あや星 明るい緑を淡く溶かし、深緑の闇に筆を下ろして、星屑のように散らした。 周りの暗澹たる闇色に侵蝕されながらも、淡い光は降り注ぐ。 折り重なる木の葉が作り出したのは、静謐な闇。森閑たる聖域。 誰も踏み入ることを許さない闇の底には、茨に羽を傷つけた小鳥が一匹横たわっていた。 痛みに飛び立てない小鳥は、闇の中で孤独に啼いている。 絶望が色をなした深淵の底へ、届けと願いこぼした緑の光。 僕がその色に込めた想いの意味なんて、君はきっと知らない。 今この瞬間まで、僕の名前すら知らなかったように。 「――サイ?」 無機質な声が僕の名を口にした。 ガラスを打ち鳴らしたかのような澄んだ声。透明で綺麗なんだけど、鋭く尖っていた。 意志が強そうなつり上がり気味の目元。目鼻立ちがクッキリした端整な顔立ち。一言で言ってしまえば、美人。 スパッと、潔く切り揃えたストレートの髪は染色されて血のように赤く、ブラウスの襟元は第二ボタンまで大胆に解放され、制服のリボンタイは付けられていない。 三年生の君がつけるべき、赤いリボン。僕と同学年の証の赤い色。リボンタイ、ネクタイは学年ごとに色が違う。それは在籍する学年を一目で見分けるものだから、着用は絶対だった――明らかな校則違反。 「不良」というレッテルを貼られて、あえてそれを演じているかのように、君は周りに対して尖っていた。乱暴な口を利いて、誰ともつるまず、教師にも媚を売らない。逆に喧嘩を売る。 世界中が全て敵だというように、自らの周囲に張り巡らせた茨の棘。その奥から鋭利な視線で、僕を睨み刺す。 「だから、何?」 激烈な眼差しを前にして、僕は用意していた二の句を喉に詰まらせてしまった。 ――君が好きです、と。 告げるはずの僕の声は、喉の奥で凍りついた。 「……あの、僕は……」 僕の名前は「サイ」と呼んで、「彩」と書く。 だから、字を見ただけの場合は、大抵の人が僕を女の子に間違える。 「アヤ」ちゃん――と。 小学校の頃は、その名前が原因でよく苛められた。 当時の僕はまだ身体も小さくて、母さん似だったために、外見からも女の子に間違えられることがままあった。 『アヤちゃん、アヤちゃん』と、周りの子供たちが僕を嘲笑う。 アヤと呼ばれるのは嫌だった。けれど「彩」という名前は、嫌いじゃなかった。 色彩の――サイ。それが僕の名前の由来。 両親はどちらも絵を描くことが好きで、母さんは近所の子達を相手に絵画教室を開くような人だったから、僕に名付けられたこの名前には、二人が色彩に対して強い思い入れがあることを実感する。 色がなければ、紙は白いまま。絵は色彩によって、様々に描かれる。 とても大事なもの。 そんな両親に育てられたせいなのか、僕は絵を描くのが好きだった。 物心ついたときから、クレヨンを握って、絵を描いた。 大きくなるにつれて、色々な画材を手にするようになったけれど。 一番好きなのは水彩絵の具だ。 水に溶ける不純物。だけど、溶けた絵の具は紙の上で透明に、色を重ねる。 溶かし具合で、透明度は様々に変わる。 濃く、淡く。深く、浅く。その変化が好きだった。 一つのチューブから出したはずなのに、紙の上に筆をのせれば同じ色なんて、どこにもない。色彩は無限に増えていく。 その魅力に取り付かれたのは、小学生のとき。 周りがベタベタと紙に絵の具を擦り付ける中で、僕は紙に絵の具を滲ませた。 筆に水をたっぷり含ませて、色を付ける。紙に染みこむ水分に、絵の具がじわじわと広がっていく。 少しずつ少しずつ周りの色を取り込んで、曖昧になる境界線。 小学校で行われたスケッチ会。郊外にある歴史施設公園は、別の学区の小学校も同じようにスケッチ会を開いていた。 