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 あけ星


 ――ねぇ、星は見える?


 プラスチックの向こうから訊ねて来るお前の声に促されて、窓に手を伸ばす。
 室温で白く曇ったガラスに手を這わせて、ゆっくりと窓を開く。隙間から、冬の凍える外気が入り込んできて、暖房に火照った俺の頬を冷たく刺した。首筋をなぞる冬の風に肩を竦めながら、応えた。
「……ああ」
 夜に向かって吐きだした息は白く、俺の口からこぼれては藍色の闇に淡く溶けていく。
「見えるよ」
 濃い闇に、銀の星屑が己の存在を主張するように輝いている。いつもは小さな星たちも、何故か一個一個が大きく見えるのは闇が深いせいか。
「……綺麗だな」
 こんな時間に、空を見上げたことなんてなかったから、星の多さに少しだけ感動している俺がいた。
 そんな俺を誰かが見たら、笑うかな。
 俺はあまり感情が表に出ないせいか、無感動人間に思われている節がある。
 彼女ができたと男友達に報告したら、『お前でも、冗談を言うのかよ?』と、笑われたっけ。
 名前負けしているとも言われた。
『明るいのアキラって、似合わねぇ漢字』
 まったく、余計なお世話だと思ったが、黙っていた。
 落ち着いた物静かな奴というのが、周りの俺に対する人物像。当たっているようにも思えるが、寡黙と言うより、周りのテンションに追い付かないだけなんだけどな、ただ単に。
『――こっちも、綺麗よ。雲ひとつないわ』
 耳元で、お前の嬉しそうな声が響いた。
 地上の明かりが少なければ、もっと多くの星を眺められただろうか。
 そう思って部屋の灯りを落とした。周りの闇がさらに濃くなったような気がした。
 残念ながら、地上の仄かな明かりはまだまだ、あちらこちらに散らばっている。
 もしかしたら、いつもより多いかも知れないな、とぼんやり思う。
 大晦日の今日は、いつもより夜更かしする人間が多いだろう。ベッドの脇に置いた目覚まし時計の針は、蛍光塗料が塗られている。蛍の光に似たそれが教える時刻は、十一時五十分。
 あと少しで、新年の始まりだ。
 何となくこの日だけは、夜更かしをしても許されるような気がする。
 実際、真夜中に電話するなんて非常識もいいところだが、どうしてもと言った声に、逆らえやしなかった。端から、逆らうつもりもなかったけれど。
 示し合わせて、真夜中に電話。
 一緒に年明けを迎えようと約束して、俺から電話を掛けた。
 メモリからではなく、番号を一つ一つ押していく。既に指先がどのボタンを押せばいいのか、すっかり記憶してしまった。
 我ながら、驚く成長だよな。
 自分から電話するというのが照れくさくて、ただただお前からの電話を待っていた一年前の俺からすれば、猿から人類が誕生したくらいの進化だよ。
 自分があげた例えがあまりに的確過ぎて、苦笑が漏れる。
 進化する前の俺って、どんなダメ男だったんだ?
『――何?』
「……え?」
『今、笑ったでしょ? 何か面白いことあったの?』
 自分を笑っていたんだよ、なんて言えるわけがない。
 きっと、お前も笑うだろ?
 俺はさっきまで向かっていた机に目を向けて、誤魔化す。
「何も面白いことはないよ。ひたすら勉強、受験勉強さ。お前の方は?」
『うーん、わたしの方もただひたすら受験勉強しているわ。面白いことなんて、何もなし。母も相変わらずだし……』
 声が沈む。話の振り方を間違ったなと、俺は後悔した。
 離婚経験を持つお前のお袋さんは、娘が男と付き合っているのに対して、口を挟むことが多くなったようだ。お前の電話のなかで、お袋さんに対する話題が増えてきたのは、そのせいだろう。
 それを不愉快だとは思わなかったけれど、正直、お袋さんと俺との間に挟まれるお前はしんどいだろうなって考えるよ。
 今じゃ、お前は母一人娘一人の生活だ。いつも顔を突き合わせる環境で、俺と付き合うのを止めろなんて言われ続けていたら、いい気分じゃないだろ?
