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 「後日談 その道を塞ぐな!」


「うううっ、どいてよぉ」
 赤毛に赤い瞳の少年――大きめのシャツに膝をむき出しにした半ズボン姿のその人影は恐らく、誰の目にも少年に見えるであろうが、正真正銘の少女であった。
 名前をルビィ・ブラッド。愛称をルーと言う。
 ルーは道の真ん中に居座った黒猫を前に、唸り声を上げた。
 しかし、猫は少女の声など素知らぬ風に口を開けてはあくびをした。
「どいて、ってば。どいてくれないと、俺が先生に怒られちゃうじゃないか」
 抱えた荷物をギュッと抱きしめて、ルーは師匠であるその人のことを思う。
 脳裏に浮かび上がる銀髪に水色の瞳の類稀なる美貌の主は、ルーの養い親であり、とても大好きな人。
 捨て子だった自分を育ててくれた彼をルーは世界で一番好きだ。
 そして、彼もまた同じように自分を好きでいてくれる……そのはずだけれど、怒らせたら容赦なく怖い。
 どのくらい怖いかと言えば、鉄拳は飛ぶ。踵落しは炸裂する。弟子たちに食事抜きを宣言して、自分だけご馳走を食べるという……意地悪で、根性腐れも甚だしい。
 そんな師匠の名はレイテ・アンドリュー。不死の魔法陣を心臓に刻んだことによって、一千年の時を生きてきた偉大な魔法使いである。
 ルーはレイテのお使いで、今日はもう一人の弟子であるグレースの下へ届け物に来ていた。彼の家へと向かうその途中、黒猫が進路を塞いでいるのだった。
「お願いだから、どいてよぉ〜」


 パタンと読書していた本を閉じて、レイテは顔を上げた。
 書庫の窓の外を眺めれば、いつのまにか夕闇が広がっていた。
「もう、こんな時間ですか。そろそろ、夕食の準備をしなければいけませんね。さて、ルーはお使いから帰ってきているのでしょうね」
 一人呟いて書庫を出たレイテは、ルーの気配を探る。
 しかし、城のどこにも弟子の気配が感じられない。
「……ルー?」
 レイテは嫌な予感を覚えた。


「グレースさんっ!」
 ドアを蹴破り、声を荒げて、レイテはフラリスの街の自警団の団長の名を呼ぶ。
 自警団の詰め所で、待機と称して寝椅子に転がっていたグレースは慌てて飛び起きた。
「はいっ、な、何スか?」
 声の剣幕に重大事態が起こったのかと、焦って振り返ったグレースはそこに銀髪を乱し、肩で息をしながら詰め寄ってくる麗人を見つけた。
「若様っ? どうしたスッよ!」
「ルーは来ましたかっ?」
「嬢さん? いえ、嬢さんには会っていないスよ」
 それがどうかしたか? と、首を傾げるグレースに、「どうかしたのか、聞きたいのは、僕のほうですっ!」と、レイテは喚く。
「今朝、ルーにあなたへの用を頼んで送り出したのですが、まだ、帰って来ません」
「今朝って……もう夕方過ぎているスよ」
「だから、どういうことか、聞きたいのです。あの子は一体、何をしているのです」
 レイテは苛立ったように、首を振った。
「嬢さんの気配は……?」
 グレースはレイテの慌てぶりに戸惑いながら問いかけた。この師匠は溺愛する弟子の気配ならどこでだって感じ取れると豪語していた。それなら、ルーの居場所だって把握してしかるべきだろう。どうして、ここに来たのか?
「気配は感じています。僕があの子を見失うと思っているのですか?」
 半眼で睨まれて、グレースは首を千切れんばかりに横に振った。美人の一瞥はナイフの刃のように鋭い。視線で射殺されそうだ。
「……気配は感じています。しかし、これがあの子の気配なのか、怪しい」
 レイテは何かを掴むような形の手を胸元の位置に抱え上げながら言った。
「はっ? どういうことスか」
 意味がわからないと眉根を寄せるグレースに、レイテは続けた。
「動かないのですよ」
「……えっ?」
「掴んだこの気配は、先ほどから一歩も動かない。変でしょうっ? あの子に限ってっ!」
 そう断言してしまうのは如何なものかと思いつつも、反論できなかった。
 不死と言う特異性から人間社会と断絶したレイテの城の中で、十七年。
 この師匠と二人きりで生きてきたルーという少女は、世間知らずも極端で、非常識街道を爆走中というような、人の常識や予測の範囲に納まらない奇行を繰り返してきた。そんな少女がじっとしているなんて……。
「寝ていても、ベッドから転げ落ちるだけでは飽き足らず、部屋を一周してはカーテンを破く、テーブルは倒す。酷いときなど、窓ガラスを割るなど」
「そ、そこまで?」
「さすがに僕も毎度毎度、片付けるのが嫌になりまして。ベッドの空間から出られないように、結界を敷いてますよ。あの子が眠っている間は」
 うんざりした様子でレイテは肩を竦める。
 以前、酒に酔ったルーが窓の外に飛び出そうとしてからは、窓が開かないようにレイテは魔法を掛けた。それでも、ルーの寝相の悪さは止まることを知らない。
 成長してますます、その酷さはましていくばかり。
「そんなルーがですよ? じっとして、動いていないのですよっ! これは、変でしょうっ? きっと、何かをやらかしたのですよ」
「何かって何を……」
「例えば移動魔法の着地先を間違えて、何方かの家の煙突に入り込んで動けないとか」
「いや……それは」
 マヌケな話だがルーに限って言えば、有り得そうだった。
 冷や汗を垂らし、沈黙したグレースに、レイテは悲鳴染みた声を上げる。
「とにかく、あの子のことです。何か、とんでもないことをやらかしているのかもしれませんっ!」
 グレースは何だか、わからないが――レイテの切羽詰った形相に――危機感をあおられ、
「それは、何だか大変スッ!」
 何がだ? とは、思いつつも――追随した。
「グレースさん、僕と共にルーを捜してくださいますか?」 
 もし、何か問題が起こっていたら、レイテ一人では心もとなかった。
「もちろんスッよ」


