った矢先、薫子さんは怒りに顔を赤らめた。
 お人形のように凛とした薫子さんは、当時のクラスメイトたちに比べて大人びていた。教師たちにはしっかり者と認定され、ことあるごとに薫子さんを持ち上げた。
 教師たちは、薫子さんを見習いなさい、と言いたかったのかもしれないが、そんな含みを小学生の頭が理解できるはずもなく、薫子さんは本人の意図しないところで秘かに反感を買っていた。
 だから、珍しく動揺した薫子さんに、クラスメイトたちは復讐の好機を得たりと、【呪いの人形】と口々にはやし立てたんだ。先生に叱られてばかりいた男子だけじゃなく、他の女の子たちも薫子さんを【呪いの人形】と言い出したときには、正直びっくりしたと同時に幻滅したね。
 言葉の暴力、ここに極まりといった感じだった。子供はときに残酷な仕打ちをするね。
 後先を考えず、状況に乗っただけなのかと思わなくもないけれど、実際問題、大人たちの目が届かないところで繰り広げられるこの悪意の罵倒は、実に狡猾(こうかつ)だったと言えるだろう。
 子供も子供なりに、悪いことをしていると気づいていたのかな。
 何にせよ、薫子さんに【呪いの人形】と言い放った輩はその後、後悔することになるのだけれど、その話はもう少し後にしよう。
 僕はどっちだったかと言えば、当時の僕も薫子さんと同じように悪意の標的にされていた。当時、病気持ちの僕は色んな薬を飲んでいて、その副作用で――食欲を増進させちゃうんだね――太っていたんだ。
 重たげな身体を引きずるようにして動く様は俊敏な子供たちには、どんくさく映ったことだろう。
 子供と言うのは得てして、自分とは違うものに対して容赦がない。いや、これは子供に限ったことではないのかもしれないね。
 社会を見渡せば、突出した個性を異常と揶揄するおぞましき人種が判を押したような思考で、大勢いる。そういう輩は多数派にまわることで、自分の優位性を確保したがるんだろうね。
 他人を下に置くことで、自分が上等な人間だと慰めたいのかな。そんな慰めが必要なプライドなんて、大したものではないだろうと思うけどね。
 どちらにしても、僕はそんな人たちに興味はないけれど。小学校の教室の半分以上はそういう子が占めていた。
 そのなかで薫子さんは違ったんだから、僕が彼女を好きになったとしてもおかしくはないだろう?
 まあ、この話は僕の長い片想いの話でもあったことを、ここにそっと付け加えておこうか。
 僕と薫子さんは家も近所で、薫子さんは僕の事情を知っていた。だから、学校では率先して、僕のことを気にかけてくれていたんだ。
 僕の顔色が悪くなると、先生にそのことを言って保健室で休む手筈をつけてくれたりして――当の僕は、具合の悪さに声も出せない状況だったから、薫子さんの気配りにどれだけ感謝してもこと足りない。
 ああ、病気の方はご心配なく。中学三年の時に手術を受けて、すっかり完治したよ。
 今ではクラスメイトの誰よりも早く走れるから。うん、思うように動かせなかった身体が自由に動かせるようになって、運動部に入部したんだ。それにともなって見た目も変わんだね。まあ、意識的に、努力したけどね。
 薫子さんがお雛様なら、僕としてもお内裏様ぐらいになりたかったから。
 例えばお雛様の隣にクマのぬいぐるみが置かれてあったら、違和感があるでしょう?
 クマのぬいぐるみが好きな人でも、ぬいぐるみをお雛様の隣には置かないでしょう?
 つまり、そういう感覚があったんだ。散々、デブでのろまと言われていたから、少しは自分でも思うところがあったんだろうね。
 悪口を言う奴に屈するのは厭だったから、気にしないふりをしていたけどね。
 そんな好きな女の子にカッコよく見られたい男の心理は、女の子と変わらないと思うな。カッコいいの定義は人によって、それぞれだろうけど。
 そうそう、僕にも変化が訪れたように、薫子さんにも変化は訪れた。薫子さんは僕よりも早かったから、僕としてはかなりヤキモキさせられたよ。
 薫子さんの変化は小学校卒業を機に、ご近所の床屋さんから町の美容院に変わったことだ。
 黒髪の美しさはそのままに、毛先を削いだ流行のカットにしたら、市松人形はテレビに出て来る美少女アイドルかくやとなった。
