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後日談・ディアマン視点

 思わぬ誤算


 樫で作られたドアをノックする。乾いた音が反響したのち、向こう側で応える声があった。
「失礼します」
 私は緊張に強張った声で告げ、ドアを開けた。
 澄んだ青空を四角く切り取った窓を背景に、立っておられたブランシュ様は、肩越しに私を振り返ると穏やかに微笑む。
 恐らく、世の女性たちを悩まして止まない、極上の微笑。
 男である私にはさすがに通用しない――と、思いたいが。
 ブランシュ様の、ときに空恐ろしい絶対零度の氷の微笑を目の当たりにした過去の経験を思い出せば、目の前の優しい微笑を前にすると、緊張が緩み、心が溶けるのを自覚する。
「何か、ご用でしょうか……」
 おずおずと尋ねる自分の声が、情けなくも弱々しく響いた。
 普段のブランシュ様が穏やかであるが故に、凍える青い瞳に晒されると、

『何だか人間的にダメ出しされているような気がする』

 ――と、騎士団の面々は言っていた。
 実際、私も同じような思いに至る。
 穏やかで多少のことは寛大に笑って許してくださる分だけ、冷たい微笑は実に鋭く心を抉る。氷柱で串刺しにされたような……そんな気になってしまうのだ。
 だから、優しい微笑を前にするとホッとする。
 まだ見捨てられていないのだと、思わされる。
 ……そう思ってしまう自分が、何だかヴェール様に近づきつつあるような気がして、複雑な思いに駆られてしまうのだが……。
「呼び出して悪かったね、ディアマン」
「いえ、いつ何時でも、お呼びいただければ馳せ参じます」
 用もなく人を振り回したりしないブランシュ様だ。
 それなりに重要な用件があってのことだろう。
 そう身構える私に、ブランシュ様が「尋ねたいことがあってね」と笑って続けられた。
「ローズのことなんだけれど」
「真姫に何かあったのですかっ?」
 ローズ様の御身に何かあったのかと、私は思わず身を乗り出す。
 十六年前――この星界の時間では、一年前――この国の女王陛下であるローズ様は、何者かの陰謀によって暗殺されかけたのだ。
 呪いを受けられ、胎児に戻られたローズ様の十六年の月日を取り戻すべく、私は地球と呼ばれる異世界で、ローズ様の――あちらでのローズ様は真姫という名であった――父親として過ごした。
 そうして、こちらに戻って来たが、ローズ様がいまだに狙われていないとは言い切れない。
 危惧に眉を寄せる私に、ブランシュ様は僅かに頬を傾けられた。
「いや、そうじゃないよ」
 唇に浮かんだ微笑に白い手袋で包んだ指先を当てて、こちらを上目遣いに見上げてきた。
「すっかり、父親が板に付いたみたいだね」
「父であろうと、なかろうと。……私はローズ様をお守りする騎士です」
 そう告げた自身の言葉に、ほんの少し私の胸が軋んで悲鳴を上げた。
 ローズ様が天真爛漫な女王候補であったときから、秘かに抱いていた恋心はそのまま誰にも告げられずに終わるのだ。
 押し殺された我が心の純情が――泣くに泣けずに上げた悲鳴。
 しかして、父として信頼して心を預けてくださっているローズ様に、今更、何と言えよう。
 口にすればそれは、ローズ様の信頼に対する裏切りではないか?
 ならば私は、父であった者として。また、女王陛下にお仕えする騎士として。
 ――ローズ様の幸せを願うのみ。
 そう己の心に言い聞かせ、
「それで、ローズ様についてお尋ねしたいこととは?」
 私は疼く胸の痛みを振り払うよう、声を出した。
 尋ねたいことと言われるからには、地球でのことだろう。
 推測に違わず、ブランシュ様は口を開かれた。
「あちらに心残りがあるのではないかなと思ったんだ」
「心残りですか?」
「ローズは心の準備も出来ないまま、こちらに戻ってきたからね。それでいきなりあちらの世界を切り捨てろというのは、酷だろう?」
 お優しいブランシュ様の気配りは、ローズ様がこちらにお戻りになられてから、端々で垣間見られる。
 今回も同様に細やかな配慮で、ローズ様の心の負担を取り除こうとされているのだろう。
 貴方のようなお方に愛されるローズ様は、必ずや幸せにおなりになるでしょう。
 私は涙を呑んで、ローズ様の幸せを祈ります。
「それで、ブランシュ様は私に心当たりがないかと?」
「いや、それはもうローズに聞いた。君に聞きたいのは、この『祝福の鐘を鳴らして』というものなんだけど」
 ブランシュ様はどこからともなく取り出した紙に目を落として、告げる。
「この『祝福の鐘を鳴らして』というのは、何だろう? 何かのタイトルかな?」
 耳に入ってきたその音に、私は顔を(ほころ)ばせながら答えていた。
「それはローズ様が愛読されていた小説のタイトルです。姫君と騎士の波乱万丈の恋物語を綴った異世界ラブラブファンタジーですよ」
「…………」
「…………」
 ブランシュ様が絶やさずに浮かべていた唇の微笑を消された。反射的に私も口を閉じた。部屋に微妙な沈黙が降り、私は何事かと眉を寄せる。
 ……何か、ご不興を買うような失言をしただろうか?
 先ほど口にした自らの言葉を反芻(はんすう)する脳は、ブランシュ様の声を片耳に聞く。
「……今、『ラブラブ』とか……言ったかい?」
 当惑を浮かべた青色の瞳を見て、私はギョッと目を剥く。