 頼むから、その気にならないでくれよ、と。電話のこちら側で、俺は祈り続けるしかない。
 両親の離婚をきっかけに転校せざるをえなくなって、気軽に会える距離にお前はいない。こうして、電話でしか声を聞けなくなってもう九ヵ月になる。
 会話する回数は、確実に増えた。
 お前がこの町に暮らしていた頃は、お前が傍にいた頃は、ただ傍に居てくれるだけで良かった。お前が話しているのを聞いて、それを見ているだけで、俺は十分だった。
 それがお前に誤解させていたなんて、気づかなかったけど。
『ねぇ――わたしの話、聞いている……?』
 物思いにふけっていて、相槌がそぞろになった俺に、お前が問いかけて来る声は震えていた。不安が混じって語尾がしぼんでいる。
 その声を聞いて、水を与えられずに枯れそうになっている花が俺の目の前に浮かんだ。
 しおれて首をうなだれて、俯いているのか? 何で、そんな声を出すんだよ。まだ、誤解しているのか?
 お前の問いかけに、俺はゆっくりと言い聞かせるように「聞いているよ」と返す。
「言っただろ、俺はお前が話している声を聞くのが好きなんだって」
 もともと、俺が聞き手タイプというのもあるけれど。
 付き合い始めの頃から、お前に一方的に話をさせていたのは、話しながら表情がくるくると変わるお前を眺めているのが好きだったからだ。
 それに実際のところ、下手に口を開けばお前に嫌われるんじゃないかって、ビクビクしていたせいもある。
 人よりテンションが低いと常日頃から周りに言われていて、こんな俺をお前は好きだと言ってくれたけれど、付き合うことになってもまだ半信半疑だったんだよ。
 お前が、俺を好きになったくれたこと。
 お前は付き合いだして、俺がお前を受け入れたと思っているらしいけど。
 本当は、俺の方がお前を意識するのは早かったと思う。
 お前は知らないだろ?
 ――恥ずかしくて、言えなかったから、知らなくて当然なんだけどな。
 お前が俺を見つけたのが学校の図書室だったら、俺がお前を見つけたのも図書室だった。
 物静かな性格は読書好きと言う偏見から――人が風邪をひいて休んでいることをいいことに、勝手に推薦されて――押しつけられた図書委員でしがなく入り浸っていた図書室。そこの常連だったお前をよく目にするようになって、意識し始めた。
 お前がさ、本を読んでいる姿を見つけるたびに何を読んでいるんだろうって、気にするようになったんだ。
 だってさ、お前、自分じゃ気づいていないだろうけど、話をするときと同じように、表情がくるくる変わるんだぜ。
 見ていて、そんなに面白い本なのか? と、お前が読んでいた本を書架の中から探していた。
 それが俺的にも面白かったからさ、似たような本を探すようになって、結果、お前は俺に気づいたんだから、人と人との出会いって、何がきっかけになるのか、わからないものだよ。
 あの日、お前が探していた本を俺がたまたま先に手に取った。
『――あっ』って、あの時、お前が呟かなければ、俺はお前に話しかけるきっかけを見つけることができずに、片想いのまま終わっていたかもしれない。
『どうぞ』
 でもさ、折角のチャンスだったのに、俺と来たら手にしていた本をお前に押しつけ逃げていた。
 もっと何か、気の利いたことを言えただろうに、お前が目の前にいる事実に緊張して、それ以上何も言えなかったんだ。
 本当に、こんな俺をよく好きになってくれたと思うよ。
 翌日、本を返却しにきたお前が『ありがとう』って、俺に話しかけて来てくれて。少しずつ、言葉を交わすようになった。
 結局、俺は本の感想をポツポツと語ること、お前が好きそうな本を勧めるくらいしかできなかったけれど、お前の方から距離を縮めてくれた。
 お前が俺を好きだって言ってくれた時も、俺は割と落ち着いていたように見えたらしいけれど、夢のように感じて現実感がなくただ惚けていただけなんだぜ。
 きっと、このことを話したらお前は呆れるだろうから、言わないよ。
 というか、よくお前に飽きられずに、今も続いていると思う。
 付き合い始めて、お前から誘われるデートには遅刻ばかりしていたよな、俺。
 前の日から、何かヘマをして嫌われたらって気が気じゃなかったんだ。服装も色々と友達に聞いて、お前の隣に並んでもおかしく見えないように気を使えば、当日は寝癖で髪がはねまくって、それを直していたら思いっきり遅刻だ。
 本末転倒もいいところだ。猿でも、もう少し賢く立ち回れるだろうに。
 そんなことの繰り返しでも、お前は変わらずにいてくれたから、俺は心のどこかで安心してしまったのかも知れない。
 だから、俺は何も気づかずにいた。
 両親の離婚話が深刻化して、誰にも悩みを打ち明けずに一人で我慢していたなんて、気づいてやれなくて、ごめんな。
 ――両親が離婚しそうなの、どうしようか?
