その糸を結んで
彼の名は、もやしくん。
……ああ、違う。正確には、あだ名は「もやしくん」だ。
本名は翔くん。佐藤翔くん。
翔くんという、なかなか素晴らしい名前があるのに、「もやしくん」とは何事かと言いたいところだが、私たちが生まれた年、その名前は大人気だったらしく、幼稚園保育園の男子に同名の子が三人も居るという次第だった。
そして佐藤という全国一多い名字であれば、保育園から現在に至るまで、常に同じ名前の子がクラスに居たらしい。
本名よりあだ名の方が使い勝手がよかったのだろう。「もやしくん」が彼の固有名詞として定着してしまった。
何でも色白でひょろっとしている子供を昔は「もやしっ子」と呼んでいたらしい。
今現在も、そんな表現を使う人が世間一般的にどれだけ居るのか、わからない。
何故なら私の周りは皆、彼を「もやしくん」と呼ぶからだ。私の中では普通に存在する言葉なのだから、古いも新しいもないのである。
しかし「もやしっ子」が決して褒め言葉でないのだから、酷いあだ名だと思う。
下手すればいじめに繋がりかねないところだが、言い出したのがもやしくんのお祖母ちゃんだったらしいから、根が深い。
もやしの根は短いとか、突っ込みは不要。
まあ、お祖母ちゃんにしてみれば、佐藤家の親戚の子の中に「翔くん」が他にも居たのだから、区別する必要があったのだろう。
ちなみにもやしくんより小さかった子は「豆太」で、ぽっちゃりだった子は「ぷにちゃん」と命名したという。翔という名前に、一文字もかすっていないところは、なかなか罪深い。
兎にも角にも、もやしっ子の御多分に洩れず、もやしくんも小さな頃から色白で、針金のように細く、肉の薄い身体つきをしていたらしい。
容易に折り曲げられそうで、透かせば向こう側が見えそうだと、皆は言う。大げさだ。
私なら、華奢で繊細、薄幸そうな白皙の美青年と表現するだろう。
実際、長いまつげが白肌に落とす蒼い影は彼の病苦を物語っている――否、居た。
ああ、過去形になっているのは、彼が死んでしまったからではない。病気は一応、完治している。
一応と付いてしまうのが、アレなのだけれど。
でも、健康体の私だっていつ、病気になるのかわからないんだから、現在命の心配がない分だけ、完治と言っても差し支えはないと思う。
元々から色白だったもやしくんが、大病を経た現在も肌が白いのは、単なるインドア派だけれど、その病気の後遺症のせいでもある。
七年前に白血病を患ったもやしくんは、骨髄移植で病気は治ったけれど、完治した後も紫外線対策に悩まされる身体になった。
肌は紫外線に弱くなり、酷い場合だと、火傷したみたいになってしまうのだとか――症状は人それぞれらしいけれど、わざわざ紫外線に身体を晒して、症状を確かめることはしない。
夏場も長袖、帽子にサングラス、時には手袋に日傘まで装備する。
十代男子にとって、この手の装備は周りの奇異な視線を集めるだけで、何の得にもなりはしない。
彼とて、ここまでの重装備をしたいわけじゃないが、ご両親が心配するらしい。
かなり物事を深刻に受け取っているのは、過去の闘病生活が在るからかも知れない。
病気になったのはもやしくんのせいじゃないけれど、色々と負担を掛けたという負い目があるらしく、彼はご両親の心配に対して、従順だ。
そんなわけで休日も滅多に外に出歩かないから、彼の肌は本当に白い。
白雪姫と向こうを張るくらい白いから、女子からすれば「もやしくん」のあだ名の中には羨望と嫉妬が混じっているかも知れない。
かくいう私も、彼の肌の白さが羨ましいというより、ちょっと困る。私の肌は実に普通だ。そんなに日焼けしていないから、白い方だと言るだろう。
