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お題提供・色彩の綾

 君に捧げる、この花束を


 白い花が降る。
 雪の花が雑多な音を吸いこんで、開いた傘の上に静かに降り積もる。
 さくりと、小さく雪が崩れる音がした。
 靴の下、白く凍りついた雪が足跡を刻んで、道が作られる。
 暖かい季節なら田園が広がっているはずの雪原に君が作った二つの軌跡を追いかける私の足元で、同じようにさくりと、白雪が音を立てて崩れた。
 終わりの予感に立ち竦んだ私は、吐いた息がふわりと泳ぐように空へ漂うのを見送って、現実を先送りしようと抵抗する。
 そんな私を君が呼ぶ。
六花(りっか)?」
 リッカと、君は短く音を切って声を響かせる。
 六つの花で、りっか――雪をそう呼ぶらしい。
 だから、私の名前はリッカ。意味合いは日本風だけど、皆は外国風と勘違いしていた。フランス人である母の容姿を受け継いで、赤い髪に青い目の、私の外見は「六花」とは結びつかなかっただろう。
 私は「六花」と呼ばれる度に、「リッカ」とカタカナに変換していた。
 風流な名前もカタカナに変わるとカクカクとした、ぎこちない印象になる――そう思うのは、私だけかもしれないけれど。
 二十数年生きてきて、赤い髪に小さい頃から疎外感を覚え続けて、いまだに周囲に対してぎこちなさを覚えている私はやっぱり、「六花」より、「リッカ」の名前に相応しいかもしれない。
「また、ぼんやりしている。何を考えているの?」
 柔らかく響く君の声は、雪をサクサクと踏みつけて、私の傘の下に入り込んできた。
 どう見ても外国人的な容姿の私に臆する人たちが多い中で、君だけは昔から垣根を作らず近づいてきた。
 国際的な容姿だけれど、日本語しか喋れない――性格は内向的な日本人の私が、そんな君の存在にどれだけ救われたか、君は知らないだろう。だって君は、こっちの思惑なんて関係なしに白い指先で私の頬に触れてくるんだもの。
 体温が上がる私と対照的に、寒さにかじかんだ君の指先が赤い。
 それを見て、
「駄目だよ、指を冷やしちゃ。しもやけになったらどうするの?」
 私は君を睨みつける。
 大体、君はどうして傘を持ってこないんだろう。キャップ一つで雪が凌げるなんて、都会暮らしでこちらの生活を忘れちゃったの?
「指が動かなくなるわよ」
 君の指は「神様の指」だ。白い鍵盤を叩けば、天上の音楽を奏でる。そう評されていた。
 君は自分が奏でる音楽に評価を与えられる度に、居心地の悪そうな顔をする。
 神童と謳われ、地域でも評判の音楽少年の夢は、果ては有名な演奏家にと夢想する大人たちの期待を裏切って「音楽の先生」だった。
 同じ頃にピアノ教室に通い出して、だけど挫折した私を一応の「奏者」に育てたのは、君だ。
「巧く弾けない」と、嘆く私を教室の先生より、ずっと根気よく指導してくれた君が打ち明けてくれた内緒の夢。
 おかげ様で、人前でピアノを弾くのに恥ずかしくない程度の腕前にはなったけれど、君が奏でる音色と私の音色は天と地の差があった。
 別に私は自分のレベルを知っているから、音楽家を気取るつもりはさらさらない。でも君が、誰もが羨む「神様の指」を惜しげもなく凍えさせているのを見ると、小言の一つも口にしたくなる。
「じゃあ、温めて」
 君はそう言って、私の前に手を差し出して来た。
 何? 餌を欲しがる子犬みたいな、期待に満ちた目は。
 温めるって、大体、どうやって?
 戸惑う私の左手を君の手が握った。そうすれば、毛糸の手袋で防寒していた私の指が冷たい外気に晒される。
「ちょっと小さいかな?」
 私から奪い取った手袋を自分の左手に着せながら、君は小首を傾げた。君の指は繊細(せんさい)だけれど、ちゃんと男の人の手だ。女物の手袋に収まるはずがないじゃない。
「何を――」
 勝手に人のものを取っているの――そう抗議しようとした私はギュッと握りしめられた左手に、小さく悲鳴を上げた。
 君の凍えた指先にがんじがらめにされて、自由を奪われた私の左手は君のダウンジャケットのポケットの中に収まる。
「何か、こういう歌あったよね?」
 君は再び歩き出しながら無邪気に笑う。私は君に引っ張られるように後を追いながら、その歌を唄うバンドの一曲を口にした。
「うん、それそれ。六花、そのバンドが好きなんだよね?」
深幸(みゆき)は嫌い?」
 ――ミユキと、私は久しぶりに君の名を口にする。白い雪が綺麗な地域だから、雪にちなんだ名前が多いのは、単なる偶然だろうか。
 ミユキの名前は本来、「深雪」と書くはずだったらしい。でも字面が女の子みたいな印象だから「深幸」に変えたらしい。
 リッカとミユキ――どちらも雪を示す名前の共通点を見つけた君は、嬉しそうに「同じだね」と、笑って話してくれたよね。
 君に直接、この名前で呼びかけるのはいつぶりだろう?
