夏色時計 時計の針が刻々と、時を刻んで一周するように、私たちが乗った観覧車は頂上へと昇って行く。 ゆらゆらと揺れる微かな振動。 私服姿の彼――珠樹くんの肩越しに見える風景が少しずつ、小さく遠のいていく。 灰色のビルが、入道雲を波頭に見立てた夏空の海底に沈んでいく。碧い木の葉が風に揺れる様は、日に反射する水面の波紋のよう。 蒼穹の近く、眼下に地上を眺めれば、中央の広場にある噴水の吹き上がる水が真夏の陽光を反射させていた。 人の姿はお人形みたい。遊園地の遊具は、オモチャに見える。 オモチャ箱をひっくり返したような異空間を見下ろしていると、巨人になったような錯覚。 いつもと違う自分になったように思えるのだけれど、それは恐らく気のせい。 私は私、どんなに願っても、まどかという名前や存在は変わらない。 例えば、いつもよりお洒落してみても、口紅なんて塗ってみても。 時が止まればいいのにと、埒もないことを願うだけで、二人の関係を変える言葉を告げる勇気も持てない。 錯覚に酔い、巨人になったつもりでも、臆病者のノミの心臓。小さくて度胸がない。その癖に、口を開けば飛び出すのではないかと思うほど、胸の内側ではねている。 激し過ぎる心音があふれ出して、彼の耳に届くのではないかと思えば、鼓動を止めたくなる。 それがどういうことか理解しかねるほど、頭は一杯一杯だ。 本当に情けないと思う。 友達が気を利かせて、夏休みの真ん中に、クラスメイトを集めてセッティングしてくれたというのに、珠樹くんと二人きりの空間は無言のまま。 彼は少し不機嫌そうだ。 観覧車に乗ってから、一言も口を開いてくれない。 教室での珠樹くんは割と気軽に声を掛けてくれる。 特別仲がいいとは言えないだろうけれど、だからって二人きりになったからって、会話を交わさないということもない。 今までだって、二人きりで残った放課後の教室で、とりとめのない雑談を交わしたことはある。 自分で言うのも悲しいけれど、私はおっとりしている方だ。友達と会話すると、話したいことの半分しか――時間がなくなってしまうの――話せない。 だから、中学を過ぎた頃から私は聴き手側に回って、あまり自分から喋らなくなった。 必然、引っ込み思案、大人しいというイメージがついて、親しい人たち以外は私と距離を置く。 そんな中、珠樹くんは私が話しやすいようきっかけをくれて、そして私が話したいことを話し終わるまで丁寧に相槌を打って、聞いてくれる。 なのに、今日は……。 私が意識し過ぎているせいなのかな。 今までみたいに、珠樹くんの言葉に反応を返せない自分がいる。いつも以上に、うまく言葉を返せないから、ぎこちなくなって、彼も自然と無口になっていた。 話しかけても反応がないんじゃ、楽しくないよね? 珠樹くんの不機嫌の原因は間違いなく自分なのだとわかっていても、喉の奥に何かが詰まったように、声が出ない。 伝えたい想いは一杯あるのに。話したいことだって、山ほどあるのに。 時間は刻々と流れて、観覧車は降下を始める。少しずつ地上に近づく。 友達が与えてくれたシンデレラの時間も終わりが近づく。 今日のために、洋服を見繕って、メイクだって教えて貰った。 『まどか。いつまでも、このままでいいなんて思っていちゃ駄目だよ?』 何度も聞かされた忠告。 彼女は好きだった相手が遠くへ転校した。別れ際、「好きだった」と言われたそうだ。 でも、過去形で語られたその言葉に、彼女は「自分も」とは言えなかったらしい。 『ああ、彼の中で自分は終わった存在だなって、思っちゃったんだよね』 と、彼女は悲しげに笑った。 相手が言葉の末端まで気を使っていたのか、疑問だと思う。意図せず、過去形にしてしまうことは誰にだってある。 だけど、彼女は想いを告げる勇気を持てずに、胸の内側に仕舞ってしまった。 もしもあの時、想いを告げていたらという彼女の後悔が、私に魔法をかけた。 普通だったら、余計なお世話だと思うかしれない彼女のお節介は、だけど私をシンデレラの気分にさせてくれた。 もしかしたらと、期待と不安でお城ならぬ――遊園地までの道のり。 