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 ちいさな約束


 駆けていけば追いつける先に、歩いている背中を見つけて私の胸が鳴った。
 新社会人になったばかりのその背中は、まだスーツを着なれた様子はないのだけれど、それでも似合っていた。きっと真っ直ぐに伸びた背筋が、スーツのラインを綺麗に見せているのだろう。
 薄暗くなった夕暮れの――薄暗いのは、時間帯というより、薄い灰色の雲を広げた曇天の空模様が反映しているのかもしれない。梅雨入りしたこの時期だから、傘は必須なのだけれど、朝は雲ひとつない青空だったから、忘れてしまった。天気予報は夜から雨ということだから、まだ大丈夫かな? ――帰り道で私よりその背中が先を歩いているのは珍しい。それは他でもない、私が寄り道をしていたからなんだけど。
 きっと、早く帰って来るように言われているのだろう。
 だって今日は、背中の主である祥ちゃんの誕生日だ。
 私より四つ年上の――ううん、今日からは五つ年上だ――今年二十三歳になる祥ちゃんの家のおばさんは、家族の誕生日やお祝いごとには手作りケーキやご馳走を作る――お料理教室の先生だ。
 ローストビーフや鴨の詰め物赤ワイン煮込みだといった手の込んだ洋風料理から、ちらし寿司にお稲荷さんだとかの和風料理に、餃子やシュウマイといった中華料理と幅広く、さらに、ガトーショコラにミルフィーユ、はてはバームクーヘンといったお菓子作りまでこなしちゃう。
 ちなみにうちの母は、おばさんの料理教室の常連だ。何年も通っているのに、一向に上達しない分、ウエストとヒップのサイズが同じくらいという、ふくよかなボディを手に入れた。もはや教室の盛り上げ役兼味見係となっているようで、そんな母とおばさんの付き合いは教室の外でも仲が良く、家も近所ということもあって、私と祥ちゃんは年が離れていながらも、兄妹のように育った次第だ。
 今日も、祥ちゃんの誕生日パーティに、私もお呼ばれしていた。
 食べることも大好きだけど、作ったものを食べて貰うのが大好きなのという、おばさんはきっと、ここぞとばかりにその腕をふるうはずだから、祥ちゃんとしても寄り道などしてはいられないのだろう。
 そういったわけで、毎日美味しいものを食べ慣れている祥ちゃんに、手作りのお菓子なんてプレゼントは到底あげられないとくれば、大学に入ってから始めたアルバイトの初任給は祥ちゃんへのプレゼントとなったわけだけど。
 ブランド物のネクタイを年下の幼馴染みから貰うっていうのは、どうなんだろう? 私はプレゼントの包みが入ったトートバッグの内側にチラリと目をやった。
 単なる幼馴染み――だったら、ちょっと引くよね。
 彼女だったら、どうだろう?
 大体において、私は祥ちゃんの彼女でもなんだけど……。
 デパートでプレゼントを探していて、これが似合いそうと思ったら、ビックリするような値段だった。でも、別のネクタイはどれもいまひとつ、祥ちゃんのイメージとは違っていた。だから、思い切って買ったわけだけど、失敗したかな。
 胸の内側に僅かな後悔が滲むのは、金額に対するものじゃない。
 このプレゼントを祥ちゃんが喜んでくれたら、アルバイトの労働も出費も、辛くはないだろう。
 だけど、年下の何とも思っていない相手から高価なプレゼントを貰ったならば祥ちゃんのことだ、表面は喜んでくれるけれど、内心は困るんじゃないかと思う。
 困らせたいわけじゃないから、気持ちが揺れる。
 でも、もう少し、ただの幼馴染みより、私と祥ちゃんの距離が近ければ――反応が違ってくるんじゃないかという、淡い期待もあった。
 とはいえ現在において、祥ちゃんの背中を見つけても駆け寄れない私がいる。
 無邪気に。どこまでも無邪気に、恋心をあらわせていたのは何歳までだっただろう? 照れも恥じらいもなく、好きと言えたあの日の想いが消えたわけではないのに、唇から想いをかたどる言葉があふれることはない。
 恥じらいを知ることが、大人になったということなのかな。それとも、想いを形にすることで壊れてしまう可能性を知ってしまったからなのかも。
 私の唇からこぼれるのは、言いかけて口にできない言葉の名残りのようなため息と、自分に対する不満。
 俯いた視線の、鼻の先に尖った唇が見える。鼻が小さいのがよくわかる。
 もう少し鼻が高ければ、筋が通っていれば、自分の顔に対して気になるところを上げ出したらきりがない。
 子供の頃は、大きくなればそれなりの女性になるのだと思っていた。
 ところがだ、成長期を迎えても、大して胸は膨らまなかった。これは誤算だった。
 背だってそれなりに伸びると思っていたら、百五十センチで止まってしまった。大誤算もいいところ。
 髪を長くして、しっとり大人っぽくっと思っていたら、癖っ毛が酷くて逆に子供っぽく見える始末。ああ、もう! どうしたらあの背中につり合える女性になれるんだろう。