辺りを見回せばあちらこちらで、同年代の子供たちが一心不乱に絵を描いていた。ときに、画板を抱えて、他人の絵を覗き見ては、自分の絵と比べてみる。 厚塗りの絵が多い中で僕が描いた色彩は目立った。 紙の質感を残したまま、一面は青。だけど、濃く、淡く。水の量を調整し、色を重ね作り出したグラデーション。 改心の思いで作り出した青空を、皆は手抜きだと笑った。 『アヤちゃん、何だよ、それー』 僕は自分が何か、重大な間違いをおかしてしまった様な気がして、反論できなかった。 一生懸命考えて、色を作って、選んで。 綺麗だと思った空を描いたんだけど……。 『アヤちゃん、アヤちゃん』と、嘲笑交じりの声が僕を侮蔑する。 微かな悪意に気がついて、俯いた僕の背中に、声が掛けられた。 『その絵、綺麗ね』 振り返れば、見知らぬ女の子がいた。同じ学校の生徒じゃないことは直ぐにわかる。スケッチ会の日は、上着に体操服を着用していたから――汚れてもいいようにという配慮と、教師が生徒を区別するためだったんだろう。 その子も体操服を着ていたけれど、胸元には隣町の小学校の校章がプリントされていた。 長い髪は少し赤い。くっきりとした目元の印象から、何だか意志が強そうな感じがした。 同い年だと思うんだけど、その子は妙に大人びて見えた。目鼻立ちがハッキリしていた、とても綺麗な子だったから、余計そう見えた。 小学生の頃は、男の子より女の子の方が成長は早い。 僕なんて、目に見えて背が伸び始めたのは中三になってからだ。その一年で十五センチも伸びたときは、さすがにビックリしたけれど。 スッと背筋を伸ばして、女の子は僕の絵を見据えて言った。 『とっても、綺麗だね。アタシ、好きよ』 そして、僕を見て笑った。 眩しい太陽のような笑顔を目にしたときから、僕は自分の絵が好きになった。 そして、君を――好きになった。 名前も知らない君への想いを抱え、月日を重ねて、僕は中学生になった。 同じ中学校に進んだかもしれないと、中学の入学式で君を探したけれど、残念ながら君はいなかった。どうやら、君は別の学区の中学に進んだらしい。 僕の初恋は淡いままに終るらしい、と。 中学の三年間は絵を描くことに没頭した。君がいなくても、僕はやっぱり絵を描くのが好きだった。 芸術家になりたいとか、絵を描く仕事に就きたいとか、そんなことは全然考えていなくて。 ただ一生、僕は絵を描き続けるんだろうなと、漠然と思っていた。 そうして僕は先生が薦めるままに、県内の進学校に進学した。どこでも良かったんだ。絵が描けるのなら。 別に専門的な知識が欲しかったわけじゃないから、美術部に席を置いて、好きなときに好きな絵を描ければ良かった。 高校に入ったその翌日に、僕は美術部に入部したよ。 美術室は裏庭に面した校舎の一階にあった。裏庭には桜の木をはじめとして春の花が咲き乱れ、彩り豊かな色彩が創作意欲をかきたてた。 美術室をこの位置に配置してくれた創設者に――この場合は設計者?――感謝しつつ、僕はスケッチブックを開く。 6B鉛筆の柔らかい芯で、桜の枝木の陰影を紙に写し取る。紙を滑る鉛筆の音。 モノクロで描く春の季節。 他の美術部員は誰もいない室内で――先輩たちは新入部員獲得のために、生徒会が開く新入生歓迎会で、部をどのように紹介するかと美術準備室で頭をつき合わせていたから――僕は一人、何枚もスケッチを重ねた。 すると、桜の木に近づいてくる女の子がいた。 その横顔を見た瞬間の衝撃なんて、君は当然知らないだろう。 幼い頃の面影を残しながら、さらに綺麗になった君を見つけた僕は思わず、手にしていた鉛筆を取り落としてしまった。 床に転がる鉛筆を慌てて拾って身を起こせば、ガラス窓の向こうに君がいた。 