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 アップルパイはお好き?



 焼きたてのアップルパイ。
 テーブルの上に並んだ白磁のティーカップに、芳醇な香り漂う紅茶を注ぐ。
 さあ、今から優雅に午後の紅茶を楽しもうという矢先、姫君のひと言から、その騒動は勃発した。


「酷いわ、何てことなのっ? こんなことが許されると思って?」
 フォレスト王国の国王ジルビアの妹姫、セイラはわなわなと手を振るわせた。
「んな、大げさなことか?」
 二十二歳になるのに、十代前半にしか見えない童顔の宮廷魔法師団<<十七柱>>団長ディード・クエンツは片目を眇めるようにして、一応従妹である姫君にエメラルドグリーンの瞳を差し向けた。
「これが騒がずにいられるって言うの?」
「騒ぐほどのことでもないだろ?」
 ディードはそう問いかけるように、お茶会に列席している同僚を見やった。
 給仕役を買って出た宮廷魔法師ロベルト・エミリーは、ケーキナイフを片手に困ったような笑みを見せた。
 ディードに同意してやりたいところだが、姫君の勢いに水を差して良かった結果などない。恋愛至上主義を謳う姫君に、ロベルトは女性の敵と目されていた――それは、ロベルトがコロコロと付き合う女性を変えているからだが。ロベルト本人は付き合って欲しいと言われ、付き合って、別れて欲しいと言われて素直に身を引いた結果なので、どうして姫君に睨まれるのか、いまいちわからない――そんな彼としては下手に口を挟んで、火の手がこちらに及ぶことを避けたい。
 ディードの視線から顔を逸らしつつ、
「ミシェル様、アップルパイは好きですか?」
 ロベルトは王家の末姫に問いかける。
 八歳になる末姫はロベルトに問いかけられて、小さく頷いた。
「ミシェルはアップルパイが大好きです」
 人見知り傾向にある小さな姫君は、それを言うだけでも恥ずかしいのか、ポウッと頬を赤く染めた。
「では、ミシェル様のアップルパイは少し大きめに切りましょう」
「ありがとうございます、ロベルト」
 頬を小さな手のひらで覆って、嬉しそうにミシェルはロベルトを見上げた。
「いえいえ」
 小さな姫君に満面の笑みを返して、ロベルトはアップルパイにナイフを入れんとディードとセイラに背を向けた。
 極力、こちらに関わらないようにしている同僚の背中に、ディードは心中で舌打ちする。
(……野郎っ)
「お兄様、これは由由々しき事態よっ」
「だから、俺を兄と呼ぶなっ! あの馬鹿兄弟と一緒にされたくねぇんだよっ! 大体、何が由々しき事態だ? 高々、心理テストの結果が最悪だからって」
 こんなことなら、暇潰しにでも答えるのではなかった、とディードは嘆息をこぼす。
 セイラが面白い本を見つけたと言ってきた。質問に答えることで、その人の深層心理がわかるのだという。
 試しにやってみない? と、言われて、問われるままに答えたところ、姫君のこの反応だ。
「何を言っているのっ! この結果をお兄様は甘く見すぎているのではなくって?」
「甘くも何も……そのまんまじゃん」
「そのままとは、どういうこと? お兄様にとって恋愛は面倒っ?」
「……ああ、面倒くさいね」
「何てことっ! お兄様ったら、そんなこと許されると思って?」
「……許されるとか、許されないとか、一体、何なんだよ?」
「もう一度、やり直しましょう。こんな答えがあってはならないわ」
 ディードの問いかけを無視して、姫君は再び心理テストの本を手に取った。
「よく考えてみて、お兄様。人生において、恋愛とは何?」
「欠片にも必要がないもの」
 同じ答えを返して、ディードは顔を顰めた。
 色恋なんて、面倒くさいだけじゃねぇか。何で、そんなものを重要視するのか、ディードにはセイラの心理が計り知れない。
「何を言うの、お兄様。愛がなくって、どうして人生をやり過ごすというの?」
「……いや、生きていくのに愛なんてなくっても平気だろ?」
「駄目よっ! 愛がないなんて、それは林檎がないアップルパイと一緒よっ!」
「林檎がなけりゃあ……そりゃ、アップルパイじゃねぇだろ?」
「そう、つまり人生において林檎は必要不可欠なのよ」
 興奮したセイラは「愛」と「林檎」を言い間違えていることに気づかずに、常日頃から恋愛に疎さを見せ付けるディードに、恋の素晴らしさを語り聞かせるのはこの機会しかない、と熱弁をふるう。
「アップルパイに林檎が必要なように、人生にアップルパイは必要なのよっ!」
「はっ? セイラ、お前さ……何か、間違っていないか?」
「いいえ、間違いなどなくってよ。何が間違っていると言うの? お兄様はアップパイをなしに生きていけるの?」
 そう姫君は問いかけておいて、ディードが口を開く間もなく反論した。
「その答えは、否。人はアップルパイなしには生きていけないのよ」
「いや……アップパイなしでも生きていけるだろ。アップルパイが嫌いだって言う人間だっているだろうし。アップルパイがなけりゃあ、他のもんを食えばいいんだし」
「じゃあ、お兄様は林檎のないアップルパイを、アップルパイと認めるというのっ?」
「はっ? いや、……だから」
 支離滅裂になりつつある姫君にディードは顔を引きつらせた。
(……何で、こんなことになっているんだ?)


 そんな彼らの背後で、ロベルトは既に自分の分け前を綺麗に平らげたミシェルに尋ねた。
「ミシェル様、お代わりしますか? 団長は何だか、アップルパイがお嫌いなご様子です」
「ディードお兄様はアップルパイが嫌いなのですか?」
「そうらしいですね」
 ロベルトは小首を傾げ――前に、ディードに好き嫌いはないと聞いたような記憶があったが……嗜好が変わったのだろう、と自分を納得させては――頷いた。
「どうします? 嫌いなものを無理に食べさせることもないですから、ミシェル様がお食べになりたいのでしたら、食べても構わないと思いますが」
「頂いてもよいでしょうか」
 小さな姫君はソロリと自分の皿をロベルトに差し出してきた。小さくても女の子であるミシェルは大食に恥じらいを覚えている様子だ。
「はい。小さいうちは沢山食べることは良いことですよ」
 ロベルトはディードの取り分をミシェルに与えた。
 嬉しそうに頬を紅潮させるミシェルを見やって、ロベルトは自分の分のアップルパイを食した。
 さっくりとしたパイ生地と林檎の甘さと酸味が実に美味である。ロベルトは「団長もアップルパイが嫌いだなんて、人生、もったいないことをしてますね」と呟いた。


 三十分後、姫君との論点が果てしなく反れた論争に疲れ果てたディードは、糖分補給をしようとしたが、自分の分のアップルパイがなくなっていることに、思わず喚いた。
「俺のアップルパイはっ?」
 そんなディードにセイラ姫は勝ち誇ったように言った。
「お兄様も人生におけるアップルパイの重要性に、ようやく気づいてくれたのねっ!」
「違うっ!」


                             「アップルパイはお好き? 完」


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