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蒼天の君・番外編
お題提供・色彩の綾


 薬指に永久を誓って


 彼女が好きだった薔薇の花を敷き詰めた(しとね)に、アリスエールは花に埋もれるようにして穏やかに眠っているように見えた。
 病魔が彼女の未来を奪わなければ、祝福のなかで着るはずだった純白の花嫁衣装を身にまとって……。
 胸元の少し下で両手の指を緩く組んで、目を瞑った彼女の眠りを妨げることは誰にも叶わない。すすり泣きが響き、号泣が彼女を呼び戻そうとしても、長い睫毛を伏せた目はもう見開かれることはなく、結んだ唇はもう二度とあの声を聞かせてはくれない。生気を失った肌は、白を通り越して透明で青く見える。
 死化粧を施した唇の紅が異様に赤く、薔薇色の唇の本来の美しさを塗り潰していた。
「……アリスエール」
 名を呼び掛け、そっと彼女の頬を手のひらで包み込む。
 生きていた頃には瑞々しさを保って吸いつくようだった肌は大理石のように硬く、冷たくなった頬は肉を失い痩せていて、彼女のこれまでの苦痛を無言で語る。
 長い睫毛の下に塗り込められた青い影、乾いた肌、痩せた頬、骨ばった指先。病魔は彼女から命や魂だけではなく美しさも削ぎ落していた。
 生気に満ちて煌めいていた瞳は目蓋に閉ざされて、心臓は彼女の若さを永遠に保証する代わりに鼓動を刻むのを止めた。これからまだ何十年も、人として生きられるはずであったのに、死は理不尽に彼女の未来を奪った。
 手のひら越しに伝わってくる冷たい感触に、指先が凍り麻痺していくように感覚を失う。自分の肉や骨が石に変わってしまったかのように動けないまま、彼女に魅入る。
「……殿下」
 後方から気遣うような声が響く。大事な妹を亡くして己も悲しかろうに、主を気遣うエスクードの声に現実へと返る。
 この場に響く嗚咽の半分は彼女の運命を嘆き、もう半分は遺された者の悲しみを思うものなのかもしれない。
 片手を掲げて、声に応える。心配するな、と声に出すには、喉の奥が震えていた。
 棺の淵に片手を添え、一つ息を呑んで、そっと身を傾ける。
 紅を塗った彼女の赤い唇に己の唇を重ねた。氷に触れるような冷たい口づけを最後に贈って、身を起こす。
「さらばだ、私のアリスエール……」
 婚約者に別れを告げて一歩後退すると、控えていた従者が棺の蓋を閉ざす。
 黒檀の棺が数名によって持ち上げられ、運び出される。彼女の後をぞろぞろと葬儀の参列者が追う。埋葬されるのを見届けるためだろう。
 だけど自分は動けない。動きたくない。
 立ち尽くすこちらを肩越しに振り返るエスクードに、行ってやれ、と手を振る。
「……殿下」
「私に代わって、見送ってくれ」
「……わかりました」
 喪に服すため、黒衣を身にまとったエスクードが頭を下げて、聖堂を出ていく。
 大理石の床に響く靴音が遠ざかり、出入り口に護衛の騎士を残すばかりとなった室内は静寂が支配する。
 手近な椅子に腰をおろし、額を抱えた手のひらの陰で、溢れた雫が床の上で跳ねた。
 自分の内側からこぼれる熱と、アリスエールの冷たさの対比がどうしようもなく現実を突き付け、唇の端から漏れそうになる嗚咽を奥歯で噛み殺す。
 泣きたくはなかった。泣けば、周りの者が心配するだろう。
 皇帝の後継者として、父から一番に学んだことは、民を不安がらせるなということだった。不安は疑念を生む、それは国に暗雲をもたらす、と。
 どんなときにも「きっと、大丈夫だ」と信じられる強さを与えれば、多少の困難があったとしても、耐えられる。だから、不安ではなく、信じられる強さを与えるのだと。
 そう語った皇帝の強さもまた信じられるものだったから、迷わずに従った。
 難しい問題を前にしても泰然と、余裕のある笑みを崩さずにいれば、周りの者たちは頷いてくれた。信じてついて行きますと、忠誠の言葉を口にした。
 その信頼を壊すような真似はしたくない。
 だから涙は誰にも見せない、見せたくないと思うのに、身体の内側から絞りとるように、瞳からこぼれていく。

