花の声 夕日のオレンジ色が青さを失った空に溶け、薄紅色に染めていた。 田舎の良いところは、景色を遮る高層建築物が少ないところだろう。 大型のショッピングセンターなんかも、二階建てが精々で、ちょっと歩いて見て回るだけでも疲れるぐらいに、横に広い。 まっすぐに伸びた車道の脇には、無限に広がっていると錯覚を起こさせるような、広大な田園風景があった。地平線まで続いていそうだ。 サラサラと青い稲穂をくすぐる風が、流れてくる先を見ればピンク色の空が見える。 夕焼けの空は赤いものだと思いがちだが、赤いのは夕日であって、淡い桜色の空が広がっている時がある。 勿論、ギラギラに赤い時もある。 移りゆく数分の間に、空の色は劇的に変わるんだ。 それをじっくりと眺めていられるのは、周りに観賞を拒むものがないからか。 人の目も少ないから、ぼんやり立っていても不審者に疑われることはまずない……と思いたいところだが。 昨今、田舎も田舎で物騒なのが、悲しい現実だ。 穏やかな夕暮れ時だった。学校帰りの道を俺たちはのんびりと歩いていた。 ――ニャア……。 小さな、小さな鳴き声だった。 車道を走りすぎた車の騒音に、掻き消されそうになる刹那。 その鳴き声は俺たちの耳に飛び込んできた。 『今、猫の鳴き声が聞こえたね?』 そう確認するように呟いた声が、俺の頭上から聞こえた。 目を上げると、空中に浮かんだ人影が俺を見下ろして、首を傾げる。 少し垂れ気味の目尻が、人が良さそうな印象を見る者に与えていた。それでいて、目鼻立ちが綺麗に整った顔立ちのそいつの名は、高宮秋良。永遠の十七歳。 宙を浮いている人間なんて、マジシャンぐらいしか思いつかないが、残念ながら秋良はマジシャンではない。 死人――いわゆる、幽霊って奴だ。 十年前に財産目当てで、叔父に殺された秋良は、現在、一部の人間の目にしか映らない存在となって、この世に在り続けていた。 そして、俺――春木誠人には、小さい頃から死人が見えた。この能力は母方の血から受け継がれ、お袋、姉貴も霊感は強かったが、俺のように死人の姿を、質量感を伴ってハッキリと見えることはなかった。 人とは違うものが見えてしまう。その異質な能力を隠していた俺は、次第に周りとの感覚にズレを持つようになった。 そんな時、親父に田舎への転勤話が持ち上がって、俺は死人が多い都会よりずっと過ごしやすいだろうということで、便乗してこちらへやって来た。 そうして出会ったのが、秋良と――秋良が幽霊となって守り続けている、妹の夏月だった。 「……ああ、今のは」 俺は並んで歩いていた夏月へと、目を向けた。 そんな俺の視界から、ふと彼女の姿が消える。 ひるがえる漆黒の長い髪。艶といい、コシといい、シャンプーのCMに出ていても遜色のない黒髪が、さらりと俺の視界をかすめていく。 「――夏月」 後先考えるよりも、身体が動いていた。 夏月を追いかけて、靴底がアスファルトを蹴る。 走っていく女子高校生の後を追いかける男子高校生の図というのは、傍から見た場合、どういう風に映るだろう? と、想像すれば背筋が冷える。 幸いに、周りには誰もいなかったから、通報されずに済んだけど。 数メートル、歩いてきた道を舞い戻って、夏月は車道と歩道を隔てている植え込みの脇で立ち止まった。制服のスカートが汚れるのにも構わず、しゃがみ込む。 『夏月?』 宙を泳いできた秋良が妹に声をかける。 俺もまた、夏月の肩越しに何があるのかと覗き込めば、 ――ニャア。 ハッキリと猫の鳴き声が、俺の鼓膜を震わせた。 捨て猫か? と、眉間に皺を寄せて目を凝らすと、乾いた砂の上に横たわっているのは黒猫の死体だった。 車に跳ねられたのだろうか。腹が裂けて、内臓が飛び出していた。 でも、腐った匂いはしない。もう死んで、数日が経っているのだろう。 はみ出た内臓はすっかり干からびていた。地面にこびりついた血痕も黒く乾いている。毛皮も、夏月の手が触れた瞬間、ハラリと皮膚からこそげ落ちた。 ――ニャア。 それでも、鳴き声が鼓膜を叩く。 