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 花雨


 そろそろと、穏やかな日差しに蕾が膨らむ。
 きつく結んだ唇が解けるように、花が綻ぶ。そうして咲き乱れる花々は、春の訪れを告げる。
 春の始まりは、冬の終わり――新しい季節は、別れを呼ぶの。
 別れの季節に、花が咲くのはきっと流れる涙を癒すため。
 笑ってと囁くように、小さな花を揺らす春風が「さよなら」と、こぼす涙を拭い去る。
 卒業すれば、もう二度と会えない、会わない。多分、これで最後だ。
 それでも、この胸の秘密は打ち明けられない――打ち明けちゃいけない。
 決意を固めて、私は扉を引いた。
「先生、失礼します」
 口を開いて、室内へ入る。卒業生を見送りに、大抵の先生たちは校庭に出ているのだろう。
 人気が失せ少し寒々しい、がらんとした空間を見回して、窓際に佇む背中を見つけた。
 私は後ろ手に扉を閉じた。カラカラと、戸がレールの上を滑る。
 静謐な室内にその音はやけに響いた。
 だから、音は、声は、ちゃんとその背中に聞こえているだろうに、振り向かない。
 自分で呼び出して……ズルイよ――私はそっと、心の内側で唇を尖らせる。
 そっちがその気なら、こちらも黙秘権を使おう。
 もっとも私は最初から、何も告げる気はないのだから、黙秘権というのも変な話。
 そして、少しの間だけ静かな背中を眺めた。
 ……スーツが似合うとは思わなかったな。
 背後の扉に背中を預け、ぼんやりと思う。
 よく見知っていたのは、中学生時代の学生服姿。
 華奢な肩は、大きな制服に合っていなくて、ぶかぶか。袖から指先だけが出ているような感じだった。
 頬だって、丸みを帯びていて、男の子というより女の子と言った方がピタリとくる容姿だった。
「ハルちゃん」と、そう呼びかければ、はにかむように笑っていた五歳年上の幼馴染み。
 私が高校三年生になった春に、この学校に赴任してきた先生と、私の胸に住んでいる初恋の人が同一人物だとは思わなかった。
 新任教師が紹介された始業式の壇上で、彼が「向坂悠(さきさかはるか)です」と自己紹介しても、同姓同名の人だろうと流していた。
 少なくとも、その時点で私はハルカ先生に興味なんてなかった。
 けれど、ハルカ先生はとにかく目立ったから、否が応でも私の耳に入って来た。
 何しろ、容姿端麗なのだ。昔は可愛らしさが目立っていたけれど、それだって目鼻立ちがハッキリしていたことに由来する。
 くっきりした黒目に、穏やかそうなラインを描いた唇。頬から顎の線は、今はシャープになって、端正な顔立ちを際立たせた。
 清涼感あるサラサラの黒髪。背丈が伸び、肩幅も広くなっていた。でもそれは成長に伴う変化で、身体を特別に鍛えたというわけではなさそうで、適度な肉付き。スーツがよく似合った。
 そんな新任教師はあっという間に、校内の注目の的。
 十代の小娘たちに、甘いマスクの年上の男性に夢を見るなと言う方が土台無理な話で、あちらこちらで片想いの花が咲いた。
 それは私の身近でも咲いていて、彼女らの様子を見れば何だか私は羨ましかった。
 だって、私はいまだに初恋を引きずっていたから。
 父の仕事の都合で、生まれ育った町を離れることになった八年前――三月の半ばに旅立つことが決まっていた私は、中学校を卒業する初恋の彼に制服の第二ボタンをねだった。
 第二ボタンの意味は小学四年生の私も知っていた。五歳も年の離れた相手から貰えるはずがないと頭でわかっていたけれど、だからこそ欲しくて。