 そんな恥ずかしい単語なんて――断じて、口にしていない! と、反論しそうになって、止まる。
 ……言ったのか?
『ラブラブ』なんて恥ずかしい単語は、私の辞書にはありはしない。
 だが、しかし…………言ったような気がする。
 私の脳裏に、ピンク色の『恋愛ファンタジー』という文字がちらつく。
 可憐な姫君と凛々しい騎士が描かれた表紙に巻かれていた、帯の一部にプリントされていた『異世界恋愛ファンタジー』のその文字が、激しく明滅している。
 あくまでもそこに書かれていた文字は『恋愛』であったのに、私の脳は勝手に『ラブラブ』と訳していた。
 何故、ラブラブと訳したっ?
 というか、私は己のこの口で――言ってしまったのかっ?
 『ラブラブ』とっ!
 人生最大級の失言だっ!
 ざっと、私の身体から血の気が引く。
 ローズ様の情操教育に問題があってはならないと―― 一応、親の務めとして、娘がどのようなものに興味を抱いているのか心配だったので、読んでみた。
 内容は年頃の乙女心をくすぐる甘く切なく、そして続きが気になる物語だった。
 まさか、少女向けの小説で涙しようと思うはずもなく、自身がこれほどハマるとは思ってもみなかった誤算であった。
 しかし、それほどに引き込まれた。少女小説と侮っていた自分に恥じる。なにしろ、意外とテーマ性の強い、娯楽と言い切るにはあまりにも勿体ない物語があるのだ。
 先に述べた『祝福の鐘を鳴らして』の他にも、政略結婚を題材にしたもの、それこそ現在のローズ様の現状を描いたような異世界召喚ものなどなど、どの物語もなかなかに面白いのである。
 ローズ様がそれらの物語の続きを切望されるだろう、そのお気持ちは、痛いほどわかる。
 私とて発売日に書店に寄ったものだ。
『娘に頼まれて』などと、聞かれもしないことを書店員に口にしては、ピンクの帯が見えないようにカバーを掛けて貰った。
 そんな涙ぐましい努力の末に手に入れた『祝福の鐘を鳴らして』は、相思相愛となった姫君と騎士の、まだまだ周りに認められない恋路も気になるところだが、姫君の幼馴染である青年の報われぬ横恋慕も、また涙を誘うものだった。
 ほんの少しでもいい、その青年に希望はないのか? と、作者に対し問いかけるような手紙を書いてゴミ箱に捨てたことは――絶対、何があっても、口にはできない。
 そして毎回、続きが気になる終わり方で、作者や出版社の手のひらに踊らされている感が否めなかったが、どうしても姫君と騎士の恋が気になってしょうがない。
 発売日が待ち遠しかった――などとは、やはり何があっても言えない。
「…………い、言っていません」
 私はこちらの様子を(うかが)う青い瞳から目をそらしながら続けた。
「言うはずがありません。三十を過ぎた――もう直ぐ四十になろうという男が真顔で『ラブラブ』など、気が狂っているとしか思えません!」
 今まさに口にしてしまったが……。
 しかし、これは説明であるから、カウントには入らないであろう。
「そんな恥ずかしい言葉を私が口にできると、ブランシュ様はお考えですかっ?」
 私を知る者たちは、私を生真面目なお固い人間だと認識している。
 私自身、もう少し融通(ゆうずう)が利かぬものかと、自嘲(じちょう)することもしばしばだ。
 そんな私が、少女向けの恋愛小説を真面目に読んでいたなんて知られることは――何としても避けたい。
 それは、あくまで親の務めであって、恥じることではないと思うのだが。
 思うのだが――しかし……。
 できるなら、やはり誰にも知られたくはない。
 三十を過ぎた男が真顔で『ラブラブ』など……と。
『ラブラブ』など……と。
 そんな恥ずかしいこと、言うはずがないのだ!
 そう、『ラブラブ』など……。
 …………な、何気に、心臓が痛い。
 自分の言葉にダメージを受けるなど……私は何をやっているのだろう?
 思わず顔を伏せた私の耳に、ブランシュ様の声が優しく撫でる。
「――ああ、うん。多分、僕の気のせいだ。悪かったね」
 ブランシュ様の細やかな気配りは、私に対しても発揮してくださるようだ。どうやら、聞き流してくださるおつもりらしい。
 誠にありがとうございます、ブランシュ様。
 一生、貴方様に付いていきます!
 歓喜に震える私を前に、ブランシュ様は穏やかに微笑まれた。
「では、この『祝福の鐘を鳴らして』をローズのために取り寄せるよう手配するよ。質問に答えてくれて、ありがとう」
「いえ、お役に立てましたら光栄です。ちなみに三ヶ月に一巻の発刊ペースでしたので、地球とこちらの時差を考えますと、既にシリーズとして数冊は新刊が出ているかと思われます」
「……ああ、うん。わかった。抜かりのない発言、心に留めておくよ。それで、紛失してしまう可能性も考えて、二冊ずつ取り寄せようと思うんだ。一冊は、君に管理して貰っても良いかな、ディアマン?」
 首を傾け、ニッコリと笑うブランシュ様の、青い瞳の煌めきは――果たして。
 いつものごとく、細やかな気配りによるものか。
 それとも、からかいの種を見つけたものか。
 その真意を問うのは、止めておこう……と、心に誓って私は部屋を辞した。


                             「思わぬ誤算 完」



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