トップへ  本棚へ



 オレンジ色の伝言


 言葉というのは、なかなか尽きることはありません。
 話題を探せば、取りとめもなく。明日のお天気から、今晩のおかずまで。
 南の海上で、台風が発生しているとか。
 最近、お野菜が割高だとか。
 全く関係ないように思える話題も、家計を預かる奥様方にはそうでもないようです。
 お天気が不順ですと、作物が育ちません。台風が来ればなおさら、食卓に上る品々の値がはね上がります。
 それだけで、家計簿は大ピンチなのだそうで、深刻です。
 安売り情報は、最重要の関心事。どこのスーパーマーケットが、何曜日に何を安売りするか。新聞に折り挟まれた広告チラシを見て、チェックするのは主婦のお勤め。一円でも安く商品を手に入れるのが、主婦の腕の見せ所。
 そうして、主婦同士で安売り情報を交換するのもまた、大事なこと。安売りだけではありません。最近では、ポイントカードも買い物では大事です。
 貯まったポイントを商品券として、利用できるとあれば地道に集めます。百円の買い物だって、馬鹿にはならないそうです。
 他にも、ポイントだけではなく、お買い物したレシートで週に一度、抽選会が行われるとか。
 先週の抽選でお隣さんが当たったという話が出ました。
 するとそこから、今度はご近所さんのお話へと移り変わっていきます。
 我が、結城家のお財布を握ります陽子お母様が、羨ましそうに、とあるお宅の旦那様が出世なされた話を口にされました。
「うちの旦那も、もうちょっと偉くなってくれたらね」
「あー、わかるわ」
 受け答えしているのは、三好さんという斜め向かいにお住まいになっているご近所の奥様です。幼稚園児のお嬢さんの由香さんと二時間前に、お裾分けだとお菓子を手にやって来られました。
 陽子お母様は「一緒にお茶をしましょう」と、三好さんと由香さんをお家に上げられてから、台所ではもうずっとお喋りが続いています。
「――女三人で「姦しい」とは、よく言ったものだね、ネコちゃん」と。
 リビングのソファに寝そべっていた日向さんは、床で同じように寝そべり、奥様方のお話に耳を傾けていたわたくしに向かって、笑いかけてきました。
 犬という種族である――日向さんがわたくしに下さいましたお名前は「ネコ」という、犬であるわたくしには、少しおふざけ過ぎるものですが――わたくしに、屈託なく笑いかける笑顔はお日様のようです。
 陽子お母様譲りの栗色の髪と大きなつぶらな瞳が印象的な、わたくしの飼い主である結城日向さんは、十八歳。現在、諸事情で浪人中です。
 アルバイトを終えて、リビングのソファでお昼寝をするのが、日向さんの日課なのですが、お客様のお喋りの声が今日は眠りを妨げているご様子で、さっきほどからテレビのチャンネルを変えていました。
「これから由香も大きくなるし、もう一人欲しいから、旦那にはがんばって欲しいんだけどね……頼りないのよ、これが」
 と、三好さんが笑いながら旦那様のことを口にされました。
「お義母さんが事故にあったって知らせを聞いた途端に、ひっくり返ったのよ、あの人。情けないわ」
「まあ、事故に?」
「事故っていっても、たいしたことじゃないの。横断歩道を渡ろうとしていたところを、車がね、飛び出してきて」
「ぶつかったの?」
「ううん、それはなかったわ。ぶつかっていたら、大変だったわよ。ただ、ビックリして転んじゃった拍子に足首を骨折したのよ。悪いのは一時停止しなかった向こうで、お義母さんは全然悪くないの。でも、車の方が逃げちゃったから、警察からひき逃げだって連絡が入って、それで旦那ってば勝手に重大事故と思い込んで、ひっくり返るのよ?」
「それは……」
「笑っちゃうでしょ?」
「でも、お義母様が大事無くて良かったわね?」
「……怪我自体はたいしたことはなかったのだけどね……」
 不意に、それまで姦しいと思えるほど――こちらのリビングにまでお話の内容が筒抜けだったのです――元気だった三好さんの話し声が、低くなりました。
 リビングにて、テレビ画面を見るともなしに見ていた――大して、興味のある番組ではなかったようです――日向さんが台所を振り返りました。
「……事故に遭ってから、お義母さん、ちょっと変なのよ」