 どっぷりと、日は暮れて漆黒の闇が辺りを支配するころ、レイテとグレースは道端に立ち尽くすルーを見つけることになった。


「――それで?」
 微かな笑みを唇に浮かべながら、しかし絶対零度の冷ややかな声はルーに続きを促した。
「えーと」
「それで君は、黒猫に進路を阻まれ、日がな一日、道路に立ち尽くしていたと?」
 口ごもる少女の弁をレイテは代弁した。
「あ、う」
 ルーがチラリと、目線を見上げれば、レイテはキラキラと後光を背負って艶然と微笑んだ。綺麗だ。この上なく綺麗だが……この師匠が、こういう笑みを見せるとき、とてつもなく怒っているのが常だった。
「まったく、君は。一体、何なのですか?」
 ルーに一歩近づくと、レイテは拳を作り少女の両こめかみに押し付け、グリグリと回す。
「い、いたじ、いだい、痛いですっ!」
「うるさいですよ、まったく。僕がどんなに心配したと思っているのです、君は」
 レイテはルーを突き放すと、
(とりあえず、誰にも迷惑を掛けていなかったから良かったですが……)
 心の中で愚痴りつつ、肩を大きく上下させて息を吐いた。
「それが、何ですって? 黒猫の前を通れない? 一体、どういう発想から、そんなことになるのですか」
「あうううっ、だって」
 半泣きになっているルーに、グレースは「大丈夫スッか、嬢さん」と問いかける。
 ルーはグレースに頷いて見せた後、レイテに痛めつけられたこめかみを撫でながら、小声で言った。
「……だって、不幸になっちゃうから」
「不幸?」
「それ、どういうことスッか?」と、尋ねるグレースに、ルーは答えた。
「黒猫に前を横切られると不吉だって。先生が言っていたから」
「……若様」
 ただでさえ、常識を知らないルーに、それが迷信で一般的に流布しているものでも、言ってはマズイだろう。
 微かに非難を込めて送られてきたグレースの視線に、レイテは顔を逸らした。
「……不幸になったら嫌だったから」
 しょんぼりとうな垂れたルーに、グレースは口元を引きつらせた。
 でも……レイテの怒りを買っていたら、意味がないと思うのだが?
「嬢さん、若様は嬢さんに何かあったのではないかと、ホントに心配していたスッよ」
 慰めるように声を掛けたグレースに、ルーはレイテを見上げた。
 普段は泰然としている師匠が、息を切らせて自分の元に駆け寄ってきたことを思い出して、ルーはほんのりと頬をピンクに染めた。
 時々、意地悪を言うけれど。それでも、彼が自分を大事にしてくれているのをルーは知っていた。
 ――レイテの心配が、この少女が巻き起こす騒動を懸念してのこととは、露も思わず。
 ルーは師匠の先ほどの仕打ちも、心配を掛けてしまった自分への戒め、愛情の現われだと思いこむ。
「先生、ごめんなさい」
 レイテに近づいて、ルーは彼のローブを摘んだ。顔を逸らしていた師匠は水色の瞳で弟子を振り返ると、言った。
「君にとっての不幸とは、何ですか? ルー」
「それは、先生がいなくなったりとか」
「僕は君を悲しませることなど、しませんよ」
「うん」
 ルーはレイテにヒシッと抱きついた。レイテは少女を抱き寄せて、抱え上げる。
 そっと、赤毛頭を撫でて、魔法で彼女の痛みを取り払ってやる。
「ルー、君を不幸にするものは僕が取り除いてあげます。だから、もう黒猫など恐れなくていい」
「はい、先生」
「遅くなりました。帰りましょうか」
「はい」
 ギュッとレイテの首に腕を回して、ルーは頷いた。レイテはそっと微笑んでそれに応える。
「グレースさん、お騒がせしました。僕らはこのまま、城に帰ります」
「はいスッよ」
 グレースが頷くと同時に、彼の視界から師弟コンビの姿が消えた。移動魔法で、二人が住む城に帰ったのだろう。
 ルーの人騒がせは今に始まったものではないので、グレースとしてはいまだ二人の師弟愛が冷めやらぬことに感動しつつ、ふと考えた。
「……って、嬢さん。移動魔法で黒猫を避けようと考えなかったスか?」
 一人取り残されたグレースは、ルーの前に立ちはだかっていた猫に目をやった。
 猫はグレースの視線を受けると、のろりと起き上がり、尻尾をくねらせながら彼の前を横切った。
「………………」
 黒猫に前を横切られたグレースは、不吉になるという迷信を脳裏に過ぎらせたが、馬鹿な考えを振り払うように頭を振った。
「あんなのは、ただの迷信だし。さ、帰ろ」
 そういえば、ルーは自分のところに用があってきたのではなかったか?
 ふと、思い出した兄弟子の来訪目的に――まあ、大したことではないだろうと思う。何しろ、あのルーに頼むような用件だ。そんなに重要用件ではないのだろう、と――グレースが気をとられた瞬間、彼の足元から大地は消え、彼の身体は川へと落ちた。


 このことから、後に三日ばかり寝込むことになったグレースは、黒猫の迷信を侮るなかれ、とルーに語り聞かせ、レイテに「余計なことを吹き込まないでくださいっ!」と、頬に鉄拳を受けることになった。
 やっぱり、黒猫は不吉の象徴?



                           「その道を塞ぐな! 完」

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