誓約の騎士 「これは――空」 エスクードはテーブルの上に置いた色彩鮮やかな絵本を指差し、ゆっくりと声を紡いだ。開かれた絵本には青色の空が白雲を浮かべて描かれていた。 空という文字に指を当て、シエロ――と、この国で空を意味する言葉を口にした彼の肩に、コツンと小さな衝撃が伝わってきた。 「……えっ?」 肩に感じた重みに目を向ければ、エスクードの隣で文字を覚えようとしていたアリスが、こちらに寄りかかるようにして眠っていた。 ある日、空から降ってきた亡き従妹――フシール家が養女に迎えたので、血の繋がりはないが妹になるアリスエールの面影を映したかのような、不思議な存在のこの女性は、この国の言語をまったく理解していないようだった。 名前はおろか、どこから来たのか、それを語る術はなく、それをこちらに伝えてこないところを見ると、記憶がないのかもしれない。 十日ばかり彼女の身を預かって様子を見た結果、エスクードはそう結論を出していた。 故に彼女にはアリスと仮名をつけた。アリスエールに似ていたこともあり、その名を思わず呼びかけてしまったのだが、そのときだけ彼女の反応が僅かにあったような気がしたのだ。 「アリス」というその音の響きに耳覚えがあったのだろうか。ただの偶然か。どちらにしても呼びかける名が必要だった。 アリスの身の周りの世話をさせているフシール家の使用人たちは、アリスが青空の向こうから降って来たということで、彼女を「アスール・シエロ」と呼ぶことに決めたようだ。 似たような響きだが、「アリス」と呼ぶには、彼らには抵抗があったのだろう。 アリスエールが両親を亡くし、このフシール家にやって来てからこちら、この屋敷では皆の人気者だった。 親を亡くして心細かっただろうに明るく思ったことをハッキリという率直さは、身分の垣根を越えて受け入れられた。 そんな彼女が結婚を目前に儚くなってしまったこと。 婚約が決まってからアリスエールの居は皇太子殿下の近くへと移ってしまったが、フシール家の使用人たちは遠く離れてもアリスエールの幸せを願い、そして彼女の死に悲しんだ。 彼らとしてみれば、アリスをアリスエールと同一視することは避けたかったのだろう。 エスクードは自分に寄りかかるアリスの細い肩に腕を回して、そっと抱いた。 彼女はエスクードの動きに動じることなく、すやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている。わけがわからない状況下で張りつめていた緊張がこの数日、解けてきたように思う。こちらが危害を加える気はないということを感じとって、警戒を緩めてくれたのだろうか。 意思の疎通もままならない状況で、不安は山ほどあるだろうに、泣いたり弱音を吐いたり――喋れないようなので、愚痴ることも出来ないのだが、態度の端々で気丈に振舞っているのが感じられた。 でも、眠っている顔は強張りのようなものがとれて、無防備だ。 こうして見ていると、元気だった頃のアリスエールを思い出して、ちょっとだけ胸の奥が 彼女に訪れる死をただ黙って受け入れることしか出来なかった現実。もっと何か、自分に出来たのではないかという苦い後悔。それが棘となって、時折エスクードを苛む。 『――責めないで……』 記憶の向こうから、アリスエールが囁く。 『どうか、わたしの死を嘆かないでね、エスクードお兄さま。私、幸せだった……そのことを忘れないで』 暗い顔をする兄を病床から慰める妹の健気さが、思い出される。 その度に、生きていて欲しかったと、思わずにはいられない。 花嫁衣装を着ることを楽しみしていたアリスエール。彼女と皇太子殿下との結婚をエスクードとしては兄として、皇太子の友人として、心の底から祝ってやりたかった。 哀れと同情するのは、アリスエールにとって侮辱になるだろう。あの子は最期まで幸せだったと言っていたのだから。 『わたしね、捨てられると思ったの……』 二人きりのときに、アリスエールは打ち明け話をしてくれた。 『病が発覚して、そう長く生きられないと聞かされたとき、殿下の花嫁に相応しくないと婚約が だから、幸せよ――そう、アリスエールは痩せた頬で微笑んで見せた。あの笑顔を偽りにはしたくない。 辛いような愛しいような記憶を回想するエスクードの腕の中で、不意にアリスが身じろぎをし、重心が崩れた。 するりと滑ったアリスの上半身は、エスクードの腰かけた足の上に横たわる。 膝枕をする形となったエスクードは僅かに身を強張らせた。これがアリスエール本人だったのなら、大して意識はしなかっただろう。 あの子は妹だったから。 双子のエスパーダはアリスエールを異性として見ていたようだが、エスクードはそんな弟を見る度に、アリスエールに対して肉親の情を見せるよう心がけた。 両親を亡くした彼女に必要なのは、家族としての存在だろう。アリスエールがエスパーダではなく、エスクードの方に懐いてきたのもそういう理由だっただろう。 血は繋がっていない。