それでも二人並べば、もやしくんの肌の白さが強調されてしまうから、色々と気になってしまうのは、恋する乙女心のせいだ。
そう、私は昔馴染みのもやしくんに恋している。彼が好きで好きで、たまらない。
彼の白い肌も、繊細な面差しも、華奢な肩幅も、嫌いじゃない。
でも、女心としては私より白い肌も細い手首も柔らかな美貌も、羨ましい。
きっと、白雪姫の継母もそんな思いがあったのではないか。
自分が持っていないものへの羨望。それが嫉妬になって、憎悪を駆り立てた。真実を告げる魔法の鏡なんて、お話を色づける小道具にすぎない。
継母の深層心理に根付いた白雪姫への憎悪は、己が失った物、持っていない物、これから奪われるだろう物への執着が原因だった。
人は自分が持っていないものを持っている相手を憎むように、遺伝子レベルで組み込まれているのではないだろうか。
だからきっと、世の中から争いが消えないのだ。
私はぶつぶつと口の中でこの考えを転がす。今何かがつかめた気がする。
トントンと、シャープペンシルの先でルーズリーフを叩いて、言葉が文字として動き出すのを待っていると、
「――楓さん?」
柔らかで透明な声が私の名前を呼ぶ。高野楓、それが私の名前だ。
我に返れば、向かいの席でスケッチブックに鉛筆を走らせていたもやしくんが、こちらを見ていた。
「あ、何?」
私は慌てて頬に掛かった髪をかき上げ、頬を傾けて視線を返した。
無意識に頭をかき乱していたようだ。毛先はあっちこっちに跳ねている。創作に意識が集中すると、見目を構えなくなるから困りものだ。
大好きなもやしくんの目の前なのに!
さりげなく髪を整えるいじらしさに、果たして気づいてくれているのか、否か。
「何か良いアイデアが浮かんだ?」
小さく微笑んで、もやしくんは問う。
アイデアと言うのは、三ヶ月後に行われる文化祭用の、脚本だ。
私と、もやしくんは高校の演劇部に所属している。部員が五人しか居ない弱小部で、集まった部員はほぼ初心者だ。
はっきり言って、私ももやしくんも演劇自体には興味はなかった。我が校では文化部活動は、各週二時間の必修なのだ。勿論、放課後の部活動もできるけれど、それは別の話で、文化祭に成果を発表し成績となる。
もやしくんは手芸が趣味で、ドールのお洋服――アウトフィットを作っていた。
リアルクローズから、エンパイアスタイルのシンプルで上品なドレスに、ロココ調の豪奢なドレス、果ては振り袖から着ぐるみまで、何でもござれだ。
そんなもやしくんは高校に入った際、人間用の洋服を作ってみたいという理由で演劇部に入り――家庭部という名のほぼ実質料理部はあったが、手芸部がなかったのだ――私はもやしくんと行動を共にすべく、入部した。
入部したのはいいが、演技なんてとんでもないというのが本音だった。
だから私は、昔から本を読むのが好きだったから脚本担当に立候補した。
単なる本読みが、いきなりシナリオを書けるはずないのだが、高校の演劇部だ。オリジナルの芝居を作ったりなど、本格的なものではないだろうと思っていた。
けれど既にある戯曲を、高校演劇規定の時間の舞台用に、縮小させるくらいなら、私にでも、できそうだと思ったのだ。
結果、それぞれ希望の担当に付いたが、落とし穴もあった。
問題は既存の小説や脚本を借りたりすれば、著作権使用料が派生する。弱小演劇部としては、予算を押さえたい思惑から、オリジナルの台本を作らなければならなかった。
あと、部員が部の存続最低人数ギリギリの五人しか居ないわけだから、脚本担当の私も衣装担当のもやしくんも役者として駆り出された。
甘いもくろみはご破算だ。
――Oh no!
