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蒼天の君・番外編
お題提供・色彩の綾


 この想いを詰め込んで


 固く絞った雑巾を机の上に滑らせる途中で、卓上に置かれた月暦が視界に入る。六日を五週繰り返して、一ヵ月。それが十二ヵ月で一年となるこの世界で、明日が新年に入ってから二ヶ月目の十四日であることに気がついた。
 あっ、バレンタインデーだ――と、思ってから、私はふっと、可笑しくなって口元を緩めた。
 バレンタインなんて行事はここが地球だったらの話で、この世界でバレンタインはない。
 私が今ここに居る世界は、いわゆる異世界だ。文化は十八世紀辺りの地球に似ているけれど、ドラゴンや魔術が存在するような世界だったりする。
 明らかに、地球ではないこの世界に私が迷い込んでから約一年半が過ぎた。色々なことが起こり、判明し、私の置かれている環境も随分と変わった。
 まあ、皇太子さまのお城では、やっていることは今までと変わらない。
 現在、皇太子さまは帝都での宮廷会議に出席中で、エスクードは騎竜フレチャと皇太子さまの領内をパトロール中だ。二人の留守中に私は執務室の掃除をさせて貰っている。
 皇太子さまから貰ったお仕事はお茶係であるけれど、さすがにそれだけでは時間を持て余してしまうので、前と同じように掃除のお仕事も手伝わせて貰っていた。
 仕事の内容は変わっていないけれど、さっき言ったように色々と変わったこともある。
 少し前まではこの国の言葉を喋ることができなかったけれど、言語変換の魔術を施されて、今では言葉も不自由なく暮らせている。
 そして、一番の変化が結婚だろう。
 両親を亡くし天涯孤独となった私は、一人で生きて行くんだろうと思っていた。でもこの世界に迷い込んで、エスクードと出会って、彼に恋をして、結婚することになった。
 ほんの少し前までは自分でもこんな未来を迎えるなんて、誰かを愛するなんて、思ってもみなかったけれど……事実だ。
 だからこそ、バレンタインなんて発想が浮かんだのだと思う。
 あちらの世界での私にとって、二月十四日のバレンタインは恋人たちのイベントとは縁遠かった。勿論、チョコレートは用意していた。それは社内の女性社員から男性社員たちへ贈る義理チョコだ。雑用を任される立場にあった私は、それらの買い出しなどを頼まれることが多かった。他の子は、本命に贈るチョコ選びで忙しかったらしい。
 そのせいもあって、バレンタインは恋愛に無頓着だった私にも染みついていた。
 でも、こちらの暦で直ぐにバレンタインを結びつけたのは、今では私にもチョコレートを手作りで贈りたいと思う人が出来たからだろう。
 そうでなければ、素通りしていたに違いない。
「……手作りチョコレート」
 私は暦に目を向けたまま、ぽつりと小さく呟く。
 作りたいな、と思ってしまった自分が、二十九年間生きてきた自分らしくない気がしないでもない……。人間、変われば変わるものだと思う。
『――俺はアリスの全部が欲しい』
 少し前にハンカチに小さなクローバーのモチーフを刺しゅうして、エスクードにプレゼントしたときに返して貰った言葉が胸の内側で響く。
 そう言ってくれた彼は、拙い刺しゅうを施したハンカチを大事にしてくれている。私の想いを受け止めて、包み込んでくれた優しさを想うと、嬉しくて堪らなくなる。
 だから、この気持ちを少しでも形にして、届けたいと思ってしまう。
 エスクードと出会う前の私とは違う、でもこれが今の私だ。
 昔の私は役立たずと言われるのが怖くて、立ち回ってきた。でも今は、大好きな人たちのために何かをしたいという思いが先に立つ。そういう風に変わった自分が、私は嫌いじゃない。
 こんな風に自分を見つめ直すきっかけをくれたこと、エスクードを始めとして、感謝している。だから、その想いを形にしたい。
 とはいえ、バレンタインなんて行事は当然ながらこちらにはない。
 一年ちょっと、こちらでこちらでの生活経験を振り返っても行事らしい行事は体験しなかった。それは皇太子さまの婚約者であったアリスエールが亡くなっていたので、喪に服していたこともあるらしい。けれど、恋人にチョコレートを贈るなんて行事は十中八九、存在しないと言っていいだろう。
「大体……チョコレート自体、ないみたいだもの……」
 この世界は魔法があるので、物品の流通は比較的スムーズだ。生鮮品を長期保存する必要がなく、また食材も豊富なので、食品を加工するという考え方があまりない。
 乾燥させたり燻製にしたりといった調理法もそれほど多くのものに用いられていない。デザートも、果実をそのまま食したりするので、チョコレートなんてものはないと言っていいだろう。
「さすがに私も一から、チョコレートの作り方なんて知らないし……」
 この世界にカカオ豆に似たものがあって、それを入手できたとしても、それをどうすればチョコレートに変身させられるのか、わからない。
 大体、バレンタインにチョコレートを贈るというのは、製菓会社の戦略だ。チョコレートに拘る必要はないだろう。
「……お菓子を作ったら、食べてくれるかな」
 お茶に添えるお菓子はいつだって食べてくれるから、嫌いじゃないと思う。でも、改めて考えると、エスクードがどんな傾向のものを好きなのか、把握できていない自分に気づく。
 料理はお城やフシール家の厨房で作られるから、私の出る幕はない。