ドキドキして王子様とダンスを踊れば――多分、ドキドキのし過ぎで、色々とから回ってしまった。 観覧車が一周して私たちが地面に降りたら、また皆と合流する。そうしたら二人の関係は一定の距離を保って、また元に戻ってしまうのだろう……。 あとどれぐらい、二人きりの時間が残されているの? 一周二十分っていう話だった。だから、休憩がてらに乗ろうということになって、彼女が気を利かせて私と彼を二人きりにしてくれたんだけれど。 その残された時間は……。 私は左手の手首に巻いた腕時計にちらりと目を走らせた。 「――俺といるの、つまんない?」 不意に声が響いて、目を上げると少し怒ったような顔がある。 「……えっ?」 「まどかさん、時間、気にしているからさ」 ぶっきら棒に言ってそっぽを向くと、珠樹くんは小さく舌打ちした。 「……あっ」 彼がこんな風に苛立ちを表に見せるのは珍しい。それは他でもなく、私の態度が悪かったから怒らせたのだけれど。 ……違うよ、という言い訳は喉の奥から出てこない。 時計を気にしたのは、流れていく時間を止めたかったから。 永遠に、十二時の鐘が鳴らなければいいと、シンデレラは思わなかっただろうか? 一夜の夢で、彼女はすべてを諦めることを良しとしたのだろうか? 継母たちに苛められ、掃除洗濯を押し付けられる毎日に――いつもと同じに。 いつもと同じ? 私は不意に気づいた。 甘美な夢を知ってしまったら、もう同じ日常になんて戻れるはずはない。 きっと、虚しさに泣いて、ため息の数だって増えるだろう。 ハッピーエンドで終わった物語には描かれなかった、もう一つのエンディングは私が迎える結末。 機嫌を損ねた彼と二学期から、また今までと同じように接することができると言うの? きっと彼の方が嫌がる。話しかけても反応を返してくれるかどうかわからない相手より、気心が知れた相手を話し相手に選ぶだろう。 私は自分からチャンスを台無しにした。ガラスの靴を粉々に砕いてしまった。 じわりと目頭が熱くなる。色々な考えが駆け巡る中で、彼女の声が脳内に響いた。 『まどか。いつまでも、このままでいいなんて思っていちゃ駄目だよ?』 泣くより先に、言わなければならない言葉があることがわかっているから、私は声を絞り出す。 告げられない想いに後悔した彼女が掛けてくれたのは、シンデレラの魔法じゃない。 例え、想いが通じなくても、失恋してしまっても、後悔だけはしないでと、背中を押してくれた勇気の魔法。 「あのっ……私……」 声を張り上げれば、俯いてしまった彼が億劫そうに顔を上げ、それからギョッと目を見張った。 「な、泣かせるつもりじゃなかったんだっ!」 慌てたように立ち上がれば、ゴンドラがぐらりと揺れた。 「うわっ!」 揺れたと言っても、さほど大きな揺れではなかったと思う。けれど彼は、頭を抱えるように床にうずくまった。心なし、顔色が悪い。青ざめた肌色。血の気が引いている。 「……あの……」 そっと声を掛ければ、彼はハッと顔を上げて、私を見つめるとくしゃりと表情を潰した。 「――カッコわりぃ……」 呻くように呟いて、それでも彼は立ち上がれずにいた。 「もしかして、高所恐怖症?」 ふと思いついた単語を口にすれば、珠樹くんは不承不承といった感じで、顎を引いた。 「ガキの頃、住んでいたマンションが火事になったんだ。結果から言えば、ボヤでたいしたことなかったんだけど、俺は五階に取り残されて。下を覗いたら、黒い煙が流れてくるし、消防車やはしご車が集まっているし、野次馬が無責任に「受け止めてやるから、飛び降りろ」とか言って――」 五階なら、はしご車が届くのではないかしら? と思えば、彼も頷いた。 「ホント、あの状況ではそこまでする必要なんかなかったんだ。だけど、周りが煽るから、パニックって。以来、高いところが駄目になった。景色を見なければ何とか大丈夫なんだけれど」 「……どうして」 黙っていたの? と、私は問う。 今日回ったアトラクションは、割と高低差のある絶叫系だった。