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 薔薇を抱きて眠る


 どうか、この一瞬だけでも――。

 空に昇った満月の明かりを取り込みたくてカーテンは開け放っている。
 テラスへと続く窓辺から差し込む金色の光は、夜の藍とまじりあって、寝室を青闇に染めていた。
 暖炉の上に置いた蜀台のろうそくに灯した炎がゆらりと揺れている。部屋の灯りは一つきり。それでも十分だった。元々、アルデリアは月の明かりは嫌いではない。
 黄金色の光は、シエナの瞳と同じ色。
 昔から、月が満ちる度に、城の一角に建てられた塔の展望台に足を向けたものだ。その場所は他の誰にも邪魔されず、二人きりでいることを許された場所だった。
 甘く、それでいて胸を突くような痛みを伴う記憶に、アルデリアは薔薇の花びらのごとく艶やかに潤んだ唇に自嘲の笑みを浮かべた。
 銀色の鏡面に映る己が姿に、アルデリアは胸元に指先を這わせる。
 寝巻の大きく開いた胸元、白い絹肌に刻まれた十字の傷痕は、皮膚の色を変えて今も鮮やかに咲き誇っていた。ひきつれた傷痕が、花が咲いているようにも見せるのだ。
 アルデリアの胸に咲いたこの花は、自らの愚かさの証。
 胸に刻まれたこの傷を目にするたびに、周りの者たちは痛ましそうな視線をアルデリアに向けて、同情の色を瞳に宿す。
 花よ蝶よと、褒めそやされ愛しまれ育てられた姫君が過ごしたとされる過酷な月日が、この傷に集約されていると皆は誤解しているのだ。
 しかし、アルデリアとしては同情して貰える資格がないことに、身を縮めたくなる。
 両親を殺され、またアルデリア自身も誘拐され、幽閉されていたという周囲の認識は、ある人物が書いた偽りの筋書き。
 その裏で、私怨(しえん)に駆られ、多くの人間の命をこの手で奪ってしまったアルデリアの罪を知る者は、ただ一人――夫となったシエナだけ。
 それぞれの胸に秘密を抱えて、アルデリアとシエナは王宮内の混乱を極力抑えるために、平静を装っていた。
 何も知らなかった故に、傷つけてしまった人たちがいたことをこの十字は教えてくれる。そして、決して忘れてはならない彼の人の存在を。
 短く切った髪が、再び背中へと長く伸びる月日を数えても、この傷だけは消してはならない。だから、アルデリアはあえて胸元の開いた服を着るようにしていた。
 アルデリアは胸の傷を抱え、鎮魂(ちんこん)の祈りに、そっと目を伏せる。
 そこへ、廊下へと通ずる扉が開いて、ドアの隙間から室内に忍び込んでくる黒い影があった。
 足音を消しているのは、きっとこちらが眠っていると思っていたからだろう。
 鏡台の前に腰かけたアルデリアを見て、金色の瞳が少しだけ驚いたように開かれた。
「……まだ起きていたのか」
 そう口にしたシエナの声には、微かな疲労がにじんでいる。
 月は中天を過ぎて、既に西へと傾きつつある。真夜中もかなり回った時刻まで、シエナはアッコールトの国王としての職務に追われていた。それは今宵に限ったことではなく、日々の積み重ねが確実にシエナの中に疲労を蓄積させていった。
 それでも、極力顔に出さないようにして、シエナは颯爽(さっそう)とした足運びでアルデリアの元へと近づいてきた。
 アルデリアは月明かりに疲労の影を落とした、秀麗な面差しを見上げる。
 彼の故郷――シエナの本当の素性もまた、アルデリアだけが知っている――隣国フレムデテーネ解放へ、と。
 彼が推し進める政策は、アッコールト王宮内で波紋を呼んでいた。
 侵略し属国化した小さな国を、何の見返りもなしに解放しようとするのは、アッコールト側の人間からすれば狂気の沙汰だろう。
 フレムデテーネの宝石鉱山から産出される輝石は、アッコールトに財を与えてくれる。
 シエナはその宝石の採掘権利をフレムデテーネの自治政府に返還しようとしているのだ。そして、その宝石を独占し通常の二倍の値段で買い取るように、計画していた。
 彼の計画では得をするのは、フレムデテーネだけである。