 高校卒業以来かな? 君は都会の音大に進学して、私は地元の専門学校。この街でレストランを開く両親の跡を継ぐべく、私は料理人の道を選んだ。
 ちなみに、料理修業で海外に出ていたとき、父は母と出会って結婚した。そんな両親が開いたお店は、元々はフランス料理専門だったけれど、こちらに来てからは格式にとらわれない方向へ宗旨替えをした。
 結果、創作と家庭料理っぽい温かさとお店の雰囲気がよいとのことで、遠方からもお客さんが来て、毎日、厨房が忙しく賑わうほどの繁盛(はんじょう)ぶりだ。
 美味しいものを食べている人たちの前では、私や母の異国人的な容姿も大した問題ではなくなる。それが何だかおかしくて、その空間が気持ちよく、両親の思いが詰まった店を一代で潰したくないと、跡を継ぐ道を選んだことを私は後悔するつもりなんてなかった。
 だって君は約束してくれたから。
「学校を卒業したら帰って来るよ」って。
 私の時計が壊れたのか、それとも君の時計が壊れていたのか、約束した時からは随分と時間が経って、君はこの街に帰って来たけれど。
 嘘つきの君は、二人で交わした約束をすっかり忘れた顔して、私の前に現われた。この街が白い雪に覆われて、人の温もりが欲しくなる頃合いを見計らったように。
 だから私は君の嘘を詰っていいのか、わからなくなる。
 君のポケットの中で繋がれた指先が二人の温度を分け合って、心のわだかまりが解けるから。
「ちょっと、嫉妬はするかな」
 君は肩越しに白い歯をこぼして笑ってみせた。画面を通して何度か見た笑顔だ。
 大学に進学した君は、音大で知り合った友達とバンドを組んだ。息抜きで始めたバンドは、本格的な音楽の勉強に窮屈になっていた反動で、実に清々しく伸びやかな楽曲を発表して、あっという間に周りの評判をとった。
 そして、デビュー。学業を先行させながらのバンド活動はテレビなどの露出は少なかったけれど、それでも着実に世間に認知されていった。
「俺たちのバンドはどうだった?」
 君はあえて私が触れなかったことを触れてくる。
 君の活躍を見るたびに「逢いたい」と、私の唇が声もなく告げた。そんな日々を君は知らない。
 置いてきぼりをくらって、寂しさを抱えた私がいたなんて、君はきっと想像もしないんだろう。
 約束に期待した。君からのメールに一喜一憂していた。
 誕生日やクリスマス、色々な記念日に君からプレゼントが届く。青い空がとても綺麗な写真集。「帰ったら一緒に連弾しよう」というメッセージが添えられた、ピアノ用の楽譜。可愛い子犬のぬいぐるみ。色とりどりに咲き乱れる花のポストカード。
 私が好きそうなものばかり贈って来た。
 君が私のために選んでくれたプレゼントが、静かに降り積もる雪のように、私の部屋を埋めていく。 
 でも、君はいない。
 降り積もる雪の寒さに震えるのは、私一人だけだ。
 だからって、意地悪する理由にはならないけれど。約束を破った罰に、針の一本は呑ませてあげたくなる。
「うーん、歌詞がいまひとつ」
 私の棘のある言葉など、ちっとも痛くない感じで、君は軽やかに声を響かせて笑った。
「世間では元気になるって、言われているけど?」
 バンド仲間が綴っている歌詞は、確かに世間でも好評だ。前向きで、ハッピーエンド。窮屈な箱庭から一歩踏み出す勇気をくれるという。
 でもね、君のバンドの歌を聴くたびに私は寂しくなった。
 君の声が唄っているわけじゃない。だけど、私のことを忘れているような歌詞だから、寂しくて辛くなった。
「曲はどう?」
「…………うん、嫌いじゃない」
 私は捻くれた口調で告げて、そっぽを向いた。
「素直じゃないなー」
 君はくすりと、再び笑い声を響かせた。
 バンドの曲を手掛けるのは君だ。他のメンバーも曲作りをしているけれど、好評なのは君が作った曲だ。
 空から降って来る雪みたいに、君の旋律は多くの音を吸いこんで、静かに心の奥に沁みてくる。
 君の音を聴くたびに、私は君のことを思い出す。
 君は一人ぼっちの私に屈託なく笑いかけて、手を引いてくれた。
 君が好きだと言ってくれたから、赤い髪も好きになった。
 ピアノを弾くのが楽しいと思えたのは君がいたからだ。
 曲が君を思い出させて、歌が私を拒絶するから、聴きたいのか聴きたくないのか、わからなくなって戸惑う。
「全部、六花のことを想って作ったんだ」
 君はそんなことを口にすると足を止めて、私を振り返る。
「俺が作った曲は全部、六花に捧げるつもりで作ったんだよ」
 真っ直ぐな視線で見つめてくるから、私は信じそうになる。
 でも、君は……私との約束を忘れた。
 卒業したら帰って来ると言ったのに、待ちくたびれるくらいの時間が経った。
 今も約束してくれたあの日のように、君が私を想ってくれているかなんて、自信が持てないよ。
 第一に、君の帰る場所はもうここじゃない。
 仲間がいるところへ戻るんでしょう? あの人のところなんでしょう?
