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 君のとなり 〜指定席〜


 君のとなり。
 いつまで、私はこの場所に存在を許されるだろう?
 ぼんやりとそんなことを思いながら、となりの席の机の上に広げられた参考書を眺める。
 書き込みされ、よく使いこまれた感のあるくたびれたページをめくる音に混じって、女性の歌声が聴こえてくる。
 窓の外は、風に舞い散る雪の華。
 白い花弁は春先に降り積もる桜の花びらのように、ひらりひらりと風に踊りながら大地を白く染めていく。
 普段、雪がめったに降らない地方だから、少しでも積もると交通機関はたちまち麻痺してしまう。
 この雪のせいで、電車やバスは運休または徐行運転でいつもより遅れている。
 時計の針が始業時間を差しても、先生は現れない。どうやら、先生も遅刻組みらしい。
 教室は――私と君の二人だけだ。
 三年の受験シーズンで、授業がもうほぼない現状、わざわざ風邪を引きに雪道を登校してくる勇者はいないようだった。
 私は家が近くだったから、何となく休むのが憚られ登校してきた。
 教室に設置されたストーブに火を付けるのは、毎年教室に一番乗りする私の役目となりつつあったから、余計に休んじゃいけないような気がした。
 そんな私と違って君は、家が遠いからいつも朝早くに自転車で通学して来る。
 今日も同じように、早くに家を出たのだろう。それにしても、こんな大雪の日にいつもと同じように自転車に乗って来るなんて、君はドンキホーテ?
 君の自転車は悪路もらくらく乗りこなすマウンテンバイクだ。とはいえ、凍結した道路は危ないだろうに、君は何食わぬ顔をしてやって来た。
 そうして、暇を持て余した君は鞄から参考書を取り出し、耳にヘッドフォンをつけて外界を遮断した。
 窓の外に降り続ける雪は音を吸いこんで、私の呼気と君の呼気と、歌声だけを静寂に満ちた教室に響かせている。
「……耳、悪くなるよ」
 私は静謐を壊すように、唇を開く。
 そうして呆れ半分にヘッドフォンをつけ、同じ曲をエンドレスで聴きながら、参考書と睨めっこしている横顔に、ぽつりと呟いてみる。
 大音声だから、私の声なんて聞こえやしないでしょうけど。
 というか、私の存在なんて目に入ってやしないでしょうけど。
 熱心に参考書の文字を追う君の目は、逸れやしない。
 新学期の席替えで、この席になれたことを喜んだ私なんて、君には全く興味ないでしょう。
 やっと許されたこの場所も、三年生の私にはあまりにも短い冬の思い出。白い雪が解ける頃には、もう私には許されない場所となっている。
 どうせなら、二学期の席替えで君のとなりに並ぶことができたら良かったのに――と、愚痴ってもしょうがないことを思ってみる。
 目の前には、受験が迫っているから、君には余所見をしている余裕なんてない。
 その癖、一年ぐらい前の流行歌をただひたすら聴いていた。
 集中方法は人それぞれだから、文句を言う気はないけれど。ヘッドフォンから漏れるくらいの大きな音が、君の鼓膜を傷つけてしまうんじゃないかって、少し心配になるのよ。
 それにしても、君は本当にその曲が好きだよね。
 世間的に歌姫と呼ばれているその女性アーティストの声は少し甘ったるくて、私には眠くなる曲だ。内容も甘い恋の歌で、受験勉強時には向いていないと思うんだけど。
 その歌姫の声に、私の声は似ているらしい。
 窓ガラスの向こうで桜の花弁がハラハラと涙をこぼすように散っていた春先に、君が言ったこと。
『――さんの声、――に似ている』
 最初、私に言われた言葉だなんて思ってなかったから、直ぐに反応できなかった。
 春のクラス替えで、同じクラスになったばかりの君が、私の名前を知っていたこと自体がびっくりだった。
 目をパチクリと開いて見上げると、何気ない言葉に過剰反応してしまった私に、君も驚いたみたいだった。慌てたように、目を逸らして通り過ぎた。
 もっとも、新学期の第一日目に自己紹介をしていたから、君はその時に私の声と歌姫の声を結びつけて覚えたんだろう。
 君のたったその一言に、私は次の日から君を意識してしまった。
 それから、「ちょっと気になる君」が、一般的に言う「好きな人」に変わるのにそう時間はかからなかった。
 君は何と言うか、一本気な人だと思う。
 雨の日も風の日も、無遅刻無欠席の勤勉さで、マウンテンバイクを駆って登校してくる。
 家が近くの私は戸閉まりの関係上――鍵のかけ忘れがないように――仕事に出掛ける両親と一緒に家を出るから、教室に一番乗りになることが多い。
 そんな私の次に、登校してくる君はヘッドフォンで音楽を聴きながら、教室の片隅で――三学期になってからは、私のとなりの席で――参考書をめくっていた。
 一冊の参考書をくたびれるまで使ったりする真面目さで、勉強にしか興味がない堅物かと思えば、ときに周りを笑いに巻き込んで、お調子ものを演じたりしていた。
 軽いのかと誤解しそうになれば、君は一途に歌姫の一曲を変わらずに聴いたりしている。
 花から花へ移ろう蝶のように、周りの皆は恋に恋するかのように、一緒にいる相手を――時には、恋する相手を――変えていたけれど、君はただ自分の好きなものにしか興味を示さないみたいで。その一直線な性格がね、私の心の琴線に触れた。
