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 12,目覚めた先


 まどろみから意識が目覚める。身体を包み込む、柔らかな寝具はこの一年ですっかり、私を(とりこ)にした。
 ふかふかと柔らかい羽毛のクッション。肌触りのいいシーツ、軽やかな羽布団。いつまでもずっと寝そべっていたいなんて、一人暮らしを始めるときに買った安いパイプベッドじゃ思わない。
 あと五分眠っていたい。そんな誘惑に目を開けたくないのだけれど、目蓋の向こうが薄明るい。目を閉じているはずなのに明るさを感じるなんておかしな話だけれど、朝が来たという認識が錯覚を起こすのだろう。
 目覚めなきゃ、今日も一日が始まる。
 頑なに目を閉じていようとする無意識に、私が「起きなさい」と命令する向こうで、トントンとノックの音。それは暫く後、苛立たしげな激しさで扉を叩き始めた。
 ――誰だろう? 何か、慌てているみたいな感じ?
 ゆっくりと目を開けて、身体を起こした瞬間、待ちきれなくなったらしく、ドアが乱暴に開かれて人影が飛び込んでくる。
「殿下っ! お休み中のところを申し訳ありませんっ! アリスが行方不明に――」
 その人影が早口に何かをまくし立てようとして、顎が外れたように唖然と口を開いた。
 切れ長の目元が大きく見開かれ、蒼い瞳が丸くなっている。
 私の方も普段見ないエスクードの間抜けな表情に目を丸くした。
 というか、何で私の寝室に?
 パクパクと口を開いている私から逃げるように、エスクードは慌てて(きびす)を返して、部屋を出て行った。
 扉が閉じたと思った刹那、再び開かれて、顔を覗かせたエスクードが叫ぶ。
「どうして、殿下の部屋にアリスがいるんだっ!」
 一瞬、言われた意味がよくわからなかった。
 けれど、ちょっと待って。私、肖像画の間から自分の部屋へと戻った記憶がないというか、腰の辺りに重量が……。
 恐る恐るそちらに目を向けると、私の腰を抱くように一本の腕が絡まっている。
 ――腕っ!
 腕があるということは、当然ながらその先がある。
 視界に胸元が開かれたシャツが見え、そこから覗いているきめ細やかな肌、綺麗な鎖骨、胸板――目線が上にずれると白い首筋、細い顎、半開きの端正な唇、漆黒の睫毛……。
 横に寝そべって眠っている皇太子さまの姿を目視した瞬間、私の目玉は眼窩(がんか)から飛び出して、宙を飛んだに違いない。
 それから私はぴょんとマットの上で跳びはね、脱兎のごとく、寝台から逃げ出した。
 いましがたの自分の姿をリプレイしたら、さぞかし滑稽(こっけい)だろうと思うけれど、そこまで頭が回らない。そうして、よく分からないままにエスクードの背中に隠れる。
「アリスっ? だ、大丈夫かっ?」
 私の混乱が伝播(でんぱ)したように、エスクードが肩越しに振り返り焦った調子で聞いてくる。
 だだだだだ大丈夫っ?
 反射的に我が身を見下ろす。
 大丈夫、ネグリジェは着ているわっ! ――って、何を想定しているのっ?
 何っ? えっ? 何? どうして、私は皇太子さまと同衾(どうきん)していたのっ? って、同衾じゃないっ! 言葉を間違えたら駄目よ、私っ!
 自分でもよくわからない状況に混乱して、目を白黒させていると、こちらの騒々しさに皇太子さまの目が覚めたらしい。のっそりと寝台の上で身を起こした。よく見ると皇太子さまの服は肖像画の間で見たときのままだ。
「……うるさいぞ、エスクード」
 不機嫌そうな声でエスクードを睨む皇太子さまの瞳は、昨夜泣いたせいで白目の部分が赤く充血していた。深紅の瞳と相まみえて、ちょっと怖い。
「今日の朝議には欠席するとあちらに伝えろ。私は寝る。さあ、アリスおいで――昨夜の続きをしようではないか」
 私を手招く皇太子さまに、私は声にならない悲鳴を上げた。
 続きってなんですかっ?
「殿下っ! どういうことですかっ?」
 エスクードが私を庇うように前に出た。大股で部屋を横切り、寝台へと近づく。
「どうして、アリスが殿下の寝室にいるのですっ?」
 緊張に強張った表情で皇太子さまに詰め寄れば、
野暮(やぼ)なことを聞くな、エスクード。当然、仲良く睦みあい、愛を語りあったに決まっているだろう?」
 ――違うっ! そんなこと、絶対にしてないしっ! 誤解されるようなこと、言わないでぇぇぇぇ!
