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本編第一話・ヴェール視点

 翡翠の叫び


 ――こんな女、ローズじゃない。

 絞り出した自分の声は、情けないほどに震えていた。 
「間違いない、彼女がローズだよ」
 俺の言葉を否定するように告げたブランシュの声に、椅子の上の女は睫毛をバシバシと、瞬かせた。
 見開かれた明るい茶色の目は丸く、眉はピンと跳ね上がっていて、気が強そうだ。
 ローズと同じ目の色と髪の色。でも、覚えている印象より、ちょっと顔がふくよかで、それでいて小さい。
 面影があるような気がするけれど、違う。違うはずだ……。
 見たことのない格好をした――スカートが短くって、足が出ているなんて、ありえねぇだろ? ――女は、魔法の発動によって突然、俺たちの前に現れた。
 その魔法は、地球に渡ったローズの身に何か危険が差し迫ったとき、こちらへと連れ戻す召還魔法。
 俺とブランシュの二人が仕掛けた魔法だから、間違いなんてあるはずがない。
 でも、違う。この女がローズであるはずがない。
 だって、この女がローズであるのなら、開口一番、俺を叱ってくれるはずだろ?
 あの日――何の考えもなしに、俺はローズに呪いが掛かった品を渡していた。
 その包みに触れたとき、何となくザワリとした嫌なものを感じた気がしたけれど、気のせいだと思った。
 だって、それに呪いが掛かっているなんて、思いもしなかったんだ。だけど、ローズの手に渡った瞬間、呪いは発動された。
 あの失態は、ローズを守る騎士として、絶対にやってはいけないミスだ。あと少しのところで、ローズは死にかけた。
 ……俺のせいで死にかけたんだ。
 だから、気の強いローズなら、俺のミスを怒るはずだ。
 何やってんのよ、馬鹿っ! アンタ、私を守る騎士でしょ? もっと、しっかりしなさいよっ! ――って、拳を握りしめて、俺に向かってくるはずだ。
 短く悲鳴を上げたローズの声。
 崩れるように、床に倒れたローズの姿。
 あの瞬間のことは、思い出すだけで背筋が震える。今だって、気を抜けば指先が震えそうになっている。
 ブランシュが気づけば心配するから――ブランシュは怒ると怖いけれど、それ以外の時は優しいから――女の方に目が行っている間に、腕を組んで震える指先を隠した。
 ブランシュが昔、その手の感覚は、恐怖だと教えてくれた。
 怖い思いに対し、人間は臆病になる。冷静に対処しきれない事象を前に、怖気づけば身体が震えてくるんだそうだ。
 俺が初めて、恐怖を覚えたのは多分、ブランシュが『僕は別に、女王の騎士になろうとは思っていないから』と、言った時だったか。
 その言葉を聞いた途端、身体がすっと冷たくなっていくのを感じた。
 だって、ブランシュも俺と同じ女王の騎士になるものだと思っていた。
 この時は、まだローズは女王候補でしかなくて、俺はまだローズのことを知らなかった。
 今なら、ブランシュの気持ちがわかる。女王の騎士じゃ、駄目なんだってこと。
 けれど、その時の俺にはわからなかった。
 ……わからないことが多すぎた。
 女王の騎士になるために育てられた俺には、女王の騎士にならない道なんて、考えもつかなくて。そんな選択肢があること自体、俺には知らなくて。
 ただ、ブランシュが女王の騎士にならなかったら、一緒にいられなくなることだけは理解できた。
 身体中から血の気が引いて行くような感覚に、指先が震えた。
 ブランシュは、それまで俺を囲ってきた人間たちとは違っていた。
 ただ、女王の騎士になることを求めた周囲の人間は、俺を騎士候補の一人としか見なさなかった。
 きっと、剣が使えなければ、魔法が使えなければ、見向きもされなかっただろう。
 でも、奴らが提示する課題をクリアすれば、少なくとも食うに困らない生活はできるはずだったから、俺はただ騎士を目指した。
 ホントいうと、剣で誰かを打ち負かしたりするより、腹一杯に飯を食ったときの方が気持ち良かった。
 ブランシュに言わせると、満たされて充実感を味わえるからだろうって話だった。
『君には沢山のことを求められるけれど、誰も満たしてくれはしない。だけど、食べることは君自身が君を満たす行為だから』――って。
 充実している、生きていると実感できるその瞬間。
 毎日の生活の中で飯を食べること、ブランシュと会話して、学院で教官たちが決して教えてくれなかった外の世界のことなど、色々と教えて貰うこと。それだけが楽しみだった。
 ――楽しいという感情も、後でブランシュに教えて貰った。
 それすらも知らなかった十三歳の俺に、十六歳のブランシュが声を掛けてきたときから今日まで、ブランシュには本当に色々なことを教えて貰ったと思う。
 何かを教えて貰う度に、俺は多分、満たされていったんだろう。
 そして、まだまだ俺には知らないことがあったから、ブランシュの傍にいたかった。
 でも、そろそろ女王の代替えが噂されて、俺たちの代から「太陽」や「月」が選ばれそうだと話が囁かれるようになったとき、「太陽」の候補に一番近かったブランシュは、女王の騎士になるつもりはないと言った。
 その言葉を聞いたとき、俺は初めて恐怖を感じた。ブランシュとの間に距離が空くことに、目の前が暗くなった。
 ――その時の恐怖が、目の前の女を見ていると蘇る。
 だって……ローズがいない。
 ただでさえ、この一年、ローズがいなくて。
 何だか、ぽっかり穴が開いているみたいで。
『――寂しいね』って。
 ブランシュが言って、初めて自分が、ローズがいないことを寂しがっていることに気づくくらい、俺は自分の感情にすら疎いけれど。
 今の俺を縛るこの恐怖は、無視できない。
 目の前にいるこの女をローズだと認めてしまったら、もう二度と俺が知っているローズと逢えない。
 ローズは、こんな女じゃない。
 こいつがローズなら、俺を叱って、馬鹿って言って、怒って――それから……。
 なのに、目の前の女は俺を見ても怒らない。
 俺をしげしげと見つめて、黙っている。
 ――絶対に、ローズじゃない。
 じゃあ、ローズは? 俺たちのローズはどこにいるんだ?
 俺はローズとブランシュしか、要らない。なのに、ブランシュは目の前の女をローズだって言う。
 違う。こんな女、ローズじゃない。
 俺を怒らないローズなんて、ローズじゃない。こんなローズなんて、俺は知らない。
 ぐつぐつと沸き上がる何かに急かされるように、俺は口を開く。
「……この女が、ローズ?」
 女の目が僅かに険しくなった。
 それを睨み返して、
「――あの、ローズ? 星界一の美姫と謳われた、ローズだっていうのか?」
 俺はブランシュに噛みついた。

 ――頼むから、違うって言ってくれ。


                              「翡翠の叫び 完」



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