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 お月様に乾杯



 一日の終わりとしてアレフは、自らが治安を管理するエイーナの街のメイン通りを歩き、トラブルがないことを確認して行く。そうして、見回りの途中、向こう側から歩いてくる一組の家族連れに、
「こんばんは、ユーシスさん、マリーさん、それにユニ君。今日は何か変わったことはありませんでしたか?」
 アレフは毎度のことのように、尋ねた。
「アレフ管理官、こんばんは。今日もいつもと同じように、平穏な一日でした」
 赤ん坊を抱いたユーシスはまだ幼さの残る笑顔で答えた。隣で彼の細君のマリーも笑顔を見せる。父親の腕の中で眠っている赤ん坊の安らかな寝顔に、アレフはその言葉を実感した。
「これから、アパートに帰られるんですね。お気をつけて」
 早く赤ん坊を柔らかなシーツの上で眠らせてあげたいという思いで、アレフはそれ以上の話を切り上げて彼らを見送った。
 それから、彼らがやって来た道筋を逆に辿って、一軒の雑貨屋に立ち寄った。
 もう店が終わったことを示すプレートが出ていたが、店内に明かりは付いていた。アレフはドアを開けて、呼びかける。
「こんばんは、クレインさん」
 カウンターに腰掛けた隻腕の青年はアレフを目にすると、唇の端を持ち上げて笑った。
「ああ、管理人さん。ちょうどいいところに来たよ」
「ちょうど良い?」
 小首を傾げたアレフに、店主のクレインは左手で手招きした。呼ばれるままに近づくと、クレインはカウンターの上に置いていた瓶を一本取り上げた。
「管理人さん、酒は飲めるよね?」
「ええまあ、普通に」
「味にはうるさい?」
「どうでしょうか。……美味しいものは美味しいと感じる方だと思いますが」
「そっ。まあ、いいや。一杯、やっていかない?」
「えっと……お酒を?」
「そう。今度、うちの店でも酒を取り扱おうかと思ってね。で、店の品を卸してもらっている人に相談すると、幾つか用意してくれてさ。今から味見しようかと思っていたんだ」
 アレフはカウンターの上を眺めた。そこにはずらりと並んだ酒瓶。十本ばかりはあるだろうか。
「試飲ですか……」
「けどさ、俺って食えれば、飲めれば、何でもいいって奴でしょ?」
「ああ」
 妙に納得してしまうのは、クレインの大雑把な性格を知っているからか。
 クレインは名前が覚えられない――耳で聞けば、それが誰を指しているのかはわかるのらしいが――と言っては、適当にあだ名をつけて、自分の上司の名前すら覚えていなかった。それだけならまだしも、国王陛下のお名前すら忘れているというから、なかなか豪胆な性格だ。
 元は王宮に務めていた宮廷騎士であったというのに。
 噂に聞けば、彼の性格は昔も今も根本的に変わっていないようである。
 アレフが何度名乗っても、名前を覚えてもらえず、治安管理官という役職から付けられたあだ名は「管理人さん」だった。
「どうせ、売るなら美味い酒がいいとは思うけど、値段の問題もあるしね。管理人さん、ちょっと飲んで、意見を聞かせてもらえる?」
「飲むのは構いませんが、私などの意見で参考になりますか?」
「少なくとも、俺の意見よりは役に立つと思うよ」
 そんなことはないだろう、と思いつつも、実際に飲み始めて暫く、二本の酒瓶の中身を混ぜて飲みだしたあたりを推察すれば、彼ほど自分を理解している人間も珍しいのではないだろうか、とアレフは冷や汗をかいた。
「……あの、混ぜてしまっては……味がわからないと思うのですが」
「うーん、何か水みたいな感じでインパクト薄くない?」
 雑貨屋の二階はクレインの居住区になっていた。その居間で二人は向かい合って、酒瓶を次々と開けては試飲をしていたが、ある程度の評価が出揃い始めると、クレインは酒を混ぜては混合酒を試し始めた。
「あの……これはかなり強いと思いますが」
 喉に通すだけで熱に焼かれたような感じが残るこの酒を水と評するか?
 目を剥いたアレフを余所に、クレインはアルコール度数がかなり高い酒で作った混合酒を一気にあおると、
「これは、いいかも。管理人さんも飲んでみなよ」
 アレフのグラスに二種類の酒を注いだ。
「あ、……はぁ」
 薄紫色の瞳で促されて、アレフはゴクンと一息飲み込んで覚悟を決める。グイッ、とグラスを傾けると案の定、熱が喉を過ぎ、胃をカッと熱くした。一気に体温が上昇し、汗がダラダラと流れ始める。焼かれた喉がうまく呼吸できずに、アレフは激しく咳き込んだ。
「大丈夫かい?」
「あ……はい」
 一応、頷いては見るものの、身体の熱は冷めない。一体、この酒は何なんだ?
 アレフはよろよろと部屋を横切り、通りに面する窓を開けた。
 開いた窓から流れ込んでくる夜気が火照った身体を冷やしてくれた。
「ホント、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
 まだ頬は熱いし、何だか視界はボッーとするし、足元はフラフラするが、大丈夫だと言っておく。それにしてもあの酒を飲んでもケロリとしているクレインを前にしていると、アレフは何だか自分が情けなくなってきた。
 この程度の酒で酔ってしまうなんて……。
 アレフはその昔、クレインに青虫色と言われた瞳に涙を滲ませた。
「く、クレインさんは……本当にお強いんですね」
 言ってしまうと、ホロリと涙がこぼれた。
 情けない、何で泣いてしまうのだろう? そう思えば思うほどに、涙がこぼれていく。
 どうやら、自分は泣き上戸らしい、とアレフは自覚した。今まで、酒を飲んでも一定の酒量でセーブしていたが、今日は限度を超えてしまったらしい。
 これではいけないと、まだ微かに残った理性が思うのだけれど……。
「どうしたら……そのようになれるのでしょう。私もクレインさんのようになりたいですのに……私ときたら」
 ハンカチを取り出し、涙を拭うアレフを前にクレインは薄く笑ってグラスに酒を注いだ。
「管理人さんは管理人さんでいいんじゃない?」
 涙で濡れた睫を瞬かせるアレフに、クレインは瞳を向けた。
「管理人さんが俺みたいになっちゃったら、管理人さんの存在はどうなっちゃうのさ。消えちゃうよ?」
「ですが……私は頼りなくて」
「頼りないから駄目なの?」
「ですが……」
 顔を上げるとハラハラと涙がこぼれる。そんなアレフをクレインは面白そうに眺めて、言った。
「確かに管理人さんは頼りないかもしれないけどね、強いことが全てにおいて問題を解決するわけじゃないでしょ?」
「ですが、このまま頼りないというのも情けない話でありますれば」
 アレフはうううっと、泣き崩れる。完全に酔ってしまったらしい。
「私は変わりたいと思うわけでして」
「まあ、その気持ちもわからないでもないけどね。あんまりコロコロと変わっちゃうというのも、信用できないもんだよ」
 クレインは窓の外に見える月に目をやった。夜毎に姿を変える月のように、変わってしまうものに対して、二度と戻らないものがあることを実感するのだ。
 失くした腕が、掴むことが出来なくなったものが、あまりにも多々有りすぎて。
 変化が決して悪いことではないとわかっている。何かを得ようとするならば、必ず変化は訪れるだろう。だが、変化というものにクレインは少しばかり抵抗を覚えるのだ。
 それによって失うものがあることが、わかっているから。
「……変わることは不実ですか?」
「いや。でも、変わって欲しくないと思うこともあるんだよ」
 アレフがどう思うと、彼の頼りなくても一生懸命に治安管理官としての役目を果たそうとするその姿には好感が持てる。彼の良さを、変化によって失くしたくはないと思う。
「管理人さんは一生懸命でいい人だよ。俺としては今のままの管理人さんでいて欲しいと思うよ」
「……ですが」
「変わるのもいいけど、今の自分の良さも忘れないで欲しいってことだよ。まあ、人間って思うほどに簡単には変われないけどね」
「変われませんか?」
「前にも言ったけど、願うだけじゃ何も変えられない。変わろうと思うだけじゃ、何も変わらない。努力しなきゃね……って、何だか、俺の言っていることも矛盾しているね」
 変わって欲しくないと願うというのは、願うだけでは何も変わらないという言葉に大いに矛盾する気がする。
 クレインはそんな自分の言動に、どうやら酔いが回ってきたようだな、と自覚しないでもなかった。
 そのクレインを前に、
「いえ、そんなことはありません。クレインさんのお言葉は明快です。私も精進いたします」
 生真面目に答えるアレフ。酔っ払っているのだろう。
 クレインは笑った。
 例えこの先、アレフがどのように変わろうと、根本にある生真面目さは不変だろう。何となく想像できた。
 それが凄く嬉しい、と思うクレインはこのまま酔いに任せて酒席を楽しもうと考える。窓の外に見える月を眺めて、月見酒としゃれ込もうか。
「とりあえず、もう一杯飲もうか、管理人さん。酒に強くなるというのも立派な変化だよ」
 クレインの勧める酒を、アレフは「はい」と受け取った。


