口づけで癒して
――レナ……。
ディートハルトは、我ながら情けなく響いた自らの声に、漆黒の前髪の影で眉をひそめた。
そうして、チラリと蒼い瞳で彼女の反応を見るが、フィオレンティーナはこちらの声が聞こえなかったかのように、動かない。
緩やかに波うつ蜂蜜色の艶やかな髪が華奢な肩を覆って、フィオレンティーの背中はディートハルトの声を拒絶していた。
寝台の上に、こちらに背を向け、両腕に枕を抱えて座り込んでいる形に落ち着いてから、かれこれ、一刻は過ぎただろうか……。
拗ねたような後姿も愛らしい。抱きしめたい――と、違う方向に走りそうになる思考を修正して、
「レナ、機嫌を直してくれないか」
寝台の端に座り、フィオレンティーナの方に身を乗り出しながら、ディートハルトはこの一刻ばかり、繰り返している言葉をもう何度目になるかわからないままに、再び繰り返した。
声に切実さが混じるが、知ったことか。実際に、心は焦燥に駆られている。このまま彼女に嫌われてしまったら、この先の人生をどうやって生きていけばいいのだろう。
そんなことを口にすれば、大抵の人間は大袈裟だと言うだろう。しかし、ディートハルトにとっては冗談でも、何でもなかった。
過去に自分は、彼女を手に入れるために大きな過ちを犯したのだ。今では自分の行いを過ちだと認識しているし、後悔もしている。同じ過ちは繰り返さないつもりだが、自分自身に対しての身の施し方だけは想像できない。
誰かに八つ当たりできないとなれば、自分自身を滅ぼすのではないか。
今も口のなかが苦い――それは、多分、フィオレンティーナに嫌われるかもしれない事実に苦り切っている内心が味覚を錯覚させたに違いない。
フィオレンティーナが午後の時間を使って焼いた菓子を食した結果なのでは? ――という考えが思考の端を横切るが、それは認めたくないし、口が裂けても言いたくなかった。
双子の王子を生み母親となってから、フィオレンティーナは王宮の端に建てた離宮の女主人として、家事にも手を出し始めていた。
アーキニオス大陸一、二を争う大国のカナーリオ帝国の皇女であり、後にシュヴァーン国王――ディートハルトの妃になった、れっきとした王妃である彼女が、一般家庭の主婦の真似事を始めたその結果は大方、予想がつくだろう。
平民は子供の頃から母親の家事仕事を見、手伝うことで、誰から教わることなく、一通りのことを身に付ける。
だが、王侯貴族の令嬢が台所仕事などと縁があるはずもなく、いきなり始めたところで、基本中の基本すら理解できていないのだから、失敗して当然だ。
特に料理は、毎日のように異なるメニューを作らなければならない。何十回も同じものを作っていれば上達もするだろうが――世のなかには、一回で味付けの基本を覚える者もいるだろうが、それは比較してはならない対象だ――毎日同じ物を食べさせられる立場としてはそれに付き合ってもいられないと来れば、料理の上達を性急に望んではならず、また作り出された失敗料理も寛容に受け止めるべきだろう。
そう、失敗して当然なんだ――ディートハルトは、フィオレンティーナ本人が聞けば、傷つくだろうことを心のなかで呟いた。
傷つくだろうことを見越しているからこそ、彼は今まで、フィオレンティーナが作った、すっかり煮詰めて焼き焦がしてしまった野菜料理や革を食べているのでは? と、疑いたくなるような焼いた肉、肉詰めのパイと言われながら差し出された具なしのパンなど、それこそ第三者が見れば「失敗」と断定されるような料理を黙って食してきた。
すべてはフィオレンティーナを傷つけたくない一心の、愛あればこその行動だった。
今日だってそうだ。
フィオレンティーナの焼いた菓子が、黒く炭と化したものを彼女に気づかれる前にすべて平らげてしまっただけなのだ。
離宮に帰りついたディートハルトは、いつもは出迎えてくれるはずのフィオレンティーナの姿を探して、厨房を覗いた。そこで壁に据え付けられた箱型のオーブンから黒い煙が吐かれ、厨房内に焦げ臭い匂いが充満しているのを発見した。
慌ててフィオレンティーナを探せば、彼女は双子と共に、庭に開けたテラスに置いた安楽椅子に身を横たえて、優雅に午睡を取っていた。
