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 終章 再会の裏で


 ――パン、と。
 頬を打ち叩かれた音に、ディードは思わず目を瞑った。
 自分が叩かれたわけではないが、その音の大きさに痛みの程度を思えば、かなり痛かっただろうと推測する。
 ソロリと目を見開いて、隣を仰ぎ見れば、叩かれた頬が赤く染まっていた。その際、爪が引っ掛かったのだろうか、みみず腫れになった線が三本あった。その傷を痛そうに撫でて、ギバリーは拳を握った相手を見つめた。
 彼の眼前には、憤然とした表情で肩を怒らせている女性がいた。年の頃はギバリーより幾つか年下に見える。
 客を迎えるためか、贅をかけたと見られる絹のドレスには、レースがふんだんにあしらわれていた。白金色の髪に飾られた宝冠。瞳と同じ翡翠で飾ったチョーカー。
 豪奢に着飾っているせいもあるか、女の美醜に対して興味のないディードの目にも、かなり美人に映った。
 ……緑色の瞳の印象か、ジズリーズの女装した姿に似ている気がする。
 しかし、彼女はその手で大の男を殴りつけた――叩いた。
 フォレスト王国の外交大使という名目を掲げて現れたギバリーに、暴行行為に走る人間がいるとは考えていなかった。
 四方を海に囲まれたバーネル国。鎖国的状況が続いていたこの国は、近年王位継承の際のトラブルを乗り越え、新王を抱いて新たな国づくりを推し進めているという。そこで必要としているのは、この新王体制を侵略することなく支援してくれる大国だった。
 そこへ名乗りを上げたフォレスト王国の使者ギバリーが、過去バーネル国において働いた罪を責めたくても、公然と断罪するなんてことは――いや、よくよく考えれば、新王体制の下でギバリーの罪を問うことが出来る人間なんていないだろう。彼の働きがあってこそ、正当な王位継承者が晴れて王位に就くことが出来たのだから。
 そこまで思い至って、ディードは口を開く。
「オイ、何だって……」
 言葉は途中で途切れた。拳を握った女が、翡翠色の瞳からポロポロと涙を滴らせているのだ。
「――はあ?」
 思わず、現状を疑るような声がディードの喉を突いて出た。何で殴られた人間ではなく、殴った相手が泣くんだ?
 これだから、女心なんてわかんねぇだよ、と。
 ディードは口を挟むことを止めた。勝手にやってくれ、だ。
 そもそも、どうして自分がここにいるのか。
 ギバリーとは反対の隣を振り向けば、ジズリーズが涼しげな顔で笑っている。
 何でも、王弟は国王との間で賭けをしていたらしい。国王が国内視察に出かけている間に、一連の事件を収束していたら、褒美に海外旅行を許すと。
 そうして、その旅行はジズリーズとギバリーを大使にして、外交へといつの間にやら話が大きくなっていた。
 こうなってくると、宮廷魔法師もそれなりの人材を派遣しなければならない。というわけで、ディードとロベルトがそれぞれ二人の護衛任務に――正確に言えば、二人をこの国に魔法でもって連れてくる役に――つくこととなった。
 ジズリーズの後方では、ロベルトが殴られたギバリーを前にして、息を呑んでいた。
 虐待された経験を持つロベルトにしてみれば、こんな痴話喧嘩の行為でも見ていて気持ちのよいものではないのかもしれない。
 ――全く、これが国と国の大事な会見の現場かよ?