 翌日、アレフは頭痛にさいなまれながら目が覚めた。やはり、昨夜の酒量は自分の限界を超えていたようだ。
 起き上がったアレフは現在いる場所が、自室の寝室ではないことに気づく。見回すと傍らのソファでクレインが眉間に皺を寄せて眠っていた。
 酔いつぶれて泊り込んでしまったのか。
 アレフはそっと身を起こし、テーブルに転がった酒瓶などを片付けようとした。暫くすれば、従業員であるユーシス一家がやって来て、店の開店準備を始めるだろう。マリーあたりが居住区の掃除を担当していそうだが、自分たちが散らかしたものを片付けさせるのも忍びない。そう思って、アレフは横になっていたソファから立ち上がった。
 しかし、昨日の酒の残りが足元をふらつかせ、アレフは頭からテーブルに突っ込んだ。
 派手な音が室内に響き渡ると、同時にクレインがカッと目を見開いて、起き上がった。
 テーブルにブーツの靴底を叩きつけると、人を殺しそうな目線でアレフを睥睨しては、
「テメェか! 人の安眠を妨害しやがってっ! 死ぬか? そんなに死にたいか? 望み通りに殺してやろうかっ!」
 不穏なオーラを背負ってクレインは叫んだ。
 この日、アレフはクレインが完全覚醒するまでの十秒間に寿命を縮めながら、二度とクレインの酒には付き合わないと心に誓った。
 ――彼の寝起きに付き合うようなことは絶対にしない、と。
 こうして、クレインは寝起きの変わりすぎた自身によって、酒の仲間を一人失うことになった。
 やはり、変化というものは時に信用すら失くすようだ。


                                 「お月様に乾杯 完」


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