恐らく、その行動こそが――焼き菓子が焦げてしまった最大の原因なのだろう。
焼き菓子はオーブンの温度調整に神経を使う。熱の調整が必要なオーブンから長時間目を離せば、どんな凄惨な結果が待ち受けているか、料理を心得る者なら想像できるだろう。
しかし、料理人ですらときに仕出かしてしまう失敗だ。まだ経験の浅いフィオレンティーナのこの失敗は、可愛いものだ。
双子を両脇に抱くようにして眠っているフィオレンティーナの寝顔を見れば、どんなことでも許してやりたくなる。その花のような唇を見つめるだけで、オーブンから黒い煙が吐かれようが、それが何だと言いたくなる。
彼女を寝室に連れ帰りたくなる衝動に比べれば、大したことはない。
別にいいじゃないか、菓子を焦がしたくらい。
そう言って、可愛い失敗談として笑い話にしてしまえば――良かったのかもしれない。
だが、失敗を知れば、フィオレンティーナが傷つくと短絡的に考えてしまうのは、愛情の深さか、単なる馬鹿か。
ディートハルトは自分がフィオレンティーナに狂っているほどの愛情を持っているのは認める。そんな自分の愚かさも、過去を省みれば、馬鹿としか言いようのないだろうことも自覚している。
だから、自分がとろうとする行動の先を冷静に客観視することはできなかったし、またその余裕もなかった。
厨房に充満した焦げ臭い匂いが、いつフィオレンティーナの鼻腔を刺激してしまうか、穏やかな眠りを妨げてしまうか。
咄嗟に厨房へと舞い戻ったディートハルトは、出入口を閉ざして、誰も侵入できないようにした後、オーブンから燃えている菓子の名残みたいなものを載せた天板を取り出し、火に水をぶちまけた。
黒煙はもやもやと立ち上る蒸気になり替わりはしたが、焦げ臭い匂いは消えない。換気用の窓を開けて、それらの臭気を必死になって外へと追いやった。
着ていた上着を脱いで、それでバタバタと扇を仰ぐように振り回し、厨房内の空気を流動させ、外からの新鮮な空気を取り込む。
どれだけの時間、奮闘したのか、ディートハルトの額に珠のような汗が浮かぶ頃には、部屋の匂いも消えていた。
後は、黒くなった菓子をフィオレンティーナの目の届かないところへ処分するだけだった。
どこへ――?
捨てるという発想がディートハルトの脳裏に浮かばなかったのは、長年、食糧不足に悩まされたシュヴァーン王国に暮らしてきたからか。記憶は失くしたが、その手の習慣は染み付いているのだろう。
それとも、フィオレンティーナが作ったものを惜しんだからか。
結果、自らの腹の中へと収めた。
これでフィオレンティーナが己の失敗に傷つくことはない――そう安心したのは、早計だった。
目覚めたフィオレンティーナと双子たちは、出来上がるのを楽しみにしていた菓子を全部、ディートハルトが食べてしまったことにショックを受けた次第だった。
幼いユリウスとリカルドの瞳がじわりと涙に潤むのを見て、ようやくディートハルトは己の短絡的行為に気づき、打ちのめさせられた。
今までもフィオレンティーナの失敗料理を誰よりも早く腹に収めることで、失敗料理を気付かせることはなかった。それはいつも他に食べるものがあったからだ。
幾つもの料理が並ぶので――離宮には給仕をする者を置いていないので、全ての料理が一斉にテーブルに並ぶ、カナーリオ帝国の食卓光景を真似た――彼が失敗料理を平らげても、他にもジュリアが手掛けた料理があった。
しかし、今回はお目当てが一つならば、ディートハルトのしたことは双子のおやつを横取りした大人げない行為如何のなにものでもない。少なくとも、真相を知らない者から責められても仕方がない状況であった。
『お父さまが、ぼくたちのおやつを食べちゃった』
泣きじゃくる双子を宥めながら、フィオレンティーナが瞳で説明を求めてきたが、ディートハルトとしては答えようがなかった。
まさか「菓子は、炭になっていた」と言えようか。
言えるはずがない。言えば、フィオレンティーナが失敗に気づく。オーブンから目を離した不注意に彼女は自らを責めるだろう。
だから、ディートハルトは双子の泣き声に身を悶えさせながら、何とか秘密を守り続けた。
夕食の買い出しから戻って来たジュリアが割って入り、双子たちに別の菓子を用意したことで、子供たちの機嫌は直ったが……しかし。