演劇部に入ってから、若干思考や仕草が芝居くさくなった気がする。
海外ドラマの役者ばりに、目をぐるりと回して見せたりといった、リアクションが日常的になっているから、困りものだ。
そんな大げさな演技が良いのか悪いのか、私にはわからない――実際、的確な演技指導してくれる人など部内には居ない。それに素人だから大げさな演技じゃないと、観ている相手に伝わらない現実は、日常に多々ある。
好き好きオーラを出していても、もやしくんは私の気持ちに気づいているのか、どうか。
昔からの知り合いという関係で、私が側に居るのが当たり前に思っているのだとしたら、どうすれば現状を打破できるのか。
告白すれば一番なのは、頭ではわかっている。しかしそれができていれば、今の二人の関係は変わっていただろう。
何しろ、もやしくんの部屋に男女二人きりなのに、色気も何もない。
この夏休み中にそれぞれアイデアを少しでも形にしないと、間に合わなくなってしまうから、二人して今度の文化祭の演目に頭を悩ませている――私は脚本で。彼は舞台衣装で。
どっちにしても、二人きりのこの状況で意識されていないのだから、辛い。
まあ、毎日とは言わないまでも入り浸っているのだから、いまさら意識しろだなんて、言ないけれど。
「楓さん?」
再び名前を呼ばれて、慌てて現実に戻る。
「あ、ああ、えっとね。お話のスポットは継母に当ててみようかと思うの」
私は頭に浮かんだ構成を脳内でなぞりながら、手短に語る。
「白雪姫ではなく、継母が主人公。何で彼女が白雪姫を憎むようになったのか、ちょっとダークな感じで――どうかな?」
少人数の演劇部は、今年の文化祭では白雪姫を演じる。
と言っても、弱小演劇部は講堂の舞台を借りれず、映研部との共同制作で、ビデオで録画し部室での上映会をすることになった。
ま、簡単な映画鑑賞会みたいなものだ。
白雪姫をモチーフに、白雪姫と継母の二人劇にすれば、大根役者の私は出番がなくて済むかも知れない。
まだ脚本ができ上がっていないから、配役も未定だ。でも白雪姫はもやしくんが似合いそうだ。
部員が少ない欠点は、配役に男女関係なく抜擢されるところだ。
我が演劇部の、本格的な演劇活動は、春の新入生歓迎会の部活紹介や文化祭、演劇大会の地区大会くらいしかないのだが、高校に入って三つの舞台で、もやしくんは絶妙な女主人公を演じることとなった。
本人は本意ではなかったかも知れないが、凄く似合っていた。私がそれらの主役をもやしくんのイメージに寄せて脚本を書いたせいかも知れない……。
「白雪姫はやっぱり、僕?」
いたずらっぽい視線で、もやしくんが問う。
お話のイメージ作りのために、もやしくんを凝視していたこと、気づかれていたらしい。
「――他に誰か、居る?」
私は下手に言い訳するのを止めて、つんと顎を上げた。
「もやしだものね、僕は」
そう言って、もやしくんは己の手を掲げて透かし見るよう目を細めた。
細い指。開いた手のひら。白い五本の指は、まるで雪の結晶のよう。
暑い季節なのに汗一つかかないような、涼しげな面差しの口元に、ちょっとだけ自嘲染みた皺が寄る。
すぐにそれは雪さながらに溶けて、穏やかな眼差しが私に落ちてきた。
「まさか、自分のためにドレスを縫うなんて思わなかったな」
大仰に肩を竦めるもやしくんも、私同様に演技者の端くれとなったようだ。
だけど、仄かに隠しきれない自らへの諦観が垣間見える。自嘲を隠そうとしたのは、無意識だったに違いない。
「もやし」というあだ名を彼は嫌っていない――むしろ周りには積極的にそう呼ぶように言っているけれど、自分の白い肌に思うところがあるだろう。
それは病が残した刻印のようなものだ。
忘れたくても、忘れられない。
――ううん、忘れようなんて思っていないでしょ。
だって、あの病気があったから、もやしくんは手芸に興味を持った。
今も続けているのは……。