 僕たちが通った中学校は二つの小学校から生徒が集まって、薫子さんの【呪いの人形】時代を知らない男子たちは彼女に夢中になった。
 ううん、男子だけじゃない。
 小学生時代からの凛とした雰囲気は失われておらず、その面倒見のよい性格は変わらないから、新しい学校で不安になっている子たちに積極的に声を掛けていた。孤立していた小学校時代を思い出せば、放っておけなかったんだろうね。
 その子たちの緊張を解いてあげたら、あとはもう、わかるでしょう?
 薫子さんの周りには、彼女に憧れる皆で溢れた。その中に僕がいたことは言うまでもない。まあ、ファンの一人という立場でしかなかったけれどね。
 僕には、薫子さんの幼馴染みという特権があったけれど、部活動に所属した薫子さんと病院通いを強いられていた僕では、行動範囲がずれて少しだけ距離が遠のいた。
 僕は寂しさを感じていたけれど、薫子さんがどんな気持ちでいたのかは、当時の僕は知らなかった。
 言ったでしょう、これは僕の片想いの話でもあるって。
 バレンタインデーと薫子さんの話がどう繋がるのかは、もう少し待ってよ。
 物事には順を追って話さなければならないことが、あるんだからのんびりと付き合ってよ。
 それが厭だと言うのなら、しょうがないね。
 ここでお終いにしようか。
 僕は僕の話を聞いてくれる人に、薫子さんの話をしよう。もっとも、君は聞きたがるだろうから、僕は勝手に続けるけどね。
 とにかく、薫子さんは年々、綺麗になった。子供っぽい頬のふくよかさは運動部に所属したこともあっただろうけど、引き締まった。陽に焼けて色白の肌は消えたけれど、健康的な肌色が楚々としたお人形っぽさを快活さに変えて、いっそう薫子さんを魅力的に見せた。
 バレンタインには女の子たちから、沢山のチョコレートを貰うようになっていたね――中学校ではバレンタインチョコは禁止されていたけれど、学校の外での受け渡しまでは禁止されていなかったから、きっと、男より沢山貰っていたんじゃないかな。
 薫子さんは甘いものが大好きだから、凄く喜んでいたけれど。
 男の立場としては、僕としても複雑だったことを告げておこう。
 そんな中学時代から貰う側に徹して、薫子さんがチョコレートを誰かにあげるという発想は今日に至っても実現していない。
 つまり、薫子さんは義理チョコ一つ贈ったことがなかったわけだ。
 義理チョコも貰えなかった幼馴染みの僕の気持ちが、ちょっとはわかって貰えたかな。まあ、僕が薫子さんに義理チョコを貰ったとしても、はたして嬉しかったかどうか疑問の残るところだ。
 何度も繰り返すけど、僕は小学校のときから、薫子さんが好きだったんだからね。
 そんな薫子さんもバレンタインをまったく意識しないわけじゃなかったんだ。でも、何となく周りと同じことをするのには抵抗があったらしいね。抵抗というより、恥ずかしさかな?
 同時に、薫子さんは自分が周りの女の子たちの憧れの対象であることを自覚していた。そんな自分が好意の対象を一つに定めてしまうことでの、反応が気がかりだっし、またその相手が薫子さんのことを受け入れてくれるかどうかもわからなくて、恐れてもいたとのことだ。
 何だかんだと言っても、薫子さんも人間だ。
【呪いの人形】という悪意たっぷりのあだ名で蔑まれても、泣き崩れることがなかった彼女だったけれど、それは薫子さんの強さを語っても、傷つかなかった証拠にはならない。
 弱音を吐かない人が、実際に強いかどうかは、別問題だろう。その辺りのことがわからない人間が最近は多い気がするね。まあ、この話は語り出したら長くなるから、薫子さんの話に戻そう。
 薫子さんがバレンタインデーの告白イベントを意識したのは、高校一年の時だ、つまり去年だね。
 彼女はある人物の評価が周りで変わりだしたことに、気づいた。
 そいつは薫子さんの一学年下の後輩だったんだけど、彼女が知っていた中学時代の平凡さはどこへ行ったのやら、陸上部の期待の星と、校内で評判になっていたんだ。
 そいつがクラスメイトの女の子からチョコレートを貰う現場を目撃してしまった。
 これには薫子さんも衝撃を受けたらしい。自分がどれだけ悠長に構えていたのか、後悔することになったという。
 薫子さんの、この話に何かしら教訓を付け加えるのなら、あの日の彼女の言葉を借りようか。