男子はそういうのが好きだから誘いやすいだろうと、市内にある二つの遊園地のうち、こちらを選んだ。 この遊園地に来ることは彼や他のクラスメイトを誘うときに言ったから、珠樹くんは断ることもできたはずだ。 周りに知られたくないとか? あまり人に言いふらしたいことではないだろう。ならばなおのこと、最初から誘いを断っても良かったはずだ。 彼が参加しやすいようにと、割と多くのクラスメイトに彼女は声を掛けた。それでも用事とかで参加できない子もいたから、珠樹くんだって言い訳一つで断れたはず。 夏休みの登校日、彼を誘うときは私も一緒にいた。傍で見ていたから、彼女の誘いがそれほど強引だったわけじゃないことは証明できる。 なのに――。 「まどかさんがいたからでしょ」 彼は盛大な溜息を吐いて、私を見上げた。床に座り込んだまま、私を見つめて言った。 「まどかさんがいたからだよ。でなきゃ、俺だって来なかった」 「……えっ?」 「もしかして、鈍い? そういうところも、可愛くて好きだけど」 彼の口から飛び出した思わぬ言葉に、私はパチパチと目を瞬かせる。 「本当、来て良かったと思うよ。まどかさんを狙っている男子は多いんだよ。そういうの知っていた?」 ふるふると首を横に振れば、 「そうだと思ったけどね」 彼は肩を竦めた。 「隙だらけだったから、俺としても攻めあぐねていたんだよ。話しかければ、割と応えてくれるから、脈ありかなと思うんだけど、他の男子にも同じように応えているからさ……」 「そんな……」 私は喉の渇きを覚えた。声が上手く、喉を通せない。 だって、彼の言葉を理解すれば…………私たち、両想い? 確認したいけれど、声が出ない。必死に声を絞り出そうとする私にお構いなく、彼は続けた。 「今日だって、まどかさんがいたから来たんだよ。たかが高所恐怖症で、他の奴に持っていかれたら、泣くに泣けないからね」 やけに饒舌な珠樹くんに、私は目を丸くする。 もう隠す必要がないからなのか、それとも……。 私は彼の手が震えているのに気がついた。 高所恐怖症を自覚した瞬間、今まで我慢したものが止められなくなったの? 「だから、覚悟を決めて今日は来たんだ。玉砕していい、今日で決めようって。夏休みだし、ふられても二学期まで間があるから、立ち直れるだろうと思ってね。なのに、まどかさんってば、話しかけてもどこか上の空で……まあ、俺もいつもよりテンション高かったけど……」 ――私は緊張していた。いつもと違うシチュエーションで彼が隣にいたから。 でも、緊張していたのは私だけじゃなかった。 「気持ちを盛り上げていないと参りそうだったから……」と、珠樹くんはため息をつく。 高所恐怖症を気持ちで克服しようとしたのだろう。 それなのに、私は自分のことで頭が一杯で、何も気付けなかった。 「ごめんなさい……」 ようやく絞り出した声で、私は謝る。 「どうして、まどかさんが謝るの? 謝らなきゃいけないのは、俺の方じゃない? 今日一日、君の横にはりついて、うるさくして、台無しにした」 違う……。 私は隣に珠樹くんがいてくれて、嬉しかった。嬉しかったよ。 「……私も一緒なの……」 こみ上げてきた感情に、言葉が詰まる。 「……私も一緒だったから……」 必死に言葉を紡ごうとするけれど、喉が震える。そんな私に、珠樹くんが震える手のひらを差し出してきた。 「ごめん、手を握って?」 「えっ?」 「さっきのあれで俺、パニックってる。まどかさんの話を聞きたいけれど、じっとしているの、ちょっと辛い」 指先が触れた瞬間、彼の手が私の手を包み込んだ。大きな手のひらにじっとりと滲んだ汗を感じる。 でも、嫌な感じはしなかった。緊張と興奮と、言葉に出来ないところで、訴えてくる気持ちに私は嬉しくなった。 「……あの……あのね」 「うん?」 彼は頬を傾けるようにして、私の次の言葉を待つ。放課後の教室にいるような空気が観覧車の中を満たす。 珠樹くんはいつだって、上手く言葉を操れない、私をじっと待っていてくれる。 優しい瞳が時の流れをゆっくりと穏やかなものに変えて、いつも取り残されがちな私はようやく自分のペースで言葉を口にすることができるの。 