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本編・後日談


 その唇に


 ―― 綺麗……。

 指先がリュートの弦をはじき、旋律を奏でる。紡いだ音色の先を確かめるように、ディートハルトは顔を上げた。
 寝台の端に腰掛けて、こちらが紡ぎだす音に耳を傾けていたフィオレンティーナの瞳が静かに視線を返してきた。
 自分が作った曲は果たして、彼女に気に入って貰えただろうか。
 翡翠の瞳に映る自分の姿を意識すれば、ディートハルトの鼓動が騒いだが、努めて冷静に表情を保つ。
 彼女の唇に触れることへの許しを請うた彼に、フィオレンティーナは歌を作って欲しいと言った。
 婚約者であったユリウスが奏でる曲に合わせて、彼女は唄っていたらしい。恐らく、フィオレンティーナにとって、それが恋人たちの過ごし方なのだろう。
 この一年、国の内乱を鎮静化するためにディートハルトは軍を率いて、城を開けていた。
 王位簒奪(さんだつ)とカナーリオ帝国侵略――ディートハルトが犯した罪。
 そこにユリウスへの憎悪があったことは否定できない事実であるが、ディートハルトとしてはフィオレンティーナを守りたかった。
 政略の駒として無理矢理、嫁がされるのだと思っていた。
 シュヴァーン国王の第一王子であるはずのユリウスが、実は王の血を引いていない王妃の不義の子であるという、出生の秘密が明らかになれば、フィオレンティーナは傷つくだろうと思ったのだ。
 罪を悔い、全てを告白したディートハルトの境遇をフィオレンティーナは理解してくれた。これから先、償いに生きることを彼女に誓った。
 城を開けて奔走したこの一年は、ディートハルトが犯した罪を償うと誓ったその決意を真実のものであると証明し、フィオレンティーナが心を許してくれるくらいには距離を縮めてくれた。
 だが、恋人が過ごすような甘い時間があったかと言えば、なかっただろう。
 フィオレンティーナは皇族としての意識が強い。政略結婚も世継ぎを生むのも王族としての務めだと認識しているのだ。だから、意を固めれば、ディートハルトに肌を許す覚悟はついているはずだった。しかし、そんな形で肌を重ねることをディートハルトとしては望まなかった。
 義務ではなく、心で受け入れて欲しい。
 そう願って距離を置いた。それから一年、ようやく共に過ごす時間も増えてきた。
 夫婦として関係を一歩進めたい、と。
 ディートハルトが口付けを求めたところで、恋人らしいときを介さずにいたのなら、形だけのものになるとフィオレンティーナは考えて「歌を作って欲しい」と発言したのかもしれない。
 真偽はわからないし、第一に彼女が男女の恋愛に長けているとも思えない。
 単純にきっかけが欲しかっただけなのかもしれない……。何となく、そういう気がしてきた。フィオレンティーナの思考は少しばかり、普通とズレを感じさせるから。
 ディートハルトとしては記憶を失くしたとはいえ、幼少の頃から彼女に焦がれていた。
 手が届く範囲に愛した女がいて、一応、夫婦という形に寄り添っているのなら……その素肌に触れたいと思うことは、やましいことだろうか。腕の中に抱きしめるだけでは、焦がれる熱が収まらない。苦しい。
 求めて止まない気持ちを音に託して、ディートハルトは曲を奏でた。
 その辺りは、フィオレンティーナも感じてくれたのか。こちらを見つめる瞳が僅かに潤み、真珠の粒のような涙が頬を転がる。
「……綺麗」
 囁くようにフィオレンティーナは呟いた。その言葉にディートハルトの鼓動が今一度、大きく跳ねた。
 血に汚れた指が奏でた音が、どれだけ彼女に伝わるか、不安だった。
 道を間違い、罪を犯し、多くの者を傷つけた。
 それでもフィオレンティーナを守りたいと、一途に願った想いは、彼女に届いたようだ。
 ディートハルトは腰かけていた長椅子にリュートを置いて、寝台に近づいた。彼女の前で腰を屈めて、金の睫毛にたまった涙を拭う。
「泣くな……」
 泣かせたいわけじゃない――そう祈るように、見つめるディートハルトに、フィオレンティーナは小さく頷いて微笑む。
 そんな彼女をディートハルトは抱きしめていた。腕のなかで、フィオレンティーナは緊張したように肩を強張らせ、やがてそっとディートハルトの胸に身を預けてきた。蜂蜜色の髪から甘い花の香りが立ち上り、鼻腔をくすぐった。
「すごく……綺麗な曲だわ。優しくて、温かくて、真っ直ぐに心に響いた」
「レナを想って作ったんだ」
 躊躇(ちゅうちょ)する間を置かずに恥ずかしげもなく、想いを告げる。
 フィオレンティーナは照れたように頬を染めた。白磁の肌がほんのりと朱に染まるさまを見つめ、言葉が通じたことにホッとする。
 同じときを過ごすうちに、彼女に対する幾つかの事実をディートハルトは知った。