 バーネル国側でも、このやり取りに戸惑ったような表情が浮かんでいる。こちらの様子を伺うように投げられる視線が頬に感じられた。中にはこの二人の再会に涙ぐんでいる者もいるようだ。
 嘆息を吐きつつディードがギバリーを見やれば、彼が一歩前に出るところだった。
「――ベス」
 そう、彼は呼びかける。それは愛称か。
 ギバリーを殴った相手こそがバーネル国の女王ベアトリスだった。
「手紙一つ寄越さないでっ!」
 バンと、女王は手加減なしでギバリーの胸を叩く。
「――心配したんだからっ!」
「ごめん――ベス」
 胸元に顔をうずめる女王の肩に手をやって、抱きかかえるようにしながらギバリーは謝った。
「ずっと、いつ便りが来るだろうって、待っていたのよ?」
 バンと、また拳がギバリーを叩く。上体がその反動で揺らぐ。本気で、手加減なしだ。
 ギバリーが故郷を離れてどれぐらいになるのか、それは知らない。しかし、やきもきして彼の安否を気遣っていたことを差し引けば、これぐらいのことは当然だろうか。
 何にしても、ギバリーの想いは一方通行というわけではなかったようだ。
 セイラ辺りがこの話を聞けば……また何か、やらかしそうだな、と。
 ディードはややうんざりしながら、目の前の状況を見守る。
「恋する乙女の味方なの」と公言する姫君は、女王と怪盗の恋愛話を耳にすれば、周囲の思惑など無視して奔走しそうだ。過去を上げればキリがない実例がある。
 現在もディアーナのルシアへの恋慕を聞かされて、ルシアにその気はないのか? と、迫っている。職務に生真面目なルシアは、今は他に気を回す余裕はない、と言っては困り顔でいた。あまり感情が面に出ないルシアだから、本気で困っているのだろう。
 ただでさえ、ルシアはブルーバード事件の事後処理に忙しい。
 世間的にはディアーナがブルーバードを騙ったことも、ギバリーを捕まえたことも、内密にしなければならない。それでいて、国民には安心を与えなければならないのだから。
 一応、ディアーナの証言によって、ギバリーがブルーバードのアジトとして用意していた――その辺りは、勿論内緒だ――住居を押さえ、ルシアはブルーバードから盗品を取り返したことになっている。
 しかし、肝心の犯人を取り逃がしてしまった――その犯人を王家が匿ったなど、公表できない。真相に近い情報を得ているフロミネルの治安管理官とその助手の方は、カラが手を回して口外しないように密約を取り付けた――という筋書きを世間に浸透させながら、もう泥棒被害は心配する必要はないことを証明しなければならないのだ。
 ルシアの苦労は並大抵のことでは済まされない。
 恋愛にかまけている暇などあるはずもないだろう。
 男女の仲を取り持つのを一種の趣味にしているカズも、ディアーナの思い込みの激しさを認識しただけに、今回はルシア側の援護に回っていが、セイラはそんな劣勢にあっても勢いが衰える気配はない。
 そんな厄介なセイラに、土産話にしても、この話は絶対に出来ないな――と、二人から目をそらせば、ディードの目にやはり楽しそうに笑っているジズリーズが映った。
 ――ジズの奴、最初から知っていたんじゃないか?
 女王と怪盗が恋仲であること。
「……ジズ、お前さ」
 ハタリと思い当たって、ディードはその可能性を問い質してみる。
「もしかして、この二人のこと知っていたんじゃねぇか?」
「知っていたとは?」
 何のことかと、とぼけたように小首を傾げるジズリーズに、ディードは疑惑を確信に変えた。
「だから、ギバリーのことだよ」
 ギバリーが書いた小説を恋文だと言い切ったからには、彼の気持ちをジズリーズは当然承知だった。
 セイラのようにギバリーの恋を応援しようなどと考えるほど、ジズリーズは恋愛面に置いて積極的な思考の主ではないことは、ディードも承知している。
 しかし、面白そうだと言っては公式スケジュールを軽く無視して元宮廷騎士に会いに行く、臣下の迷惑を顧みず他人を振り回す国王ジルビアの弟である。
 そして、恋に悩む乙女がいれば、貴族令嬢の駆け落ちに手を貸すようなセイラの兄でもある。
「……絶対、知っていただろうっ!」
 ディードは思わず叫んでいた。
 謁見の間に集まった人々の目がこちらを向くのを感じるが、構うかっ!
 国王に賭けを持ち出した際に、ジズリーズは文通だけでは飽きが来たと言っていたらしい――となれば、その文通相手がこの国の人間である可能性は大いにありえる。でなければ、会話に「文通」という言葉が出ることはなかったのではないか?