そういうところがね、好きだと思ったの。 不器用な私を受け止めてくれる珠樹くんが、すごく好きだと思ったの。 「……私、……珠樹くんが好き」 繋いだ指先に力がこもる。 「俺もまどかさんが好きだよ」 「うん……。嬉しい」 「俺も」 「うん」 語りたい言葉は山ほどあるけれど、拙い相槌だけで何だか満たされるような気がするのは、握った手のひらの温度が一つになれたからかな。 そっと笑う私に、珠樹くんも笑顔を見せてくれた。 「……俺がさ、高所恐怖症って知っても、笑わなかったね」 「笑うことじゃないと思う」 「うん。でも、結構、皆は笑うんだよね。理由聞かないで、ダセぇって。だけど、まどかさんはちゃんと理由を聞いてくれる。まどかさんはさ、話上手じゃないせいかもしれないけれど、人の話をよく聞いているよね」 「そうかな?」 「うん。まったりペースで、テンポは遅いけど、俺ね、まどかさんと話すのが好きだよ」 誉められているのかな? 少しだけくすぐったい感じがして、面映ゆくて赤面する。俯く私に彼は続けた。 「あれだな、ジェットコースターだと高さに対する恐怖しかないけれど、観覧車の場合、ゆっくりペースだから割と平気な気がしてきた」 覚悟を決めたように、珠樹くんが立ち上がる。私もまたつい、と腕を引っ張られ立ち上がった。二人並んで椅子に腰かけ、外を眺めればもう直ぐ地上に辿り着く。 二人きりの時間も、あと少し。 珠樹くんも意を決したように、窓の外を眺めていた。その横顔がポツリと呟く。 「何だか、高いところから見ると、遊園地っておもちゃ箱みたいだな」 繋いだ手にギュッと力を込めて、彼の笑顔が私を振り返った。私と同じことを思っている感性が嬉しくて、私も笑顔を返す。 「……うん、悪くないな。観覧車って、まどかさんみたいだね」 「そう?」 「せかせかしていない、ゆっくりペースでしょ。高所恐怖症になった一件から、俺、急かされるのが正直言って苦手になったんだ。けど、まどかさんといると、何か時間の流れがいつもと違って落ち着いていて、普段、気付かないことに気づくんだよ。観覧車と一緒だよ。きっと、ジェットコースターなんかじゃ、早すぎて周りを見回している余裕なんてないし、こんなこと感じられなかったろうな」 悪くないね、と繰り返して、珠樹くんは「あーあ」と大きなため息を吐いた。 「何か、惜しいことした」 「えっ?」 「もっと早く告白していれば、二人きりの二十分を堪能できたのに」 「もう一回乗る?」 もう少し、二人きりの時間が続けばいいな、と思いながら提案してみれば、珠樹くんはこちらに顔を寄せながら、囁いた。 「もちろん、まどかさんも一緒に乗ってくれるよね? 俺一人だと、まだ怖いよ」 肌に声が触れて、温度がぐっと近くなった。 私の唇と珠樹くんの唇が触れそうになった瞬間、周りの音が急速に騒々しくなる。 気づけば、観覧車は地上すれすれで、乗り場にはクラスメイトの顔がちらほらと見えている。そのいくつかの顔はこちらに気づいて、私たちを思いっきり指差していた。 「見られたかな?」 頬を微かに赤く染めた珠樹くんの視線に、私もまた赤くなる。 ……からかわれるかな? ちょっぴり不安になって外に目を戻せば、こちらを見ているクラスメイトの中に、今回のことをお膳立てしてくれた彼女がいて「良かったね」と唇が告げていた。 ……うん、からかわれても、大丈夫。私が珠樹くんを好きだっていうのは本当のことだもの。隠す必要なんて、どこにもないよね? 「ああ、もう降りるしかないかな……」 残念そうな吐息をついて――そう思うのは、私自身がそう感じていたからかもしれない――珠樹くんは笑う。 繋いだ手はそのままに、言った。 「だけど、今度は二人で来よう? 夏休みの約束をしてもいい?」 「うん」 「あ、夏だけじゃなく、その後も色々ね」 シンデレラの魔法の時間は終わったけれど、私たちの時間はまだまだあるから。 二人のペースで時間を紡いで、私たちだけのハッピーエンドストリーを作って行こう。 「夏色時計 完」 |