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 38,永久(とわ)の絆


 感慨深く空を見上げる私の肩にエスクードの手が触れた。そっと力を込められて、私は彼を振り返る。
 蒼い瞳がまるで鏡のように私の影を映していた。
「……アリスも、帰るべきところへ……帰さなければならないのかな?」
 問うような口調に、私はまず確認すべきことを訊ねた。
「帰れるの?」
「……エスパーダが実行した術を詳しく調べれば、帰す算段は付けられるかもしれない。直ぐにとはいかないだろうが……アリスが帰りたいと言うのなら、宮廷魔術師に頼むこともできる」
 どうする? と、言外に問いかけられているのはわかった。
 エスクードは私の意志を尊重しようとしてくれているのだろう。彼にしたら私は、自分の弟によって関係ないままに巻き込まれた人間だ。
 きっと、責任を感じているだろう。そういう人なんだというのは、もうわかっている。
「…………そう」
 私は大きく息を吸って、その事実を胸に染み込ませた。
 帰れる可能性はある。でも、でもね。私の答えはとっくの昔に決まっていた。
 問題は、エスクードが憂うことなく、私が出した答えに納得してくれるよう説明できるかどうかだ。
 責任を感じた形で、私を受け入れて欲しくない。
 私は私自身で選んで、答えを見つけたの。私らしく生きられる場所。私が大切にしたいと思う人たち。ここで生きたいと願う自分。
「あのね、エスクード。私……あなたに色々と知って欲しいことがあるのだけれど、聞いてくれる?」
 真っ直ぐに見つめた視線を前に、エスクードは静かに頷いた。
 私はあちらでの自分の境遇を語った。既に両親がいないこと。特に心配してくれる人がいなくて、いつも一人だったこと。
「一人だったのか?」
 エスクードの手のひらがそっと私の頬を包んだ。
「一人で平気だと思っていたの。一人でいることに慣れたつもりだった。でもね、それは強がりだったって……気付いてしまったら、私はもうあの場所に帰れない」
 私はエスクードを見上げて、告げた。
「アリス」
「一人が寂しいから、ここに居たいと決めたわけじゃない。ううん、それもあるかもしれない。だけど、一番大きな理由は……一人で居たくないと思うほどに、私はこの場所が、ここに居る人たちが……あなたが好きになったの」
 好きという言葉を告げる唇が、微かに震えた。声が頼りなくかすれて、エスクードの耳にちゃんと届いたのか、不安になる。
 だからもう一度、繰り返した。
「私――あなたが好き。エスクードが好き」
 身体の内側が熱く燃える。恥ずかしいのか、興奮しているのか、自分でもわからない。
 この後、どうしたらいいのかわからなくて、ただエスクードの瞳を見つめ返した。
 蒼い瞳は私を映して、ゆっくりと近づく。頬に触れた指が顎へと動いて、持ち上げられた。
 一応、それなりに経験があるからこの後の展開はわかる。
 胸の内側で跳ねる心臓を抑え込みながら、私はそっと目を伏せようとして――大事なことを告げていない自分に気づいて、目を見開いた。
 近づいてくるエスクードの唇を思わず手のひらで遮れば、彼は面を食らったように素っ頓狂な声を上げた。
「アリスっ?」
「ご、ごめんなさい。でも、大事なことを言っていなくて!」
 私はわたわたと慌てながら、叫んだ。
「実は私、あなたより三つも年上なのっ!」
「――――はっ?」
 蒼い瞳が丸く見開かれるのを目にして、私は不安になった。
 ああ、やっぱり。この童顔で、二十九歳は詐欺よね? 別に悪意があって騙したわけじゃないけれど……騙されたと思われてもしょうがないくらい、ギャップがありすぎるわよね。
「ええっと……俺より、年上?」
 ぱちぱちと目を瞬かせながら、エスクードは確認してくる。
 私はしょんぼりとうなだれながら、頷いた。
「そうなの。騙すつもりなんてなかったけれど……あの、もう直ぐ三十路だから、その」
「……俺より年上……、三つというと」
 エスクードの声が繰り返すのを耳にして、私はぎゅっと目を瞑った。
「それは予想しなかったな。……でも、アリスは独り身なんだよな?」
 確認するような問いに私は、上目遣いに小さく頷いた。向こうでは結婚しない人も珍しくなくなったけれど、こっちの風習では色々と問題ありとみなされるかもしれない。
 不安になる私を前に、
「じゃあ、俺がアリスに結婚を申し込んでも問題はないよな?」
 ふっと唇の端を緩めてエスクードが笑う。私は思わず息を飲んだ。今、結婚って言った?
「……あの、いいの? 私は年上よ」
「じゃあ聞くが、アリスは俺が三つ年下で、ガッカリしたか?」
「ううん。そんなこと、ない」
 首を横に振って否定した。
 私よりも三つも年下なのにしっかりしていて、凄いなって思ったよ。自覚がなかったけれど、そのときから私はエスクードのことが好きだったんだろう。
「同じことだ。アリスが俺より年上でも、俺がアリスを好きだって事実は変わらない」
 エスクードの口から「好き」という言葉が出てきて、私の頭の中は一気に沸騰した。
「……す、好き? エスクードは私のことが好きなの?」
「いや、ここまで来てどうして確認されるのか、わからないんだが」
 エスクードが苦笑して、私の顎に添えていた手の指先で、私の唇をなぞった。
 確かに――私たち、キスしようとしていたような……。
「で、でも、エスクードはアリスエールが好きだったんじゃないの?」
「俺がアリィを? 俺にとってアリィは妹以上の感情はないよ。もしかしてアリスは、俺がアリィを好きだと思っていたのか?」
 勢い込んでこちらを覗いてくるエスクードに私は顎を引いて、おずおずと頷いた。
「……だからか。俺は結構、アリスに対しアプローチしてきたつもりだったが……通じなかったのは」
 私の両肩に手を置いて、エスクードはがっくりとうなだれた。
 ――ええっと、また、私は勘違いをしてきたの?