 フレムデテーネの恨みを買って、アッコールトが国王夫妻を失うという痛手を負った事件の記憶が新しく、過去に犯した戦争を悔いるような風潮が徐々に国内に浸透しつつも、まだアッコールト国内にはフレムデテーネを属国――自国のための踏み石と思っている節があるようだ。
 彼の国からアッコールトが奪った命の重さは、これから支払う代価よりずっと大きかったであろうに――戦場を知らぬ者たちには、そんな現状を説くことすら難しい。
 そうして、国内の反発感情をどのように抑えようかと、シエナは頭を悩まされているのだろう。
 穏便に、事を進めたいのだ。
 もう二度と、誰かの命を引き換えにしたくはなかったから。それが彼の人と交わした約束であったから。
 シエナの頬が少しこけたような気がして、アルデリアは胸元に置いていた右手を伸ばした。
「――痩せたみたい……」
 彼の頬に触れれば、やはり肉付きが少し薄くなってように感じる。
「そうか?」
 静かに応えながら、シエナは頬に添えられたアルデリアの右手に自らの手を重ね、もう一方の手をこちらの胸元へ置いた左手に伸ばしてきた。
 まだ少し硬さが残る白い指先を包み込んで引き剥がすと、シエナは身を屈めてアルデリアの肌に刻まれた赤い花の十字に口づけを落とす。
 肌に触れた柔らかい熱に、アルデリアはゆっくりと目を瞑った。
 この傷に触れている瞬間のシエナの心は、かつての同胞へ語りかけている。
 自らの命を捧げてフレムデテーネを解放しようとしたその人物のおかげで、シエナとアルデリアの今生はあった。
 彼はこちらに十字を背負わせることで、生き続けるように示した。
 安易に死ぬことを許さぬという彼の遺言は、彼の犠牲に罪を覚える限り、果たさなければならない約束だ。
 そして、その罪はこの胸の十字が消えぬ限り、忘れることも許されない。
 その重たい責を、シエナとアルデリアは背負って生きていこうと決めた時から、この胸の傷は彼の人への誓いの証となった。
 アルデリアが胸の傷に黙祷(もくとう)を捧げるように、シエナは口づけを落として語りかける。
 彼が望んでいた未来へと続く現状を。
 シエナはアルデリアの胸元から顔を上げると、身体を起こし両腕にアルデリアを抱え上げた。
 そうして、寝台にアルデリアを運び横たえると、彼はベッドの淵に腰かける。
「慈善施設へ訪問はどうだった? 疲れたのではないか?」
 アルデリアの頬に掛った曙色の髪を梳かし頬を撫で、シエナは労わりの眼差しでもって、問いかけてくる。
 その声にアルデリアは上半身を起こして、首を振った。
「大丈夫。きっと、シエナほどではないわ」
 アルデリアはあまりにも政治に無知であったため、国政をすべてシエナに預けた。
 そうして、自分が出来る範囲でフレムデテーネに尽くすことを考えた結果、国内の慈善施設でアッコールトからの難民を受け入れる体制を整えるよう、各所に訴え回ることにした。
 アッコールトは戦勝後、フレムデテーネを属国化し支配していたが、その形はあまりにも酷く。奴隷扱いに耐えかねたフレムデテーネの国民が、己の土地から逃げ出す者も少なくなかった。
 シエナが先代国王から玉座を奪い、王位に就いてから数年。
 彼と、彼の仲間の奔走の甲斐あってアッコールトの支配体系は少しずつ緩和しつつあったが、いまだに帰る場所を持たないフレムデテーネの国民もいる。
 そんな彼らにせめて、安心して眠れる場所をと、アルデリアは駆け回っていた。
 その労を心配しているシエナに、アルデリアはゆっくりと告げた。
「私は平気よ、移動中の馬車の中で仮眠をとっているから」
「そうか」
 ホッとしたように笑むシエナに、アルデリアは再び彼の頬へと手を伸ばした。
「シエナの方が疲れているように見えるわ。疲れているのでしょう?」
 痩せた頬が、目元に浮かぶ影が、何よりも物語っている。
「……そんなことはない」
 一瞬、言葉に詰まりながらも彼は返してきた。
 自分たちが犠牲にしたものを思い出せば、弱音など吐けないと思っているのだろう。
 彼はいつだって、心の本音を見せやしない。
