密かな告白
――僕を愛して……。
格子のはめられた窓から差し込む陽光に、金の波が揺れた。
こくりと頷くように沈む頭に、艶やかな金の髪が肩をすべり密やかな音を紡ぐ。それを耳にしてユリウスは弦をつま弾く指の動きを止め、リュートの軽やかな調べを途切れさせた。
旋律が途切れあらわになった静寂に、我に返ったようにフィオレンティーナは金の睫毛を瞬かせる。
大陸で一、二の大国であるカナーリオ帝国の皇女は、翡翠の瞳を見開き、夢うつつの状態で己の居場所を確かめているようだった。
細やかな文様を編み込んだ絨毯、壁に据え付けられた重厚な書棚に並んでいるのは、世界各国から集められた珍しい書物。書き物机の上に置かれた玻璃のランプに、猫足細工の丸テーブルの上に置かれた白磁の花瓶。そこから濃厚で甘い香りをまき散らし溢れる白百合は、フィオレンティーナが持参したものだ。
やがてこちらを見つめると、まだ幼さを残す柔らかな頬を朱に染めた。薔薇色の唇が小さく開き、言い訳を述べようと小さく震わせるのをユリウスは遮った。
「疲れているようだね、ティナ」
彼女が謝罪の言葉を口にする前に、ユリウスは彼女のうたた寝を許すように微笑んだ。
それから自分が口にした言葉に、疲れていて当然だろうと心中で呟く。
フィオレンティーナが日常を過ごす帝都から、ユリウスが身を寄せているこのエスターテ城には数日を要する道程がある。どれだけ先を急いだところで、夜を幾つもまたぐ旅路に疲労を覚えないはずはない。
華奢な身体には余りある負担だ。今日は早々に横になったほうがいいだろう。
彼女がこの城に逗留する日数が片手の指の数ほどにしか許されておらず、共に過ごす時間が削られてしまうにしても……。
「今日はもうお休み、ティナ。歌合わせは、明日にしよう」
先の逢瀬のときに、彼女に歌を贈る約束をしていた。会えない日々、フィオレンティーナを想って作った曲は彼女も気に入ってくれたようだった。
歌を唄うために、旋律を覚えようと何度も曲を奏でれば、それは子守唄に変わり、フィオレンティーナを眠りの淵に誘ったというわけだ。
「大丈夫です、ユリウス様。どうか、曲の続きを聴かせてください」
フィオレンティーナは気丈にも背筋を伸ばして、姿勢を整えた。
二人に与えられている時間がそれほど多くないことは、フィオレンティーナにもわかっているらしい。
だからこそ、彼女は無理を押して帝都から遥々婚約者のもとへ、季節の花を携えて足しげく通って来てくれる。婚約者の孤独を癒そうと。少しでも二人、共に過ごせるように――と。
ユリウスは手にしていたリュートをテーブルの上に横たえて、フィオレンティーナが腰かけた長椅子へと移動し、彼女の隣に身を寄せるようにして腰かけた。
繊細な彫りに飾られた猫足の長椅子は二人が並んで座ってもまだ余分があった。
「ユリウス様?」
小首を傾げるフィオレンティーナの細い肩を抱いて、ユリウスは彼女の頭を自分の胸へと引き寄せた。優しい温もりを愛しむように腕の中に閉じ込める。
「君が来てくれて嬉しいよ、ティナ。でも、あまり無理をして、君が体調を崩してしまったら僕は皇帝陛下に何と申し開きをすればいいのだろうね?」
「お父様のことなど、知りません」
ユリウスの胸にしなだれかかった姿勢から、フィオレンティーナは顔を上げて頬を膨らませた。子供のように唇を尖らせ拗ねる姿の愛らしさに、ユリウスは口元を綻ばせた。
「そんなことを言ってはいけないよ、ティナ。僕は君の伴侶として選ばれた幸運を皇帝陛下に感謝しているのだから。君は違うの?」
「違いません。……ユリウス様は時々、意地悪です」
フィオレンティーナは上目遣いで、ユリウスに視線を返してきた。翡翠の瞳には婚約者を慕う純粋な想いだけが見てとれる。それを疑われるのは、心外なのだろう。
