ひびき星 私が口にした言葉が、貴方の中でどれだけ残酷に響いたのか。 ――私は何も知らなかった。 「急に呼び出して、何よ?」 待ち合わせの場所に先に来ていたそいつを目にすると、自分の顔が不機嫌に歪むのがわかった。 私の表情の変化を面白がるように、そいつは唇の端を持ち上げる。 成長期中間の背丈は、それほど高いわけではなく。顔立ちも取り立てて美形というわけでもない――かといって、全然、駄目っていうわけでもない。 元気を合言葉にしているかのような明るい表情で、常に人の輪の中心にいたそいつは、中学時代から女子に異様にモテていた。 サッカーが巧かったから? 後輩の面倒をよく見るその性格から? ただ柱に背中を預けて突っ立っているだけなのに。格好だって、ジーンズにTシャツというシンプルな装いなのに。 やたらと目を惹く華やかさをそいつ――ツキヤは持っていた。 朝方、急にケイタイが鳴ったかと思ったら、クラスメイトのツキヤが前置きもなく言って来たのだ。 『十時までに、駅の三番ホームに来い』 『――はぁ? 何よ、急に』 私が戸惑いながら問い返した言葉に、ツキヤは素っ気なく返してきた。 『――来なかったら後悔する、それだけだ。じゃあな』 口を挟む隙もなく、通話は一方的に断ち切られる。無言になったケイタイを前に、私は唖然となった。 それが今日の朝の出来事。 人の予定なんて、全くお構いなしの通達。 ちょっと、デートの予定があったらどうするつもり? ――なんて、文句を言いたいところだけれど。生憎と、そんな予定は一向になし。 一応、付き合って十ヶ月近くになろうかという彼氏はいるんだけれど。そんな相手とはこの三ヶ月、音信不通。自然消滅は目前って感じ? そんな中、ツキヤからの誘い電話に――誘いなのか、疑問だけれど――ノコノコと出てきたのは、別にツキヤに気があったわけじゃない。第一にツキヤには、とびっきり美人の彼女がいるのよ。 ツキヤとは中学時代からの知り合いだ。この春、県内の進学校に同じように入学して、またクラスメイトとなった。 だけど、ケイタイで連絡を取り合うような間柄とは言いがたい。 ツキヤはさっきも言ったように、モテていた。 中学二年生でツキヤとは同じクラスになったけれど、その頃からツキヤのモテぶりは圧巻だった。 バレンタインに貰うチョコレートの数なんて、両手両足の指じゃ足りやしない。 クラスの女子の中にも、ツキヤに好意を抱いている子が何人かいた。一見、恋愛なんて無関係と装っていた女の子が、密かにツキヤを好きでいたことにも、気がついた。 周りはライバルだらけ。そんな男を好きになったら、とてもじゃないけど身が持たない。第一に、ツキヤはそれだけの女の子たちに好かれながら、一向に誰かと付き合う様子がなかった。 恋愛に興味なんてない、単なるサッカー馬鹿なのだ――と。 私はツキヤの良さを認める前に、恋愛対象から外した。 その頃は、私自身もまだ、恋愛だとかいったものに興味なんてなかったし。 特に親しかったわけでもないツキヤは、私にとってクラスメイト以外の何者でもなかった。 私が初めて恋愛を意識したのは、中三になってから。 受験生となって、進路について教師たちが口うるさくなってきた頃だった。 進路希望調査書に志望校を書き込むクラスメイトたちを尻目に、私は用紙を白紙のまま提出していた。 未来なんてまだ漠然としているのに、まだ十四年の人生経験しかないのに、何を元にして未来を決めろというのだろう? それでも、周りは確実に白い用紙を埋めていく。 取り残されていることを自覚すれば、気持ちは揺れた。 心を揺らす小波は次第に大きくなって、荒れていく。嵐の渦中で方向を見失えば、自分の全てが間違っているような気がしてくるから不思議だった。一向に見えてこない未来に、私は苛立ちを募らせる。 教師の、親の、言葉一つ一つがうるさくってしょうがなかった。 説教なんてするくらいなら、勝手に進路を決めてよ。 自分で決めなさいなんて、普段は子ども扱いするくせに、こんなところで自主性を求めないで、と。 鬱屈した感情が積もりに積もってある日、私の口から投げやりの言葉を吐き出させた。 『あー、もう、死んじゃいたい』 周りに居た友達たちは軽く笑った。それはきっと、冗談だって、わかっていたから。 死にたい、死ね、なんて。今じゃ、実に安易に口にされる言葉だ。 そこに潜む重たい意味なんて、口にしている本人らは何も理解しちゃいない。 