夏月が手を伸ばした猫の死体の横で、黒猫が鳴いていた。 質量を伴ったように見える姿は、生きているのだと思わせたが、俺が伸ばした手はあっさりと猫をすり抜けた。 ザラリと指先に感じるのは、砂の粒。 猫はそこに変わらずに存在して、ニャアと鳴いているのに触れられない。 その黒猫もまた、俺たちにしか見えない幽霊だった。 「お前……死んでいるのか」 思わずこぼした呟きに、猫は応えるように鳴いた。それを合図に、黒猫の姿は溶かしたように消える。 『……見つけて欲しくて、鳴いていたのかな』 秋良の声が、田園を渡ってきた風に乗って寂しげに響く。 死んでしまった秋良の姿を目に出来るのは、声を耳にすることが出来るのは、今のところ、幽霊を見ることができる俺と夏月だけだった。 誰にも省みられることのない、死人の孤独を知っている秋良の声は、聞いている俺までしんみりさせた。 「そうだろうな……」 誰かに自分の死体を見つけて欲しくて、あの黒猫は鳴いていたのか。 猫っていう生き物は、死に際になると飼い主の元から消えるという。自分の死体を見せたくないらしいという話だ――本当のところがどうなのかは、わからねぇけど。 無惨に命を絶たれ、こんな場所に死体を晒されていたことが、辛かったのかもしれないと、俺は思った。 土日と休みを挟んでいたので、通学路を通る人間が少なかったから、こんなになるまで誰にも見つけて貰えなかったのだろうか。 死んでしまった秋良の声が誰にも届かないように、猫の鳴き声もきっと誰の耳にも届かなかったに違いない。 それとも、見つけられても誰にも省みられることがなかったのか。死体なんて、見ていて気持ちがいいものじゃないし、触りたくもないだろう。大抵の人間は目を瞑ってやり過ごすか、保健所辺りに苦情の電話を掛けるか。そんな感じだろう。 「――埋めるのか?」 夏月にそっと問いかければ、彼女はこくりと首を頷かせた。 制服が汚れるのも厭わずに、夏月は猫を大事そうに抱いていた。 秋良は殺され、その死体は隠されていた。行方不明と周りから見なされ、誰にも探して貰えず、埋葬すら成されないまま十年の月日を費やしていた。 そのことを思い出せば、例え猫の死体でもむげにはできないに違いない。 「なら、あまり人が踏み込まない場所がいいな」 さて、そんな場所はどこにあるだろうと考える。 目の前には広大な田園が広がっているが、幾らなんでも田畑に動物の死体を埋めるわけにはいかないだろう。 畦道も、川原の土手も。 人間が我が物顔で踏みつける場所で、永眠なんてできないだろうなと、苦笑をこぼせば、不思議そうにこちらを見上げてくる双眸があった。 長い睫に縁取られた黒い瞳。見る者の意識を惹きつけてやまない美貌。 夏月と秋良の兄妹は、整った顔立ちが際立ち、とにかく人目を惹きつける容貌をしていた。 それ故に、今まで色々と辛い思いをしてきた。 秋良が殺されて、その幽霊が目の前に現れたことで、夏月は当然ながら事件の顛末を知ったわけだ。それを周りに訴えたのだが、幽霊という単語を出してしまったから、誰にも信じてもらえなかった……。 それで終ればまだしも、夏月の美貌に男たちは寄って来るし、女たちは注視する。 だけど、近づいてくる人間たちに夏月が語る言葉は、秋良の事件。真相を知って欲しいと訴えても、やはり誰も耳を傾けてはくれない。 次第に周りから浮いて、果ては呪われているだの、悪い噂を立てられた。 そうして、夏月は周囲の人間に失望し、自らの声を長い間封印していた。 秋良の死体を俺が見つけたことで、夏月も多少なりと俺を信用してくれるようになったのか、少しずつ喋ってくれるようになった。 だが、喋ることに慣れていないせいか、いまだに声を発するよりリアクションが先立つ。 長い封印は、解けるのに時間が掛かるらしい。 それが、夏月が耐えて来た時間だと思えば、性急に喋ることを要求するのが酷に思えるほどだ。 もっと自由に声を発して、笑っていいんだと、教えてやりたい。 首を傾げた夏月に、俺は笑う。 「いや、地面ってさ。