「お父様がユリウス様を私の婚約者に選んでくださったことは感謝しています。でも、それなのにどうして、ユリウス様のところに通おうとするのを邪魔するのか、わかりません」
そうして、再び頬を膨らませたフィオレンティーナに、ユリウスは笑みを返す。
――どうして君は、そんなにも無垢なのだろうね。
皇女は、父である皇帝の心配が理解できないらしい。婚約者のもとへ通おうとするフィオレンティーナの行動に皇帝が制限を掛けるのは、単なる意地悪としか見ていないのか。
婚約しているとはいえ、実際に結婚までにはまだ指を折って、年数を数えなければならない。
皇女が十八歳を迎え、正式に成人して初めて、ユリウスとフィオレンティーナは神の御前で永久を誓うのだ。それまでは当然ながら肌を重ねることは許されないし、そのような噂が立つのも皇族の品位の上では喜ばしくない。年頃の娘を持つ親の心配を、ユリウスは理解できた。
自分は男だ。その気になれば、嫌がるフィオレンティーナを組み敷く力もある。彼女の細い首をほんの少し力を込めることで、折ることもできる。
――もっとも、そんなことは出来ないけれど。
皇帝に命運を握られているユリウスは、自暴自棄に走るほどに無謀でもなければ、カナーリオ帝国に対し敵意を持っているわけでもなかった。
自由を奪われ、檻に閉じ込められた生活に対して復讐を計画する気はない。それを恨む気持ちもなかった。
敗戦国の王族が生かされている事実を屈辱と感じる気概もなかった。その点からして、ユリウスは自分が王国の後継者になることに疑問を抱いていたほどだ。
第一に、無邪気なフィオレンティーナの信頼をどうして裏切れるのだろう?
それに皇帝が本当の意味で心配しているのは、そのようなことではないとユリウスは考えている。
――皇帝陛下が心配しているのは、他でもない僕の微妙な立場だ。
ユリウスは、カナーリオ帝国の下に屈したシュヴァーン王国の後継者である。敗戦国の王子は現在、帝国皇女フィオレンティーナの婚約者という位置づけで、この帝国に留学という形で身を寄せているが、実際は人質だった。
エスターテ城の最上階、豪奢な檻に囚われた王子。その意味をフィオレンティーナは理解していないだろう。だからこそ、彼女は無垢で無邪気だった。政治的意図に左右されることなく自分を慕ってくれたフィオレンティーナの裏表のなさが、他でもなくユリウスの心を癒してくれたのだから。
婚約が定められたのはユリウスが十六歳、フィオレンティーナが十一歳のときである。王国の後継者として育てられたユリウスは、二人の結婚が政略的な意味合いを持つことを瞬時に理解した。
カナーリオ帝国の皇帝アーネリオは平和主義を謳っていた。力でシュヴァーンを支配することを望まなければ、後は婚姻を結んで支配下に置く。フィオレンティーナが王国の後継者を生めば、子子孫孫。王国は帝国の手中に……。
皇帝は単に血を流したくなかっただけなのかもしれないが、表だってそれを言うには立場がある。
温情を見せすぎては、付け入れられる隙になる。
だから、ユリウスの存在を皇女の婚約者とし、手中に収めたように見せかけたのだ。
刃向えば王子の命が危うくなることを示すことで、無駄な争いを防ぐべく牽制した。実際に、帝国の支配を拒む力がシュヴァーンに存在しないのは、今のユリウスの境遇から明らかだった。
一年の半分以上が雪で閉ざされるシュヴァーン王国を襲った深刻な食料不足からの飢餓は、カナーリオ帝国の恵みを奪わんとすることで解決しようとしたが、力不足の前に呆気なく屈することになった。