だって、死は量産されている。 テレビで、マンガで、小説で、ゲームで。 カッコよく死んでいくキャラたち、無様に死んでいくキャラたち。 それを語ることによって、私たちは死というものを理解した気になっていた。 でも違う。 死にたい――イコール――面倒臭い。 それが私たちの根底にあった形。 ただただ、『死にたい』という言葉は、逃げの表現の一つでしかなかった。 死ぬということ、生きるということを理解した気でいたけれど、何もわかっていなかった。 逃げることと、終ることは、違うのだということ。 逃げても引き返せるけれど、終らせてしまった命は、二度とやり直しが利かないということをわかっていなかったから、私は簡単に『死にたい』なんて、口にできた。 そんな私の背後で、ゴホンと咳払いが一つ響いた。わざとらしいその音に、振り返った視線の先に――貴方がいた。 華奢な身体つきに青白い肌色。健康的という言葉とは縁遠い感じから、今しがたの咳払いも本物ではないかと疑わせる、病的な印象。 痩せた面差しに、銀縁フレームの眼鏡がやたらと似合う線の細い貴方は、私を見つめると言った。 『そういうことは、冗談でも言わないで欲しい。ハッキリ言って、聞いている方が痛いから』 声変わりを迎えたばかりらしい掠れた声で告げると、貴方は少しだけ悲しそうに目を伏せて、踵を返す。 教室を出て行く痩せた背中を目で追いかける私の耳に、友達たちの声が無遠慮に貴方を詰った。 『なに、あれ。何であんなガリ勉に指図されなきゃなんないっての』 貴方のことは、ガリ勉と一部で揶揄されていた。 普段目立たない貴方は気がつけばいつだって、参考書片手に勉強していたから。 小耳に挟んだ話だと、貴方は医者志望らしい。テストの成績はいつも上位で、進学校に合格するのは当然と噂されていた。 その反面、体育や学校行事には不参加。春先に行われた体育祭の日に、貴方は図書室で一人勉強していた姿を目撃されている。修学旅行も貴方は参加していなかった。 そんなにお勉強が大事なのかと、旅行が終って中学生生活のお楽しみイベントがもう幾つもない故に、受験を意識せざるをえなくなった教室で、貴方に対する悪意は増幅していく。 友達の声に混じった侮蔑を片耳にしながら、だけど、私は別のことを思っていた。 ――真面目に生きているんだ、と。 貴方が口にした言葉に対して、感じたの。 その日から、私にとって貴方は不思議な存在だった。 何となく目で追いかけていれば、夏を過ぎた頃から貴方の傍にツキヤがいた。 私が実際に、ツキヤと親しくなったのは貴方を介して。ツキヤは貴方の友達だった。 「――お前さ、キョウから、連絡あったか?」 思い出にふけっていた私の意識をツキヤの声が、現実に引き戻す。 顔を上げれば、ツキヤは小首を傾げて私を見ていた。 ――キョウ。それは貴方の名前。 「響」という名前を、「キョウ」という音を、私の中で響かせたのも、あの日、ツキヤが最初だった。 それまで私は貴方の名前を知らなかった。ただありふれた姓だけが貴方の全てだった。それはその他大勢と何も変わらない。 貴方を見ていたけれど、私と貴方の関係は結局のところ、クラスメイトというありふれたものだった。 でも、ツキヤの一言がきっかけだった。 『――キョウ、ここの問いなんだけど』 放課後の誰もいなくなった教室の片隅で、ツキヤが貴方に質問していた。 夏の強い日差しの記憶が薄れ始め、本格的に受験モードに突入しだした頃のことだ。 私はまだ進路希望を白紙で出す日が続いていて、担任に呼び出されることもしばしばだった。その日も、放課後に呼び出されて、進路指導を受けていた。 うんざりしながら教室に戻ったところで、ツキヤの声を聞いた。 貴方の名前が私の中で、初めて音として響いた。その音に引かれて、視線を移せば貴方とツキヤを見つけた。 ガリ勉とスポーツマン、タイプが全く違う二人。 それまで貴方たち二人に接点があったようには見えなかった。 ツキヤはクラスの中心にいて、貴方は影が薄く、教室の片隅でひっそりとしていた。 意外な組み合わせに――これがツキヤだけ、貴方だけという状況だったら、私もさして意識せず、鞄を持ってそのまま帰っていただろうけど――ちょっと驚く私に、貴方が気づいた。 手にしていた参考書から顔を上げると、眼鏡のレンズ越しに目を細める。穏やかなその眼差しに、私の胸はトクンと鳴っていた。 