「でも、私にアリスエールを重ねようとしたって……」
「確かに最初はアリィが(かえ)って来たように錯覚した。夢の件が尾を引いていたからな。そのせいもあって、アリスと呼んでしまった。アリスの名前がわからなかったこともあって、殿下に報告する際に仮の名でそう呼んだんだ。すると殿下も同じように真似してしまったから、誤解させてしまったかもしれないが」
 いつの間にか、私の名前になっていた「アリス」という音の響きは、エスクードにとっては仮の名前だったの。
 私をアリスエールと重ねていたわけじゃなかったの?
「アリスに妹だと思っていたあの子を重ねていたら、俺は困ったお兄ちゃんになるだろう? アリィにとって、そんな迷惑な兄貴は一人で十分さ」
 エスクードは苦笑して、それに――と続けた。
「第一にアリスとアリィはタイプが違う。アリィは自分から積極的に行動していくタイプだ。でも、アリスはどことなく受け身だろう? 控え目で大人しくて、アリィとは正反対だ」
 言われると、そうなのかもしれない。
 自分から何かを積極的にする方ではない。頼まれたら基本的に断れないタイプは受け身と取られてしょうがないだろう。
 けれど言うほど、私は大人しいだろうか?
 微かに首を傾げる私に、エスクードは微笑んだ。
「最初はアリスを守ってやらなければと思った。俺が拾った手前もあったからな。でも、アリスは記憶がなく――実際には記憶はあったわけだが、それでも右も左もわからない世界で、戸惑いながらも自分の足場を固めようと努力していただろ」
「……だって、ただでお世話になるなんて」
「甘えることが許される立場にアリスはいた。でも、決して甘えなかった。そういうアリスが俺には眩しく映ったよ」
「ただ、不器用なだけじゃない? 喋れることも結局言い出せなくて、ずっとエスクードに嘘をつく羽目になったわ」
「不器用でも、一生懸命だったよ。いつだってアリスは、自分の状況を受け入れそれから、自分が出来ることを探して、最善を尽くそうとしていた」
 エスクードの片腕が私の背中に回る。抱き寄せられて、顔が近づく。
「気がつけば、いつだってアリスを目で追っていた。守るとか、心配だからとか、そんな理由じゃない。惹かれずにはいられなかったんだ。だが、アリスの素性がわからなかったから、この気持ちを押し付けるのは躊躇(ためら)った。エスパーダのことがあったからだろうな、愛しているからと言って、その相手を傷つけるような真似はしたくなかった」
「うん」
「それでも、アリスに惹かれる気持ちはどうしようもなくて、殿下などにはわかりやす過ぎるくらいだと言われた。ならば、アリスが俺の気持ちに気づいてくれるのを待とうと思った。俺を選ぶか否か、アリスに決めて欲しかった」
 硬い指先がこめかみに触れる。輪郭をなぞるように、頬に触れて、再び顎に手が添えられる。
「俺はアリスが好きだ。アリス、俺と一緒に居て欲しい」
 胸に沁みてくるエスクードの言葉の熱に、私は溢れる想いをぎゅっと凝縮して告げた。
「はい」
 今度こそ、と思った私たちの頭上で「キュー」というフレチャの鳴き声が聞こえた。
 ハッと我に返れば、ドラゴンの金褐色の瞳が好奇心をたたえて、私たちを見ては尻尾を左右に揺らしていた。
「キュッキュッキュー」
 楽しげに鳴くフレチャは「お幸せに!」と私たちを祝福してくれている。
「……ああ、ありがとう、フレチャ。それで、頼みがあるんだが」
 エスクードは頬を引きつらせながら、フレチャに視線を向けて言った。
「暫くの間、目を瞑っていてくれないか?」
 フレチャは意味がわからないと言いたげに、長い首を傾げた。
 だけど尻尾を大きくくねらせて、目を好奇心いっぱいに煌めかせているところから見ると、……わかっているのね。
 エスクードがもう一度、「頼むよ、フレチャ」と名前を呼ぶと、尻尾を垂らして「キュー」と名残惜しそうに一声を吐いて、フレチャは目を伏せた。
 金褐色の瞳が目蓋の奥に消えるのを確認すると同時に、
「愛しているよ、アリス――これから先も、ずっと一緒に居よう」
 エスクードは微笑んで言った。
 人生には何が起こるかわからない。突然の別離もあるだろう。
 私はそれを知っている。そうして大切なものを失うのが怖くて逃げていた。
 でも、だからこそ、一秒でも一分でも傍に居たい。今を大事にしたい。叶うなら永久に、そう願ってしまう絆に気づいたから……。
 私は頷いて、彼の唇に自分の唇を重ねながら、心に誓った。
 ――私はこの人と、生きて行こう。


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