 夫婦となってからは、食事は一緒にとる。それを見ている限り、竜騎士様は好き嫌いなんてないようだ。どんなものも、作り手の苦労をちゃんとわかっているように、とても美味しそうに食べる。
 好き嫌いがないからと言って、何でも良いというのは極論だろう。
 喜んで欲しいから、その人が好きなものを贈りたい。
「……何がいいかな」
 甘いもの、酸っぱいもの、苦いもの、さっぱりしたもの、しっとりしたもの……などなど。味付けや口当たりを考慮するだけで、選択の幅は広がる。
 飲み物との組み合わせなど考えれば、さらに無限大だ。悩む。掃除も忘れて、私は思考にふける。
 どういうのが良いかな、何を贈ればエスクードに喜んで貰えるだろう? 考えるだけで、ドキドキしてきた。
 バレンタインデーにチョコレート売り場で本命チョコを選んでいた女の人たちは、こんな想いを抱えていたのかな? と、想像する。
 ふわふわと浮き立つような高揚感。それでいて喜んで貰えるかどうかという不安。
 二十九歳にして、初めて経験している自分が何だか、とっても損をしていた気がした。一応、付き合っていた人がいてそのときにもチョコを用意したはずだったけれど、今の気持ちとは遠かった。
 少しだけ申し訳ない思いが、元彼の面影と共に脳裏を過ぎる。あの人が私を好きになってくれた気持ちに同じだけの想いを返してあげられなかった、そのことが小さく胸の奥を刺す。
 ……だけど……。
 想いがいつだって相手に届くとは限らないことを私は知っている。
 あんなに強くアリスエールを想ったエスパーダだったけれど、アリスエールが選んだのは皇太子さまだった。そうして選ばれた皇太子さまとアリスエールの恋も、彼女の死によって想いだけが残される形になった。
 想いも願いも、全てが思い通りに叶うわけじゃない。
 ……だからこそ、手の中にある本物だと思えるこの恋を私は大事にしたいと思う。
 回り道をした分、もう後悔することがないように。
「――アリス」
 不意にトントンと、ドア板を叩く音と私を呼ぶ声が耳に飛び込んできて、私は驚いて振り返った。
 そこにはドアを半分開けてこちらを覗き込むエスクードがいた。パトロールから帰って来た彼に、私は「おかえりなさい」と迎えた。
「ただいま、アリス。……どうかしたのか?」
「えっ?」
 目を瞬かせる私にエスクードは指先を私の手元に向けた。そこには雑巾が握られている。
 いつもなら、エスクードや皇太子さまが帰って来る前に掃除を終わらせて、お茶用のお湯を沸かしているところだ。
「あ、え、その……」
 私は慌てて雑巾を背中に隠す。掃除はもう机の上を片付けるだけで、ほぼ終わっていた。自慢じゃないけれど、長年の一人暮らしで私の家事能力はそれなりのものだ。そんな風に段取りよく動いている人間が手際の悪さを見せれば、悪目立ちするのは必然と言えるだろう。
「アリス? 具合でも悪いのか?」
 エスクードが身を屈めて、蒼い瞳で私を覗く。
 ぼんやりとしていたのは、バレンタインのことを考えていたからだなんて、ちょっと恥ずかしい気がする。
 けれど、エスクードの瞳の奥にこちらを心配する色が見えてしまったら、口を噤んでいるのが難しい。
「あ、あのね……」
 もじもじと身体を揺らしながら、私は白状することにした。
「バレンタインデーに……エスクードにお菓子を贈りたいなと思ったの。それでどんなお菓子が好きかなって、考え事をしていて……」
「バレン……タイン?」
 エスクードは耳慣れない単語に声をつかえさせた。
 私は慌てて、地球の――というより、日本の風習と言ってしまった方が早いような気がするバレンタインのことを説明した。
「二月の十四日に、想い人に贈りものと共に告白するのか」
「まあ、大体……そんなところかな」
 上手く説明が出来たという気はしないけれど、少なくとも大体の意図は通じたと思う。
「それで俺に、菓子を?」
「うん……あ、その後で、お城の皆にも何かを贈れたらと思っていたけれど。まずは……あなたに」
 エスクードを見上げれば、彼はこちらに身を寄せてきた。啄ばむ様な軽やかなキスで彼の熱に触れる。
 時々、エスクードは不意打ちのようにしてキスをくれる。
 今だって誰もいないとわかっていても、皇太子さまがいつ帰ってくるともしれない場では、私の心臓はどきんと跳ね上がる。
 人目をはばからず町中でキスしたりする恋人たちを目にすると、昔の私は戸惑っていた。
 でも、今なら彼らの気持ちが少しだけわかる。エスクードの気持ちも。
 彼は私が異世界から来たことで、いつかこの世界が嫌になったら、あちらへと帰ってしまうんではないかという不安を持っていたことを少し前に打ち明けてくれた。
 そのときにわかった。
 恋人たちが手を繋いだり、互いを求め合ったりするのは、唇で、繋いだ指先で、相手の温度を確かめたいのだ。
 そこに間違いなく、心を預ける相手がいることを。大切な人がいることを確認したい。
 そして温もりに触れて安心する。一人ではないことに、強くなれる。
「ありがとう、アリス」
 嬉しそうに微笑むエスクードに、私の胸は温かく満たされる。
 彼の笑顔がどれだけ私を幸せにしてくれるのか、伝えたくなってしまう。
 だからこの想いを詰め込んで、贈ろう。

 ――あなたを愛している。


                          「この想いを詰め込んで 完」

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