 私は喉元まで出かかった悲鳴を必死に喉の奥で押し留める。
 皇太子さまはくしゃくしゃと黒髪を掻き乱しながら、不機嫌そうにエスクードを睨んだ。どうやら皇太子さまは、朝は駄目なタイプらしい。
 私はいつも、お城の朝議に出席されて帰ってきた皇太子さまと接しているから、ここまで不機嫌な皇太子さまは知らないけれど。
「……飲みましたね?」
 お酒の匂いがしたのか、エスクードがため息をついた。それで気勢が殺がれたらしい。身を乗り出していた姿勢を正して、私の方を振り返った。
「大丈夫だ、アリス。殿下は酒に弱い。直ぐに潰れるし、二日酔いになりやすい体質だ。アリスに……その、そういうことをする余裕はなかったはずだ」
 半分涙目になっている私にそっと笑いかけて、身振り手振りを添えて説明してくれた。
 私はこくこくと頷いた。私自身がお酒を飲んで酔っ払ったわけではないから、記憶もないままに「そういうこと」をしたとは思えないし、していないと、自分の身体だからわかるけれど。
 前後の記憶が繋がらないことに、今一つ確証が持てずにいたので「なかった」と断言して貰えて安堵した。それにエスクードに誤解されなくて、良かった。誤解されたら、気まずいもの。
「どうしてアリスが殿下の部屋にいたのかは気になりますが……」
 エスクードはそこで追及を止めた。皇太子さまがお酒を飲んだ理由に気付いたのかもしれない。話を逸らすように言った。
「水を持たせます、薬も要りますか?」
 エスクードの問いかけに皇太子さまはボソボソと返す。何を言っているのか私の方までは届かなかったけれど、エスクードの横顔が僅かに和んだように見えた。
「……そうですね。ですが……譲りませんよ」
「そういうところは、もう一人に似ているな」
 皇太子さまはエスクードを横目で見やって、複雑な表情を見せた。もう一人と言うと、エスパーダのことよね。
 当て擦りの前に、エスクードは眉を下げて、情けない顔を見せた。
「それは言わない約束でしょう。とにかく、今日はゆっくりお休みください。後で様子を見に来ます」
「…………すまなかった」
「いえ、二度目はないことを覚えておいてください」
 謝る皇太子さまに、エスクードは笑った。
 皇太子さまはそれから私に目を向けると、悪いというように謝ってきた。
「アリスも悪かったな。あのままの状態では風邪をひくと思ったのでな、こちらに連れてきた。一緒に横になってしまったのは、力尽きたんだ」
 多分、私は肖像画の間で眠ってしまったんだろう。目が覚めた皇太子さまが、私を放置しかねてあの部屋から連れ出したのはいいけれど、行くあてもなく――結果、二人で一緒の寝台に横になってしまったというのが、大体のところだろう。
 運ばれている間に目が覚めなかった自分の鈍感さに腹が立つけれど、昨日はダンスレッスンなどがして疲れていたから……ぐっすり眠ってしまったのだと思う。
 事態が把握できると、妙に頭がすっきりしていた。熟睡(じゅくすい)した証拠だ。
 私は皇太子さまに「気にしていない」というように微笑めば、皇太子さまも笑顔を返してくれた。
 いつものからかうような笑顔ではなく、優しい笑顔。
 穏やかな眼差しは一瞬、アリスエールに向けられたもののように見えたけれど、違う。
 彼女がもういないことを皇太子さまは知っているし、私が身代わりにはならないことも承知している。
 これは私に向けられた視線で、昨夜のことを「ありがとう」と言ってくれているように見えた。
 私は頷くように、もう一度笑って、返す。
「アリス、行こう」
 エスクードに肩を押されて、私は皇太子さまの寝室から出た。寝室から居間へと通じるドアを閉じると、バサリと私の上に何かかが被さる。それはエスクードの長衣だ。ほんのりと体温が残っている上着が肩に被さっていた。
 目を上げると、エスクードの手が上着の前を閉じるようにして、私の無防備なネグリジェ姿を隠してくれた。
「……なるだけ、話が回らないようにしてみるが」
 エスクードが低く呟く。その声の苦々しさと表情に、私は思っていたよりも事態が深刻なのを知った。
 私と皇太子さまの間に何もなかったことは、わかっている。けれど、私たち以外の皆もそう承知してくれるとは限らない。
 皇太子さまが元婚約者によく似た女性と一夜を共にした――その噂はくちさがない人たちによって、城内に醜聞(しゅうぶん)として広がる可能性がある。
 エスクードはそれを懸念しているのだとわかった。
 でも私は、別にいいと、割と楽観的に思う。
 陰で悪口を言われていることには耐性がある。悪意から発生したものなら、私もヘコむのだけれど、今回のことは誤解なのだ。事実は何もないのだから、別に痛くも痒くもない。
 エスクードに誤解されたら、さすがにそうも言っていられないけれど。彼はちゃんとわかってくれているから、うん。私は平気だよ?
 私は何も気付かないふりをして――実際、今の呟きは翻訳されていないので、私は理解していないふりをするしかない――エスクードに笑いかける。
 彼は困ったような顔で半分だけ笑みを返してきた。
 気にしなくていいよ、と。言ってあげたいんだけどな。
 言葉が通じないというのは、本当に大変だと、改めてしみじみと実感した。


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