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「怪盗ブルーバードの冒険 〜鳴き声が聞こえない〜」



「あなた、名前は?」
 彼女は、現れた客に問いかけた。
 どんな相手にも、最初にそう問いかける。決して、こちらから名乗ったりはしない。それが彼女に許された最後の矜持だったから。
 挑むような視線で見据える彼女の瞳を前に、彼は唇の端を持ち上げて笑う。
「ブルーバード」
 耳に入ってきた音に、思わず彼女は反応していた。
 いつもなら、名前を聞いても流すだけだった。記憶に止めることもしない。ただ、名前を言わせて、決してこちらが支配される側ではないことを知らしめる。
 しかし、金で買われた奴隷である以上、彼女には客を拒む権利はなかった。でも、心は支配させない。だから、相手に名乗らせても、こちらから名前を告げることは絶対にしない。
「ブルーバード? 変わった名前ね」
「廃れた古代語で、青い鳥という意味さ。青い鳥の伝説は、知ってるかい?」
 そう言って、小首を傾げる彼の白い頬に、黒髪が流れる。
 肩まで無造作に伸ばされた漆黒の髪。夜の闇に似た濃紺の瞳の青年は、それは綺麗な顔をしていた。
 女など、わざわざ買う必要などないように思える端整な美貌。
 見惚れそうになって、彼女は慌てて口を動かした。
「……一生に一度だけ鳴くという鳥のこと? その鳴き声を聞けば、幸いに恵まれるという」
 この国に古くから伝わる伝説。青い鳥が歌うその声を聞けば、幸せが約束されるという。いまどき、子供でも信じないであろう、おとぎ話。
「その青い鳥の化身さ」
 白い歯を覗かせて、彼――ブルーバードと名乗った青年は笑う。
 一片も、自らの存在に疑いを持っていないような自信満々の笑みを前に、彼女は目を丸くした。
「……あなたが? じゃあ、私のために鳴いてくれるというの?」
「さて。それは君次第だね」
「何がお望みなの? 夜の相手?」
 娼婦である彼女を求めて、やってくる相手の望みなんて一つだとわかっていて、彼女は問いかけていた。
 今までの客にない雰囲気の青年に、いつもと違う答えが返ってくるのでは? と思った。
「残念ながら、俺に買われた時点で、君が望む望まざる関係なく、今夜はお相手してもらわなければね」
 結局のところ、答えは同じらしい。
「……好きにしてよ」
 投げやりに言って、彼女は寝台に腰掛けた。
 娼館に身を置いている以上、彼女に拒否権はない。
 一瞬でも目の前の青年に期待しただけ馬鹿だったと、彼女は落胆に目を伏せた。
 そんな彼女の耳に、嘲笑染みた声が届く。
「買ったからって、俺が君を抱くとは限らないよ。せっかちな、お嬢さんだね。それとも、俺と寝たいの?」
 彼女は彼に向かって枕を投げつけた。ヒュッと空気を裂いて、放たれた枕を彼は軽く首だけを動かして、避けた。壁に叩きつけられて落ちた枕は、布地が破れ、中に詰められていた羽毛が舞い散った。
 彼は黒髪に掛かる羽毛を払いのけて、冷淡な目で彼女を振り返った。
「私がっ、好きでこんなことをしていると思ってるのっ?」
 こちらを見つめてくる濃紺の瞳を睨みつけて、彼女は声を張り上げた。
 頭の片隅に熱を感じる。視界が真っ赤に染まりそうだ。彼女は思わず震える自分の肩を抱いた。
 身に纏ったのは、薄い布地のドレス。
 それは肌が透けて見えそうなくらい、薄い。
 店が用意したこの服も、男を相手にするこの仕事も、彼女が選んだ運命ではない。
 それなのに、この青年は――。
「同じことを俺も言いたいね」
 瞳に宿った冷たさと同種の冷淡な声が、彼の形のいい唇から吐き出された。
「俺が好きこのんで、こんなところに来ていると思っているのかい? 俺は、愛した女しか抱かない主義なんだよ。初顔合わせの娼婦が幾ら誘ってきたって、俺はゴメンだね」
「……何、言ってるの?」
 彼の言葉の意味をはかりかねて、彼女は青年を見上げた。
「だから、今夜は相手して貰うけど、それは男と女のそれじゃないってこと」
 彼は手を前後に動かして、彼女に「避けろ」と、言った。
 指示通りに寝台の端に身を寄せると、彼は手にしていた大きな封筒を真ん中に置いて、彼女と反対側の端に腰を下ろす。柔らかな寝具は彼の体重に沈み、波打つように揺れる。その波は彼女の腰を僅かに浮かせた。
 下着が透けて見えるようなドレスを身に纏った女を前にして、彼は一つも顔色を変えず封筒から書類の束らしきものを取り出す。
 あまりに変わらない顔色に、彼女は己が置かれている現状を忘れて、自分に魅力がないのかと、思わず我が身に視線を落とす。
