花信 初春の淡い水色の空は、どこまでも澄んで透明だった。 綺麗な空を見つけると嬉しくなって、自然に顔が綻ぶ。 何だか、得をした気分になるんだ。 そんな天空を背景に、早咲きの桜の薄紅色の花弁がよく映えていた。 薄紅の小さな花のひとつひとつは、手のひらに摘んでしまえば何のことはないのかもしれない。だけど、一本の木を鮮やかに装った美しさに、心惹かれるのは散ってしまう潔さを惜しむ心があるからだろうか。 例えば、小さな花を押し花にして、永遠に閉じ込めても、心の奥底に焼き付けた薄紅のその美しさには及ばない。 雄々しく聳える樹木に、幾つもの花を咲かせてこそ――桜なのだと、僕は思った。 小さな思い出をいくら寄せ集めても、本物を目にしてしまったら、もう心は偽れない。 押し花に満足していられない気持ちを知ってしまったら、例え散ってしまうかも知れなくても――せめて。 そう願う自分に気づいたのは、いつだっただろう? 磨き上げられた窓ガラスの向こうに咲き誇る桜の花を眺めていると、傍らからしみじみとした声が投げかけられた。 「門出の日に晴れてくれて、良かったですねぇ。ハルカ先生」 着任当初は「向坂先生」と名字で呼ばれていたけれど、生徒たちの間で「ハルカ先生」と、名前で呼ばれるのが定着するようになってからは、職員の間でも「ハルカ」と呼ばれるようになった。 ここに四月にやってきて、今は三月。もう少しで一年になろうとしている。 そして、今日は卒業式。 そこはやっぱり気持ちの問題なのだろうけれど、卒業という日に、曇天では確かに心もち気持ちが沈む。 まだ進路が決まっていない生徒もいるから、全員が決して心晴れやかにこの日を迎えられるわけではないのだけれど。薄曇りの思い出より、晴天の思い出の方が記憶も明るく残るだろう。 高校の卒業式の思い出は、卒業する生徒にとっては一生に一度のことなのだから。 「そうですね」 僕は年配の先生の言葉に頷いて、笑う。 そうして、僕もまた一生に一度、最初の教え子たちを見送る卒業式。 新任の僕はまだクラスを持っていないから、教え子と言ってしまってよいのか、わからない。 そうして、自分の生徒を送り出す年配の先生の感慨深さをどれだけ理解できているのかも、わからない。 ただ顔見知りになった三年の生徒と、もう明日からは会えないのだと思えば、胸にぽっかりと穴が開いたような錯覚に囚われ、寂しさを自覚する。 「寂しくなりますね」 そう呟けば、 「いやいや、今日で肩の荷が下りると、ホッとしているところですよ」 肩すかしを食らわせるようなことを返された。 僕は眉を上げて、小さく笑う。 きっと、寂しさは誰もいなくなった教室を見て、一人で噛み締めるものなのだろう。 「さて、それじゃあ、生徒のところへ行ってきますかな」 「いってらっしゃい」 教科準備室を出ていく先生を送り出して、僕は桜に目を戻した。式が始まるまで、まだ時間がある。授業を受け持っているだけで、クラス担任でもない僕は式まで暇だった。 それまでは、ぼんやりと風に揺れる桜の花を眺めていようか。 花を愛でる心があるわけじゃないのに――どちらかと言えば、空いた時間は本を読むのに費やす性質だ。活字中毒と揶揄されることもしばしば――不思議と薄紅の花は、見飽きるということがない。 そうして、桜を見ていると浮かんでくる面影が一つ。 「……さくらちゃん」 自然に、自分の唇からこぼれたそれに、一瞬、ギョッとなった。 慌てて、辺りに目をやる。誰もいないことはわかっていたはずなのに、びくびくしてしまう自分の小心ぶりにため息が漏れた。 こんな小心者は、絶対に教師と生徒の禁断の恋なんて、できやしない。 実際に、今日のこの日まで、彼女に声を掛けることすらできなかった。 五つ年下の幼馴染みの女の子――吉野さくら。 「ハルちゃん」とそう呼ぶ、さくらちゃんの声は耳にくすぐったく響いて、僕はいつも笑っていた。真っ直ぐに僕を慕ってくれる女の子を僕は好きだったけれど、多分、それは恋じゃなかったと思う。 彼女は、僕にとって妹みたいな存在だった。 この春に着任することになったこの高校で、八年前に別れたそんな彼女と再会するなんて、思ってもみなかった。 進学の際、地元に残るという選択肢もあったけれど――教師になろうと決めていて、実際問題、教師になるだけなら地元でも良かったんだけど――何故か僕は都会に出ることを選んでいた。さくらちゃんが引っ越していった先が、そこだったとぼんやりと認識しては、進路希望にこちらの大学を書き込んでいた。 そうして、大学進学と同時に出てきたこの街で、再会を期待しなかったわけじゃない。