 ――今日だけ、今だけは許してくれ。

 唇を震わせ声にならない声で、許しを求める自分の声を遠く聞いた。
 その声に導かれるように目を開けると、薄闇が室内を満たしていた。夜明けの一歩手前、色が変わり始めた空が窓の外に広がっている。
 傍らに置いていたランプは、既に油が切れたようだ。
 まだぼんやりとしている意識で、自らが今いる場所を思い出す。板張りの室内に漂う乾いた絵の具と、埃の臭い。
 ここは約一年ぶりに踏み入れた、自分のアトリエだ。
 目の前に置いたイーゼルには一枚のキャンバスが立てかけてある。そこに描かれているのは、白薔薇に包まれて眠る婚約者アリスエールの姿だった。
 焦点が定まらない視線で、自らが描いた絵を見つめて「駄作だな」と薄く笑った。
 永遠に失ってしまうのを恐れて、葬儀の後に描き上げたその絵の後、筆を置いた。
 モデルを失ってしまったから二度と、絵は描けない。実際に、もう描けないと思っていた。
 それなのに、この一年で変われば変わるものだ。
 自嘲染みた笑みが浮かべ、室内を見回した。瓶に立てかけた絵筆や絵の具を調合する機材、画布を張り付ける木枠。手つかずの画布などが、一年の埃を被って眠っている。
 誰にも入ることを禁じ、自分自身、二度と踏み入れるつもりもなかったアトリエを訪れて、彼女の最後の姿と向き合って、その絵の前で眠りこけていたとは。
 視線を目の前の画に戻し、身体を預けていた背凭れ付きの椅子に姿勢を楽にして座り直す。
 そして、客観的な視線で一年前に自分が描いた駄作を眺める。
 この絵だけは、認めたくなかった。
 何故ならアリスエールの魅力が一欠けらも描かれていない。ただ、絵の具を塗り付けただけで、彼女の遺体を忠実になぞっただけの代物だ。
 彼女は美しく、生気に溢れていた。自分が描き残したいのは、そんな在りし日のアリスエールであったというのに、どんなに生前の彼女を描こうとしても、目蓋の裏に浮かぶのは棺の中のアリスエールだった。絵具を重ね、幾度描き直しても、どうしても死化粧を施した彼女の姿しか、描けなかった。
 元々、絵で食って行くわけではない。皇帝の後継者として育てられ、自分でもその道を選んだ。少しばかり才能に長けていたからと言って、やはり自分にとっては片手間の趣味であった。
 それまでは絵筆を持てば、心が落ち着いていたが、アリスエールを失ってからは苦しくてしょうがなかった。この絵を前にすれば、胸の奥がヒリヒリと痛んだ。だからこの部屋からも足を遠ざけていたが、今は静かに見つめられる。
 きっかけはやはり……あの夜か。
 生前の彼女を描いた肖像画の間で、アリスエールの面影を宿したアリスの前で泣いたこと。
 ずっと、自分に泣くことを禁じていた。周りを心配させてはいけないと、そう気遣ったつもりだったが、結局のところ周りに気遣いを強要していたようだった。
 アリスエールの話題を極力避けるようになったエスクードの反応に、自分は大丈夫だと笑いたかったというのに、笑えなかった。自らもアリスエールのことを口にしなくなった。
 張りつめた緊張感で、エスクードとの会話にもぎこちなさが漂い始めたとき、彼がアリスを連れて来た。
 素性がわからないと言う彼女は、その頃はまだ髪が短かったが、面影はまさにアリスエールそのものと言って良かった。
 一瞬、アリスエールが還って来たのかと、本気で信じそうになった。
 しかし、アリスは婚約者であった彼女とは違った。
 どこか控え目で、いつも自分の居場所を探しているかのようだった。客人として迎えるつもりだったのに、アリスはその立場を持て余して困っているようだった。
 社交界において女性から男性に声をかけるのは、はしたないとみなされていたなかで、屈託もなくこちらに向かって話しかけてきた、アリスエールの堂にいった態度とは似ても似つかない。
 似ていなくて良かったのだろうと、今さらながら思う。
 アリスがアリスエールと性格まで似ていたら、自分は彼女を身代りにしていただろう。
 実際、あの夜は酔っていたとはいえ、アリスをアリスエールの代わりにしようとした。もしアリスが抵抗して自分の目を醒まさせてくれなかったら、唇を奪うくらいはしていたかもしれない。果たして、それだけで済んだだろうか?
 きっと、幾度も絵を描き直し求めたように、アリスエールを求めていただろう。そう、自分のなかの切望を知ったとき、己がいかに彼女の死を昇華できていないのか、知った。
 彼女の死を理解していても、受け入れていなかった。だから、棺の中に眠るアリスエールの絵を見つめることができなかったのだろう。
 そうしながら周りを心配させないようにと物分かりのいい自分を演じて、胸の奥にある感情に蓋をした。アリスエールを求めながら、遠ざけた。
 自分の中で抱えきれなくなっていた矛盾に気がついたとき、枷が外れた。堪えていたものが涙となって溢れた。
 あの夜に気づいた感情が今、目の前の絵と向き合わせる。
 ゆっくりと手を伸ばして、画布に触れた。白薔薇の輪郭を描いた絵具の層が指先に感じる。痩せた頬、赤い唇へと指を動かして、なぞる。
 古くなった絵の具は使えるだろうか。
 今すぐにでも、この絵を描き直したい衝動に駆られる。
 描きたい姿がハッキリと脳裏に浮かび、一年という空白などなかったかのように、自分の指は彼女の姿を描くだろう。
 薔薇の花束を抱え、幸せそうに微笑むアリスエール。その左手の薬指には、皇族家代々に継がれるルビーの指輪を飾ろう。その指輪の片割れは、自分の指に。
 葬儀の日、彼女に伝えたかったのは別れの言葉ではなかった。
 もう二度と会えないとわかっていても、告げたかった言葉を今なら言えるだろう。
「……愛している」
 死が二人を別とうとも。
 そう、アリスエールが病に倒れ、死を宣告されたときから、今に至ってもこの想いは変わらなかった。
「愛している、この想いは変えられない。幸せになれと言われても、忘れることなどできようものか」
 きっとエスクードが聞けば、開き直ったと呆れるくらい強い声で語る。
「この想いを封じれば、苦しくなる。それがわかってしまった以上、もう偽るのは止める。私は私の幸せのために」
 夢に出てきたアリスエールが望んでくれた幸せが果たして、どういうものであったのかは、わからない。
 でも今、自分自身が確信を持って言える幸せは、ただ一つだ。
 唇に笑みを刻んで、自らの薬指に口づけて告げた。


「―― 永久に、君を愛そう」


                          「薬指に永久を誓って 完」

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