黒の温もりに身を浸して 「――姫様」 ノックの音の狭間に、自分に向かって呼びかけられる声を扉越しにアルデリアは聞いた。 「――アルデリア様、私です。シエナです」 名乗るまでもなく、その声の主が誰であるかなんて、既に承知だ。百人が喋っていても、きっと彼の声だけは聞き分けられるだろう。アルデリアには、その自信があった。 いつもなら、声が聞こえた途端にドアに飛びつき、扉を開いて彼を部屋の中へと導くところだろう。 淑女が第三者の目のないところで、男性を自室に誘い込むなど、はしたないことだとわかっているが、多分、彼の黄金色の瞳に見つめられたときから、アルデリアにとってシエナはただ一人の運命の人となった。 しかし、国王の覚えめでたい筆頭護衛官のシエナにとって、アルデリアは守るべき姫君。それ以下でも、それ以上でもなかったのかも知れない。 でなければ、彼女の目の前で彼は他の女性たちの相手をしなかったはずだ……と、アルデリアは唇を噛んだ。 先日、アルデリアの誕生を祝う宴で、シエナは数多の女性たちとダンスを踊っていた。 主賓である彼女がシエナから誘われるのを一段高い壇上の玉座の隣で、じっと待っていたにも関わらずに、だ。 王家の姫君と護衛隊が国王直属のエリート集団とはいえ、名門とは言い難い――辺境出身だという話だった――出自のシエナとでは、身分が違うのだろうか。 彼が国王の御前で姫をダンスに誘うなど、簡単なことではなかっただろう。彼女が壇上から降りさえすれば、シエナも相手をしてくれたかも知れない。 だけど、アルデリアはシエナ以外の他の誰とも、ダンスをしたくなかったから、名門貴族の若者たちが誘ってきても、体調がすぐれないと曖昧な笑みで断ってしまった手前、当然ながらシエナの元へ向かうのは、嘘がばれてしまうので動けなかったのだ。 アルデリアは宴に間、何度も腰が浮きそうになるのを、肘掛をギュッと握って、身体を椅子に縫い付けた。 そんな彼女の前で、シエナは周りを取り囲むうら若き乙女たちの間から、一人を選び踊り場で楽団が奏でる音色に合わせて踊っていた。 闇を纏うような漆黒の髪に、夜に君臨する月のような黄金色の瞳。秀麗な面差しの青年は、アルデリアを筆頭にして年頃の娘たちの心を掴んでいた。 その日の宵は護衛隊の任から解放され、貴公子然とした装いに身を包んだシエナは、会場に集まった青年貴族の誰よりも、人の目を惹いていた。 真っ直ぐに伸びた背筋にしなやかに張り付いた筋肉は、目の前の幸運にぼうっと 流れる黒髪の一筋すら、目が離せなくて、アルデリアは青い瞳でシエナの姿を追いかけた。 じりじりと胸の内側が焦げ付いて、苦しくて涙が出そうになるのをアルデリアは必死に堪えた。そうして、彼が好きだと、改めて実感するに至った。 彼女の恋は父王にも話を通し、既に承諾されていた。 己が身を楯にし、国王だけではなくアルデリアの危機を何度も救ってくれたシエナ。彼の身体に刻まれた傷痕の数だけ、アルデリアや国王は命を永らえてきた。 シエナがいなければ、我はとっくに墓の下だ――そう、国王はお気に入りのシエナを讃える。 もし、シエナがその気を見せるのなら、アルデリアとシエナの結婚に尽力しても良いと、父王は言っていた。 護衛官として常に傍に置いていた折、政策や戦略についての話題をシエナに振れば、彼は実に的を射た発言を返すのだという。 このまま一介の武官として終わらせるには惜しいと、父王が悔しがれば、アルデリアは我がことのように嬉しくなった。 アッコールト王国は、今さら他国と婚姻を結んで、外交関係を維持しなければならないような弱小国ではなかったから、娘を溺愛する国王は身分が問題になるのならば、シエナに有力な後見人を立てることで、問題を解消する算段を打ち明けてくれた。 後は、シエナ次第であるが……アルデリアには、彼の心が見えない。 