傭兵国家を謳うシュヴァーンであるが、元々食糧が不足しているのだ。長期戦など望むべくもなく、帝国の軍事力と対等に戦える余力はなかった。
帝国に屈し、帝国から食糧支援を受けている身で、どうして逆らえようか。王国は後継者を人質として差し出すことで、戦争を仕掛けた罪を詫びた。
それですべてが片付けば、問題はない。しかし、長い歴史が物語る人間の愚かさは幾つもの争いを刻んでいる。
そして、ユリウスの捕囚生活が長引けば長引いた分だけ、餓えていたシュヴァーンの民も力を取り戻しつつあるだろう。自らの爪で、牙で糧を得ようとする獣のようなシュヴァーンの民たちはいつまでも鎖で繋がれることを望みはしない。
外界の情報など入って来る伝手など、ユリウスにはない。だが、皇帝がフィオレンティーナの行動に制限を掛け始めたことが何よりの情報でもある。
――皇帝陛下は……僕とティナが無事に結婚できるとは考えておられないようだ。
ユリウスがそっと視線を落とせば、やはり疲れからフィオレンティーナは意識を眠りに預けていた。
小さく揺れる肩を抱いて、ユリウスはフィオレンティーの髪を撫でる。
――いつまで僕は……君の婚約者でいられるだろう?
温もりを離さぬよう抱きしめながら、ユリウスは格子のはまった窓の外を眺める。檻により細分された空は少しずつ茜色を溶かしていく。
シュヴァーンの王子という身分は、王国の人間がユリウスを必要とする限り、それは帝国にとって有益な人質となる。
しかし、王国が王子を見限れば、ユリウスの存在は帝国にとっては何の役にも立たない木偶になる。
平和主義を謳う皇帝としては出来るだけ穏便にことを運びたかったに違いない。皇女の婚約者として、目をかけていることを示すことでシュヴァーンの動きを封じたかった。そして、敗戦の責を負って、王族を処罰する事態を避けたかった。
そんな皇帝でも、実際にシュヴァーンが牙を剥き、帝国に宣戦布告してきたならば、動かざるを得ないだろう。
シュヴァーン王国に対してだけではなく、帝国内部に対しても、敵対する国家に毅然と対処する執政者としての姿を見せなければならない。
だとすれば、役立たずの人質は処罰しなければならない。
そこにユリウスの罪がなくとも。
――僕は人形だ。
王子という名の、人形。そこにユリウスという人間の意志は含まれない。そして、王子という名を奪われれば、罪すら背負うことが出来ない、ただの木偶に変わる。
そんな人形にフィオレンティーナが入れ込んでしまうのを皇帝は恐れている。
あまりに皇女が無垢であるから、傷ついてしまうのを父親として見ていられないのだ。
優しすぎるから……。
遺恨を断って、完全に帝国の支配下に置いてしまえば、帝国の力を持ってシュヴァーン内に蠢く帝国への憎悪をねじ伏せてしまえただろう。
しかし、皇帝はそれをしなかった。温情に付け入る隙を与えてしまった。
……恐らく、シュヴァーンの帝国への叛意が手に余るようになって来たのだろう。
ユリウスの脳裏に一人の少年の姿が浮かぶ――もう今では、自分と同じく青年になっているだろう、鏡に映したように自分にそっくりだった従兄――ディートハルト。
王国では自分の影のように、存在を軽んじられていた。でも、実際に影であったのは自分だったような気が、ユリウスにはしてならない。
いつも自分より数歩前を歩いていた。だから、追いかけるしかなかった。
後を追いかけることしかできないのは、影だ。
王となるべきは、彼だったと、ユリウスは思う。自分を睨みつけたディートハルトの蒼い瞳に宿った苛烈な炎は、自分にはないものだった。国を背負っていく者にこそ、それは相応しい。
……あの人が動き出しているのか。
シュヴァーンの国力だけでは、今もなお帝国に勝てる要素などないと言っていいだろう。
