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 「後日談 明るい未来?」


「若様、こんにちはスッ! 今日も良い天気スッね」
 元気だけが取り得かのように、グレースは声を朗々と響かせた。
 全く悩みのなさそうな快活さに、今のレイテとしてはどう反応してよいのかわからない。
 緩慢な動きで視線をグレースへと投げれば、彼はこちらへと一歩踏み出しかけたところで、動きを止めた。
「………………」
「………………」
 グレースの茶色の瞳がレイテを捉え、「これは?」と、視線で問いかけてくるのがわかった。
 しかし、レイテは、何も聞いてくれるな、と。目に力を込めた。
 僕に、何も聞かないで下さい。もし、この現状を問おうとするなら、それ相応の覚悟してくださいね? 
 そう――艶然と微笑めば、グレースもまた頬を引きつらせて、笑みを返してきた。単に頬の筋肉が緊張に強張っただけなのかもしれないが。
 グレースの前には、一人の少女がいた。
 もう少女と言うには、少しばかり抵抗があるのだが――この年齢になれば、女性と言う表現が相応しいだろうが――少女の精神年齢を考えれば、むしろ幼女と言って良いかもしれない。
 だが、そういう年齢でもないので、一応、少女と表現しておこうと、誰に言い訳しているのかわからないままに、レイテは思うのだ。
 その少女は、血のように鮮やかな赤毛に、赤い瞳をしていた。
 城の前に捨てられていた赤ん坊であった少女に、レイテが贈った名前は、ルビィ・ブラッド。愛称をルーと呼ぶ。
 誰も訪れる者がいない世間から隔離された城で、レイテによって育てられた弟子第一号のルーを前に、数年前に弟子入りした第二号のグレースは目を瞬かせた。
 少女の姿のその意味が、わからないのだろう。
 ルーはガラスの瓶に、片腕を突っ込んでは唸っていた。握った拳が瓶の口から抜けなくなったのだが……。
「えーと、嬢さん? 何をしているスッか?」
 グレースが小首を傾げて尋ねれば、ルーがハッという顔で彼を振り返った。
 半分泣き出しそうに潤んでいた赤い瞳がグレースを見つけて、宝石のように煌めく。
「グレースさんっ! 助けてっ! 手が取れなくなっちゃった」
 ルーが口を大きく開いて叫べば、グレースの目は点となった。
 そうして、彼の茶色の瞳はこの事象について確認するかの如く、レイテへと流れてくるのだが、不死の魔法使いは水色の瞳を明後日の方向へ向けて、黙殺した。
 視線をそらしたレイテの視界の端、グレースがしょうがなくルーに声を掛けるのが映る。
「…………えーと、嬢さん? 抜けなくなったって……そのガラス瓶からですか?」
「そうなの。先生がこの瓶から、リンゴを取り出せって言うから、手を入れたら抜けなくなっちゃったっ!」
 悲愴感溢れる声を発して少女は、ガラス瓶の中で、赤く熟れたリンゴを握り締めていた。
 リンゴの大きさは、ガラス瓶の口よりは大きい。そのリンゴが瓶の中に入っていること自体、不可思議な現象ではあるだろう。
 しかし、不死の魔法使いであるレイテにしてみれば、リンゴをガラス瓶の中に入れることなど造作もなく……また、取り出すことも簡単だ。
 何てことはない、魔法を使えば良いだけの話である。
 そして、レイテがルーを相手に行っていたのは魔法講義である。
 物質を転移させる魔法を教えていたところで、レイテはガラス瓶とリンゴを使って弟子の理解度を試そうとした。
『それでは、ルー。この瓶からリンゴを取り出してみなさい。ああ、わかっていると思いますが、君が直接、この瓶を割ったりしたらお仕置きですからね? 上手く取り出せたら、そのリンゴを使ってアップルパイを作ってあげましょう』
 飴と鞭の使い分けを心得ているレイテのその一言に、ルーは目を輝かせた。この少女は甘いお菓子に目がない――レイテが菓子作りを苦手にしているので、滅多に口に出来ないのだ――よって、最近レイテが作ってやるアップルパイが――パイ生地さえ失敗しなければ、比較的簡単に作れる――ルーのお気に入りであることは、熟知している。
『本当ですか? 先生』
『僕が嘘をついたことがありますか?』
『…………』
 一瞬、少女の目が据わった。
 過去、レイテによって騙された――普通なら、冗談で終るところがルーには冗談では済まされなかった故に――事象の数々がルーの脳裏に、走馬灯のように過ぎったのだろう。
 赤い瞳が剣呑さを湛えて、レイテを見上げる。
『……過去の過ちを引きずるのはよくありません。未来を見つめましょう、未来を』
 白々しくも、そんな言葉を吐いて、ニッコリと笑うレイテにルーは生真面目な顔をして頷いた。
 真剣な眼差しで赤いリンゴが入ったガラス瓶を見据える。
 普通に考えれば、講義の内容を反芻して、魔法を実行させればガラス瓶の中からリンゴを取り出すのは簡単なはずだった。
 しかし、弟子の思考はレイテの想像を絶し、ガラス瓶の中に直接、手を突っ込んだのである。
 ――この馬鹿弟子がっ! という怒号が、レイテの喉まで出掛かった。
 だが、少女が次に取った行動を前に言葉は奪われ、レイテの精神は絶望の淵から奈落の底へと突き落とされた。
 リンゴを握った少女が、『手が抜けなくなった!』と、騒ぎ出したのである。
(――知らない。もう、知りません)
 目の前の現実から逃避すべく奈落の底で、レイテは頭を抱える。
(――僕が悪いのですが? 僕が育て方を間違えたのですかっ?)
 誰に問いかけようもない問いを、脳内で巡らせていたときに、グレースがやって来た。
 そして、彼の目にもルーの短絡さがアリアリと映ったようだ。
「どうしよう、抜けないよっ? 俺、ずっとこのままなのっ?」
 半狂乱になって叫ぶルーを前に、グレースは絶句する。レイテはそこに、一瞬前の自分を見ている気がした。
 グレースが助けを求めて送ってくる視線が…………皮膚に突き刺さって痛い。
 しかし、イタイのはルーだ。
 ルーの行動がちょっとばかり非常識なのは……やはり、世間を知らずに育ったせいだろう。それは、しょうがないのかもしれない。
 レイテの住む城で、ルーは約十七年間、レイテだけを相手に生きてきたのだ。世間の常識から外れたとしても、大目に見て欲しい。
 しかし、今現在、レイテやグレースの目の前で繰り広げられているルーの奇抜な行動。これは世間を知らないという問題だろうか?
 サルでも、もっと賢い気がする。
 少なくとも、ガラス瓶の口から手が入ったのならば、手は瓶の口から抜けるはずだ。
 ――リンゴから、手を放せば。
 これは、ルーの人間としての尊厳に関わる問題ではないか?
 そう考えれば、レイテの目の前は絶望色に染まる。
(……僕が拾ったのは、人間の赤ん坊だったはずです)
 しかし、ルーをサル以下に育ててしまったのは、養い親であるレイテの責任だと責められれば、弁解の余地はない気がした。
 過去を引きずるのはよくありません――と。弟子に言った言葉を思い出して、レイテは窓から覗く青空に思いを馳せてみたが……。
 果たして、ルーの未来は明るいのだろうか?
 それは神のみぞ、知る。


                         「後日談 明るい未来? 完」

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