14,空中散歩 上機嫌なフレチャは薄い被膜を張った翼に風を エスクードの胸に額を押し付けるようにしていた姿勢を少し緩めて、首を動かす。眼下に広がるジオラマみたいな光景に、自分がいる位置に背筋が冷えた。 ――高い。 日常生活を送っている皇太子さまのお城が煙草の箱、城下町の大きな建造物が――多分、上流、中流階級のお屋敷だろう――マッチの箱、民家はペットボトルのキャップみたいなサイズで緑色の大地に広がっている。石造りの大きな建造物、木造りの家や小屋。家畜を飼う牧草地に田園、手入れのされていない森、舗装された並木道。 それらがフレチャの上昇に伴い、さらに小さくなっていく。 世界が遠い――でも、不思議と近い。そう感じる。どうしてだろう? 会社は高層ビルのなかにあった。そこから見下ろした街は、何だか冷たくて無機質だった。コンクリや鉄筋に温もりを感じず、そこにいる人たちもどこか作り物めいていた。 きっと、私自身が冷めていたのだろう。 あちらの世界で私は人と深く関わり合うのを避けていた。温もりを感じないようにしていた。 だから冷たく見えたんだ。 でもこの世界では一つ一つに息遣いや温もりを感じる。 炊事をしているのか、家々の煙突からは煙が薄くたなびいている。そこに生活している人がいるのが、ハッキリとわかる。 あの小さな家の一つ一つに、家族があるのだろうと思えば、少し羨ましくなった。 小さな部屋に独りでいることを私は当たり前に感じていた。アパートやマンションの集合住宅では、独り暮らしは珍しくもない。 寂しさなんて感じることなんて、なかったの。 でも、こちらに来てから、私は寂しさを無性に感じる。 どうして? 周りが優しいから? あちらにいた頃だって、元彼は優しかった。多分、その優しさに気づけないほど、私は気を張り詰めていたのだろう。 ここでは私の想像を上回ることばかりで、気を回すより、こちらが振り回されている。だからなのかな、心の隙間にするりと寂しさが入り込んで来るのは。 寂しいなんて感情、私は気づきたくなかったのに、どうして、気づいてしまったのかな……。 独りでいることに慣れたはずなのに――寂しいなんて、思っちゃいけないはずなのに。 孤独に気がついたら、動けなくなる。役立たずになってしまう。 一人ぼっちであることに慣れようとした。一人ぼっちであることに気づかないように努めた。 それなのに……。 ぼんやりと考える私の手をエスクードがグイっと引っ張った。 突然のことに目を見張れば、彼は血の気の引いた青い顔で私を見下ろしていた。 「ちゃんと、掴まっているんだっ!」 彼の腕に抱きしめられて、私は危うく空に身を投げ出しそうになっていたことに気づく。命綱のエスクードの身体から手を離しかけていたらしい。 頭を抱えられて、彼の胸に額を押し付けられる。ドクドクと鼓動が速い。エスクードが動揺しているのが伝わってきて、私は震える手で彼にしがみついた。 こちらに来た際、自分が現実逃避から飛んだことはあり得ないと思った。けれど、私のなかには私が必死に気づかないふりをしていた孤独があった。 熱に浮かされて、無意識に現実から逃避しようとしたのではなかったと、誰が断言できるだろう? 役立たずと言われることが怖くて、私の心の内側には焦りがあった。無意識のうちに自分自身を追い詰めていなかったとは言えない。 そうしながら、恋愛や結婚など、変化を求めることを拒んだ私の日々は、同じような日常の繰り返し。無限地獄のような錯覚から ……私、逃げたかったの? あちらから、独りでいることから……。 奥歯がカチカチと鳴る。ドッペルゲンガー。知らないもう一人の自分に出会ったようで、怖かった。 「……アリス、怒鳴って悪かった」 少しバツが悪そうな声でエスクードが呟く。私が顔を上げると、彼はホッとしたように強張っていた表情を緩めた。 「すまなかった、少し気が動転したんだ。まさか、手を離すなんて思ってもみなかったから」 片方の手で謝罪を示してくる彼に、私は慌てて首を振った。 エスクードが謝る必要はない。間違いなく、私の失態だ。 自分から乗せてと押しかけておいて、危険を忘れた。お荷物以外の何物もない。 何をやっているんだろう? 後悔に胃の奥がずんと重くなる。唇を噛む私の背をエスクードの大きな手が優しく撫でた。 緊張をほぐすように、ゆっくりと彼の声が私のなかに沁みてくる。 「大丈夫だ、アリスが落ちそうになっても俺が必ず助けてやるよ」 優しい笑みをそこに見つけて、私は頷くようにエスクードにしがみ付いた。