声をかければ届く距離に君がいた。 そよ風に踊る赤みがかった長い髪。真珠色したキメ細やかな白い肌。顎を僅かに上向けて、桜を見上げる瞳の煌めき。 僕はただ君のその姿を自分の中に刻み込むのに忙しく、声を発することが出来なかった。 君が桜に優しく笑いかけて、立ち去る。後姿が別の校舎の影に消えるまで、僕は瞬きすら忘れていた。 ――君がいた。君にまた会えた。 その日は嬉しくて、眠れなかった。 次の日から、僕の視線はそわそわと君を探し始めた。 君のクラスは、僕のクラスとは違う校舎に入っていて――この学校は、縦割り交流を重視していて、一年生の教室の隣に三年生の教室があるという、変則的な教室配置だった――偶然に会うということは、広い校内では期待できそうにないと知ったときは、心底ガッカリした。 それでも、全校集会などでは、君を見つけることが出来た。 君の少し赤い髪は、悲しいことに目立った。 ――そう、君は目立つ女の子だった。 その少し赤い髪も、目鼻立ちが整った綺麗過ぎる顔立ちも。 意志の強そうな目元の印象は、そのまま君の性格を現していて。 それは思わぬ形で、君を傷つけることになった。 君に言い寄る男は多くて。だけど、君は誰も相手にしなかった。 わずらわしいと言いたげに、冷たい目で男たちを跳ね除けた。付け入る隙のない潔癖さは、男たちには生意気に見えたんだろう。 入学して三ヵ月が経つ頃、梅雨空の陰鬱さに触発されたように、君を中傷する陰険な噂が立ち始めた。 会話の端に、君の素行の悪さを確証も成しに口にする。 内容は喫煙、援助交際、果ては――麻薬。 馬鹿馬鹿しいにも程がある。クスリやタバコをやっている子があんなに綺麗な肌をしているわけ、ないじゃないか。 そんなもの誰も信じるわけないと、僕は楽観していた。 だけど、悪意は君を「不良」にした。 根も葉もない噂は大きくなって、教師の耳にも届くようになった。 生徒指導の先生が君を呼び出し、君の赤い髪を校則違反だと決め付けた。 君の少し赤みがかった髪は、子供の頃から変わらない。きっと、生まれつきの髪色だ。 当然、君は抗議しただろう。でも、誰も耳を傾けなかった。だって、彼らにとって君は「不良」だったんだ。 それだけでも君を十分に傷つけただろうに、周りはまだ君を放って置かなかった。 君を決定的に変えてしまったのは、僕らが一年生の秋に起こったあの事件だ。 教育実習に来ていた大学生が、君を強引に手に入れようとした。 君は危険を察知し悲鳴を上げて、助けを呼んだ。幸いに、未遂に終ったけれど。あろうことか、その大学生は君に「陥れられたんだ」と、主張した。 そして、誰もが君ではなく大学生の主張に耳を傾けた。 教師陣は全て、君の敵に回った。彼らにとって、君は「不良」だったから。 結果、無実の罪で君は謹慎処分を受けた。冤罪であることは、直ぐにわかった。その大学生は、どうしようもない奴で、他の女の子にも強引に迫っていたことが、学校の外から聞こえてきたんだ。 でも、教師陣は君の謹慎処分を解いても、君に謝ることはなかったと聞く。 どれだけ、君の心は傷ついただろう? 僕には想像するしか出来ないけれど、長かった髪を切って、本当に真っ赤に染めた行為は、君なりの教師たちへの抗議であり、宣戦布告だったと思う。 君は、その日から自分以外の全てを敵と見なした。 誰も近寄らせない態度は、ますます君を孤立させた。 囁かれる君への中傷の内容はさらに酷くなり、そこに語られる君は暴君さながら。それを耳にするたびに、僕は心が痛んだ。 だって僕は、君がそんな人じゃないことを知っている。 あれは二年生の春だった。僕は少し前からぐずらせていた風邪を悪化させてしまったらしく、具合が悪くなって授業を中退し、保健室へ向かっているときだった。 