 深刻にならないように明るくこぼされた、お前からの打ち明け話。
 ――それがどうした?
 俺は深く考えずに、軽く笑いながら返していた。
 短絡思考もいいところだ。両親が別れても、お前はお前だって、何も変わらないなんて思っていた。転校するなんて可能性、全く考えていなかったんだ。
 だからあの日――お前がこの町から出て行くことになった日。
『わたし、これから電車で遠くへ行くの。もうあなたとは会えないから、別れましょう』
 お前から切り出された別れ話に、俺がどんなに青くなったか、想像つくか?
 とうとう愛想尽かされたかと思った。しょうがないと、諦めようとした。
 端から、俺はお前に相応しくなかったんだろうって思い込もうとした。
 だって、気の利いた言葉一つも言えないダサい男なんだ、俺は。お前に相応しい男は、山ほどいるだろ?
 …………でも、それでも。
 やっぱり、俺はお前のことが諦めきれなくて、走っていた。
 あの時だけは、遅刻せずに間に合った。それで今まで取り繕ってきた、俺のかっこ悪いところを見せてしまったけれど。
 今、遠く離れても変わらずにお前の声が聞けるのなら、そう悪いことでもなかったさ。
『あ、除夜の鐘が鳴っている』
 お前の声が耳朶に触れて、間が空く。その隙間に響く鐘の音。俺も自然と耳を済ませいた。
「――こっちも、鳴っているな。そういえば、近所の寺は鐘を打たせてくれるらしい。来年、行こうか?」
 俺たちの志望する大学は、付き合い始める前から一緒だった。目指す先が同じだったから、必然、趣向も似ていたのかもしれない。
 流石に進路まで、お前のお袋さんが口出すことはないらしいから、二人揃って合格すれば、また同じ学校に通える。
 そうしたら来年は、一緒に除夜の鐘を突きに行って、そのまま初詣に参るのも悪くはない。ああ、でも真夜中に女の子を連れまわすのは非常識か?
 何も考えずにそう口にしてしまった俺の言葉に、電話の向こうでお前が驚いたように息を呑む。
 鐘の音が響く間を置いて、
『アキラから何か誘われるのって、初めてね』
 ――アキラ、と。お前が俺の名前を口にして、笑った。
 明るい笑い声を耳にして、お前の笑っている姿を思い出して、俺も口元を緩める。
「そうか?」
『そうよ。いつも、わたしが誘っていたわ……だから』
「――え?」
『嬉しい。行きたい』
「ああ、行こうぜ」
 名前を呼ばれることに慣れることも、俺がお前の名前を「マミ」と照れずに呼べるようになるのにも、時間が掛かった。
 本気で、俺は男としてどうかと思うよ。全く、リード出来ていない。
 だけど俺はさ、来年の大晦日はお前と一緒に過ごしたいって思うんだ。
 いや、来年だけじゃない、再来年も。その次も。
 今は、声しか繋がっていないけれど。
 変わらない想いはここに在るから――ずっと、続いて行くと信じられるから。
『……八、七、六』
 電話の向こうで唐突に始まったカウントダウン。新しい一年が、もう目の前までやって来ている。
 実際に、年が変わったところで日常が劇的に変わるわけじゃない。
 今日も明日も、俺とお前の間にある距離は変わらない。ただ、同じ空を見上げて、声を繋げることしかできない。
 でも一緒に年明けを迎えた思い出は、二人の中で共通の記憶として刻まれる。
 それはきっと、これからの二人へ繋がっていく、大事な一歩だ。
『――新年、明けましておめでとう』
 お前の声がゆっくりと俺の中に染みて、改めて思う。
「明けましておめでとう――マミ。今年も、いや、来年も再来年もずっと、これからもよろしく」
『――はい、こちらこそ』
 柔らかく響くお前の声に、星空の下、お前の笑った顔が見えた気がしたのはきっと、夢じゃない。
 ――そうだろ?


                           「あけ星 完」



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