 有名になりすぎた代償は、君の秘密も暴露する。
 遠ざかっている間はメールやプレゼント一つで誤魔化せていたことも、全ては白日のもとへ。
 熱愛報道に世間も騒いだ。お似合いのカップルと褒めそやす皆の言葉を聞きながら、私がどれだけ苦しんだか、君は知らない。
「六花――」
 君が口を開く言葉の先を聞きたくなくて、私は首を振った。
「嫌だ、聞きたくない」
 言い訳も嘘も、何も。
 君が忘れたふりをするなら、私も忘れたふりをしようと、決めたんだ。
 だから、何も言わないで。
「駄目だ、ちゃんと聞いて!」
 叩きつけるように響かせた君の声に、私は驚いて傘を取り落とした。雪の上に咲いた赤い傘の花。その上に、白い雪が降って来る。
 花のような雪のかけらが、私たちの間に降って来る。
「何を偉そうにっ!」
 私は君の手を振りほどき、睨みつけて、負けずに声を張り上げる。
 周りに聞き耳を立てる人なんていやしない。真っ白な雪の絨毯の上には、君と私の足跡だけ。
 こんな風に間断なく雪が降り続ける日に、地元の住民すら忘れたようなお宮に足を向ける酔狂なんていないだろう。それこそ、久しぶりに帰って来て、郷愁に駆られた君以外は。
 樹齢千年を超えるご神木とそれを祀る小さなお社。町の中心から外れたそこは、外見から周りに馴染めなかった私の遊び場だった。
 君と知り合ってからは、二人の秘密の場所。
 周りの期待に辟易すると、君は私と一緒にここへと逃げてきた。
 皆のことなんて忘れて、二人でくだらない話をして過ごしたこともあった。雪が降り積もった冬は、二人で本気になってカマクラを作ったりした。
 ご神木の前で君が私に告白してくれたことも、初めて唇を重ねたことも。
 そして、旅立つ君が約束をくれたのも、この場所だった。
 帰って来た君が「あの場所に行こうよ」と私を誘ったときから、君が本当は約束を忘れていないとわかっていた。
 だけど私は、認めたくなかったのだろう。
 忘れていないのに、反故にされた約束は、君の中で価値のない思い出になっているのだと、認めたくなかった。
「約束を破ったのは、誰よ?」
 私は泣きながら怒鳴る。
 本当に怒っているのは、君に対してじゃない。君を信じられなくなっている私自身だ。
 こんな私は君に相応しくない。ねぇ、そうでしょう?