 それは他でもなく、フィオレンティーナは、男心に鈍いということ。
 この数カ月、リュートの弦を掻き鳴らして曲を作ったのも、ひとえに彼女に触れたかったからだ。彼女に喜んで貰える曲を作りたかったからだ。
 なのに、時間を見つけてリュートを奏でるディートハルトを見つけると、フィオレンティーナは「楽しそうね」と、笑って言ってくれた。
 フェリクスの小言を片耳にしながら書類整理をするよりはずっと、楽しそうに見えたかもしれない。
 だが、心の底からリュートの演奏を楽しんでいたわけではない。
 断じて。
 絶対に。
 ――楽しんではいなかったっ!
 実際のところ、彼女に歌をねだられたとき、ことは簡単だと思っていた。昔はリュートを演奏することに苦もなかったからだ。直ぐにフィオレンティーナに曲を贈れるとなめてかかっていたが、十数年の空白はディートハルトの想像を凌駕していた。
 記憶は失くした。だが、そういったものは身体が覚えているものだと、思っていた。
 身体は確かに指の運びを覚えていた。
 しかし、ディートハルトがリュートを巧みに演奏していたのは幼少の頃だ。幼い演奏家に合わせて作られた楽器は、二十六のディートハルトの手には小さすぎだ。微妙な感覚のずれはそのまま音に現われ、ハッキリと言ってしまえばとても他人に聴かせられるような音色ではなかった。
 フィオレンティーナがディートハルトの音色を実際に耳にするまでには、誰の耳にも届かないところで秘かに練習した時間があったことは、知られたくない。
 その間に、指の皮が血豆を潰し、一度剥がれてしまったことなども。
 目敏いフェリクスから傷口を隠すのに苦心したことも。その間にフィオレンティーナに血豆が出来た指先を見られないように、細心の注意を払っていたことなども。
 全てはくだらない男の些細な矜持であるが、ディートハルトとしては知られたくはない。
 男心に対する鈍さにやきもきさせられるが、同時に男心に聡いのも困るという、複雑な感情を抱きながら、ディートハルトはフィオレンティーナの桃色の頬に手を添えた。
 手のひらに吸いつくような、しっとりとした肌に唇を寄せて、触れる。
 腕のなかでフィオレンティーナはくすぐったそうに身じろぎをしたが、拒まれなかった。
 曲を気に入ってくれたということだろうか。
 確かめるように、花びらのような彼女の唇にディートハルトは指先で触れた。
 その唇に触れたいと、切望した夜を何度数えたことだろう。どれだけこの日を待ちわびたことだろう。
 翡翠の瞳は静かにディートハルトを映し、それから微かに瞳を伏せる。震える睫毛が頷いたように見えた。
 了承の合図だと信じて、ディートハルトはフィオレンティーナの唇に自らの唇を重ねた。柔らかな感触に、婚礼の儀の際に一度だけ交わした口付けの記憶が蘇る。
 あの日、押し殺した欲がディートハルトの身体の内側にたぎった。
 角度を変えて、何度も唇を重ねる。唇を割って、奥へ。フィオレンティーナは静かにそれに応えた。いつまでも繋がっていたい想いを断ちきって、息継ぎのために唇を剥がす。
 フィオレンティーナの唇から口付けの余韻を語る吐息がこぼれた。翡翠の瞳が熱で浮かされたような潤いをもって、ディートハルトを見つめる。
「……レナ」
 名を口にすれば、彼女はそれに応えるように微笑む。彼女の肩をそっと抱いて、寝台の上に横たえた。波打つ金の髪が白いシーツの上に広がり、剥き出しになった白い首筋に唇を寄せようと身を屈める――。
 首筋に、鎖骨に、夜着の下の素肌に指を這わせようとしたディートハルトの耳に、フィオレンティーナの声が静かに波紋を作った。
「……うた……」
「……えっ?」
「どんな(うた)を作ったの?」
 恐らく、フィオレンティーナに他意はなかったのだろう。
 片腕で身体を支え、彼女の上に身を屈めているディートハルトの夜着を掴んで、こちらを見上げてくる翡翠の瞳は期待に煌めいていたのだから。
 拒むつもりなら、唇に触れようとした時点で拒絶している。それが出来る権利をフィオレンティーナは承知しているし、過去に数度、拒まれた。
 第一に拒むつもりなら、この話題はない。
 彼女に触れることが許されるのは、彼女に歌を贈ったとき。それを気に入らなければ、まだその気にはなれないという証だろう。
 だが、ディートハルトがフィオレンティーナに贈った音色を彼女は気に入ってくれた。思いのたけを詰め込んだ音色は、ただひたすらに純粋に、一途に。彼女の心の琴線に触れた。だからこそ、口付けは許されたはずだから。
「きっと、詩も素敵でしょうね。私、楽しみだわ」
 褥の上で彼女は夢見るようにうっとりと微笑んで、ディートハルトを見つめる。
 その視線の前に、ディートハルトのときが止まった。
 頭のなかが真っ白になった。