その途中で、僕は授業をボイコットした君を見つけた。君のそういう行為には、教師たちも黙認することにしたらしい。あの一件での、君への後ろめたさもあったんだろうね。 君は裏庭を望む廊下の窓辺に、一人で佇んでいた。 横顔を見て、僕は直ぐにわかったよ。君の寂しさを。 声を掛けたかったけれど、具合が本当に悪くて、僕の足元はふらついていた。 視界が眩んで、気がついたときには僕は意識を失って、倒れていた。 僕が倒れていることを保健の先生に報せてくれたのは君だったと、後で聞かされた。 中傷に囁かれるような非道で冷血漢な君だったなら、僕のことなんてどうでも良かったはずだ。でも、君は僕を助けてくれた。 子供の頃も、『アヤちゃん』とはやし立てられて、泣きそうになっていた僕を助けてくれたんだよね? 君はとっても真っ直ぐだから。真っ直ぐすぎるから。周りは君を扱いかねて、悪者に仕立てたけれど。 君はどこまでも優しい子だと、僕は信じられた。 君のために、僕は何が出来るだろう? せめてクラスが近かったら、君の周りで悪口が囁かされたなら、飛んでいって否定してやるのに。 僕と君との距離は、悲しいくらいに遠かった。どれだけ願っても、僕と君との距離は縮まらなかった。 君の教室に足を運んでみたけれど、君は休み時間には姿を隠していた。きっと、教室には居辛かったんだろうね。 僕は、君が好きだと言ってくれた絵を描くことにした。 暗闇の中で啼いている小鳥。羽が傷ついて、もう飛べないと啼いている。 ――でも、独りぼっちじゃないよ、と。 願いを込めて、闇の中にこぼした光。 ――諦めないで欲しい。 僕は君を知っている。どれだけ周りの悪意が、君の姿を歪んで伝えても、僕の目には虚像ではなく本当の君しか映らないから。 太陽のように眩い笑顔。桜を見上げて優しく微笑んだ笑顔。寂しげな横顔。 君が僕に気づいてくれたら、僕はいつだって君を迎えに行くから。 君を想って描いた絵は、君の目に届くようにと、コンクールへ出展した。 それまでにも、何度かコンクールはあったけれど、僕は自分の絵が描ければ良かったから、今まで参加することはなかった。 僕がコンクールに出展すると言ったら、周りは皆驚いていたっけ。 絵は、秋のコンクールでそこそこに良い賞を貰った。学校側に請われて、僕の絵を校内に飾ることになったときは、当然反対なんてしなかったよ。 君の目に一瞬でも映ることを、僕は願っていたんだからね。 飾られた絵を、僕は何度か見に行った。自分の絵を自分で眺めるなんて、ナルシストだと思われるかな? けど、君が好きだと言ってくれた幼い頃から、僕の絵は僕にとっての宝物になったんだ。 冬が過ぎて、春が来た。 君と再会したあの日から数えること、三度目の桜の季節。 そうして今日、僕は廊下で君が僕の絵を眺めているところを見つけた。 ジッと絵を見つめている君の横顔に、僕は立ち止まる。長い睫を震わせた透明な雫が、君の頬をこぼれるのを見つめた。 闇にこぼした光が――君の元へと届いた。 僕は確信した。 今しかないと、声を掛けようとした瞬間、君は僕に気づく。 目を眇めて、僕を睨みつけると、踵を返して立ち去ろうとする。 ――待って。 僕は慌てて、追いかけた。廊下を折れたところで、君の手を捕まえる。 「――あのっ! 僕は、サイって言いますっ!」 もっと気の利いた言葉を口にしていたら、君の反応は違っていたかもしれない。 「――サイ?」 僕の手を払って振り返った君は、無機質な尖った声で言ったんだ。 「だから、何?」 絵の下に貼られたネームプレートには、僕の名前が「彩」と刻まれている。 けれど、その「彩」と「サイ」を結びつけるのは、僕を知らない人間には無理だろう。