『伝えたい想いがあるのなら、手遅れにならないうちに、気持ちを伝えた方がいいと思ったの』

 僕もまた、薫子さんにこの話を聞いたとき、どれだけ辛い想いをしたか、わかるだろう?
 薫子さんのファンの一人として、幼馴染みの一人として、距離をとりあぐねていた僕もまた、想いを告げ損なって手遅れになるところだったんだよ。
 あの日、薫子さんが失恋してしまうかもしれない恐れと葛藤して、その想い人に気持ちを告げなかったのなら……。
 うん、僕もまだ、君に「好きだよ」なんて告げることが出来なかっただろうね。


 ――って、
「ねぇ、薫子さん、聞いてる?」
 僕の問いかけに、そっぽを向いていた君は真っ赤な顔をして振り返った。
「何で、私が私自身の恋愛話を聞かなくっちゃならないのよ?」
 お人形のように整った眉の片方を吊り上げて、薫子さんは可愛らしい唇を尖らせた。
 病気を治すための手術で長期休学を余儀なくされた僕は、薫子さんから一年遅れで高校に進学した。
 その分、また二人の間に距離が出来ていたわけだけど、去年のバレンタインデーに誤解があったにせよ、お互いの想いを確かめ合うことができたわけだ。
 ちなみに僕にチョコレートをくれたクラスメイトは他の奴にも渡していた。包みが豪華だったから、薫子さんは本命チョコだと思ったらしい。
 実際、中身はチロルチョコという、なかなか面白いネタだったわけだけど。その冗談に泣いた男が数名いたとか。いないとか。まあ、そんな裏話は別にして。
 それまで薫子さんが貰っていたチョコは手作り感あふれる素朴なものだったようで、誤解したみたいだけど。
 手作りって、本命チョコでしょ? 薫子さん、モテすぎです。
「いやー、薫子さんと僕が付き合いだしたバレンタインの思い出話を、二人仲良く確かめ合おうかと」
「聞いてる方は、恥ずかしいんだけど!」
「僕は惚気られて、嬉しいんだけど」
 ニッコリ笑う僕に毒気を抜かれて、薫子さんは呆れたような顔を見せた後、言った。
「一つだけその話に付けくわえさせてね。君の図太い性格が、私は昔から嫌いじゃなかったのよ」
 そう言って、鞄の中から取り出したものを僕の胸に押し付けてきた。包みからして、チョコレートだよね? そうじゃなかったら、ちょっと泣いちゃういそうな気がするけど。
 彼女の人生初の本命チョコを僕はありがたく受け取る。
 薫子さんによれば、苛められている僕が泣いたりしなかったことに、勇気づけられていたらしい。僕は薫子さんがいたから、泣かずにいれたんだけどね。
 何にしても無意識にお互いを支え合っていた僕らは、お似合いのカップルだと思わないかい?


                          「彼女のはなし。 完」



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