当然ながら、フィオレンティーナが別の菓子で、誤魔化されるはずがなく――あれから一言も口を利いてくれない。怒っているのか、目を合わしてくれない。
寝室で二人きりになっても、彼女はディートハルトに背を向けて、こちらの謝罪に耳を傾けてくれない。
落ち込む。果てしなく、落ち込む……。
後悔に悩まされた頭が重い。首がもげそうだ。
「……レナ、頼むから機嫌を直してくれ。悪気があったわけじゃない」
そう、偏にフィオレンティーナのためだったのだ。
「ただ、短慮だったのは認める。許してくれ」
ディートハルトは額をシーツに擦り付けんばかりに頭を下げた。もし第三者の目があったのなら、土下座をしているように見えただろう。
衣擦れの音に彼女が動く気配がして、ディートハルトが顔を上げれば、フィオレンティーナが肩越しにこちらを振り返っていた。
「どうして?」
「……えっ?」
「どうして、何も言ってくれないの?」
「言う?」
「言うことがあるでしょう? いつも、あなたは黙っているけれど、私はずっとあなたが言ってくれることを待っているのよ」
フィオレンティーナはゆっくりと身体の向きを変えて、ディートハルトと向き合う。
寝台の上で、二人は互いを見つめ合った。
真っ直ぐにこちらを見つめる翡翠の瞳に、ディートハルトは自分の内側に隠した秘密が見透かされている気がした。
彼女はこちらが秘密を打ち明けるのを待っていたのか。
夫婦として誠実に向かい合おうとすれば、確かにこの秘密は不実と言えよう。
秘密を明かしてしまえば案外、彼女は寛大に許してくれるかもしれない。すべてはフィオレンティーナへの恋心が成した結果なのだ。
男心に鈍さを発揮してくれる彼女であるが、今回はさすがにわかってくれるだろう。フィオレンティーナを傷つけたくなかった、その心を。
ディートハルトは洗いざらい白状することを決めて、口を開く。
「……悪かった、レナ。黙っていて……その、言いにくかったんだ。まさか、いつも料理に失敗しているなんて、そんなこと知りたくないだろうと思って。今日の菓子も焦げていて」
「――えっ?」
驚いたような声がフィオレンティーナの唇から洩れた。驚愕に固まった彼女の表情は、予測の範囲外だ。
ディートハルトは背筋に冷たい汗をかいた。
………………何か、間違えたか?
「……失敗していたの? 私の料理」
抑揚のない声でフィオレンティーナが問う。
「そんな、ちょっと手際が悪いのは自覚しているけれど。……失敗?」
茫然とした声音は、ディートハルトに問いかけているようで、自問しているようにも聞こえる。
「……でも、あなたは沢山、食べてくれたから。美味しくできていたんだと信じていたの。あの子たちに分けてあげたくないくらい、私の料理を気に入ってくれていたと思ったのに」
「いや、それは――」
「でも、美味しいって言ってくれなくて……、だから言って欲しくて」
私、料理をがんばったの、あなたに喜んで欲しくて――と、小声で囁くフィオレンティーナに、ディートハルトは己の愚かさに突っ伏しそうになる。
どうして自分はこんなに間抜けなのだろう。
フィオレンティーナの男心の鈍さも相当のことながら、自分の鈍さにもほとほと愛想が尽きる。
愛されているという、その自信が足りないのか。
彼女が自分のために努力してくれているなど、想像もしなかった自分が情けない。昔から、何一つ成長していない。学習していない。
「……レナ」
「焦げていて、美味しくなかったの?」
フィオレンティーナが小さく首を傾げて、シーツの上に上半身をうつ伏せたディートハルトを覗き込んでくる。
そんなことはない――と、反論しようとする前に、彼女は続けた。
「もしそうなら、正直に言って欲しいわ。そうすれば、今度はどこを注意すればいいのかわかるから。二度と、同じ失敗をしないはずだから」
前向きな彼女は、どんなことにも真正面から向き合おうとするのだろう。
祖国を失くしたばかりの彼女は砕けそうなくらい脆さを感じさせた。しかし今は、折れない芯を華奢な身の内に、無垢な精神に宿している。それを知れば知るほど、ディートハルトはフィオレンティーナに惹かれ、ますます想いが募る。