「お願いよ、シエナ。――気付かないふりをしないで。もう、私には嘘をつかないで」
 そして、シエナの優しさには、いつだって嘘があった。
 憎みたい相手に愛していると囁いて――愛していると囁きながら、裏切った。
 彼の言葉と行動はいつだって裏表。
 そのことをアルデリアが突き付ければ、シエナは唇の端に苦笑を浮かべた。
「姫にはかないませんね」
 昔の口調で、彼は自嘲するように言った。
「疲れているかもしれない」
「かもしれないじゃないわ。疲れているの――ずっと、眠っていないのでしょう?」
 同じ床で眠るようになって、彼の眠りの浅さにアルデリアは気づいていた。
 戦火に焼け出された経験を持つシエナの眠りには、ときおり悪夢が襲っているようだった。
 こぼれる呻き声の挟間に、父を、母を、姉の名を呼ぶのを何度も聞いた。
 平穏だった彼の日常を、アッコールトは瞬きの間に燃やしつくしてしまったのだ。
 幼き心に打ち込まれた残酷な記憶の楔は、どれだけの月日を費やしても外れることはないのだろう。
 その記憶はきっと、この先も彼を悩まし続けるのだろう。
 そうして、ただでさえも睡眠時間を削られているところへの過重労働。幾ら、シエナが強じんであろうと、倒れかねない。
「――そんなことは」
 否定しようとするシエナの声を遮って、アルデリアは彼の頭に手を回した。強引に抱き寄せれば、意外なほど簡単に彼は倒れこんできた。
 疲労はアッコールト国内で右に出る者なしと噂される、最強の剣士である彼の緊張感さえ、鈍らせている。
「眠って、シエナ」
「……アルデリア」
 シエナの手が縋るようにアルデリアの背中に回る。
 胸に顔をうずめてくるシエナの漆黒の髪をゆっくりと撫でて、アルデリアはそっと囁いた。
「眠って、シエナ。私はここにいる。どこにも行かないわ」
 悪夢にうなされ目が覚めると、シエナはこちらの存在を確かめるように抱きしめてくる。その腕の震えをただ感じることしかできない自分を情けなく感じていたけれど。
 どうか、この一瞬だけでも――。この人に、安らぎのひとときを……。
 誰に願えばいいのか、果たして罪人である自分たちに何かを望む資格があるのか、アルデリアにはわからない。
 それでも、願わずにいられない。
「何もかもを失くしたときの夢を見る――もう取り戻せないことを、俺は知っている。わかっている……」
 微かに震える腕がアルデリアを締め付けた。同じように抱きしめて、思った以上に小さく感じた背中を撫でる。
「ただ、同じように大切なものを――アルデリア、お前を失うかもしれないと怖くなる……」
 吐露とろされた不安を前に、アルデリアは優しく囁いた。
「大丈夫よ、シエナ。私はもう、どこにも行かない。だって、私はユージンと約束したもの」
「ユージン……」
「彼の代わりに、シエナの傍にいると。それに私たちは、彼との約束を果たさなければならないわ」
「……ああ、そうだな」
「だから、何があっても生きるの。私はずっと、シエナの傍で生きるわ。あの人が願った未来を叶えるまで、私たちは死ねない」
 ねぇ、そうでしょう? と、アルデリアが問いかければ、シエナは瞳を上げて笑った。
「そうだな」
「だから、こんなところで倒れたら駄目よ。眠って、シエナ。そして、私と共に生きて」
 そう促せば、彼は崩れるように身を傾け、アルデリアを寝台に押し倒した。
「――共に。夢に出て来て、俺を安心させてくれ」
「ええ」
 口づけを交わし、互いの身体に腕をからめて、横になる。
 自分とは違う体温に包まれる安心感に、よほど疲れていたのだろうか、瞬きもしないうちにシエナから寝息が聞こえてきた。
 アルデリアの腕の中で、彼は眠る。
 規則正しく繰り返される安らかな音色に耳を傾けて、シエナの腕の中でアルデリアも眠った。

 約束した未来を夢見て。


                           「薔薇を抱きて眠る 完」

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