ただ、再会したから、何かが変わるとも思ってもいなかった。 僕にとってのさくらちゃんは、ちょっとだけ特別な幼馴染みの女の子という――それだけの存在だった。 そう……思っていた。 自分の職場を把握するためにあてもなく彷徨っていた校内の廊下で、すれ違うその瞬間まで……。 『さくら』 誰かに呼びかけたらしい声に目を向ければ、該当する女生徒が振り返る。 友達の呼び声に応える笑顔に、懐かしい面影を見つければ、それが幼馴染みの女の子だと僕は直感した。 だけど、小さい頃の面影を残しながら、十八歳の女性として、綺麗に成長していたさくらちゃんに、正直、僕は戸惑った。 すらりと伸びた手足。柔らかなラインを描く肢体。長く伸びた艶やかな黒髪。痩せた顎にゆるいカーブを描く頬の曲線。桜色の唇――と。 八年の年月をまざまざと見せつけられた。 成長に伴って、僕自身もかなり外見が様変わりした方だけれど、さくらちゃんは昔の愛らしさを残したまま、卑怯だと詰りたくなるくらい綺麗になっていた。 何かあったのかと思わせるくらい――綺麗に。 女の子は恋をすれば綺麗になるという話を思い出して、胸がざわついた。 ……誰か、好きな人がいるの? こちらに気づかないで通り過ぎていくさくらちゃんの背中に、心の内側で問いかければ、じんわりとした鈍い痛みを胸の奥に感じた。 それからは、校内でさくらちゃんとすれ違うたびに、目で追う日々。 そんな自分に気づけば、己の気持ちを自覚しないほど、僕は鈍感でもなかった。 いつの間にか、僕はさくらちゃんを好きになっていたらしい。 八年前、さくらちゃんは僕に第二ボタンが欲しいと言ってきた。 転校して、もう会えなくなってしまうその思い出にと、ねだる彼女にボタンをあげることは、何の躊躇もなかった。 慕ってくれるさくらちゃんの気持ちが嬉しかったから、僕はボタンをあげた。 もちろん、第二ボタンの意味は知っていた。多分、さくらちゃんも知っていただろう。 だけど、僕が贈ったボタンは思い出の記念。 そこに僕の恋心はなかったと思っていたけれど……。 ボタンを受け取って別れ際にさくらちゃんが流した涙が、ずっと頭の隅に残っていた。 春先、雨に濡れる桜を見ると、さくらちゃんの泣き顔を思い出した。 そうして、僕は花に降る雨―― さくらちゃんを思い出せば、その言葉が脳裏に過り、思い出の中のさくらちゃんは泣き顔に変わった。涙を拭ってあげたいという衝動に駆られる。 「ハルちゃん」と、僕を呼んで笑っていた、笑顔を取り戻したいと願う。 僕はもうあの日から、さくらちゃんのことが好きだったんだろうか? 僕も今じゃ二十三歳だ。それなりに女性と付き合いを重ねてきた。 もっとも、自分から積極的にというわけじゃなく、友達の紹介だとか、告白されてといった経緯からの交際だったけれど。何故か、あまり長続きせず、自然消滅という形で終わっていた。 真っ直ぐに僕を慕ってくれたさくらちゃんと比べると、付き合ってきた女の子たちは時折、僕のどこが好きなんだろう? と、疑問を感じさせたんだ。 もしかしたら、僕は無意識にさくらちゃんと彼女たちの好意を比べていたんだろうか? それを敏感に感じ取って、彼女たちは僕と距離を取るようになったのだろうか? 自分はそれほど鈍くはないと思っていたけれど、存外に――いや、途方もなく鈍いのかもしれない……。 そして、奥手ではないと思うのに、さくらちゃんに声を掛けることができない自分がいた。 さくらちゃんが、僕に気づいていないということもあったけれど。自分の気持ちに気づいてしまってからは、声を掛けるのが怖かった。 この気持ちに気づかなかったら、もっと気軽に声を掛けていただろう。 だけど、幼馴染みという関係に満足できないだろう自分を知ってしまえば、何を語ればいいのかわからなくなった。 もう八年が過ぎた。僕はさくらちゃんに気付かれないくらい、変わってしまった。 ――僕のことを覚えている? 今でも僕を好きでいてくれる? それを問うことに怖気づく。 もう僕のことなんて、忘れているのかもしれない。だから、僕に気づかないのかもしれない。 ――もう誰か、別の人を好きになった? だから、そんなに綺麗になったの? もっと早く、あの頃にこの気持ちに気づいていれば良かったのに。 そう後悔しながら、切り捨てられない想いから、僕の視線は変わらずに、さくらちゃんを追いかけていた。 一方通行だと思っていた視線が、たまにかち合うようになったのは、さくらちゃんのクラスを担当していた先生が事故で入院し、その代理を任され、彼女の前で教壇に立つようになってから。 