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番外編・甘やかすのもほとほどに

 甘やかすのもほどほどに


 ――甘い……。

「小麦の値が上がっているのではないか?」
 ディートハルトの言葉にフェリクスが眉間に皺を寄せた。琥珀色の瞳を細め、こちらに視線を返して来る。
「レナが仕入れた小麦の価格が値上がりしていた。市場はどうなっている?」
「そういう報告は聞いていない。……直ぐに調べさせよう」
 険しい顔つきでフェリクスは紙を用意するとペンを走らせた。
 それから呼び鈴を鳴らして、入って来た召使に封をした書状を渡す。その手の役人を召喚し問うのか、調べさせるのか。
 とりあえず、フェリクスに話を通していれば、後は彼が細かいことを調査してくれるだろう。
 ディートハルトが次の問題に思考を移行させようとしたところ、フェリクスが聞いてきた。
「それで――フィオナは小麦を仕入れて、何を作るつもりだ?」
「…………食べ物だろ」
 ディートハルトは机に広げた書類に目を向けたまま、ぼそりと呟いた。
 フィオレンティーナが双子を産んでから建てた小さな離宮で、彼女は女主人として家事に従事した。危ない手つきながらも最近は、侍女のジュリアに助けて貰いながら料理も始めていた。
 フェリクスの問いに対して、具体的な固有名詞を出せなかったのは、今までフィオレンティーナが作った料理が本来作られるはずだったモノから半歩ばかり外れたものだったからだ。
 彼女の料理は何故か、野菜たっぷりのスープを作るはずが、香ばしすぎて焦げ臭いと思ってしまうような、野菜の蒸し焼きになっていたり――スープが完全に蒸発していた――、肉汁がすっかり抜け落ちて、手袋や靴に使用している革を噛んでいるような触感の焼いた肉だったり、と。
 あまり成功しているとは言えない。オーブンの使い方がいまだに要領を得ないようだ。
 だから、肉詰めのパイを作るつもりが具なしのパンが――うっかりと、中味を入れるのを忘れたらしい――オーブンから出てきたとしても、驚いてはいけない。
 そういった傍から見れば失敗料理ととれるようなことを、ディートハルトはフェリクスの目を見て答える勇気はなかった。
 目を合わせれば、この陰険な宰相は「失敗している」とフィオレンティーナを前にして、ディートハルトが固く口を閉ざしている事実を引き出そうとするに違いない。
 最初はフィオレンティーナが家事をすることに、ディートハルトを始めとして誰もが反対した。彼女は一国の王妃である。召使に任せればいい。
 離宮になるだけ人を寄せ付けたくないというは、ディートハルトにとっても望むところであるが、フィオレンティーナがオーブンで火傷するのではないかと思えば、王宮での書類整理もままならない。
 だが、フィオレンティーナの意志は頑なだった。彼女は一度決心すると、大抵のことには揺るがない芯の強さがある。
『――私、沢山のことを知りたいの』
 そう訴える彼女に結局のところ、誰もが根負けした。なるだけジュリアが傍に付いているようにしているが、まだ三つの幼い双子が離宮内を駆けまわれば、ジュリアの目も離れる。
 そうすると、悲しいかな、目的と結果が微妙に違う料理が出来てしまうのだった。ジュリアの目が行き届いている間は失敗しないのだが……双子はまだ大人しくするということを知らない。
『フィオナって、料理の才能がねぇんじゃねぇの?』
 アルベルトがフィオレンティーナの料理の結果を耳にすれば、とても彼女に聞かせられないようなことを口にした。二度とそんなことを口にしないよう、思いっきり奴の足を靴の踵で踏んでやったが。
 例えそれが事実であるとしても――ディートハルトとしては、この事実はフィオレンティーナを傷つけるであろうことなので、口にしたくないし、認めたくないのだ。
 だが、フェリクスはその事実をディートハルトの口から引き出し、フィオレンティーナに突き付けることで、料理に手を出すのを諦めさせようとしている。
 いつ、フィオレンティーナの失敗料理を並べた食卓に招かれるのか、フェリクスもアルベルトも戦々恐々としていた。
 失敗料理と言っても、食べられないものではない。戦場経験があるディートハルトとしては、野営に出された食事に比べれば、何ということはない。二人もそれは同じだろうが、戦場でもないところで、好んで不味い飯を食いたくない――ということらしい。
 ちょっと塩味が濃すぎたくらいなんだ。水と一緒に飲みこめば、胃も拒否はできないというのに。二人はディートハルトの話を聞いただけで、不味いと決め付けた。
 不味くはない、たまに味付けに失敗しているだけだ――と、ディートハルトはフィオレンティーナのために反論したいところである。
 ディートハルトとしてはフィオレンティーナから感想を問われたとき、フェリクスもアルベルトも馬鹿正直に事実を口にしてしまうだろうから、食卓になど呼びたくはない。
 なれど、慈悲深い彼女は既にこの二人にすっかり心を開いていれば、彼らを晩餐に招こうとするのは既に時間の問題だろう。
 フィオレンティーナが自分の限界に見切りをつけてくれるか、それとも腕前が上達してくれるか、そのどちらで決着がついてくれたのならば良いのだが……。
 まだ道のりは遠く、諦める気配も上達した様子も見受けられない。
 しかし、彼女が料理を初めてからまったく悪いことばかりではない。王宮の食糧庫とは別に、アルベルトやジュリアが材料を仕入れてくるので、市場の物価がディートハルトの耳にも入って来るようになった。
 フィオレンティーナ本人も市場に出かけたがっている素振りを見せるが、さすがに王妃である自分の立場を配慮しているのか、口に出しては来ない。
 ――今度時間ができたら、二人で出掛けてみるのもいいかもしれない。
 本題から思考がずれるのを自覚しつつ、ディートハルトは秘かに計画を立ててみた。
 きっとフィオレンティーナは喜んでくれるだろう。
 彼女としては、自らが厨房に立つことで、庶民の台所事情を肌に感じようとしているのだろうから、より身近に感じられる市場に連れて行ったなら――。
 嬉しそうに微笑む彼女の姿を想像し、思わず口元が緩みかけたディートハルトはフェリクスのこちらを冷淡に見つめる琥珀色の瞳に気づいて、表情を引き締めた。
 物価の変動は書類だけではわからないことを教えてくれる。高値になった野菜はそれを生産する地方の天候不順を語っていた。生産高が減れば、おのずと物資不足が懸念される。それなのに書類で報告が上がってこなければ、ディートハルトの耳に入ることもなく、対策の取り様がない。
 帝国の領地を半分手に入れたことで国土は広がった分、ディートハルトの目が細部にまで届くのは難しい。信頼できる地方官吏がいれば別だが、王位を簒奪し、まして折角手に入れた帝国への支配権利をディートハルトは行使しなかった。
 奴隷として帝国民を支配階下におけば、王国民としても長年支配されていた帝国への留飲が下がっただろう。
 だが、それは結局、悪感情を生む繰り返しでしかない。
 結果、共存を選んだディートハルトに反発する声は国内から多く上がった。大抵は、甘い汁を吸いたい貴族たちだが、それに従う者たちがいれば、内乱後の王国にはディートハルトが心の底から信頼できるような官吏はいない。口は悪いが有能な宰相ぐらいだろう、実際に使える奴は。アルベルトは軍事面には強いが、それ以外は無神経過ぎる。
 すべては自分の行いの結果だが、ここで国民にさらに負担を強いるようなことになっては困る。
 それ故に、手垢の付いていない市場の情報が入って来るのは、ディートハルトとしてはありがたかった。
 フェリクスが強く言いだせないのは、そのせいだ。
 とりあえず彼としては、フィオレンティーナに自分の料理の才能のなさを自覚させることで、自分に被害が及ぶことを避けたいのだろう。自分を食卓さえ呼んでくれなければ、彼としてはいいのだ。
「まあ、いいが……。私に気を使ってくれるなと、くれぐれもフィオナに伝えて欲しいものだな」
 フェリクスの遠回しな皮肉は、フィオレンティーナの手料理をこちらに回すなという、言い分だ。
「言われなくても、レナが作ったものは全部、俺が食うっ! お前たちに一口たりとも、食わせてやるかっ!」
 ディートハルトはフェリクスを睨みつけて、声を荒げた。
「ほら、仕事は片づけたからな。俺は離宮に帰る」
 手元の書類をフェリクスに押し付けて、ディートハルトは席を立つ。その背中にため息交じりの声が聞こえた。
「――甘いな……」
 その意味をディートハルトは理解しかねて、そのまま立ち去ることにした。