 別れる寂しさを言葉にする代わりに口にした最後の我儘に、優しい幼馴染みの彼は笑って応えてくれた。
 その優しい笑顔がいまだに忘れられない私は、ハルカ先生がよもや初恋の相手である「ハルちゃん」だとは思ってもいずに、次に踏み出せない自分を寂しく感じていた。
 終わらなきゃいけない。でも、終わりたくない。
 どうしたらいいのか、わからない心を抱いている私は、皆から取り残されて、一人ぼっち。
 ハルちゃん――そう心で呼びかければ、笑顔で応えてくれる優しい思い出。
 その思い出の主が「ハルカ先生」と同一人物だと気づいたのは、担当教科の先生が事故で入院することになって、ハルカ先生が代理で私たちクラスの教科を担当することになってから。
 教壇に立ったときや廊下ですれ違うハルカ先生をぼんやりと目で追っていると、時々、幼馴染みのハルちゃんの姿が重なった。
 空がとても綺麗な日には、嬉しそうに笑うところとか。
 前髪を自分で切った日には、その日一日、髪を気にしまくっているところとか。
 無造作に捨てられたゴミを見つけると、拾わずにいられない潔癖なところとか。
 まるで筆で書いたような、きれいな文字を書くところだとか――ハルちゃんは書道二段だった。
 時間潰しに読んでいる文庫本が、好きだと言っていた作家の短編集だったこととか。
 一つ一つが重なって、気がつけば私は彼が幼馴染みであることを確信していた。
 五歳年上の幼馴染みが、昔から教師を志望していたことは知っていた。
 人の世話をするのが好きな、面倒見のいい性格は、教師に向いていると思っていたけれど――本当に教師になって、私の前に再び現れるなんて、想像していなかった。
 大学、こっちの方を受けたのかも。それで、そのまま教員になったの?
 生まれ育った町とは遠い、人口だって比べ物にならないくらい多い都市で、こんな風に再会できるなんて……。
 不意打ちの出来事に、私の心臓は大きく跳ねた。
 どうしよう、と思った。
 嬉しくて「ハルちゃん」と呼びかけたかったけれど、彼はもう「ハルカ先生」だ。
 きっと、私のことなんて覚えていないだろう。
 覚えていたところで――どうなるというのだろう。
 声を掛けて、それから?
 思い出話に花を咲かす?
 その後は――?
 何も、何も言えないことに気づいた。
 だって、先生と生徒なんだよ。
 昔の幼馴染みのハルちゃんと私じゃない。
 あの頃みたいに、第二ボタンを頂戴なんて、ねだるような甘えは許されない。我儘も言えない。
 だって、ハルちゃんが真剣に教師になろうとしていたこと、私は知っている。
 知っている私が、どうして「ハルカ先生」に好きだって言える?
 軽く流されるかもしれない告白。端から相手にされないかもしれない。
 それでも、言えない。言っちゃいけない。
 教師が生徒に手を出したら、クビだ。
 噂が立つだけで、ハルカ先生の立場がどれだけ悪くなるか。
 ハルちゃんの夢を知っていて、それを叶えた現実を知っている私が、彼の立場を悪くするの?
 そんなの冗談じゃない。冗談じゃないよ。
 だから、何も言わないと決めた。
 そうして、卒業式の今日まで何も言わずに教師と生徒の距離を保っていて、それで終わるはずだったのに……。
「さくら、ハルカ先生が捜していたよ。教科準備室に来てくれって」
 卒業式が終わって、もう二度と足を踏み入れることのない教室を感慨深げに眺めていたら、ハルカ先生から伝言が届いた。
 何で、今さらと思う。
 多分、ハルちゃんは私に気づいていた。
 時々、視線がかちあった。偶然だと思って目を逸らしたけれど。
 きっと、ハルちゃんは私が幼馴染みの「さくら」だって……気づいていたんだ。