 ディードは、考えることを苦手にしながらも、推理することを止められなかった。
 頭を悩ます必要もなく、答えが見えるのだから止められない。
 何しろ、ジズリーズは、ジルビアの弟でありセイラの兄であるのだからっ! そうして、進んで女装するような人間なのだ。
 文通相手の手紙に記されていたバーネル国の現状がしたためられていただろう。ジズリーズが文通をするのは、諸外国の現状を把握するためであるのだから。
 だとすれば、ジズリーズは最初から、「ブルーバード」がバーネルの人間であることを承知していたことになる。そして、その小説を書いたギバリーが、「ブルーバード」本人だと言うことが直ぐにわかったならば、小説が恋文であることを見抜いていたことから、ギバリーが「ブルーバード」として奔走する理由も承知していた。
 全ては推測だが、恐らくは事実なのだろう。
 そうなのだとしたら、ルシアたち騎士団を動かす以前に、「ブルーバード」との取り引きは十分に可能だったことになる。
 勿論、バーネル国の支援ともなれば、ジズリーズ個人の一存では出来ることに限りがあるだろう。故に、より多くの人間を巻き込み、「ブルーバード」の価値を認めさせる必要があったわけだ。
 そうして……。
 ジズリーズは自らが持っている有益な情報を手の内側に隠して、ルシアたちを巻き込んだ。
 いや、正確に言えば、踊らされたのだ。ルシアもディードも、ブルーバードさえも。
 これらの事実に表情が険しくなるディードを前にしても、王弟は怯むことなく微笑んで、エメラルドグリーンの瞳をギバリーと女王ベアトリスへと差し向けた。
 ディードの声に感動の再会に水を差された二人は、周りに人間が居たことを思い出した様子で少し赤い顔をしていた。
 そんな二人に向かって、ジズリーズは告げた。
「ベアトリス様、お約束のものをお届けに参りました」
 その一言で、ディードは理解した。ジズリーズの文通相手が、ベアトリス本人だということに。
「……へ?」
 ギバリーがマヌケな顔で、ジズリーズと女王を見比べる。二人の間にある接点なんて、想像もつかないだろう。王弟が文通を趣味にしていることは、王宮関係者は承知しているのだが。
「但し、今回は顔見せだけです。彼を貴方にお渡しするのは、暫くはお待ち頂きたい。ギバリー殿には、我が国で働いてもらいますからね。ですが、それに我慢して下ったのなら、ご褒美を差し上げますよ」
「褒美?」
 困惑したように女王は首を傾げる。彼女の手はしっかりとギバリーの服を掴み、離したくないようだった。
 それと同じように、ジズリーズも手にした「ブルーバード」という優秀な間者を手放す気はないようだ。さらにギバリーのやる気を出させるが如く、言葉を募る。
「ええ、フォレスト王国の貴族の称号。これがあれば、ギバリー殿も大手を振って、こちらの女王様にプロポーズすることも可能でしょう?」
 王弟がニッコリと微笑めば、女王とギバリーは顔を真っ赤に染めた。
 いかに女王に近しい人間だったとは言え、ギバリーには現在、バーネルでの身分がない。今、フォレスト王国の大使と言う名目があるからこそ、この王宮にも立ち入ることが出来るような現状。
 女王がギバリーを欲しがるのなら、これは是が非でも「ブルーバード」にがんばってもらわねばならないだろう。
「その話、乗らせてもらいます」
 間髪入れずに女王が告げれば、ジズリーズは承知したように頷いた。
「ええ、そういうわけですからがんばってくださいね、ギバリー殿」
「……は、はあ」
 戸惑うギバリーを目の端に捉え、ディードは頭痛を覚えた。これはセイラが思いっきり好みそうな展開ではないか?
 兄弟思いのジズリーズが、妹が喜びそうな筋書きを選んでいるのを、ディードは実感した。そういう理由で動くこともまたジズリーズならありえることだった。認めたくないが、そうしてディードは王族兄弟に振り回されてきたのだ。
「……団長。貴族の称号なんて……」
 簡単に与えられるものなんですが? と、ロベルトが小声で尋ねてきた。宮廷魔法師になったことで、ロベルトは貴族階級位を貰っている。しかし、それは一代限りのもので、魔法の権威を守るための処置だった。
「簡単じゃないだろ?」
 ジズリーズがあげると、ひと言言ったところで、簡単に与えられるものではない。そうして、貴族が増えていったら、権威も何もあったものじゃない。
 与えるに相応しい働きを認められて、ジズリーズの提言が受け入れられる。
 ――認められなければならない。
 バーネル国を支援するための方便と一緒だ。
 とにかく、大勢の人間を巻き込んで、その必要性を説いてみせる。
 ジズリーズの口の巧みさはディードも知っているところなので、恐らく数年後、ギバリーは予言通りこの国へ帰ってくることになるだろう。ギバリーとしても、認められることでこの場所に帰ることが許されるのなら、それこそ馬車馬のように働くだろう。
 ――フォレスト王国のために。
 結局、何だかんだといいつつ、王弟の思惑通りに計画は進み、全てはジズリーズの手の中。
 思わず睨みつけるディードの視線を受けて、ジズリーズはイタズラを成功させたように微笑んだ。
「素敵なハッピーエンドでしょう?」



           「ブルーバード事件 〜青い鳥は君のために歌う〜 完」


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