もやしくんの部屋は押し入れをベッド代わりにして作業スペースを確保した、アトリエと言っていい感じの室内だ。
紫外線カットのフィルムが張られたガラス窓の横には作業台があり、二台のミシンが並び――片方はロックミシンだ――ハンドメイドの道具が揃っている。
作業台の横の棚にはパールビーズやグラスビーズを入れた小瓶が並び、ミシン糸を納めたケースはさながらカラフルパレット。
その横の本棚には手芸や服飾、美術関係の大型本がぎっしりと並んでいる。その端にはもやしくんがデザイン用に使っていた過去のスケッチブックが十冊近く収まっていることから、彼の服作りがどれだけ本格的か、わかるだろう。
人間の等身大のトルソーは、衣装作りの際に使う物だ。部屋の中央に置かれた――私たちが作業している机は、ダイニングテーブル並に大きい。
私はドアの横に置かれた高さ二メートルくらいのガラスキャビネットに目を遣った。
部屋の壁と同化したような、白い木製のキャビネットは三面がガラスで出きていて、中に飾られているものがどこからでも見える。
キャビネットの隣にはディスプレイテーブルが置かれ、そこにはドールハウスが飾ってあった。
ガラスキャビネットの中には幾つもの人形が並んでいる。人形と言ってもフィギュアではなく、着せ替えができるファッションドールだ。
児童文学絵本の主人公の海外ドールから、アンバランスさが不思議と魅力的な巨頭ドールに、アンティークドレスをまとったビスクドール、球体関節でポージングが自由にできるキャストドール、女の子なら一度は遊んだ経験があるかも知れない、ソフトビニール製のドールなどなど。
四十センチサイズから、1/6サイズに、1/12サイズと、様々な形態のドールが居るのは、もやしくんがドールのアウトフィットを依頼されて作ったりしているから。
趣味で作ったものの写真をブログで公開していたら、自分のドールに洋服を作って欲しいという話が来たとか。
時間があるときに、オーダーを受けるようになって、ドールファン界隈ではそこそこ評判らしい。もやしくんの場合は謙遜が含まれるので、結構な評判なのだと思っていい。
そんなこんなで人脈ができて、人から里子に譲って貰ったりした結果、キャビネット一杯のお人形天国のできあがりと相成った。
私は立ち上がって、ガラスキャビネットに近づいた。
一番中央の目立つところに、ドール用のソファが置かれ、そこに腰掛けているのは肌が茶色くすすけたソフトビニール製のドールだ。かなり古いものなのは語らずとも、一目瞭然。
だけど表情は精彩を放って愛くるしい。剥げたアイペイントをリペイントして、ボサボサだった髪を植毛しなおすなどして、もやしくんが生き返らせた。
この人形が、もやしくんが手芸に興味を持ったきっかけだ。
小児病棟で同室だった子が持っていた人形。その子の母親が洋裁の先生で、娘が描いた絵から人形にドレスを作ってあげていた。時には病室で作っているのを見て、もやしくんはお人形の世界に、手芸の世界に落ちていった。
こういうのを沼にハマると言うのだっけ?
一枚の平たい生地から生まれる立体に、魅了されたのだと語ってくれた。
長方形に裁断した生地にギャザーを寄せて作れば、ふんわり広がるスカートができ上がる。円形にカットすれば滑らかなドレープが美しい、優美なシルエット。正方形からはイレギュラースカート。
プリーツの折り方で、またシルエットが違ってくる。プリーツの数を減らせば、ボックススカート。
他にも三段切り替えのティアードスカート、タイトスカートの裾を切り替えたマーメイドスカート。
スカートだけでも、多種多様のパターンがあるのに、男の子であるもやしくんは驚いたと言う。
生地を変えれば、同じデザインであっても、また印象が違う。
柔らかなシフォン、ジョーゼット、ガーゼ。張りのあるローン、ブロード。光沢のあるサテン。
伸縮するニットの種類も多く、フライスやスムースに天竺など。
起毛した表面の手触りが面白いのは、天鵞絨やコーディロイ。