それまで一教師の存在にすぎなかった僕が、さくらちゃんの中でどんなふうに変わっていったのかはわからない。 幼馴染みの僕に気がついたのか、それとも……十代の女の子たちにある、年上の男への憧れか。 どっちが僕にとって嬉しいのか、複雑だった。 変わってしまった僕をさくらちゃんは今でも好きでいてくれるのか。男として意識してもらえているのか。 何か言いたげな瞳は、僕と視線が合うと逸らされた。 好かれているという実感が持てずに、結果、声をかけるタイミングを完全に見失ってしまった。 若い教師というのは、女子高生にとっては恋愛対象になるらしい。 若さ故か、それともシチュエーションに燃えるのか。ストレートに好意をぶつけて来る女の子たちがいて、僕としても驚かされた。 勿論、丁重にお断りした。昔からなりたかった教師になれたというのに、その立場を放り出すような危険は冒せない。 教師と生徒の恋愛だなんて――そう考えて、自分とさくらちゃんの関係もそれに当てはまる事実に愕然とした。 恋は盲目というけれど、実際、それに似ている。 自分たちだけは違うと思っていた。 教師である前に、生徒である前に、僕たちは幼馴染みであった。だから、何も問題はないと僕は勘違いしていた。 でも、今は――。 『ハルカ先生って、何か癒し系でいいよね』 『ああ、真面目そうだよね』 教室の内側からそんな声が聞こえて、僕は戸惑う。 癒し系ってどんな感じなんだ? 真面目そうって言うけれど、教師の癖に生徒に恋をしているのに? 入って行き辛いな、と苦笑した。 小テストをしている間、時間潰しに読んでいた文庫本を教室に置き忘れていたこと知って、放課後に取りにきたら、どうやら教室には居残っている生徒がいるらしい。 どうしようかと迷っていると、会話は僕の存在を無視して――教室の中にいる彼女たちが気づくはずがないんだけど――続く。 『さくらはどう? ハルカ先生。さくらって、年上がタイプなんでしょ? いい加減、会えない初恋の人を追いかけるのはやめてさ。ハルカ先生とか、どーよ』 さくらという名前に過剰反応してしまう。 それに初恋って、僕のこと? 息をつめて耳を澄ます僕に、さくらちゃんの戸惑った、それでいて怒ったような声が届いた。 『――相手は先生だよ?』 対象外だと切り捨てられたような気がして、ズキリと胸が痛んだ。 『……あり得ないよ』 『ええっ? 何で? 禁断って、燃えるじゃん』 『燃えないよ。だって、表沙汰になったら、先生クビになるんだよっ?』 強い声の調子は、責めるように響いた。 『そんな迷惑――面倒なこと、嫌だよ』 さくらちゃんの声はそれっきり止んだ。黙り込んだことによって、それ以上の追及を拒んでいるのが、廊下にいる僕にもわかった。 違う声が慌てたように話題変換がなされるのを耳にして、僕は教室から離れながら、確信していた。 ――嫌われてはいない。 さくらちゃんは、僕の立場を知って、だからこそ距離をとっている。 僕たちは幼馴染みであったけれど――今は教師と生徒だ。 問題になれば、ただでは済まされない。それをさくらちゃんは理解している。 そして、それは問題になる感情が、さくらちゃんの胸の内側に息づいていることを教えてくれた。 教師になりたいんだと――さくらちゃんにも語った夢。夢を叶えた僕の立場を考えてくれるその優しさに、喜びが沸いた。 さくらちゃんを好きになって良かったと、心の底から思った。 その優しさを無下にしないよう、僕もまた距離をとった。 手を伸ばせば届くのに、決して手を伸ばしてはならない距離。もどかしさは募るけれど、卒業するまでと、心に言い聞かせて日々を過ごす。 そこに花が咲いていることを知ってから――卒業を迎える今日まで。 長かったのか、短かったのか、実際のところわからない。 僕の目の前で、卒業式は滞りなく終わった。 講堂を退場していく大勢の三年生のなかに、さくらちゃんの存在を、僕はいとも簡単に見つけてしまう。 僕の想いは一向に枯れる様子はない。 そうして、生徒たちを見送る僕の横をすれ違う瞬間、目が合った。逸らされる視線。 このまま終わってしまえば、二度と会えない予感があった。 だから、僕はさくらちゃんに伝言を頼んだ。 ――教科準備室で待っていると。 今まで、口にすることができなかった想いがある。 僕の胸で咲いていることを――告げるは、 君が咲かせた花があることを伝える、花便り。 伝言が届いたなら――会いに来て。僕の言葉で直接、伝えたい。 ――君が好きだよ。 「花信 完」 |