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第三十九話から第四十話の間・ブランシュ視点

 この手のひらで


 テーブルの上に置いていた絹の手袋を取った。皮膚が分厚くなり硬くなった手のひらを手袋の中に収める。
 指を開いて、次に折り曲げ拳を握って、感触を手に馴染ませる。
 騎士になるために幾つものマメを潰した皮膚は硬くて、
『その手のひらだけは浮いているわね』
 と、母上が笑ったことを思い出す。
『こういう手のひらは、嫌いですか?』
 そう首を傾げて尋ねると、母上は艶っぽい唇に指を当て微笑んだ。
 母上の華やかな美貌は、年齢不詳の妖艶(ようえん)さを漂わせていた。そして、その色香は時に男たちを惑わせる。
 下町育ちの母上は実に気さくな人で、別宅の使用人からは慕われていた――僕らが立ち寄ることのできない本宅はいかにも貴族社会を縮小したようなところだけれど、別宅で雇った使用人たちは、貴族社会とは縁のない人々だ。
 その分、上下の垣根が低いので、男性使用人たちは母上に心奪われることがある。
 母上を賛美する声が屋敷のそこかしこで聞こえることもままだ。その度に、父上はハラハラしながら僕のところに泣きついて、不安をぶちまけるのだが、何をそんなに心配になるのかと思う。
 母上が父上にぞっこんなのは、目に見えて明らかなのに。
『あたしは好きよ。働いている手という感じがするわ。苦労知らずの優しい手より、ずっと素敵。貴方のお父様の手もね、昔、貴方の手と似ていたわ』
 少年期の父上は、貴族らしからぬ思想の持ち主で――今も、貴族の中では浮いている方だ――身分を偽っては、労働階級の下町に出入りし、そこで慈善活動に従事していた。
 女神を崇める町の聖堂の修繕など、大工仕事など肉体労働もこなしていたその手は、貴族の優雅さとはかけ離れた武骨なものだったらしい。
 もっとも、今の父上は太りすぎてどの指も同じように見えてしまうのだけれど。
 議員になってからは、書類と向き合っている日が多く、自然と肉体労働から離れ運動不足になったことと、母上の料理のせいもあったけれど、一気に太ってしまったらしい。
『そんな硬い手を逞しく見ていたものよ』
 うっとりと思い出し笑いをする母上に僕は苦笑した。
 今は今で、丸っこい指が可愛いのと、息子の僕が聞いていても呆れてしまうお惚気(のろけ)ぶりだ。父上の不安がわからない。反面、母上が父上の浮気を心配するのもよくわからなかったりする。相思相愛でも、不安は付きまとうものなのか。
 女王陛下に片想い中の僕には、理解できない領域なのかもしれない。早く、わかる日が来ればいいと思うけれど。
『じゃあ、貴族の令嬢方には嫌われそうですね』
 口を突いて出た皮肉を笑い飛ばして、それ以来、絹の手袋を愛用するようにした。
 別に、この手のひらを晒すことを恥ずかしいと思ったことはない。
 ただ、この硬い手のひらをそのまま受け止めてくれる人間以外に、触れられることが嫌だったのかもしれない。
 この手のひらは僕が僕である証だ。
 自らの存在すべてで勝ち得た物。
 身体を酷使し、鍛え上げ、剣士としての腕を磨いた。その結果、貴公子に似つかわしくないと言われる、武骨な手になってしまったけれど。僕はそれを惜しむつもりもない。
 この手のひらを厭う人間に、素手で触れるつもりもない――。
 そう思っていたから、あの頃は。
 ガンという何かを壁にぶつける音を耳にして、僕は顔を上げた。音の出所を辿れば、傍らでヴェールが壁に頭突きを食らわせていた。
 ……時々、ヴェールはこちらの予測を超えることをする。
 それは世間から隔離され育った経緯によるものか、それとも彼の本来の性格によるものか。判別するのは難しく、さすがの僕も面を食らうこともある。
 ただ、動揺を見せてしまえば、逆にヴェールを戸惑わせることを知っていたので、努めて冷静な声音で彼に声を掛けた。
「ヴェール、何をしているんだい?」
 ピクリと黒い肩が跳ねる。額を壁にこすりつけるような姿勢で、ヴェールはこちらに視線を返してきた。
 翡翠色の瞳は、(けが)れを知らない透明で無垢な色をしている。議会の思惑の下に育てられたにしては、あまりにも澄んでいた。
 議会監視下で育った騎士候補たちを数名知っていた。
 彼らは誰もが感情を知らない、それでいて自分は選ばれた人間だという態度があった。そんな彼らの中で、ヴェールは取っ付きにくい面はあったけれど、瞳に(おご)りは見えなかった。
 他の騎士候補たちは、成長過程で議会の思惑を見抜きどこか歪むか、投げやりになっていたけれど。ヴェールだけは、ただ真っ直ぐに騎士を目指していた。
 その姿勢は明らかに周りから浮いていて、孤独であっただろうに、その孤独すら孤独と理解できずにいた彼に声を掛けてから随分と年月を重ねた。
 そうして、彼の性格の大部分を把握したつもりだけれど……。
 何を考えて、壁に頭をぶつけているのか、ちょっと理解できない。
「……思い出したんだ」
 ヴェールは僕から目を逸らすと、壁に向かってポツリと言った。
「――俺も……言った。議長と同じことを……」
「えっ?」
 議長というのは前の議長――グルナ・アルジャンのことだろう。