 同じものを繰り返し聴いているのは飽きないんだろうかと、思ってみたりするけれど、好きなものはそう簡単に熱が冷めないものなんだと、我が身で実感した。
 教室で、君を観察する日々が私にとって飽きることなく、この一年続いていたように、君は使いなれた参考書を愛して、歌姫の一曲を愛して、三年生の一年を過ごした。
 君の熱心さが、私にも伝播して、私は君だけを見つめている。
 同じ教室で私たちは、春を過ごし、夏を追い抜いて、秋を見送って、最後の冬を迎えた。
 短い三学期の始業式の日、担任の先生は当たり前みたいに席替えを行った。
 新しい席を覚える方が面倒なくらい短い冬に、ようやく私と君の距離は手が届く――声が届くくらいに縮まったというのに。
 君の耳には、歌姫が愛を囁いている。
 ねぇ、そんなにその声が好き?
 似ているという私の声じゃ、代わりにならないかな?
 例えば、今ここで私が歌姫の代わりに君に愛を囁いたら、君は私に気づいてくれる?
 君の横顔は、頑なに私の存在を無視していた。
 ねぇ、君のとなりに私がいることを気づいている?
 君が好きで、君を見つめている私に、君は一欠けらも興味を持ってくれないの?
 君が望めば、私は今すぐにでも君のために歌うよ。
 でも、私じゃ駄目なの?
 この冬が終われば、君のとなりに私が存在することは許されないのだろうな。
 だけど、私はね。これから先の春も夏も秋も――そして、来年の冬も。
 君のとなりにいたいんだけど?
 気がつけば、私の腕は伸びあがり、君の耳に繋がったヘッドフォンのコードを引っ張る。
 簡単に外れて落ちるヘッドフォンが床を叩く音に、君は驚いたように振り返った。
 目が合う――君が私を見つめる。
「私――君が好き……」
 好きなんだと、告白した瞬間、ガラッと教室の戸が開いた。
 無粋な音は、最悪のタイミングで二人きりの空間を壊す。
 顔を覗かせたのは、学年主任の先生だ。場の雰囲気など全く意に介した様子もなく、用件だけを伝えてきた。
「せっかく登校したのに悪いんだが、三年は自宅学習だ。早く帰宅して、風邪をひかないよう注意するように。もう直ぐ、試験だからな。身体を休ませとけ」
 そうして、用は済んだとばかりに戸を閉める。ピシャンと戸枠を叩く音は、私の想いも断ち切るような冷たい音がした。
 冷やかなその音が、頬に上った熱をさまして私は我に返る。
 君はまだ私を見ていて、その目は驚いたまま、揺るがない。
 静寂が私の耳に戻って来ると、床の上から歌姫の声が聴こえた。
 ――好きだよ、と甘く囁く歌声はさっきの私の告白の声とは、似ても似つかない。
 私……。
 君の瞳が私を見つめているのに、私は君の視界に存在するのが居たたまれなかった。
 君が愛する歌姫と私は違う。
 私の声はこんなに甘く愛を囁けない。
 強すぎる想いは、不器用なくらい真っ直ぐで、何も飾れないの。
 優しくも柔らかくも甘くもない、剥き出しの感情はただ君を驚かせるだけ。
「――バイバイ」
 私は鞄を手に取り、教室を出ていこうとした。だけど、腕を掴まれて私の身体はその場に縫い付けられた。
 肩越しに振り返れば、君が私を見つめながら口を開く。
「もう一回、言って」
「……えっ」
「さっきの、もう一回」
 どこか縋るような切ない声に、私は唇を震わせた。
「……君が好き」
「ごめん、もう一度」
 確かめるように、君が問う。私の腕を掴む君の手の強い力に刺激されるように、私は声を吐きだした。
「――君が好き」
「それ、俺のことだよね?」
 こちらの顔を覗き込むようにして、訊いてくる。
「他に誰がいるのよ……」
 私が好きなのは君だけだよ? ずっと、私が見ていたのは君だけ。
 そう怒って睨み上げれば、次の瞬間、私は君の胸に抱き寄せられていた。制服の胸越しに伝わって来る心臓の鼓動は、壊れたみたいに鳴っていた。
「やばい、俺。幸せすぎて……死にそう」
 私の肩に顔をうずめるようにして、君は呟く。
「えっ?」
「いや、ここで死んだら勿体なさ過ぎる」
「……何?」
「ありがとう、神様。俺、精一杯生きるよ」
「…………もしもし?」
 ちぐはぐな会話を前に、私は目を丸くする。時々、お調子ものを演じる君を知っているけれど……。
 もしかして、からかわれているの? と、疑心暗鬼に陥った私の視線を前に、君は照れたように頬を染めた。
「えっと、俺も好きです。君のこと」
「……本当?」
「ずっと前から、好きでした。頼まれたわけじゃないのに、教室のストーブに火を入れるところとか、そういうところ。二年の時から、見て知っていて。すごく好きで。だから、同じクラスになってからは一番に会いたくて、毎日自転車必死に漕いで、学校に来ていた。でも、いざ二人きりだと緊張して、顔が見られないくらい――好き過ぎて……勉強ばっかりしていたんだ」
「あの参考書……?」
「うん。でも、おかげで一緒の学校に行けそうだから」
「えっ?」
「志望校、一緒。っていうか、一緒のところ、狙ってます。春になったら、アタックしようと計画してました」
「……そうなの? じゃあ……」
「えっ?」

 ゆっくりと繋いだ指先に、君の唇から笑みがこぼれた。

「これからも、君のとなりは――」

 誰にも譲れない、私の指定席。



                         「君のとなり 〜指定席〜 完」



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