あの日の一件で、私は貴方に軽蔑されているような気がしていたから、こちらに向けられた視線に、一欠けらもマイナス感情がないことが嬉しかった。 『――お疲れ様』 労わるような声で、貴方はそう口にした。 緩く解かれた口元に浮かぶ笑みはどこまでも穏やかで、周りが貴方に対して創り上げた神経質そうだという偶像は、私の中で即座に破壊された。 それにしても――私、よっぽど疲れた顔をしていたのかしら? 貴方の声に気がついて、ツキヤもまた問題集から顔を上げた。 『何をしているの?』 ここで無視するのも変だと思ったから、ゆっくりと二人へ近づき、私は問う。 『見テ、ワカリマセンカ? オ勉強デスよ』 まるで日本語覚えたての外国人みたいなカタコト口調で、ツキヤは肩を竦めた。 そう言うツキヤの成績はさほど悪いわけじゃなかった。上の下といったところ。 つまり、スポーツも勉強も出来るということ。顔立ちもそんなに悪いわけじゃない。 ツキヤは女の子たちが憧れるものを持っていた。 それがモテる要因? ツキヤの魅力については、私には相変わらず理解不能。乙女失格? 何にしても、よほどハイレベルな高校を目指すのでもなければ、ツキヤが受験に神経質になる必要なんてないと思う。 釈然としないツキヤの行動に、首を傾げた私。貴方が見かねて説明してくれた。 『ツキヤ、県立を志望するつもりらしいよ』 口元に穏やかな笑みを浮かべて、貴方が口にした高校の名は、県内トップクラスの進学校だ。医者志望の貴方が進学を希望するなら、当然狙うだろう高校。 でも、ツキヤがその高校へ進学するというのは、ピンと来なかった。 成績の問題もあるけれど――さすがに、そのレベルになればツキヤの成績じゃあ厳しいかもしれない――彼はサッカー部のエースだった。 進学校のそこは、文化部は割りと名が通っているけれど、運動部のレベルはお世辞にも良いとは言えない。 『――えっ?』 私が思わず目を瞬かせると、ツキヤは不機嫌そうに唇を尖らせて、こちらを睨んで来た。 『何で、皆して、そういう反応するんだよ? アタマに来るな』 『――だって、サッカーは?』 ツキヤのサッカーの実力は、県選抜のメンバーに選ばれるほどだった。私立の方から、推薦入試の話が来るだろうともっぱら噂されている。県外からもお声が掛かりそうな感じだ。 それを蹴って、合格ラインが不確かな高校を選ぶ? 何だか、凄い冒険のように思えるのだけど? 『サッカーはどこでだって、出来るだろ? 言っておくけど、俺はサッカーを止めるつもりはないぜ。ただ、チームを選ぶつもりもないってだけ』 ツキヤが胸を張って偉そうに口にしたセリフに、貴方は声を被せた。 『その学校にね。ツキヤの好きな子が、いるらしいよ』 クスクスと柔らかく響く笑い声に、ツキヤが眉を跳ね上げる。 『――キョウ、お前な。俺のこと、馬鹿にしてるだろ?』 『違うよ、羨ましがっているだけさ』 貴方はツキヤから私に視線を移動させて、頬を傾けた。 『――そういうのも、悪くないよね』 同意を求めるように言ってくる言葉に、私は反射的に頷いていた。 少なくとも、私のように迷っていない。幾つもの選択肢の中から、ツキヤは自分の道を自分で決めた。それは凄いことだと思う。その動機が、女の子だというのはちょっと驚かされるけど。 というか、好きな子って――。 それって、ツキヤに憧れている女の子たちは皆、失恋? ……ちょっと、可哀相ね。そう思ったわ。まだ私には、恋なんてものがよくわかっていなかったけれど。 『キョウはどうなんだよ? 好きな女はいねぇのか?』 私の前で随分とあけすけな会話が展開される。それは恐らく、ツキヤの反撃。自分の秘密をばらされたことに怒って、意地悪をしているんだとわかった。 この展開で本音を晒さないのは、明らかにズルイと思う。 ツキヤは私を味方につけることで、貴方の秘密に迫ろうとした。 私たち二人の視線を受けて、貴方はため息をこぼすように苦笑した。 『僕はツキヤみたいにはモテないから、そういった浮いた話は全くないよ』 『そりゃ他人側の話だろ? 俺が聞いているのは、お前側』 『――だから。ツキヤと違って、僕なんかに好かれても女の子としても迷惑だろうって話だよ、ねぇ?』 貴方は私に再び、同意を求めてきた。 クラスの女子の間で交わされている貴方への評価。 貴方はそれを知っていたのね? ――ガリ勉、神経質、影が薄い。 あまり好印象を抱かない言葉ばかりが、貴方を語っていた。 でも――。 『そんなことないっ!』 私は大声で否定していた。