 三好さんの声の調子から、何やら感じ取ったご様子で、リモコンでテレビを消しますと、わたくしを抱え上げ、台所へと顔を出します。
 台所のテーブルの上には、三好さんが持っていらしたお菓子の箱が開けられていました。和菓子の詰め合わせのそれを包んでいたと思われる包装紙には、「快気祝い」の文字。
 三好さんのお義母様が退院するにあたって、お見舞いに来られた方たちのお返しが余ったから、良かったらどうぞ、と言って持ってこられたのでした。
 リビングにいた日向さんにもそのお裾分けは回ってきました。由香さんがお使いと称して、運んできて下さったものです。
 オレンジ色の目にも鮮やかなワンピースを着ていた由香さんは、日向さんから「ありがとうね」と、お日様のような笑顔を向けられますと、嬉しそうに頬をピンク色に染めました。
 その由香さんは現在、大人用の椅子の上にチョコンと腰掛け、足をぶらぶらさせていました。
 大人のお話は、小さな由香さんには退屈な模様――犬であるわたくしにとっては、主婦のご苦労話と、尽きることなく展開していく会話に、ただただ圧倒されるばかりですが。
 日向さんは、由香さんが手にしているコップが空になっているのに気付いたようで、冷蔵庫に二つ並んだグレープジュースとオレンジジュースのペットボトルのうち、オレンジジュースのペットボトルを取り出して、声をかけます。
 オレンジジュースを選んだのは、先ほど由香さんがお菓子と一緒に持ってきてくださったジュースが、グレープジュースだったので、今度は違うものをと考えての、日向さんの心配りだったのでしょう。
「お変わり、入れてあげるね」
 動物や人間に分け隔てなくお優しい日向さんは、由香さんのコップにオレンジ色の飲み物を注ぎます。炭酸飲料なのでしょうか。泡がはじけると同時に柑橘の香りが、わたくしの鼻腔をくすぐりました。
「ありがとう、日向君」
 三好さんがお礼の言葉を下さいますと、日向さんはいえ、と笑みを返しました。
 途端、カシャンと微かな音がして、わたくしの鼻に濃厚なオレンジの匂いの波が押し寄せてきました。
 ビックリして、日向さんの腕から身を乗り出しますと、由香さんが空になったコップをテーブルの上に倒していました。
 中に入っていたオレンジジュースは、テーブルに広がり、その一部は由香さんのオレンジ色のワンピースに染みを作っています。
 大変ですっ。
「まあ、この子ったら――お祖母ちゃんがせっかく、贈ってくれたワンピースを汚してっ!」
 三好さんは慌ててハンカチで、由香さんのワンピースの染みを取ろうとします。陽子お母様は布巾で、テーブルの上を拭いながら、言います。
「早く、水洗いした方がいいんじゃない? 服なら、日向の小さい頃のがあるから、脱がせて」
「ええ、そうね」
 陽子お母様のお言葉に、三好さんは由香さんのワンピースを脱がせようとしました。
「いや」
 しかし、由香さんは短い否定の言葉を口にして、三好さんの手を払います。その場にいた由香さん以外の三人と一匹は、動きを止めました。
 由香さんの声は「嫌だ」という拒否を、わたくしたちに伝えるのに十分な力を持っていました。
 当惑したように、三好さんが由香さんの顔を覗きます。
「だって、このままじゃ汚れて着れなくなってしまうわよ」
「いい」
「だって、今度お祖母ちゃんに、それを着ているところを見せるんでしょう?」
「いや」
 由香さんは短く言った後、脱ぐのは「嫌だ」と駄々をこねるように首を振りました。
「……由香?」
「このふく、きらい。おばあちゃん、きらい」
 由香さんはそう言った後、瞳から大粒の涙を流し始めました。ふっくらとした幼い頬を透明な雫がコロコロとこぼれ落ちていきます。
 その涙の真意を問うように、日向さんと陽子お母様は、三好さんに目を向けました。
 由香さんは涙を流すくらいに、お祖母様がお嫌いなのでしょうか?
 もしそうだとすれば、何があって由香さんは、お祖母様がお嫌いになられたのでしょうか?
 問い質すわたくしたちの視線を前に、三好さんは「わからない」と言いたげに、首を横に振りました。少なくとも、三好さんは由香さんがお祖母様を嫌っていることをご存じなかったようです。
 ですが、それはありうることなのでしょうか?