まるで魔法の呪文みたいに溢れる生地の名前。
そこから創り出されるデザインの多様さ、奥深さ、無限の可能性に、病身だったもやしくんは夢中になった。
病気から気をそらす現実逃避だったのかも知れない。でも、それが今日のもやしくんに命を繋いだとしたら、現実逃避も悪い物ではないだろう。
大体、お人形遊びや読書、ゲームを大人たちは現実逃避と言うけど、何が逃避なのかと思う。
私は子供の頃、親が忙しくて構われなかった。その寂しさを埋めるために、本を読んだ。そして物語の中の登場人物だって、それぞれの現実を生きていた。
いつだって、現実と繋がっていて。楽しい瞬間が終われば待っているのは現実だ。
逃避ではなく、寄り道でしかない。
「ユリカさんと、遊ぶ?」
耳元で声がして振り返れば、肩越しにもやしくんの顔があった。
女装が似合ってしまう、繊細な面立ちに恋する乙女の心臓はドキドキしちゃう。ドキドキしているのは、言うまでもなく私だけなのだろうけど。
「いや、それは」
もやしくんのドール趣味を否定する気はないとはいえ、お人形遊びには乗り気になれない。
お人形遊びと言っても、子供の頃やっていたママごとみたいなものではなく、トップスやボトムを組み合わせてコーデしたり、ヘアアレンジしたり、ドールハウスで撮影したり、ドールにお洋服を作ってあげたりといったものだ。
ドールの写真撮影に凝り出せば、スマホやコンパクトデジタルカメラでは満足できずに、一眼レフのカメラに手を伸ばすといった人たちも居るらしい。外撮りにハマれば、なおのこと。
実際、もやしくんが交流しているドール仲間のブログやInstagramを覗かせて貰えば、ドールたちの、生き生きとした写真がアップされている。
お遊びと語るには、大人趣味過ぎた。
そうして壊滅的に不器用な私は、もやしくんのように人形を可愛く飾ってあげられない。その苦手意識は子供の頃から変わらず、形見となる人形は彼の手に渡った。
――そう。小児病棟で、もやしんと同室だったのは私の二つ上の姉、紫だった。
残念ながら姉の紫は、もやしくんと違って、移植手術が上手く行かずに亡くなってしまった。
姉の名前を継いだ人形「ユカリさん」は何年もの月日が過ぎようと、その現実を突きつけてくる。
本当に、遊びが逃避だなんて、よく言う。
「――嫌?」
キャビネットから取り出した「ユカリさん」を片手に、頬を傾けてもやしくんは問う。
ユカリさんが着ているのは白のワンピースドレスだ。
ピンタックが幾重にも入った身頃に、袖はふんわりパブスリーブ。くるぶしまでのロングスカートを内側からペチコートで膨らませてある。
夏場の湿気で、ソフトビニール製のドールなどはアウトフィットからの色移りが懸念されるから、ガラスキャビネットの中のドールたちは皆、白のドレスをまとっている。
勿論すべて、もやしくんのお手製だ。
キャミソールワンピースやフリルワンピース、AラインにIライン、ウェディングドレスのような華やかなものもある。どれもパターンが違うから、見ているだけでも楽しい。
結局のところ、私はドールの鑑賞者だ。申し訳ないが、それ以上にはなれそうにない。
もやしくんの手中にあるユカリさんを見つめた。
姉を思い出させるのが嫌だと思われている? 私は違うと言いたかった。
人形の「ユカリさん」は姉の形見だ。勿論、製品名は違う。大半のドールオーナーは自らの人形に、名前を付けてあげるのが習わしらしい。
ユカリさんが形見であること。姉の死。それは、どうしても忘れられやしない。
でも、姉の存在があったから私はもやしくんと出会った。そして彼を好きになったし、この感情はもやしくんがドール好きだからとか、彼が私より綺麗だからとか、そんなことでは覆らない。
まあ、少しの葛藤はあるけれど。もやしくんに気づいて欲しい。それで挫けていたら今ここに私は居ないのだと。
「嫌とか、そんなんじゃなくて」