彼の体温が独りではないと教えてくれる。寂しさも全部、溶かしてくれる。 この人がいてくれて良かったと思う。 エスクードに拾われて良かったと、心の底から思った。 私、エスクードの包容力のある優しいところがすごく好きだ。 私を拾ってくれたのが、この人で良かった。 ………………。 …………。 ……って、……あれ? 今、何か……私らしくないことを思わなかった? 「アリス、そんなにしがみついていたら、景色が見えないだろう。ほら、俺が捉まえていてやるから」 エスクードの腕が私の腰に絡まって、どきりとする。 えっ? 何を今さら動揺しているのだろう。さっきまで、ほぼ抱き合っていると言っても過言ではなかったというのに、何だか急にエスクードとくっ付いているのが恥ずかしくなってきたというか。 頬に血が上る。身体が急に熱くなる。何だか胸の奥がドキドキしている。 何だろう、この反応は。 まるで十代の女の子みたいじゃない――私、十代の頃にも、こんなにドキドキした記憶はないというのに。 元彼と付き合っていたときだって……こんな風に、ドキドキしたりしなかった気がするのに。 「ほら、空からの眺めはそう拝めないぞ。ドラゴンは誰でも背に乗せてくれるわけじゃないから、そう誰彼と空を飛べるわけじゃないんだ」 そうなんだ? だから竜騎士は騎士のなかでもワンランク上なのかな。 腰に絡まった腕が私の身体を固定して、もう片方のエスクードの手が外界を指し示す。 私は自由になった背中を少し仰け反らして、改めて下界を見つめた。かなりの距離を飛んでいたようで、整然と家々が並んでいた街並みは遥か彼方。田園の緑色の 「秋の季節、この緑が黄金色に変わるのがまたいいんだ。その頃にも一緒に来よう」 エスクードは嬉しそうに笑って、片手を器用に動かして伝えてくる。 未来の約束に心が弾んで、私も笑って頷いた。 風に金髪をそよがせながら笑うエスクードの横顔を見やって、私は少し前の自分の思考を反芻し、解析する。 好き――って、うん。人間的に好きってことよね? だって私はとうの昔に恋愛感情を捨てた女だもの。 心細かったところだったから、変に意識しすぎただけだろう。エスクードが優しいことは既に知っている。彼のことはずっと前から好きだと思っている。 うん、今までの感情と何一つ変わらない――はずだ。ちょっと照れて、ドキドキしちゃっただけだろう。 彼は私に優しくて。 それが私に向けられた優しさではなく、アリスエールに向けられた優しさだったと知ったとき、ガッカリしてしまったけれど。 私がアリスエールに似ていなくても、多分、エスクードは優しくしてくれただろう。 エスクードはそういう人だ。この一年の付き合いで、彼の人柄は理解しているつもりだ。 皇太子さまもエスクードも、私にアリスエールの面影を重ねても、決して身代わりにはしない。そんな風に、身代わりで満足できるような愛情じゃなかったはずだ。 だから、私がエスクードに恋愛感情を持ったところで、無駄だ。 叶わない恋をするほど、私は情熱的でもないのだから、さっきのドキドキは気のせいだろう。 分析してみれば、感情は整然としていた。 恋をしない自分がやっぱり、寂しいなと思う。アリスエールと皇太子さまの恋物語を知ったから、余計に寂しさが募ったのかもしれない。 それでちょっと、心細くなってしまったのだろう。 でも、今は――大丈夫。 エスクードの手が私を繋ぎとめていてくれる限り、私が無意識に飛んだところで、きっと助けてくれる。 いや、無意識にでももう飛ばないことはないと思う。 何となくね、そう自分を信じられた。 だってね、私にもしも何かあったら、エスクードは悲しむだろう。素性も知れない女に優しくしてくれるエスクードの情の深さは、私に万が一のことがあれば、心配する。 いましがた、それを見せつけられたから、私は彼に心配をかけたくないと思うのよ。 あちらでの私には、誰も私のことを心配してくれる人はいなかった。だから、無意識に現実から逃げることに抵抗がなかったのかもしれないと、冷静に考えると可能性が見えてくる。 誰かにこちらの世界に呼ばれた可能性も否定できないけれど、私自身がどこかへ逃げたいと、心の底で思っていた可能性もなくはないことに気づかされた。 アリスエールの存在を求め呼んだ声と逃げたいという想いが、二つの世界を繋いだのかもしれない。 でも今は……不思議と、そんな自分の弱さを受け入れることができた。そして、これからの私は孤独から逃げることはないと信じられた。 だって私は、一人じゃないもの。 |