だが、大陸で帝国と一、二を争うヴァローナ王国。その力を借りれば、帝国に痛手を負わすことは可能だ。ヴァローナと結んだ同盟を動かせるのは、シュヴァーン王国内では一人だけ。ヴァローナ国王の甥にあたるディートハルトだ。
ディートハルトが同盟を動かす意思を固めれば……ユリウスは口の中に苦いものを感じた。
外の世界のことなど考えたくなかった。今は腕の中にある優しい温もりを感じていたい。それ以上のことなど、何も望みたくはない。
しかし、まだ木偶の人形にすらなれないユリウスは、いずれ国を背負うこと前提に教えられた知識で、政治的な駆け引きを推測してしまう。
ヴァローナ王国は、周辺諸国と数多の同盟を結んでいる。それがヴァローナの強さでもあるなら、同盟国から持ちこまれた要請を無下にはできない。そして、それはヴァローナにとっては帝国に攻め込む口実にもなる。
ヴァローナとしては帝国を打ち負かそうなど、考えやしないだろう。
だが、帝国の軍事力は抑止力として働くほどに、大きい。
平和主義の皇帝がそれを侵略に使わないから、アーキオーニス大陸は小国同士の小競り合いはあるものの、大きな戦乱に見舞われてはいない。
けれど、帝国が軍事行動を外へと向ければ、それを止めるのはヴァローナにとっても難しいだろう。
だから現皇帝の下にある力を削いでおきたいと――考えれば、ヴァローナはこの機会を逃しはしない。傭兵国家であるシュヴァーンは装備さえ整えば、帝国軍と対等に渡り合えるだけの力を発揮する。
――ならば、すべてはあの人次第だ……。
ディートハルトが望めば……。
王子と皇女の婚約で結ばれたシュヴァーンとカナーリオの和平は、破綻する。
……あの人は、動くのだろうか。
王子という運命を受け入れるだけしかできなかった影と同じ道を、ディートハルトが望むのだろうか。
鏡のあちらとこちら。同じに見えた二人であるが、自分とディートハルトが決定的に違うことをユリウスは理解していた。彼は運命を諾々と受け入れはしない。
……いずれ、動くだろう。
それが一年後か、五年後か。外界を知らないユリウスには正確なところは測れない。だが、帝国の人質である現在、ことが動けば自分の身が消えてしまうことも、どこかで予感していた。
フィオレンティーナと婚姻を結び、エスターテ城の捕囚ではなく王国の後継者として、ディートハルトと対することがあるのなら、ユリウスは何があっても戦うことを心に決めていた。
フィオレンティーナを守る、そのために日々剣の稽古をしている。
例え、帝国の傀儡と嗤われようとも、フィオレンティーナを守れるのなら、どんな嘲笑も受け入れる覚悟だ。
あの極寒の王国は、帝国皇女であるフィオレンティーナを優しく受け入れてくれはしないだろう。
だけど、それでも彼女が自分と共にあることを望んでくれるのなら、それが叶うのなら、シュヴァーンの美しく輝く銀世界を見せたかった。自分の隣で、微笑んで欲しかった。
それが大それた望みであると、わかっていても。
儚い希望だと承知していても。
今、フィオレンティーナの温もりを感じていられる、この瞬間だけは未来を信じていたい。
「だから……」
ユリウスは祈るようにそっと、
「……僕を愛して、ティナ」
――共にある、この時だけでも構わないから。
その胸に、記憶に、僕を刻んで。
王子でも、人形でもなく、ユリウスという一人の男が誰よりも君を愛したことを忘れないで欲しい、と。
ユリウスは胸の奥に秘めていた願いを、眠るフィオレンティーナの耳元で囁くように告げた。
「密かな告白 完」
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