だけど、間違いなくアリスエールは、エスクードにとって妹だった。 しかし、エスクードの膝の上で眠るアリスは、妹などではない。 そう意識すると、ちょっとだけ心臓が跳ねた。 ……果たして、どうしたものか。 エスクードは現状と共にここ数日、頭を悩ませている問題に小さく唸った。 アリスを拾ってから、十日ばかり。このまま彼女の身を預かるのは、別に問題はないのだが、彼女を心配する者がいるのではないかと考えれば、焦りはある。 なにがしかの手掛かりを得られないかと、彼女に文字を教えることにした次第だが、やはりこの国の文字にすら反応がないところを見ると、この国の人間ではないのかもしれない。外国人? 異国の人間がドラゴンにでも乗って、移動していたのだろうか? その可能性はあまり現実味がないのだが。 エスクードは、アリスと出会った前の日に見た夢を思い出す。 亡きアリスエールが姿を現し『助けて、お兄さま』と訴えてきた不可思議な夢。 目覚めてからも胸騒ぎを払えず、夢に見た現場にフレチャを駆って向かえば、空からゆっくりと彼女が降りてきた。 それはまるで雪の一片のように……緩やかな速度で。 落下する位置に回り込んで両腕に受け止めれば、羽のように軽かった彼女は一人の人間としての重量を取り戻した。 腕の中の存在に目を落とすと、あまりこちらでは目にしない衣装を着た、十代後半から二十代前半と思しき女性だった。肩の位置で切り揃えた黒髪が僅かに乱れ、頬に張りついている。緊張に震える指先で髪を払えば、まだ傷口も鮮やかな哀切な記憶が目の前に重なった。 亡き妹、アリスエールの面がそこにあった。 息を呑んで思わず、アリスエール本人かと錯覚しそうになった。 だが、そんなはずはなかった。エスクードは頭の中に過った馬鹿な考えを打ち消した。 あの子は、アリスエールは病に侵され亡くなった。痩せ衰えた遺体を花で飾り、棺が土の中に埋められるのを自分は見送ったのだから……。 最後に触れた妹の肌は体温を失って、氷のように冷たかった。あの時の指先の記憶はまだ忘れていない。そうして、エスクードは腕に伝わって来る熱さに驚く。 火照った頬、額に浮き出た汗、吐く息の熱量は尋常ではない。呼吸は浅く、速く、上手く息継ぎが出来ないようだった。彼女の身体から発散される熱は、外気との温度差に細い肩をぶるりと震わせるのを見て、慌てて、エスクードは実家へとフレチャを向かわせた。 自分が仕える皇太子殿下の城に、得体の知れない存在を連れていけはしないだろうという判断だった。 いや、何よりも、まだアリスエールを失った衝撃から立ち直れていない彼の前には、アリスエールに似過ぎている彼女を見せることが躊躇われたのが先だったのか。 普段は ――馬鹿な人だ、と。エスクードは唇を噛む。 婚約者を亡くしたのだから、彼が嘆き悲しんだところで、誰も責めやしない。 なのに、皇太子はそれが悪いことであるかのように、胸の奥に隠してしまった。 ――いや、馬鹿なのは俺か……。 エスクードは自嘲を込めて、拳を強く握る。 主の心理に気づきながら、手をこまねいている自分がどうしようもなく愚かだった。 傷口に触れることを厭い、ただそっと見守ることしか出来ない自分。悲しみを分かち合うことも、受け止めることも出来ずにいる自分が情けなくてしょうがない。 そんな自分の前に、アリスが現われたのは、何か意味があるのだろうか。 普段は皇太子殿下の城に寝泊まりしているエスクードが、仕事が終わると実家に帰っているのを知って、殿下は真意を問いただしてきた。 やむなく、アリスを預かっていることを話してしまった。 『――そんなに似ているのか?』 微かに緊張を含んだ、殿下の声を反芻する。いや、あれは期待か? 一度、連れて来いという彼の言葉に、エスクードとしてはどうしたものかと悩む。 アリスの存在は、殿下の傷を抉りはしないだろうか。彼はアリスを亡き婚約者の身代りにしたりしないだろうか? ――いや、それはない……。 例え、似た存在が現われたとしても、彼がアリスエールに捧げた想いはそう簡単には揺るがないはずだ。 死に逝く婚約者を最期まで見届けたその人の想いが脆いはずがない――そう信じている。 ――ならば……。 悲しみを呑みこんで、それでも笑おうとする道化師の、傷を暴くなら暴こう。泣き崩れるのなら、そのときこそ臣下である自分が受け止めよう。 「……きっと」 アリスが自分の前に現われたのは、何かしらの意味があるのではないかと思う。アリスエールが夢に出てきたことは偶然だとは考えられない。 その意味はいまだわからないが……。 エスクードは膝の上で眠るアリスを、皇太子殿下と引き合わせることを決意した。 その先にある未来が例えどんなものであろうとも、受け止める。 そのことでアリスが傷つくことがないように、自分が全力で守ろう。 「……必ず俺が守るから」 少しだけ力を貸してくれ、と。 エスクードは心に誓い抱いて、アリスの寝顔にそっと、囁いた。 「誓約の騎士 完」 |