 三好さんのお宅は、二階建ての一軒家に旦那様と奥様と由香さんの三人暮らしです。
 お祖母様は少なくともご近所には住んでいません。ともなれば、由香さんがお祖母様と接触する機会は少なく、当然、お会いになられるときはお母様である三好さんと一緒のはず。
 二人きりの時間が長ければ、喧嘩をすることもあり得るかもしれませんが。
「……ねぇ、由香ちゃん。どうして、お祖母ちゃんが嫌いなの?」
 日向さんは腰を屈めますと、椅子に座った由香さんと視線を合わせて問いかけます。
「だって……ママが」
 由香さんは涙に潤んだ瞳を、お母様である三好さんに向けました。
「私っ?」
 突然、自分に振られたことに驚いた三好さんは、パチパチと目を瞬かせました。
「……おばあちゃんは、ユカのことかわいくないって……」
 目の淵に溜まった涙が、また溢れ出して、由香さんはしゃっくりを繰り返しました。
「私、そんな……あっ」
 三好さんは「そんなことは言っていない」と、否定しかけたようでしたが、心当たりがあったのか、言葉を詰まらせました。
 居心地が悪そうに俯く三好さんに、陽子お母様が尋ねます。
「……誤解させるようなこと、言ったの?」
「……あ、うん。さっき、話したでしょう? お義母さん、事故に遭ってから少し変だって……」
「ええ、それが?」
「事故に遭ってからね、お義母さん、通販で買った服を由香に贈ってくるようになったの。それも、オレンジ色の服ばっかり」
「……オレンジ」
 その色の名前に、わたくしは由香さんがオレンジジュースをこぼしたのは、わざとであることを悟りました。
 オレンジ色が由香さんに、お祖母様に嫌われている――それがどこまで真実なのか、わたくしにはわかりかねますが――事実を思い出させ、お祖母様から贈られた服を汚すという行為に走らせたのでしょう。
「病院で入院していて退屈そうだったから、雑誌と一緒に通販のカタログを差し入れしていたのよ。それで、目に留まった服を由香に贈ってくれたと思っていたんだけど」
「……違うの?」
「一回じゃないの。もう十着ぐらい。それもオレンジ色ばかりなのよ。デザインは違っても、色は全部同じオレンジなの。でも、由香はピンクが好きなのよ。それはお義母さんだって知っているはずだし、通販のカタログにもオレンジ色以外の色はあるのよ? そんなものだから、つい」
「――お祖母ちゃんは、由香ちゃんを可愛くないと?」
 陽子お母様は、三好さんが言ったであろう言葉を口にしました。そして、困ったように笑います。
「私だって、本気で言ったわけじゃないわよ。ただ、どうしちゃったのかしらって、感じで。可愛くなくなったのかしら、って。だって、いきなり何着も立て続けに服のプレゼントなんて……それもオレンジ色ばかりだなんて……」
 三好さん自身も、お祖母様の贈り物に戸惑っていたのでしょう。
 それにしても、由香さんのお祖母様は、何故にオレンジ色のお洋服をプレゼントされたのでしょうか?
 それもただ一着に飽き足らず、十着も。
 わたくしが小首を傾げて考えていますと、
「何だ、そういうことか」
 日向さんの声が、軽やかな笑い声を含んで響きました。
 そして、由香さんへお日様のように温かく穏やかな笑顔で、ニッコリと微笑んで告げました。
「由香ちゃんのお祖母ちゃんは、とっても優しい人だね」
 由香さんはキョトンとした目で、日向さんを見上げました。
 陽子お母様は、こぼれたオレンジジュースを拭き取った布巾を洗いながら、尋ねます。
「アンタ、根拠があって言っているんでしょうね? 子供相手だからって、安易なことを言うもんじゃないわよ」
 ちょっとだけ、怒ったような口調で日向さんを睨みます。
 その場しのぎの言葉で慰めたとしても、由香さんとお祖母様の間に溝があっては、意味がないと言われているのでしょう。
 日向さんは陽子お母様を振り返りますと、「わかってる」と、唇を拗ねたように尖らせました。それから三好さんを見つめ、由香さんに視線を落とします。
「あのね、お祖母ちゃんは事故に遭って、痛い思いを――怪我をして、泣きそうなくらい痛い目にあったんだよ。それは、由香ちゃんも知っているね?」
 幼稚園児の由香さんに合わせたゆっくりとした言葉運びで、問いかけます。
 由香さんは泣くことを忘れて、日向さんを見つめ、言葉の意味を理解したことを示すように呟きました。
「びょういん……にゅういんしたの」
「うん。とっても、痛かったんだ。だからね、お祖母ちゃんは、由香ちゃんに同じ思いをさせたくないと思ったんだよ」
「……日向君、それって……どういう?」
 三好さんが小首を傾げて問います。わたくしもまた、日向さんの腕の中で首を傾げました。