「うん」手の中にあるユカリさんの跳ねた髪を指先で整えながら、もやしくんは頷く。
「あの、ごめんね……」
私は寂しそうに見えたもやしくんの横顔に謝っていた。
一緒に遊べないのではなく、謝りたかったのは母だ。
私の母は、姉が亡くなってからもやしくんに対して冷たくなった。
小児病棟で知り合って、姉とともに一緒の病に戦う仲間として、母はもやしくんを受け入れた。本格的な治療前の病室で、彼は母の生徒となり手芸の手ほどきを受けた。
だけど、無菌病棟での治療が始まり、二人の子供の間に明暗が分かれると、母のもやしくんに対する態度も変わってしまった。
姉がこの世を去った事実と、もやしくんが生き残った現実。
どちらも誰のせいではないのに、母はまるで姉が授かるはずの幸運をもやしくんが奪ったとばかりに――彼を憎んだ。
白雪姫を憎む継母のようだ。だけど、白雪姫がその美貌を授かったのは彼女自身の意思ではないはずだ。
姉の病気があって、私は母とは上手く言っていなかった。母は姉の付き添いに忙しくて、私は一人家で留守番だったのだ。
その間、本を読んでいて物語の世界に浸っていたから、自分では寂しさなんて感じていなかったけれど、私には母は遠い存在だった。
同時に姉のドナーになり損ねた私は、使えない子供として父にも必要とされなかった。
物語の中では時に病が家族の絆を強めたりするが、私の現実は物語のようには上手くいかず、姉が居なくなった後は、ぎこちない関係の家庭が残った。
シャンタン、キャラコ、オーガンジー、タフタ、シャンブレー。
魔法の呪文みたいな生地の名前。それらを私に教えてくれたのも、母ではなくもやしくんだった。
だからと言って、母に反抗してもやしくんに肩入れしているわけじゃない。
姉の見舞いに訪ねた病室で出会ったもやしくんと、中学の教室でクラスメイトとして再会して、彼の人となりを知って好きになったのだ。
「何が?」
もやしくんが瞬き一つして、私を見つめる。
「えっ?」
「何を謝るの? 無理強いとかしないよ、僕は」
不思議そうな顔をして、もやしくんは笑う。彼は私が感じている後ろめたさに気づいていないのか。気づかないふりをしてくれているのか。どっちなのだろう。
「ええっと、白雪姫」
私は自分の中にある感情に蓋をし、話をそらした。
「どうしても、イメージが翔くん――もやしくんになっちゃうの。別に女装させたいとか、そんなんじゃないよ?」
「うん、わかっている。その代わり、格好いい衣装を作るから、楓さんを王子に推してもいい?」
さらりと告げられた言葉に私の胸はときめく。きっと、冗談なんだろう。
「あ、考えてるのは白雪姫と継母の二人劇」
そう私が応えれば、もやしくんは眉を上下に動かした。
「ズルイ。逃げる気満々だね、楓さん」
演劇部はもやしくんの他は、私を含めて女子四人だ。
それなのにこれまでの女主役がもやしくんだというのも、彼が私たちより色白で美人だからに他ならない。
「……いや、そんなつもりは」
満々でしたけど、はい。
「いっそ、白雪姫と王子の恋愛にスポットを当ててみたら? そっちの方が演技力は要らない気がするんだけど」
ユカリさんをキャビネットに戻しながら、言ってきた。
確かに愛憎劇よりは、展開がわかりやすい恋愛劇の方が、演技者が下手でも観客が脳内で補完してくれるだろうとは思うけど。
「えっ、それは……」
もやしくんの提案に少し考えてみたが、どうにも頭の中は真っ白だ。
唸る私に、「ごめん、冗談だよ」と、もやしくんは笑った。
「ドレス二着か。イメージは対照的なのがわかりやすくていいよね」
顎に指先を当てながら、もやしくんは天井を仰ぐ。
「アニメ映画のイメージが強くて、青と黄色って感じだよね。僕は白雪姫には、赤を着せてみたいかな」
「唇の赤? 林檎?」
「林檎かな。ポイントで、林檎の花の白を入れてみるのはどうかな」
「白雪姫と言うより、林檎姫になっちゃいそうだね」