 ――祥ちゃん、大きくなったら、真由をお嫁さんにして。

 子供の頃はなんの衒いもなく、祥ちゃんが好きだってことを主張できた。
 ……うん、それはまあ、幼稚園のスモッグを着ていたようなお子様だったから、できたわけですけど。ランドセルを背負った祥ちゃんは、「うん、いいよ」と私の突き出した小指に絡めて、約束してくれた。
 お子様に気を使ってくれた祥ちゃんは、あの頃から優しい大人でした。
 祥ちゃんの家に遊びに行けば出される甘いケーキを、パクパクとあっという間に食べてしまった私に自分の分をわけてくれたりして、そんな祥ちゃんが私は好きで好きで堪らなかった。
 冷静に考えれば、祥ちゃんが好きだったのか、祥ちゃんがわけてくれたケーキが好きだったのか、突き詰めるのは怖い思い出ではあるけれど。一つだけ確信して言えるのは、私の食い意地は母からの遺伝らしい。
 そんな祥ちゃんのおやつを狙っていた私を祥ちゃんはよく面倒見てくれた。上級生として下級生の面倒を見るのは当然だったのかも知れないけれど、私は祥ちゃんに好かれているのだと、勘違いしていられた。
 だけど、中学に入って私は親の転勤でこの街を五年ほど離れた。帰ってきても母はなにひとつ変わらない顔で、おばさんの料理教室に顔を出し、私と祥ちゃんのご近所づきあいも復活したのだけれど。
 昔のような気軽さは、私と祥ちゃんの二人の間にはなかった。
 何故なら祥ちゃんは素敵な男性になっていて、かくして私は昔と変わらない、お子様のままだった。
 中学生だった頃と体型が一つも変わっていないというのは、残念極まりない。
 昔は十センチ程度の身長差が、今では三十センチ以上も開いてしまった。柔らかだった祥ちゃんの小指は、骨ばって男の人の手になっていた。
 ネイルひとつ満足に塗れない私は惨めで、いたたまれなくて。
 祥ちゃんが話しかけてくる言葉に、気のきいたことを返せないまま、俯いてしまう。ぎこちない空気は、そのまま二人を遠ざける。
 祥ちゃんは既に一足先に社会人となって、これから素敵な女性と出会ったりするんだろう。あの小さな約束はもう覚えてないだろう。そして、私と違う誰かと恋愛しちゃうかもしれない。
 初恋をこのまま終わらせてしまっていいの? と自分に問いかければ、それはイヤだと思う自分がいたから、今日の誕生日に奮起してみたのだけれど、どうにも空回り感が拭えない。
「……別のプレゼントに交換して貰おうかな」
 今ならまだ返品を受けてくれるかもしれない。もう少し、大学生にふさわしい金額の、幼馴染みから貰っても普通に受け取って貰えるような、物に……。
 私は立ち止まって考えた。顔を上げれば、先を行く祥ちゃんの背中は住宅地への曲がり角に消えた。何だか、置き去りにされたようで泣きたくなる。
 でも、それはきっと甘えなんだろう。
 どうして、私は祥ちゃんの背中を追いかけないの?
 振り返って貰えるような、特別な何かを私は持っているわけじゃない。
 お子様の無邪気さで、好きだって主張するしか、私には何もないというのに。
 熱くなった目頭を拭おうとしたとき、頬をぽつんと雫がこぼれた。
 涙ではなく、それはいつの間にか暗さを増した空から落ちた雨だった。小さな粒はアスファルトを黒く染め、雫の粒は肌を叩くように大きくなった。
 バッグを胸に抱え、私は雨が避けられそうな場所を探す。少し走って、閉じた店の軒先に雨宿りした。顔を上げれば滝のように、軒先から雨が水のカーテンを作っていた。
 踏んだり蹴ったりの状況に、本気で泣きたくなる。雨の下に居たのは少しの時間だったのに髪は癖っ毛全開で、くるくるし出す。雨に打たれた肩から、じわりと薄手のカーディガンに水染みが広がる。スカートの裾も足に張り付いて、私の身体を縛るかのようだ。
 一時間後には、祥ちゃんの誕生日パーティが始まるのに……。
「――入ってく?」
 困っていた私の前に傘を差した祥ちゃんがいた。
「家に来るんでしょ? じゃあ、一緒に帰ろうよ」
 目の前に祥ちゃんがいることにビックリして、私はただただ目を見張っていた。
「真由?」
 祥ちゃんが小首を傾げれば、傘も少しだけ傾いた。
「まさか、目を開けて寝てないよね? 昔は白目剥いて寝ていたけど」
 傘を少し持ち上げて、祥ちゃんは言った。軽く眉をひそめていても、祥ちゃんはカッコいい。でも、聞き捨てにできないことを耳にして、私は口を開いていた。