彼の周りにまとわりつく彼女を、シエナが 一人恋に浮かれ、空回りしている自分に、アルデリアは抱えたクッションをギュッと抱きしめた。 「――姫、お顔を見せてください」 扉の向こうから届く声が、どこか心もとない、途方に暮れたような声に聞こえるのは、そう自分が望んでいるからだろうか。 少しでも……少しでもいい……。 シエナがアルデリアのご機嫌を損ねてしまったことに悩み、彼女が彼に対して抱いている恋心が決して、少女特有の一時の気の迷いではないのだと知ってくれたら。 そう願って、アルデリアはシエナの問いかけに対して、無言を通す。 もっとも、身体は彼の息遣いがわかるほど、ドアの近くに張り付いていた。 「…………」 ノックをする音が止み、沈黙が下りた。扉の向こうで、ため息が聞こえた気がした。 アルデリアはドアの向こうのシエナの気配を、息を詰めて探る。 このまま、彼が諦めて自分の前から去っていくのでは? と、不安を見抜かれたようなタイミングで、シエナが告げた。 「……今日はこれにてお暇します。明日……姫様のお顔を、私にもお見せください」 そうして、気配が遠のくのを察して、アルデリアはドアを開けた。勢い余った彼女の身体は外側へと動く扉の動きに合わせて、前のめりになる。 眼前に廊下に敷かれた 手を出して身体を支えることもままならないうちに危うく転倒しかけたところを、横から伸びてきた腕がアルデリアの身体を軽々と掬いあげた。 腰を抱かれ、背中にまわされた腕を感じる。 シエナの胸に抱きかかえられた状況を頭が理解するや否や、アルデリアはシエナの首にしがみついていた。 腕を放してしまったら、もう二度と彼は自分に構ってくれない気がした。 アルデリアの心には、シエナしかいない。 しかし、シエナの周りには自分以外の花が咲き乱れている。 彼が選ぶ花は、果てしてどんな花なのか。自分以外の花を手折るところを見たくない。 私だけを見て欲しい――アルデリアは、シエナの肩に額を押し付けた。 「……姫」 耳元で熱い息が触れる。 「……シエナ、お願い。私はシエナだけなの」 「――はい」 落ち着いた声が耳朶に触れ、アルデリアの きっと、自分を抱いているシエナにこの音は筒抜けだろう。それでも構わないと、アルデリアは思った。 少しでも自分の中にある想いが彼に伝われば……。 いや、少しではない。一つも余すことなく、受け取って欲しい。 「シエナとしか、ダンスを踊りたくないの」 アルデリアは震えそうになる唇を開いて、言葉を紡ぐ。 「――はい」 「シエナにも、私以外の人とはダンスを踊って欲しくないの」 「はい」 「私……わがままなことを言っていることは、わかっているわ。……それでも」 「どうか、私に姫様のわがままを叶えさせてください」 顔を上げれば、間近に月のような瞳がある。その瞳に映る自分の姿を確認して、アルデリアは願った。 「私だけを見つめて」 緩やかに微笑む唇は、からかうような響きを持って、甘く囁く。 「お気づきではありませんでしたか? 私の眼はいつだって、姫様だけを見つめていました」 抱えられた姿勢から、床に降ろされ、足が絨毯に付く。身体に沁みついたシエナの体温が失われるのが寂しくて、アルデリアは黒衣の胸に身体を寄せた。 「……でも、他の人とダンスを踊っていたわ」 「少しでも思う相手の目を惹きたかった男の苦肉の策です。愚かさを笑ってください」 「笑わないわ。けれどもう二度と、他の誰とも踊らないで」 「はい、姫様のお望みのままに。その代り交換条件があります」 「……何?」 頬に添えられたシエナの手に力がこもり、顔を上向かせられる。 「アルデリア様の唇に触れるお許しを――」 答えを返す間もなく、アルデリアの唇に別の熱が加わった。 ゆっくりと沁みてくる温度に満たされ、アルデリアは幸福に酔った。 「黒の温もりに身を浸して 完」 |