だからどうしても、自分ばかりが追いかけている気がしてしまうのかもしれない。
それでも、フィオレンティーナはディートハルトに手を伸ばしてくれる。微笑んでくれるから、その想いには誠実に報いたい。
「わかった、正直に言う」
ディートハルトは姿勢を正して、フィオレンティーナと視線を合わせる。翡翠の瞳は静かに覚悟を決めて、頷いた。
「レナの料理はハッキリ言って、不味いと思う。火加減が上手くないのではないか? スープは煮込み過ぎるし、肉は焼き過ぎだ。肉汁が完全に抜け落ちた肉の触感は、それだけで味覚に致命的だ。煮込み過ぎているから、味付けも濃くなって塩辛い。この前の具なしのパイも、どうかと思う。普通、焼く段階に具が入っていないことに気づきそうじゃないのか? 注意力が足りない。手際が悪い以前の問題かもしれない。それと、今回の菓子についてもオーブンから目を離したのは頂けない。レナはもしかしたら、オーブンを魔法の箱と勘違いしているんじゃ――」
ないのか? と、最後まで言い切る前に、空気が唸り、ディートハルトの顔に衝撃が襲った。
ぱふんと、柔らかな痛みに、ディートハルトは顔に羽毛を詰めた枕を投げつけられたことを知った。
「酷いわ、そこまで言うことないじゃないっ!」
頬を赤く染めて、フィオレンティーナは半分泣きだしそうな顔で叫んだ。
どうやら、馬鹿正直になりすぎたらしい。
ディートハルトは己の愚かさに再び、シーツの上に撃沈しそうになった。
泣かせたくなかったのに、何をやっているのだ、俺は……。
自己嫌悪に陥ったディートハルトの耳に、フィオレンティーナの傷心した声が届く。
「……ごめんなさい」
先に謝られて、ディートハルトは目を瞬かせる。
「えっ?」
「ディートハルトは正直に事実を語ったのに……私ったら、怒ってしまって」
自分の過ちに対して、即座に非を認めるのも彼女の美点だろう。
「いや、怒っていい。俺は実際に料理をしているわけじゃない。それを自分が出来るふりして、あれこれと難癖をつけるのは間違っているから、怒っていい。すまなかった、レナ」
フィオレンティーナに対してはディートハルトも素直に謝れた。
傍若無人と周りから見なされているが、彼女の前だけでは真っ当な人間になれる。
ディートハルトの謝罪に、フィオレンティーナは小さく微笑んでゆるゆると首を振った。
「いいの。これからはあなたに言われたことを肝に銘じて、今度こそ美味しいものを作るんだから」
拳を握って意気込みを見せるフィオレンティーナに、ディートハルトは頷いた。
「それより大丈夫? 今日のお菓子、焦げていたのに食べたのでしょう? どうして、処分しなかったの?」
「レナが作ったものを捨てられるわけない。例え、レナが作った料理が泥のように不味くても、俺は全部食う」
堂々と宣言すれば、フィオレンティーナの表情が若干、強張る。
「……私の料理は、そこまで酷いの?」
涙目になるフィオレンティーナにディートハルトは慌てた。
「違うっ! 他の奴には喰わせたくないってことだ。レナが作ったものは全部、俺だけのものにしたい」
料理だけではない、彼女の笑顔も、視線も、その唇に、髪も――すべてが、欲しい。
独占欲を丸出しにしてディートハルトは、フィオレンティーナの細い腰に腕を回して抱き寄せた。体勢を崩して彼の胸にしなだれかかって来る彼女の蜂蜜色の髪に顔を埋めて、立ち上る甘い香りを存分に味わう。
勢いついでに彼女の耳朶を甘噛みすれば、くすぐったさにこぼれるフィオレンティーナの笑い声がディートハルトの内の熱を高める。
静かに彼女を寝台に横たえれば、彼女は上目遣いに言って来た。
「ありがとう。でも、子供たちの分を横取りするのは駄目よ?」
駄々をこねれば二度と触れさせて貰えないのではないかと心配して、ディートハルトは渋々と頷いた。
第一に息子たちにまで、嫉妬していたら身が持たない。
「しょうがないから、妥協する」
「けれど、万が一、失敗していたら……子供たちに気づかれる前に食べて欲しいって言ったら、嫌われるかしら?」
不安そうなフィオレンティーナの桃のような柔らかな頬を手のひらに包み込んで、
「その場合、レナが癒してくれるのが条件だな」
花びらのような唇にそっと自分の唇を重ねた。
「口づけで癒して 完」
|