「そんな寝方しないよっ!」
 白目を剥いて寝ていたっ? そんなことはないと思いたいけど、確信はない。ただ、それはちょっと女の子として致命的なので、否定しておくことにこしたことはない。
「でも、寝言は言うよね」
「……言いません」
 小声で否定する。言うかもしれないけれど、それもちょっと恥ずかしい気がしないでもない。
「鼾はかく?」
「……かきません」
 かかないと思いたいけれど、自信がない。
「そう? 俺はあまり気にしないけど」
「何の話をしているの、わかんないよ?」
 どこに転がるのかわからない話の矛先に、私は呆れた声を出す。
 そうして、祥ちゃんとの間にあったぎこちなさなんて嘘だったかのように、私は祥ちゃんに笑いかけていた。祥ちゃんも小さく笑った。
「わからないなら、それでもいいけどね。さっき言ったこと、覚えてくれてると嬉しいな」
「さっき言ったこと?」
「鼾は気にしないっていう」
「かかないって!」
 覚えていてくれたらって、どういう意味だろう? 眉間に皺を寄せる私に、祥ちゃんは傘を左右に動かして言った。
「傘、持ってないんでしょ? 一緒に帰ろ?」
「……あ、……いいの?」
「良くなかったら、誘わないと思うよ」
 祥ちゃんの手が伸びて、私の手首を優しく握る。軽く引っ張られて、滝のような雨が頭上で跳ねる傘の下に私は入った。
「いつ、声を掛けてくれるのかと思ってた」
 祥ちゃんの声がすぐ傍で柔らかく響く。
 雨が生み出す騒音なんて、どこか遠い。私の耳は祥ちゃんの声をハッキリと聞きとった。
「私が後ろを歩いていたこと、気づいていたの?」
 三十センチ差を見上げて、私は問う。
「うん、デパートで見かけた。この傘、今日そこで買ったんだ。前のはどうも盗まれたみたいでさ」
 祥ちゃんは傘を見上げ、それから私の胸元に視線を落とした。まあ、見ているのは胸じゃなく、私が抱えたバッグだけど。
「それ、俺にだよね」
 と言うからには、私が何を選んだのか知っているのだろう。レジに向かった私の背後で確認していたとしたら、プレゼントの金額についても知っているのかもしれない。
 私はおずおずと顎を引き、上目遣いに祥ちゃんを見た。
「……あの、駄目だったかな?」
「奮発してくれたなと思ったけど、嬉しいよ。他の男相手に選んでいたなら、もう二度と真由とは口を利かなかったかも」
「――ええっ? どうして?」
 目を丸くする私を祥ちゃんは真面目な目で見つめていた。
「わかんない? わからないのなら、いいけれど」
 祥ちゃんは「行くよ」というように、目を通りへと向けた。らしからぬ素っ気ない態度に、祥ちゃんが少し怒っているような気がした。気のせいじゃないとすれば、心当たりは一つだ。
 私は離されないようついて行きながら、雨音に負けないよう声を張り上げて言った。
「あのね、どうしてもこれを祥ちゃんにあげたかったの。これが一番似合うと思ったの」
 私は胸をドキドキと鳴らしながら、昔の自分を見習うことにした。
 無邪気に、自分の気持ちを主張していた、あの日の私を。
 幼かったあの頃と違って、今の私は自分の胸の内を晒すのは恥ずかしくて、頬が熱くなって、緊張してしまうけれど。
「祥ちゃんに喜んで欲しかったの」
 何も思っていない相手からだったら、困ってしまうかもしれない。でも、これから先もずっと傍に居てくれるなら――このプレゼントは、二人の思い出になるはずだ。
 そう信じたい私が居たのだと、祥ちゃんに伝えたかった。
 中学生の頃から見た目も中身も成長していない私が、誰よりも誇れるものがあるとすれば、それは祥ちゃんが大好きだって気持ちだ。
 そして祥ちゃんが、子供の頃と変わらずにその気持ちを受け止めてくれるのだとすれば、
「うん、嬉しいよ。あのね、真由のそういう自分の気持ちを伝えてくれるところ、昔から俺は大好きなんだよ。知ってた?」
 優しくて柔らかい声が、熱くなった私の耳の奥に染みてくる。
 私は嬉しさに泣きだしそうになるのを堪えながら、祥ちゃんに笑いかけた。
 幼い日に交わした小さな約束は、今も変わらずにあるのだと信じて、いいよね?


                            「ちいさな約束 完



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