 もしも君の気持ちが変わったのなら、そう言って私を切り捨てて欲しい。私を嫌いになって欲しい。
 だから酷い言葉を君に投げつける。
 君は少しだけ眉をひそめて、言った。
「……それだけは、言い訳できない。でもね、六花――」
 君は私の瞳を真っ直ぐに覗き込んでくる。
「俺は何か変わった? 信じられないくらい、別人になった?」
 そう問いかける君を私は見上げた。
 綺麗な黒髪は昔のままだ。都会に出れば、君が変わってしまうような気がしていたけれど、私に触れる神様の指も、私を真っ直ぐに見つめる瞳も、垣根を作らず私の中に入り込んでくる強引さも――何一つ変わっていない。
「俺はあの頃のまま、何も変わっていないよ」
 でも、君を取り巻く世界は変わった。そこに私は存在しない。
 例えば君が私を都会に誘ったところで、私がこの場所から動かないことを君は知っているはずだ。両親の店を継ぐのだと夢を語った幼い私に、君は「応援するね」と笑った。
 進学することで、離れ離れになることがわかっていても、君は私を誘わなかった。ただ帰って来るとだけ、約束した。
 君は私の夢を知っていたから。
 私が君の夢の邪魔をしないように見送ることを決めたときから、君もまた私の夢を邪魔しないよう一人で旅立つことを決意した。
 何があっても気持ちは変わらないと、抱き合って、確かめあって、約束して。
 だけど、君が活躍する今の世界に君が帰ろうとするのなら、私はまた置いて行かれる。
 君の気持が昔と変わらないとしても、それは辛いよ。
 私はどうすればいい? 私の方から、君を嫌いになるの?
 私は今も変わらずに、君が好きなのに。
「約束、守れなくてゴメン。契約とか色々あって、俺一人ではどうしようもなかった。でも、あの日の約束を俺は忘れたことないよ。ここを離れても、俺はいつだって六花のことだけを想って、曲を作ってきた」
「でも……」
 私の脳裏にチラリと過る面影を、君は見透かしたようにため息を吐いた。
「あの噂で、六花が傷ついているだろうと思った。直ぐにでも飛んで帰って、違うんだって言いたかった。でも、俺が足を踏み込んでしまった世界は、ありもしないことを事実のように書き立てる怖い一面もあるから」
 君の指が私の涙を拭う。それから私を安心させるように微笑む。
「ちゃんと、整理をつける必要があると思ったんだ」
「整理?」
「俺ね、バンドを辞めたんだ」
「――えっ?」
 君が告げた事実を前に、私は硬直する。
「契約もやっと切れた。他のメンバーは更新するけれど、俺はバンドから身を引くって、前から決めて皆に了承も貰っていた。あの噂もね、俺をあちらに残そうと企んでのことだったらしい。六花との関係が壊れたら、俺としても帰り辛いだろうと思ったんだろうね」
「そうなの?」
「そうらしいよ。まあ、壊れても、俺としては諦めるつもりはなかったけれど」
 ふわりと君の腕が私を包み込む。凍えたダウンジャケットの布地が冷たく私の頬に触れた。
 白く降る雪の花が君の肩に、私の髪に降り積もって行く。
 冷たく凍える冬の寒さがあるからこそ、二人で分かち合う温もりが尊く感じるのかもしれない。
 離れていた時間が、君に対する私の想いを私自身に教えてくれた。
 寂しくて、辛くて、苦しくて――それでも、君を待ち続けた。
「やっと、誰にも遠慮せずに六花が好きだって言える。あのね、六花。約束を破った俺の言葉なんて、信じて貰えないかもしれないけれど。俺は六花が昔から、今も、これからも好きなんだ。ずっと一緒にいたいと思うくらいに」
「けれど……音楽はいいの?」
 私は君の言葉が告げたことを理解しかねて、半信半疑で問う。
「俺の夢は昔から変わらない。音楽の先生だよ。六花が楽しそうにピアノを弾いてくれたときからね、俺は皆にピアノの楽しさを教えられたらいいと思ったんだ。ホント言うと、それまで俺自身、ピアノは好きじゃなかったんだよ」
 意外な告白に目を丸くする私に、君は笑う。
「音を作るのは好きだったけれど、演奏するのは嫌いだった」
 神童と言われる度に、君は違和感を覚えたという。自分の思惑とは別に、勝手に未来を決められるのが嫌だったという。
「六花が楽しいねって、凄く嬉しそうに笑ってくれたから、俺も弾くのが楽しいって思った。ピアノをやって来て良かったって思った。誰かを好きになることも、夢も、ピアノも。全部、六花が教えてくれた。六花を悲しませてまで、誰かに認められるとか、俺が作った曲を買って貰うとか、そんなこと俺は望まない」
「…………」
「第一に、俺が作った曲を聴いて欲しいのは、六花なんだ。六花が聴いてくれなきゃ、作る楽しみもない。ねぇ、六花。俺の曲は嫌い? 俺のこと、もう嫌になった?」
 小首を傾げて問う君に、私は首を横に振る。
 君の言葉が私を泣かせるから、声が出ない。だから、二度と離れるのが嫌だと伝えるように、君に強くしがみ付く。
「俺の全部を六花にあげるから、受け取ってくれる?」
 涙が乾いたら、私の全てで君に告げよう。

 ――大好きだよ、と。


                           「君に捧げる、この花束を 完」


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