 白い肢体は胸元も豊かで、男好みしそうである。実際、彼女はこの娼館で一番人気だった。生憎と、彼女自身がそれを望んだことはないが。
 何故、この青年はこうも無関心なのかと、様子を伺うように彼の横顔を見やれば、濃紺色の瞳がチラリと動く。
「何、やっぱり、俺と寝たいの? 一目惚れした? そうやって言い寄ってくる女が多いんだよね、俺の場合」
 あっけらかんと、青年は言った。自らの美貌を自覚しているようだ。
 しかし、
「だけど、金を積まれたってね、俺は愛した女以外、抱かないから」
 唇を歪めて、彼は突き放すように言った。
 まるで、女なら誰でもいいような他の男と一緒にしてくれるな、と言いたげに眉を顰める。
「……愛している人が……いるの?」
 彼女は問いかけていた。
 もしも、いるとしたら。
 一途に愛される女性は何と幸せなことだろう、と羨望を覚える。
「さてね」
 大して興味なさそうに肩を竦めた後、彼は思い立ったように彼女を真正面に見据えた。
「――君が第一号になってみる?」
「……えっ?」
「ま、俺を真剣にさせられたらの話。正直、今の君には全く心揺れないから、挑戦してみるつもりなら、かなり頑張らないと駄目だけどね」
 彼は唇の端を解いて、軽やかに笑う。
 絶対に無理だというようなその笑顔を前に、
「……何なの、それ」
 毒気を抜かれて、彼女は肩の力を抜いた。
 目の前の青年が自分に迫ってくることはないと、確信できた。
 すると頭をもたげてくるのは、彼への興味だった。
 女目当てではなく、娼館にやって来た彼の目的は何だろう。彼女は彼が寝台の上に広げた書類に目をやった。
「君には、この書類の筆跡を見てもらいたい」
「えっ?」
 耳元に聞こえた声に驚いて振り返れば、青年の顔が間近にあった。
 思わず顔を赤くする彼女に、彼は顔色を変えずに一枚の書類を手前に引き寄せる。
「これは君のお父上が書いたとされるカルテだ」
「…………父……様?」
 呆然と彼女は呟いた。
 彼女が現在、このような運命にあるのは全て父親のせいだった。
 その父親のことが引き合いに出されて、一瞬思考が真っ白になる。
「……何?」
「王妃の出産記録と死亡診断書だよ」
 彼は淡々と事実だけを告げる。
 それで、理解しろというのは無理があるのだが、彼はそれ以上の説明をする気はないらしい。
「王妃様って……アクリシア王妃のこと?」
 彼女は、亡くなった王妃の名を口にした。
 十数年前に亡くなったとされる王妃――王族の専属医を勤めていた彼女の父親が、王妃の出産に立会い、そして死亡診断書を製作したのは状況からすれば、おかしなことは何一つない。
「この字は、君のお父上の字?」
 彼は書類を突きつけるようにして、尋ねてくる。
「……何なの?」
 彼女は問い返すが、彼は無言で書類を突き出してくる。
 仕方なく受け取って、彼女は書類に目を落とした。
 父親の字なんて……正直、見たくなかった。
 現国王が病に伏せったのは、彼女の父親が毒を盛ったからだと噂が立った。
 そこから一気に、彼女の生活は変わった。
 父親は捕らえられ、診療所から毒薬が発見された。
 そして、数日のうちに暗殺未遂の咎を受けて、処刑された。家屋敷は没収され、路頭に迷った彼女と母親は親戚に頼ったが、犯罪人の家族を受け入れてくれる家庭はなかった。
 母親は苦悩の末に自殺し、彼女は生きていくために働くこととなった。
 父親が王家に仕えていた頃の優雅な生活は、一転、色々あった末に彼女は娼婦に身を落としていた。
 過去が脳裏に蘇って、彼女は思わず目を伏せる。
「よく見るんだよ、現実を」
 厳しい声が彼女に目を見開かせる。
 どうして、この青年はこんなにも優しくないのだろう?
 彼女が睨み付けると、彼の瞳は冷たくこちらを見返して来た。
「――自分の過去に酔うのは止めなよ。自分だけが不幸だって、そんなことを思っているのが見え見えだ。私は可哀想、同情してくれなんて、訴える価値が君にあると思ってるの?」
 辛辣に言い放って、青年は鼻を鳴らした。
「なっ! あなたに何がわかるのっ? 私は父様のせいで、身体を売るようなことをしているのよっ?」
 これを不幸でなくて、何だと言うのか――。
 そう反論しようとしたところを、彼が割って入った。
「それは本当に、君のお父上の字?」
 先ほどと同じように繰り返す青年に、彼女は当然だと突き返そうとして、手が止まる。
 目を掠めた文字に、視線が釘付けになる。
 ――違う。
 ――――どういうことだろう?