大抵の人間は、「彩」を女の子だと思うから。 僕がどんなに君の事を知っていても……君は僕の事を知らない。 僕が昔、君に助けられた『アヤちゃん』だっていうことも、君には想像がつかないだろうね。 幼い頃の面影を残した君と違って、僕はあまりにも様変わりしすぎた。 どうしたら、君の敵意を解くことが出来るだろう? 「……あの、僕は……」 言葉に詰まる。ただでさえ、君は男に対して良い印象なんてないだろうから、一つ間違えば、完全に嫌われてしまう。 君に好きだと、たった一言伝えること――それがこんなに難しいだなんて、思っても見なかった。 黙ってしまった僕を睨んで、君は「用がないなら、関わらないで」と、冷たく声を発した。誰にも期待しないと、凍えた声が言外に告げている。 君の声が僕の中に冷たく染みてくる。眩しかった太陽は、完全に凍ってしまった。 沢山の悪意に傷つけられて――君は暗闇に沈む。 何か、言わなければと。心は焦るけれど、声が出てこない。 「――これが、お前が好きだって言っていた絵か?」 僕と君との狭間で重たく下りた沈黙に、不意に割って入ってきた声があった。 曲がった廊下の向こう側。絵が飾られている辺りだ。 君の視線がその声に向かう。僕も釣られて、絵を振り返っていた。 絵の前には二人の男女がいた。男の子の方は、新入生かな? 真新しいブレザーがまだ身体に馴染んでいない感じがした。女の子は男の子の少し後ろに立って、彼と絵を見守っている。その横顔を僕は知っていた。 ――あ、セイカさんだ。 女の子は、僕のクラスメイトのセイカさんだった。頭が良く、礼儀正しくて、君と同じぐらいに綺麗で、男子に人気の女の子だ。 セイカさんとは二年のときからクラスが一緒で、波長があうというのかな。あまり異性を感じさせずに、話が出来る相手だった。 それは僕には君という想う人がいて、セイカさんにも他に想う人がいたからなんだろう。 君とセイカさんの、何が違うのか、僕にはわからない。二人とも、真っ直ぐな性格をしていると僕には見えるから。 セイカさんも君と同じように、男たちに言い寄られていた。そうして、誰一人として、彼女をゲットできた男はいなかった。普通なら、君と同じくお高く留まっていると、中傷されるだろうけれど、セイカさんには悪い噂が立つことはなかった。 多分、セイカさんに振られた男には「言い訳」出来る余地があったからだろう。 セイカさんには好きな相手がいた。彼女はその相手を諦めるつもりはない、と。キッパリと言っていた。 誰か好きな相手がいるのなら、振られてもしょうがないと、男たちは自分自身に言い訳が出来たから、セイカさんに悪意を持つことはなかったんだろう。 でも、君の場合は言い訳の余地も残さず、男たちを切って捨てたから、振られた男たちは自分を慰めるために、君を悪者にするしか、なかったのかもしれない。 どっちにしても、男たちの都合だ。 君とセイカさんの対応の、どちらが正しかったかなんて、誰にも判じられるはずはなく。 君が悪意に晒される理由なんてないはずなのに、君とセイカさんは全くの違う位置に置かれている。 君は、そんなセイカさんをズルイと思ったりするのかな? だけどね、セイカさんなら君のこと、ちゃんと、わかってくれるんじゃないかなって思うんだよ。 この間、僕のクラス内で君の悪い噂を口にしていた女子がいたんだ。思わず立ち上がりかけた僕だったんだけど、セイカさんがやんわりと、その子たちを注意してくれたんだよ。 セイカさんは割りと真面目な方だから、君の校則違反の格好には驚くと思うけれど。君が強くて優しい子だってこと、きっと、気づいてくれるよ。 そして、君もセイカさんのことを妬んだりしないよね。