 ローズの命を狙った彼は、その企みの尻尾を僕らに掴まれ、拘束された。議会の長としての権限を剥奪(はくだつ)された彼は貴族主義の権化(ごんげ)のような人間で、僕の生まれを(さげす)んでいた。
 その思想は危険で、貴族以外の人間をローズの魔力を悪用して減らそうと、狂気染みていた。
 その彼と、ヴェールが同じことを?
 目を瞬かせる僕に、ヴェールは言いにくそうに続けた。
「ブランシュのこと、売女(ばいた)の息子って……」
 そう口にしてから、ヴェールはガンガンと立て続けに壁に頭突きを食らわせた。
 もしかして、自分にお仕置きをしているのだろうか。
 確かに昔、ヴェールは僕に「売女の息子」と言われたことがある。
 もっとも、彼はまだ僕の名前を知らなかったから、周りが口にしていたそれをそのまま口にしたに過ぎないし、そこに侮蔑(ぶべつ)が宿っていることを把握していなかったのだろう。
 何しろ、ヴェールはまだ十三歳。議会の監視下に置かれた学院から士官学校へ席を移してきたばかりで、右も左もわかっていない頃だ。
 赤ん坊と言ってもよいくらいのヴェールの無垢さは、周りが僕を蔑む悪意も理解できていなかった。
 きっとヴェールは「売女の息子」という言葉を僕の単なる肩書きの一つと認識していたに違いない。そこに侮蔑の意味が含まれているなど思わなかっただろう。
 だから、ヴェールからその言葉を聞いても、僕の心は一つも揺らがなかった。
 ただ、彼にその言葉を聞かせた人間に失笑をこぼすだけ。
 父上は母上が娼婦であった過去を口にされるのを聞くと、悲しい顔をする。
 けれど、母上は豪胆だった。
 あたしが娼婦であったから貴方のお父様と出会えたのよ、と。
 そう、馴れ初めを語るくらいだ。
 言わせたい奴には言わせておけばいい――と、胸を張っていた。
 身売りされた不幸すら、幸福へと変換してしまう母上の前向きさ、強さが父上を惹きつけたのだろう。
 そんな母上を見て育ったから、僕自身も「売女の息子」という言葉を聞き流すことができた。
 ただ、僕に対する侮蔑には母上に対する侮蔑も混じっていて、それを悲しいと感じれば、父上の気持ちも理解できた。
 僕を蔑みたければ、蔑めばいい。そんな風に、他人を貶めることしかできない人間と付き合えない。実際、その手の人間は僕と距離をとる。
 他人がどう僕を見ようと、僕の存在は揺るがない。
 僕は父上と母上に愛されて、生きている。
 その事実は僕に確かな足場を与えてくれる。そうして、その事実を理解してくれる人は僕を蔑んだりしない。
 ――ブランシュはブランシュでしょ?
 ローズが口にした言葉が、胸の内に蘇る。
 記憶を失くした彼女が、同じ言葉を繰り返すとは思っていなかった。
 僕が「太陽」に選ばれたとき、僕はローズに冗談半分で問いかけていた。
『――ねぇ、ローズ。僕には娼婦の血が流れている。そんな僕を騎士として側に置いておくことに不安はないかい?』
 そうして、返ってきた反応はこの間のローズと変わらなかった。
 キッと眉尻を吊り上げて、
『あのね、自分を蔑んで楽しい? ブランシュはブランシュでしょ? 娼婦の血だとか、そんなこと何が関係あるのよっ!』
 怒るローズは、真っ直ぐに僕を見つめて言った。
 僕が僕であること――僕に流れる血が、僕の手のひらが、僕にまとわりつく蔑みがどうであろうと、彼女は僕の真実を見抜く。
 それがローズだった。
 記憶がなくても、姿形が変わっても、ローズがローズであるように、人間の根本はきっと大抵のことでは揺るがない。
 僕は僕だし、ローズはローズだ。そして、ヴェールもまたヴェールだ。
 自分が口にしてしまった失言の意味を理解すれば反省する潔さは、僕を侮蔑する人間たちとは一線を画す――もっとも、ローズへのセクハラ発言はいまだに理解していないみたいだけれど。
 ガンガンと飽きずに、壁に頭をぶつけているヴェールに、僕は声を掛けた。
「ヴェール、もういいよ」
「だけど……」
 僕を振り返った翡翠の瞳は、微かな怖れに震えていた。嫌われると思っているのだろう。
「議長の言葉に、君は怒ってくれたよね? それが君の本心だとわかったから、昔のことは過去に流そう?」
「いいのか?」
「もし僕が許さないって言ったら、どうするの?」
 縋るような目が僕を見上げてきた。
「だからね、僕がもういいと言うんだから、納得して」
「うん」
 こくりと頷く仕草は、何だか子犬のようだ。随分と懐かれた。けれど、それが嫌じゃないから彼に背中を預けることができるんだと思う。
「それより、ローズの準備が整った頃だろう。僕らの薔薇姫を迎えに行こうか?」
 そう促せば、ヴェールはこくんと頷いた。
 二人並んで、ローズがいる部屋へと向かいながら考える。
 いつまで、この関係が続くのか、僕にもわからない。
 いつか、ローズは僕たちとは違う誰かを選ぶかもしれない。だからと、強引に手折ってしまえば、薔薇は枯れてしまうだろう。
 人の思惑に囚われず、あるがままに己を貫いて咲くローズだから、僕もヴェールも彼女の騎士になれたことを誇りに思っている。
 ならば、彼女が僕を必要とする限り――僕はこの手のひらで、君を守ろう。
 それがきっと、僕が僕である証だから。


                           「この手のひらで 完」



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