いつから、人間のものになったのかなって思ってさ」 動物の死体を埋めてやる猫の額ほどの土地すら、直ぐに思いつけない。 コンクリートで固められた地面。公園の芝生も立ち入り禁止の場所が多い。 墓場でさえ、値がついていて、何て窮屈な世界に住んでいるんだろう、と思わずにはいられない。 そんなことを考えながら、俺は歩き出す。夏月は猫の死体を落さないように、まるで宝物のように両腕に包んでついてきた。 通学路を行きながら、途中で思い当たって、道を折れた。 十五分ほど歩いて目指したものは、水田の間を走る畦道のその先にあった。俺の背丈より若干低い位置に屋根がある小屋だ。 犬小屋よりも大きいけれど、犬小屋よりもみすぼらしい小屋の中には、地蔵が祭られている。 罰が当たるかなと思わずにはいられなかったが、相手は地蔵様だ。 人間よりはずっと寛大な心を持っているだろうと、俺は夏月を連れて地蔵が祭られている小屋の裏手に回った。 地蔵には花を添えられていて、それなりに祭られている気配があったが、裏側は雑草が茂っていた。 ここなら、踏まれる心配はなさそうだ。 人間ってものは、見えるものにしか目を向けない。そんな悲しい性がこんなところにも現れている。 生い茂る草を掻き分けて、俺は手で土を掘った。生憎と、シャベルのような道具はないし。十分ほど、土を掻き分けて穴を掘る。 猫の死体を横たえるに充分な大きさになると、夏月が無言で俺と入れ替わった。猫をそっと穴の底に置いて、慎重な手つきで土をかける。 盛られていく土を手のひらで固める夏月の横で、俺はふと思い出して鞄の中に入れていた財布を取り出した。 小銭入れの中にグシャグシャにして突っ込んでいたそれを取り出すと、秋良が俺の頭の上で首を傾げていた。 『――花の種?』 「買い物したとき、なんかのオマケで貰ったんだよな。貰ってもしょうがないから、捨てようかと思っていたんだが……」 俺は袋からタネを一粒取り出して、土に埋め込む。 『何の花?』 秋良に問われて、袋の皺を伸ばすと、黄色い花が咲いていた。 「向日葵だって。目だって、墓には丁度いいよな?」 俺が言うと、夏月は小さく微笑んだ。 「帰ろうか?」 座り込んでいる夏月に手を差し出せば、夏月はこちらに手を伸ばしかけて、慌てて手を引っ込めた。 手を握るのが恥ずかしいのかと一瞬思ったが、俺の手は土に汚れていた。そして、夏月は土だけではなく猫の死体を手にしている。 自分の手が、汚いものだと思ったのかもしれない。 普通の人間は、やっぱりそんな汚れた手で触って欲しくないと思うだろう。 ――だけど。 俺は強引に夏月の手を掴んで、立たせた。そうして、手のひらの中に夏月の手を包み込んで、歩き出す。 「汚れてなんて、ないからさ」 肩越しに振り返って、告げた。 「汚れてなんかないぜ」 俺の声に、漆黒の瞳が瞬いた。 ちょっとだけ照れくさそうに笑いながら、頷く。 朽ちていても、小さな命を尊厳し、埋葬しようと思いやれる夏月の手を、汚いと言う奴がいたら、そんな奴は俺がぶちのめしてやる。 幽霊が見えることで、人との関わり合いを比較的穏便に済まそうと考えていた過去の自分が嘘みたいに、俺は夏月のためなら何だってしてやると、息巻く。 舗装された道に戻ったときには、陽は沈んで空は藍色に変わっていた。 隣にいる夏月の表情も、背後にした地蔵小屋も、よく目を凝らさなければわからなくなりつつあった。 それでも、月の光りに照らされて俺たちの影は真っ直ぐに伸びる。 初めて夏月をみたとき、周囲の優しくない視線に晒されながらも、夏月は俯かずに真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。 その姿は向日葵の花に似ているかもしれないと、ふと思う。 『綺麗な花が咲くといいね。お墓参りもかねて、また来ようね?』 と、秋良が話しかける声が聞こえ、夏月が頷く気配がした。 まだ、花の声は土の中に眠ったまま。 それでもいつの日か、陽の光りを浴びて、土から芽吹いて――きっと花は咲くはずだ。 俺はそう信じている。 「花の声 完」 |