「由香ちゃんのお祖母ちゃんは、何も悪いことをしていないのに、事故に遭いましたよね?」
 日向さんは姿勢を正しますと、三好さんに向かって真剣な顔を見せました。
「そう」
 こくりと頷く三好さんに、日向さんは微かに目を伏せて続けました。
「ドライバーの不注意で、歩行者が事故に遭う――それはどんなに歩行者が交通ルールを守っていっても、なかなか避けられない。……そんな事故の例は、ニュースを見ればいつも報じられている。スピード違反、わき見運転、飲酒運転……それで巻き添えになる人たちの多くは、何の罪もない歩行者です」
 沈鬱に響く日向さんの声。
 つい先だっても、わき見運転による事故で、幼い子供たちが犠牲になった事故が痛ましく報道されていました。
 事故の訃報は、それだけに限りません。
 テレビで報道されなくとも、新聞の小さな記事では毎日と言っていいほど、車両事故の記事が載っています。
 恐らく、誰にも知られるところのないところでも、事故は起こっているのでしょう。
 鉄の塊の脅威は、人間だけに限らず、わたくしたちのような小さな生き物の命も簡単に踏み潰していくのです。
「お祖母ちゃんは自分が事故に遭って、孫のために、由香ちゃんのために――それでも、事故を一つでも減らせないかと、病院のベッドで考えたんだと思います。そして、通販のカタログで、オレンジ色の洋服を見つけた」
「……事故を減らす? それに、オレンジ色の服が関係あるの?」
「直接的には、減らせませんけど。目立つオレンジ色の服を着ていれば、少なくともドライバーの目を引き付けることは出来ますよね?」
 日向さんがそう三好さんや陽子お母様に向かって尋ねれば、わたくしは日向さんの腕の中で、開眼しました。
 目にも鮮やかなオレンジ色。
 その服を着ている由香さんに、自然と引き寄せられる視線。
「ドライバーに、そこに子供がいるという認識を植え付けるには、目立った色を身に付けさせて教えるのが手っ取り早い。子供は小さいから、ドライバーの視界には入りにくい。でも一旦、目立つ色で意識を引き付けさせれば、ドライバーは注意します。誰だって、事故を起こしたいわけじゃない」
「……だから、お義母さんは……」
 三好さんは由香さんを見下ろしました。
 椅子の上に咲いた鮮やかな花。
 オレンジ色の花弁に包まれた大切な命。
 失われることがないように――と願いを込めて、選ばれたその色。
 お祖母様は動けないベッドの上で、由香さんのことを思い、一着では安心できずに何着も選んだ。
 そこにある深い愛情。祈り。希望。
 日向さんの言葉は、猜疑と困惑に曇っていた、わたくしたちの視界を一気に澄み渡らせました。
 由香さんは話の内容についていけない様子で、目を丸くしては三好さんを見上げます。
「ママ?」
 三好さんの服を摘んで、引っ張ります。すると、三好さんはふわりと由香さんを抱きしめました。
「ママ、馬鹿なことを言っちゃったわ。お祖母ちゃんは、誰よりも由香のことが可愛くてしょうがなかったのね」
「……おばあちゃん、ユカのこと……スキ?」
「ええ、大好きなの。大切なの。だから、由香に贈り物をくれたのよ」
「……ホント?」
 三好さんに抱かれた由香さんは、半信半疑で尋ねます。
 その声の調子で、わかりました。
 由香さんはお祖母様のことが嫌いではないのです。
 嫌われていると思っていたから、嫌いだと言ったのでしょう。
 そうして、「嫌い」という言葉を口にすることが、切なくて苦しくて、由香さんは泣いてしまわれた。
 幼い由香さんにはオレンジ色に込められた思いを、理解することは難しかったでしょう。由香さんだけではありません。三好さんも、陽子お母様も、わたくしも。誰一人として、オレンジ色に託されたメッセージを読み取ることが出来ませんでした。
 ただ、一人。
 日向さんだけが、優しい視点から全てを見抜いたのです。
 そんな日向さんは、自分が起こした奇跡など関係ないといった様子で、いつものお日様のような穏やかな笑顔で、由香さんへと笑いかけます。
「お祖母ちゃんは、由香ちゃんが大好きなんだよ。由香ちゃんも、お祖母ちゃんが好きだよね?」
 そっと問いかける声は魔法の呪文のように響いて、小さな女の子を笑顔に変えました。
「うんっ!」


                                 「オレンジ色の伝言 完」


トップへ  本棚へ

ご感想など頂けましたら、幸いです。掲示板・メールまたは→  から。
ポチっと押してくださるだけでも、嬉しいです。

 Copyright(C) 松原冬夜 All Rights Reserved.