 フェリクスは閉じた扉を見やって、再度ため息を吐いた。
 結局、フィオレンティーナが己が作った料理の失敗に気づけないのは、失敗した料理をすべてディートハルトが平らげてしまうことにあった。
 皿に盛られた失敗料理をフィオレンティーナや双子の子供たちが手を付けてしまう前に、ディートハルトは急いで自分の腹に収めるのだ。
 見かけだけは食欲旺盛に見えるから、フィオレンティーナとしては、どうやら味付けを忘れたらしいとか、野菜が生煮えだったなどという失敗に気づけようもない。
 ディートハルトのフィオレンティーナに対する甘さが、彼女の上達を妨げていることなど――恐らく、あの馬鹿は気付いていないだろう。
 だからと自分の口から、フィオレンティーナに告げたくもない。実際のところ、失敗の度合いがディートハルトから聞いた話なので、正確にわからないということもある。
 それにフィオレンティーナを傷つければ、ディートハルトの機嫌が悪くなるのは目に見えている。折角、国王として職務に真面目に取り組んでくれているのだから、つまらないことで(つまず)きたくはない。また双子の王子たちに母親を苛めていると誤解されるのも勘弁して欲しい。
 あの王子たちに泣かれると、今まで鉄面皮を誇って来た自分が罪悪感に悩まされるのだ。
 今まで散々憎まれ役を買ったのだから、これ以上、嫌われたくないというのも無きにしも非ず、というのがフェリクスの心境だった。
「……まあ、よく効く胃薬をジュリアに渡してあるから、大丈夫か」
 国王が失敗料理に倒れでもしたら、フェリクスとしても困るので、ディートハルトには気付かれないように胃薬を彼の飲み物に入れるよう、ジュリアに指示していた。
 一度、倒れてしまえば、フィオレンティーナもさすがに気付くのだろうが……。
「――私も、相当に甘いのか……?」
 フェリクスは辿りついた答えに、一人唸った。


                          「甘やかすのもほどほどに 完」

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