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蒼天の君・番外編
お題提供・色彩の綾


 この窓を開けて


「……大丈夫だよ」
 と、エスクードは結んだ唇をそっと緩めて微笑んだ。その笑顔が寂しくて、僕はコツンと鼻の先で金髪に隠れた彼の額を小突いた。
「……フレチャ?」
 蒼色の瞳を丸くして、エスクードは僕を振り仰ぐ。
 僕は「嘘をついたって、駄目だよ」と怒る。
 怒ると言っても、暴れるわけじゃないよ。ドラゴンの僕が暴れたら、厩舎(きゅうしゃ)の柵なんて囲いにもならない。人の手に負えるようなものじゃないし、きっと周りの色々な物を壊してしまう。人を怪我させてしまうだろう。
 僕らドラゴンの身体は人よりも何倍も大きくって、尻尾の一振りで石の壁を壊すことだってできる。翼をはためかせれば疾風を生じさせて、人を吹き飛ばすことだって可能だ。
 だけどそんなことは僕の本意じゃないから、心の中で、ちょっとだけ不貞腐れるんだ。きっと僕が人間だったら、プウッと、ほっぺを膨らませるのかな。生憎と僕らドラゴンの表皮はエメラルド色の鱗に覆われていて、人間の皮膚の様に柔らかには動かないから、心をちょっと尖らせる。それだけで僕の気持ちはエスクードに伝わるんだ。
 ドラゴンと竜騎士は魔法で契約して意思の疎通をはかるのが普通だって言われている。僕とエスクードみたいに、契約もなしに心が通じ合えるのは稀だっていう話だけど、僕としては不思議でならない。
 僕たちドラゴンは、姿形は人間とはまったく違う生き物だけれど、嬉しいとか、楽しいとか、寂しいとか――そういった何かを感じる心を持っている。
 例えば良いお天気で、空気が清々しかったら、空を飛ぶのは気持ちがいいだろうなと僕が思う。
 エスクードも同じように、晴れた青空を見上げて、空を自由に飛べたらいいなと思う。
 そしたらほらね、言葉なんか通じなくても、心は同じことを思っている。
 だけどエスクード以外の人は、僕たちドラゴンとは言葉がなければ通じないと思っているから、魔法を必要とする。魔法がないと駄目だと思い込んでいるから、僕の心の声を聞こうとも考えない。
 そんな人たちとお話するのは、ハッキリ言ってつまらない。僕たちが普段何を考えているのか、知ろうとすらしないんだもの。
 その点、エスクードは他の人たちと違った。
 初めて顔を合わせたとき、エスクードは彼を見下ろした僕の目を真っ直ぐに見つめ返して、笑って聞いてくれたんだ。
『フレチャという名前はどうだろう。真っ直ぐに飛んでいく矢のイメージなんだ。なあ、そんな風に空を飛んでみないか?』
 他のドラゴンと違って、僕は人が拾った卵から孵ったドラゴンで、生まれたときから人に騎竜として育てられた。
 だからエスクードの騎竜として外に出るまで、厩舎の中が僕の世界だった。窓の外に世界が広がっているなんて知らなかった。
 僕には空を飛べる力があることはわかっていたけれど、外に出るためには誰かの騎竜として選ばれなければならないと、思い込んでいた。
 でも、騎竜を選びに来る竜騎士たちは僕の声に耳を傾けようとしなくって、勝手に名前を付けて僕を従えようとした。そういう人たちの声は何だかざらざらしていて、よく聞き取れない。
 エスクードの声だけは違った。透き通っていて、耳に気持ち良かったんだ。
「矢」というものがどんなものかはわからなかったけれど、エスクードの心から伝わってくるそれは、びゅんと青い空を駆け抜けた。
 エスクードの心のなかに見えた空が、とても綺麗で、僕は嬉しくなった。
 彼となら、空を飛べると思った。一緒に飛びたいと思った。
 そのときから、僕とエスクードの心は通じ合っていた。
 だからエスクードが僕に対して言葉で嘘をついても、心までは嘘をつけない。
 僕に心配かけないようにと、笑顔を作るエスクードの心が見えてしまう。
 ――大丈夫だなんて、嘘つき。
 ううん、正確に言うと、エスクードは嘘をついたつもりはない。でも、大丈夫なふりをしていても、心が辛くて悲しい気持ちで一杯なのは、やっぱり大丈夫じゃないと思う。
 ずっと前から、エスクードの心は、痛い気持ちを抱えていた。
 大事な妹のアリィちゃんが病気になったからだ。
 エスクードはアリィちゃんのことが大好きで、幸せになって欲しいと思っていた。その幸せはエスクードが仕える皇太子さまとの結婚だった。それが決まったとき、エスクードの心は自分のことのように喜んでいたのを僕は覚えている。
 エスクードの心が嬉しいと、僕の心も嬉しくなるから、よく覚えているんだ。
 だけど、アリィちゃんは病気になった。まるで自分自身が病気になったみたいに、エスクードの心は痛い気持ちで一杯になった。
 苦しくて、辛くて、泣きたくなるような気持ち。もしも僕がエスクードだったら、泣いていただろうと思う。
 でも、エスクードは泣かなかった。僕の前でも、平気なふりをして、笑う。
 それが僕を心配させないようにという彼の優しさだったから、僕も平気なふりをしていた。
 きっとアリィちゃんの病気は良くなる――そう信じたかったから。
 エスクードの心は痛い気持ちで一杯だったけれど、そう信じていたから。
 厚い雲が覆われた空でも、雲を突き抜けた向こう側には青い空が広がっていると、エスクードの心は信じていた。
 けれど、アリィちゃんがいなくなった今のエスクードの心は、土砂降りの雨空に似ている。
 心が泣いているんだ。
 それなのに笑うのは、変だよ。大丈夫じゃないよ。
「……すまない、フレチャ。……そう、大丈夫じゃないな」
 エスクードは謝りながらも困ったような顔で笑う。泣き方を忘れてしまったんじゃないかって、彼の表情を見て僕は思った。
 いつだってエスクードは、自分以外のことを考えてる。アリィちゃん、皇太子さま、エスクードを困らせてばかりの弟のこと――。
 今もアリィちゃんがいなくなって、悲しいのに皇太子さまを心配している。
 皇太子さまだけじゃない、お城の人や、お父さん、お母さん。
 ――そして、僕。
 どうすれば、僕に流れ込むエスクードの悲しい気持ちを止められるか、考えている。
 その悲しい気持ちが僕を悲しくさせてしまうから、今までのように平気なふりをしようとして――笑おうとした。
 エスクードの話では、皇太子さまがそういう人だという。アリィちゃんが病気になって皇太子さま自身も辛いのに、周りを心配させないように平気なふりをしている皇太子さまに、エスクードは心を苛立たせて、僕に愚痴ったことがあった。
 でも、エスクードは皇太子さまのことを怒る資格はないよね。だって、エスクードだって、同じことをしているんだもの。
 エスクードが皇太子さまに苛立つように、僕だって怒るよ。
 僕の前では無理して笑わないで。エスクードの心なんて、隠せないんだから、僕にだけは本音を見せてよ。
 閉ざそうとする心の窓をノックするように、僕はもう一度、コツンとエスクードの額を小突く。

 ――この窓を開けて、一人ぼっちで泣かないで。


                           「この窓を開けて 完」

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