「ああ、ダークな感じで行くんだっけ? だとしたら、大人っぽいデザインが良いかな」
ドレスデザインを頭の中で描いているのだろう。
「コルセットベルトは欲しいよね。確か、腰紐を締めて殺そうとする、エピソードがあったはず」
もやしくんが確認してくる。
「うん、それを組み込むかどうかは、決めていないけど」
「オーバースカートはトレーンで、内のスカートを黒で締めてみようか。ああ、でも、継母には黒かな。だとするとシャンパンゴールドあたり」
もやしくんはぶつぶつと口の中で呟いて、イメージを形作っていく。
こういう自分の好きなものに打ち込んでいる、もやしくんがたまらなく好きだ。
もやしくんと中学校で再会し、懐かしさに母と引合わせてしまったのは私だった。
そうして母が学校行事で顔を合わせる度に、
『男の子なのに人形遊びだなんておかしい』
と、手のひらを返したように攻撃し始めた時、私はもやしくんがドールから離れてしまうのではないかと、心配した。
ただでさえ姉のことがあったのに、大人の強い口調で自分を否定されて、暴力的な言葉の前には反論の言葉すら口に出せなかった。
だけど、もやしくんは唇を噛んで耐え続けて、自分が好きなものを大事に守り続けた。そんな彼を好きになった。
どうしてこの恋は先に進めないんだろう?
「もやしくんが白雪姫なら――」
私の唇が無意識に開かれる。
「えっ?」
「継母が姫を憎む理由を知ったら……許す?」
驚いて返された視線に、私は気づかされた。
母のことをいつからか、私たちは話題にしないでいたのだ。
それはきっと、傷つかないために。傷つけないために。
踏み込まないようにしていた境界線に気づけば、私が無意識に張っていた結界にも気づく。
好き好きオーラを出しておいて、もやしくんがそれに応えようとすれば、私の方が逃げていたのだ。
私が母ではなく、もやしくんを選んだの。それを同情だと、思われるのが嫌だった。そして同情で、想われるのも辛いからだった。恐らくもやしくんも私と同じ壁に突き当たっている。
「……私」
謝ろうとした私に、もやしくんが言葉を被せてきた。
「そうだね。……怖いのは何もわからないから。もしその本心を少しでも知れば、理解できれば……許せるかも知れないね」
それは劇の話? それとも……。
いつだって逃げ道を作っている私たちは、自分に甘くて。そして相手に優しい。
しかし傷口に触れないように、慰め合う優しさでは、この恋はいつまで経っても進展しない。それに気づいたのなら――。
「先生は怒るしか、できなかったんだよね」
こちらを見据えて告げる、もやしくんの言葉に、私の目頭は熱くなった。
もやしくんの中では、母はまだ手芸の「先生」なのだ。
どんなに罵倒されても、皮肉や当てこすりで傷つけられても、彼は母を嫌いにならない。そんな強いところも、私が惹かれた理由だ。
彼の言うとおり、母は姉に訪れた理不尽な運命に憤しか、哀しみを紛らわす方法を知らなかったのだろう。
そして私は、もやしくんが矢面に立つのに、母の暴挙を止められなかった。
こんな私が彼の側に居ていいのか、わからなかった。
だけどもやしくんは、私が近づいても嫌な顔を見せずに受け入れてくれたから、私は――。
「ごめんね」
私はまた謝る。母や、私自身のことを、謝ったって彼が傷ついた過去は消せない。
けれど……。
「でも、これからは私がもやしくんを守るから。絶対に何があっても、守るから」
いつまでも哀しみを言い訳に、他人を傷つけていいはずがない。
私は母と向き合おう。これ以上、母に嫌われるとしても、もやしくんに相応しい相手になりたいから、戦おう。
決意を込めて告げた私に、もやしくんが言った。
「ねぇ、やっぱり白雪姫と王子の物語にしない? 楓さんと僕の二人劇で」
ここに来て話をそらすのかと目を丸くする私に、彼は続けた。
「そうすれば、僕の王子様にキスできるから――」
白い雪が私の頬を撫でて、唇にそっと優しい熱を落した。
「その糸を結んで 完」