 背筋に冷たいものが流れた。
 よもや――曲作りばかりを気にして、詩を作るのを忘れたなど……この土壇場で言えようか。…………言えるはずがない。言えば、お膳立てしたすべてがご破算だ。
 目の前が暗くなるディートハルトの事情など知る由もなく、フィオレンティーナは小鳥がさえずる様な声音で訊ねてくる。
「ねぇ、どんな詩なの? 今、聴かせて貰ったら駄目かしら?」
「……あ、……」
「後で? ……楽しみはとっておくのも……そう、悪くないけれど」
 フィオレンティーナは頬を赤く染めながら恥ずかしがるように、瞳を一瞬伏せた。
 それからちらりと様子を見るように、こちらに視線を流してくる。
 誘っているというより、やはり詩の内容が気になっているらしい。ディートハルトの夜着を掴んだ方と反対の手は、彼女の豊かな胸元に添えられ、その指先は先程の旋律をなぞるように、そわそわと動いていた。
「歌うのが……好きなんだな」
 ディートハルトはフィオレンティーナと視線を合わせないようにして、彼女の首筋に顔をうずめた。髪から香る甘い匂いがディートハルトの熱をさらに高める。
 できればこのまま――。
「ディートハルトは嫌? 私、あなたの作ってくれた曲に合わせて歌うの、楽しみにしていたの。だって、あなたってば楽しそうにリュートを弾いているんですもの。私も一緒に歌いたかった」
 だから、それは楽しんでいたわけではない――という言葉が喉元までせり上がってくる。しかし、慌てて呑み込んだ。
 そうして、首筋に、肌に唇を這わせて、彼女の気を逸らそうと試みて……止めた。
 それではあまりに卑怯な気がした。
 フィオレンティーナにとって、こちらの演奏に合わせて歌を唄うこと、二人で一緒に何かを成すこと、それは心を決めるための一つの儀式なのかもしれない。
 婚礼の儀式の際に、彼女はディートハルトに身体を預ける覚悟を決めた。
 女が男に身体を預けることに何の抵抗もないなど、男の都合いいことを考えるつもりはない。
 フィオレンティーナの固く握りしめた拳が震えるのをあの日、ディートハルトは見たのだ。手のひらの皮膚に爪の痕が残るほどに、彼女は強く心を決めなければならなかった。
 だからこそ、今日まで我慢した。無理強いはしたくなかった。心から受け入れて欲しかった。
 フィオレンティーナが今、ディートハルトを受け入れようとしているのは、彼が作った音色を気に入ってくれたからであるのなら、彼女に対する想いはどこまでも誠実にありたい。
 他の女では駄目だ。フィオレンティーナしか欲しくないのなら、彼女が求める形の男にならなければ。
「……すまない、レナ。詩はまだなんだ。気が逸り過ぎた……出直してくる」
 ディートハルトは素直に謝って、寝台から抜け出そうとした。頭を冷やす必要がありそうだ。頭と言うより、身体の熱を冷ます必要があるだろう。
 その気になった分だけ、今宵は理性を維持するのに絶大な体力が必要になりそうだった。
 しかし、立ち上がりかけたところで、躓いた。
 フィオレンティーナの手がディートハルトの夜着を掴んだまま、離さない。
「……悪いが、レナ。少し頭を冷やして来る」
 そう言って部屋を出ようとするディートハルトをフィオレンティーナは無言のまま引き止める。
 振り返ったディートハルトに、彼女は真っ赤な顔のまま、服を掴んだ手に力を込めた。
「私……その……意地悪で言ったわけじゃないのよ……」
「……レナ」
 フィオレンティーナの握った拳をディートハルトが手のひらに包み込めば、指先は緩やかに解け、互いの指が絡まり合い、どちらからともなく唇の熱を重ねあっていた。


 どちらが鈍いというのだろうか。
 ディートハルトは腕のなかでまどろむフィオレンティーナの寝顔を見つめながら、苦笑した。
 リュートの練習に励んでいた彼の姿がフィオレンティーナから見て「楽しそう」に見えたのは、他でもなく彼女もまた「楽しみたかった」のだ。
 周りの者たちもフィオレンティーナのことを認め始めたとはいえ、本当に心を許せる者は数少ない。そんな王宮で、彼女が心の底から楽しめることも少ない。
 彼女を愛しすぎて、自分だけが求めている気がしていた。
 共に生きると決めたときから、フィオレンティーナもまたこちらに歩み寄ってくれていた。一緒に何かを成すことを、彼女も望んでくれていた。
 それに気づかなかった自分も相当に鈍いといえよう。
 ディートハルトは指でフィオレンティーナ金糸の髪を梳き、あらわになった白い額に口づけを落として、心に決めた。
 詩を贈ろう。
 彼女が微笑んで歌える――最高の詩を贈ろう、と。


                           「その唇に 完」

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