そういう子じゃないこと、僕は知っている。 君に彼女を紹介したいな。 君が切り捨てた世界も、そんなに悪いものばかりじゃないってこと。知って欲しい。 「――セイカが優しい絵だって言うから、明るい絵を想像していたけど。何か、暗くないか?」 そう言いながら男の子は片眉を吊り上げて、セイカさんを振り返った。 ――優しい絵。 その言葉が嬉しい。思わず唇が緩むのを自覚すれば、君の横顔も微笑んでいた。 目を見開く僕に気がついて、君は唇を慌てて結び直した。そのまま、君は立ち去ってしまうかと心配したけれど、セイカさんと男の子が気になるらしい。 君は僕との距離を僅かながらに広げながらも、この場に留まった。 そして、僕からそっぽを向くように顔をそらして、セイカさんたちへと視線を投げる。 さっきの笑顔――僕の絵が褒められたことを喜んでくれたの? 「確かに色合いは暗いけれど。ねぇ、この木漏れ日の光とか。小鳥を励ますようで、優しく見えないかな?」 セイカさんは軽く腕を持ち上げて、説明する。 深緑の闇に星屑のように散らした木漏れ日。 どれだけ闇が深くても、羽が傷ついて飛べなくても。 光はいつも、君の傍に――。 願いを込めたその色を、ちゃんと理解してくれている人がいる。 それは君にも伝わっていると、信じていいよね? 君の優しい微笑みは、僕の絵に向けてのものだよね? 「――ああ、そう言われてみれば。へぇ、絵ってさ。見方で色々と感じ方が変わってくるんだな? 俺って、身体動かす方ばっかりで、こっち系はよくわかんねぇけど。セイカの言っていた意味はわかった気がする」 男の子はセイカさんに楽しそうに笑いかけた。 セイカさんも嬉しそうに、男の子に笑顔を返す。 ――そっか。セイカさんの好きな男の子って、彼なんだ。上手く行っているんだね。 そう確信できる空気が二人からは伝わってきた。 「これ、描いたの……」 男の子は絵の下のネームプレートを覗きこむ。 「やっぱり、女か。何となく、そんな雰囲気がしたけれど」 「違うよ、ツキヤ君。これは男の子が描いたんだよ。「彩」って書いてあるけれど、「サイ」君って呼ぶの」 「知り合いか?」 「友達なの。見た目は絵の印象とは違って、男の子しているけれど、性格はこの絵みたいに優しい人だよ」 「……男」 ツキヤ君と呼ばれた彼は、ちょっとだけ複雑そうな顔を見せた。もしかして、ヤキモチかな? セイカさんはそんなツキヤ君に気づいた風でもなく――セイカさんはよく気配りがつく女の子だけど、自分に向けられる感情に対しては、ちょっと鈍感だったりする――言った。 「今度、サイ君をツキヤ君にも紹介するね」 やっぱり、ツキヤ君は複雑そうな表情で頷きながら言った。 「……うん、まあ、それはいいけど……。あのさ、そいつ……もしかして、お前のことを好きだったりしないのか?」 「えっ? それはないよ。サイ君はずっと好きな人がいるんだって。この絵もね、その好きな人を想って描いたんだって、言っていたよ」 セイカさんがあの絵を好きだと言ってくれたときに、何気に話した一言を、彼女はちゃんと受け止めてくれていた。 「それを聞いたら、何だかますます、この絵が好きになったの。ツキヤ君にも、見せたいと思ったの。私が好きなもの、全部。知って欲しかったから」 セイカさんの気持ちは、僕にはよくわかる。やっぱり、波長があうのかな? 僕も君に知って欲しいことが沢山ある。 君が絶望した世界にも、まだいいものがあることを。教えたい、見せたい。 「……お前、時々、本当に大胆になるよな? そんなセリフ、普通は恥ずかしくて言えないだろ」 「そうかな?」 「そうだよ。参るよ、お前には」 ツキヤ君は苦笑しながら、「降参だ」というようなポーズを取った。 