 書類に綴られた文字。それは、彼女が知っている父親の字ではなかった。
「…………違う」
 混乱する頭で彼女は答えを求めるように、青年を見上げた。
 すると彼は、一言だけ告げた。
「偽造されたんだ」
「……何なの? どういうこと?」
 青年はもう用が済んだとばかりに、書類を封筒に戻し始める。やがて、寝台から腰を上げる彼に、彼女は取りすがった。
「待って、どういうことか説明してっ!」
「……君のお父上は嵌められたんだよ」
「ハメラレタ……?」
「平時なら今さら王妃の出産記録や死亡診断書を改めようなんて思わない。君のお父上もそうだっただろう。でもね、ある疑惑が持ち上がった」
「……何?」
「王子が偽者かもしれないってこと」
「……ビリジアス王子が?」
「そう。それで、偽者にすり替えた奴は慌てたのさ。君のお父上が、昔に書いたカルテを再確認するのではないかとね。そうする前に、書類を処分しようとしたが、残念。君のお父上は偽造を発見し、それをある人物に託した」
「……それが、あなた?」
 青年は薄く笑った。肯定も否定もしない。
「そして、君のお父上は国王に事実を告げようとしたところを――先回りされた」
 彼は手にした封筒を持ち上げる。
「この書類が公けになったときに困るから、口封じとして暗殺犯に仕立てられたんだよ」
「仕立てられた?」
「君のお父上は、暗殺犯じゃないってことだ。……君は、自分の父親が王を暗殺するような人だと思っていたのかい?」
「だ……だって」
 彼女は唇を震わせた。
 世間の誰もが、彼女を後ろ指指した。暗殺者の娘と――。
 だから、彼女は娼婦に身を落すしか、生きていられなかった。
『可哀想、同情してくれなんて、訴える価値が君にあると思ってるの?』
 ――彼の言葉が、耳元に蘇って、彼女は耳を塞いだ。
「だってっ! 誰も――父様を信じてくれなかったわっ!」
「そして、君もね」
 青年の声が鋭い矢となって、彼女の胸に突き刺さる。
 力なく床に座り込む彼女の頭上で、彼は感慨もなく言葉を紡ぐ。
「君自身が信じていないことを、誰かに信じて貰おうなんて、ムシが良すぎるでしょ? そのことに、一つも疑いを持たなくて、可哀想だと同情して貰えるはずもないよ」
「……私」
「青い鳥の伝説も一緒さ。信じていない者に、ブルーバードの鳴き声は聞こえない……」
 彼の声が遠くなったと、彼女が振り返れば青年の姿はどこにもなかった。
 辺りを見回すと、彼が腰掛けていた寝台の端に小箱が置かれていた。手のひらに収まるくらいのそれに、カードが添えられていた。
 青地のカードに、白いインクでブルーバードと署名が入っている。
 ――君のためには鳴けないけれど、君の幸を祈る――
 そこに記された文字に、彼女の目から涙がこぼれた。そして、小箱を開ければ、入っていたのは赤い宝石がついた指輪だった。
 彼女が十六の誕生日に、父親が贈ってくれたものだ。
 路頭に迷ったときに、売って手放したもの。この手に戻るとは思わなかった。
「……どうして?」
 彼は、何者だったのだろう?
 それがわかったのは、一月後のこと。
 彼女は巷で噂になっている「ブルーバード」の存在を客の一人から、聞かされた。
 何でも、貴族を相手に盗みを働いている怪盗らしい。
 ……単なる泥棒だったのか?
 よく話を聞けば、ただ盗みを働いているというわけではなさそうだ。
 彼の盗みを発端に、貴族の悪事が世間に露見しているらしい。
 最も、国王が倒れてからこちら、ビリジアス王子は無能ぶりを極め、一部貴族が政治を掌握している現状であれば、たいした罪には問われていないようだが。
 それでも平民の間では、「ブルーバード」は現状を打破する救世主と言われ始めているらしい。
 そして、「ブルーバード」によって、悪事を働いたとされる貴族の中に、彼女は父親の旧知であった者の名を耳にした。
 国王の毒殺未遂事件は彼が主犯だったということ。
 彼女の父親が実行犯だったという汚名は雪がれてはいない。だが、主犯の証言いかんでは父親の無罪が証明されるかもしれない。
 彼が暴いたのか、否か。真実はわからない。
 だけど、恐らく……。
 ――君のためには鳴けないけれど、君の幸を祈る――
 彼が、彼女のために動いたわけではないのだろう。
 きっと、何か目的があった。その目的を遂行する過程に、自分が居ただけに過ぎない。
 それでも彼は……。
「……私を……見捨てないでくれた」
 誰もが後ろ指を差すなかで、彼だけは真実を見極め、向き合ってくれた。
 決して、優しくはなかったけれど。
 彼女は、彼が取り戻してくれた指輪を胸に、心に誓う。
 やり直そう、全て。
 優雅な生活も、汚れてしまった身体も、取り戻せはしないけれど。
 人を信じることは、また出来るような気がするから。
 そして、もう一度、彼に出会うことが出来たのなら……。
 今度は、私から名前を名乗って。
 彼に伝えよう――。

 ――ありがとう、と。


                     
                         「〜鳴き声が聞こえない〜 完」


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フォレスト王国シリーズ