「どうして、何も言わないの?」

 背中を向けたままのハルカ先生が問いかけてきた。
 私の意識は現実に戻されて、スーツの背中にそっと笑う。
 黙りっこ勝負は、私の勝ちだ。
「向坂先生、今年一年世話になりました」
 淡々と挨拶の言葉を口にして、頭を下げた。
 私は何も言わないよ。
 言わないと決めているの――そう、心の中で言い訳する。
 ハルちゃんって呼びかけたら、もう気持ちに蓋を出来ない。
 きつく結んだ心の紐が解けて、気持ちが飛び出してしまう。
 ハルちゃんに、好きと言ってしまう。
 あのね、正直に言ってしまうと、この気持ちに答えを出されるのが私は怖いんだ。
 教師と生徒という関係にあれば、私が気持ちを伝えない限り、何も始まらないし何も終わらない。
 いつまでも密かに想い続けていられるでしょ?
 でもね、好きという想いを言の葉に託してしまったら――花は咲くか、散るしかない。
 私は散るのが怖い。終わるのが怖い。
 例え、これから先、会えなくなっても構わない。お願いだから、心の中で想い続けさせて。

花雨(かう)――」

 頭を垂れた私に、ハルカ先生の声が響く。
「えっ?」
 思わず顔を上げ問いかけてしまった声に、ハルカ先生が振り返った。彼が見ていた窓ガラスの向こうで、早咲きの桜が風に揺れている。
「花の咲く頃に降る雨、花に降る雨のことを――花雨というんだ」
 声がそっと近づいてくる。
「何でだろうね、さくらちゃんのことを思い出すと、その言葉が浮かぶ」
 傍に近づいた気配に身を引いた私を、ハルちゃんは寂しげな顔で見下ろしていた。
 そんな顔をしないで。
 ズルイよ、ハルちゃん。
 私の決心、風に踊る桜の花のように、揺らいじゃいそうだよ。
 散ることがわかっていても、咲かずにはいられない――桜の花。
 私と同じ名前の花。
「きっと、さくらちゃんの泣き顔が僕の中に残っているからだよ」
 第二ボタンを貰った時、私は嬉しくて。それでいて、もう二度と会えないことに泣いた。
 あの日の私なら、ハルちゃんと呼びかけられたのかな。
 でも、ハルちゃんが「ハルカ先生」に変ってしまったように、今の私は何も言えないの。
「そして今も……泣いて、さよならをするの? 次の約束もしないで?」
 ふと、ハルちゃんの指先が私の目尻に触れた。
 そうして私は、泣いている自分に気づく。
 自覚したら、次から次へと涙がこぼれた。
 伝えられない言葉の代わりのように、溢れ出る。
「……ハルちゃんが先に言ってよ」
 黙りっこ勝負に負けたのは、ハルちゃんだよ。
 気づかないふりを決め込んだ私に、再び声を掛けてきたのはハルちゃんだよ。
 ねぇ、もう私の気持ちに気づいているんでしょ?
 第二ボタンをねだったときから、私の気持ちは何一つとして変わっていない。
 ねぇ、もう知っているんでしょ?
 私の目がハルちゃんを追っていたこと。
 だったら、ハルちゃんから言って。
 期待して見上げた私に、ハルちゃんは静かに微笑んだ。
「卒業おめでとう、さくらちゃん」
「ありがとうございます、ハルカ先生」
「うん。でも――もう僕たち、先生と生徒じゃないよね」
「…………うん」
「だから、昔みたいに呼んで? 僕はね、さくらちゃんに「ハルちゃん」って、呼んでもらえるのが好きだった。その声が忘れられなくて、君の泣き顔が忘れられなくていたんだよ?」
 そっと抱きしめられて、私はハルちゃんにしがみ付いた。

 ねぇ、ハルちゃん。
 別れの季節に、花が咲くのはきっと流れる涙を癒すため。
 そして、新しい出会いを祝福して、咲くんだよ。
 私の胸に咲いた花に降る花雨は――うれし涙の、優しい雨。



                                 「花雨 完」


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