「それで? 次はどこに案内してくれるんだ? お前の好きそうな場所って、図書室あたりなんじゃねぇの?」 「あ、うん。図書室は、こっちなんだ」 セイカさんは思い出したように来た道を戻り始めて、ツキヤ君は慌てて追いかける。 「マジで、図書室かよ」 二人の声が足音ともに遠ざかる。声が聞こえなくなっても、二人の笑い顔が想像できた。 全く無関係なはずなのに、何故か、ホンワカとした気持ちになってしまう。 あんな風に、君と言葉を交わせたら――それは凄く、凄く、幸せだろうな。 僕が君へと目を向ければ、君もまた僕を見上げていた。 その瞳には、ついさっきまであった刺々しさはなく、どこか縋るような熱があった。 君は呟いて、再び絵のほうに目を向けた。 「あの絵……最初嫌いだった」 「……えっ?」 「まるで、晒されているみたいだった。アタシは泣くに泣けないの。泣いたら、アタシが悪かったことを認めるみたいじゃない? アタシは何一つ、悪いことなんてしていないわ。もし、怒られるようなことをしたのなら、それはこの赤い髪だけど。本当に怒られるようなことをしたら……今度は、放任よ。ねぇ、あの人達にとって、何が悪いことなの?」 「…………」 「地毛の赤毛を染めたモノだって、認めればよかったの? アタシが教生を誘惑したって認めればよかったの? 吸ったこともないタバコを吸ったって、言えばよかったの? アタシは何もしていないのに?」 君の瞳から涙がこぼれる。 「そんなの認められるわけない。だから、泣きたくないの。泣いたら駄目なの。……でも、本当はずっと、泣きたかった。アタシは……アタシが否定されることを容認できるほど、強くはないのよ」 君は手のひらで顔を覆って、続ける。 「でも、それを認めるほど弱くもなかったから、影で泣いたの。一人で泣いていたの」 「……うん」 今まで誰にも弱音を吐くことなんて、出来なかったんだね。 君の言葉は途切れることなく紡がれる。 心の内側に溜め込んでいた孤独の叫び。傷の痛み。 泣き震える切実な声が、君の心を伝えてくる。 「あの絵は、そんなアタシの影の部分を暴いているように見えたの。隠していた部分を見透かされた気がした。アタシ、怒ったわ。何でこんな風に、暴くのよって。人目に晒さないでよって……」 ――でも、と。君は瞳を上げて僕を見た。 「同時にこの絵を描いた人なら、本当のアタシを見つけてくれると思ったの。泣いているアタシに優しくしてくれるんじゃないかって思ったとき、あの光に気がついたわ」 「……うん」 「さっきの女の子が言っていたように、光がアタシを励ましてくれているように見えたの」 「君のために描いたんだ」 僕が告げると、君は涙に濡れた顔を微かに歪めた。 「――彩って……てっきり、女の子だと思っていた」 「よく女の子に間違えられるんだ。子供の頃も『アヤちゃん』って呼ばれて、苛められたよ」 「……アヤちゃん」 君はあの日のことを覚えている? 覚えていなかったら、昔話を聞いて欲しい。 とても素敵な女の子がいたことを話すから。 「苛められていたところをね、違う学校の女の子が助けてくれた。その子は少しだけ髪が赤い、綺麗な女の子だった。彼女は、僕の絵を『綺麗』だって言ってくれた。……僕はね、あの日から、ずっとその女の子が好きで――今でも好きで」 そっと手を伸ばした僕の手が、君の手に触れる。 今度は振り払われずに、二人の影が一つに繋がった。 「そのことを――君に伝えたかった。例え、世間が君をどんなに悪く言おうと、僕はあの日の君を知っている。君は優しい子。僕は――」 昔と変わらない君が好きだよ――と、そっと囁けば。 孤独に啼いていた小鳥は、嬉しそうに微笑んだ。 「あや星 完」 |