頭で考えるより、声が先に出ていた。 貴方はとても真面目に生きている人。 『死にたい』という私が安易に口にした冗談を流せずに、自らの痛みに変えてしまうほどに、命に対して真正面から向き合っている人。 だから、医者志望なのね。その夢に向って真っ直ぐ進むから、周りには誤解されてしまっているけれど。 貴方は穏やかに、誤解を受け入れた。 きっと、他の誰よりも大人だったから。 『本当の貴方を知れば、誰だって好きになるわ。そう――好きになるわよ、私みたいに貴方のことを……えっ? ――好き?』 自分の口から出た『好き』という言葉に、我に返る。 一拍遅れて自分の気持ちを自覚し、顔が真っ赤になるのを実感した。 言葉を探して、口をパクパクさせたら――もう金魚になった気分。 ちょっ、ちょっと待って、今のナシにしない? これじゃあ、告白しているのと同じだわ。 そう慌てふためく私の目に、ニヤニヤと笑っているツキヤが映った。 な、何、笑っているのよっ? バカ、バカ、最低っ! やっぱり、私にはツキヤに憧れる女の子の気持ちがわからない。大体、ツキヤが余計なことを言うからっ! 心の中でツキヤを罵倒しながら、私は逃げ出したくなっていた。 告白するつもりじゃなかったのに。というか、自覚したばかりの気持ちなのに、もう決着つけなきゃいけないの? どう考えたって、私の一方通行だと思った。だって、そういう『浮いた話はない』って、貴方が口にしたばかりだったんだから。 言い訳したかったけれど、動揺のあまり声が出なかった。 もう本当に、傍から見れば金魚みたいだったでしょうね。 きっと私の顔は真っ赤で――気持ちなんてバレバレに違いない。 ねぇ、バレているんでしょ? と、半分泣きながら、貴方の反応を伺う私。 貴方はレンズの奥で目を瞬かせると、私の視線を受け止めて、 『――ありがとう』 はにかむように微笑んだ。 それが私と貴方の始まり。 いわゆる『友達から』って感じだったのかしら? それでも、日を重ねるごとに恋人らしくなっていったと、私は思っていたけれど……。 ――今、私の隣に貴方はいない。 「何もないわ――この三ヶ月、全くもって、音信不通よ。もう忘れ去られているのかも」 現実に返って、私はツキヤの問いに憮然と返す。 今年の春、私たちの三人は無事に、同じ学校に進学を決めた。 貴方と付き合うようになって、私は貴方の傍にいたいと思ったから、志望校を貴方と同じにした。 成績はそんなに問題じゃなかった――選択肢がありすぎたから、進路に迷っていたのよ。 そうして、散々悩んでいたのが馬鹿らしく思えるほど簡単に、私はツキヤと同じ選択をした。 だけどね、その瞬間は間違った選択だとは思わなかったわ。 貴方の夢の邪魔をするのではなく、一緒に歩いていけたらと思ったのよ。 でも、入学早々、貴方は休学届けを学校側に提出した。 前々から、計画していたという『留学』を口にしたのは、出発の前日。丁度、三ヶ月前のこと。 目を見張った私に、貴方はいつもの穏やかな顔で言った。 『必ず帰って来るから、待っていて』――って。 待っていると確信しているような、口調。 私は貴方が好きで――だから、何があっても待っている、と。 見透かされた気がしたけれど、反論なんて出来やしなかった。 あの告白とも言えない告白から、貴方の気持ちがどれだけ私に傾いてくれたのか、わからない。もしかしたら、貴方はまだ私のことを友達としてしか、想ってくれていないのかもしれない。 でも、私は変わらずに貴方を好きでいたから。 三ヶ月間、放っておかれても――それでも好きでいたのよ。 いつか捨てられるんじゃないかって、ビクビクして。 終るなら終ってもいいと思っていて……だけど、ツキヤの誘いにノコノコ出てきた。 だって、ツキヤは貴方の友達。貴方のことを何か知っているんじゃないかって、期待して。 まだ変わらずに、私は待っている。 ねぇ、貴方は本当に私の元に帰ってきてくれるの? 「…………あー」 ため息交じりの声をこぼしたツキヤに、私は俯く。 ツキヤも貴方のことを知らないの? 『留学』って、そんなに忙しいものなのかしら? 今じゃ、世界はネットで繋がっている。メールの一通くらい、送れないの? 疑心暗鬼に、私の心は足場を見失う。 俯いた視線の先、ホームのコンクリートに染みる私の黒い影。それは底なし沼のように見えた。 不安というおもりを抱えた私は、沼の底へと沈んでいく。落ちていく。 ……ねぇ、私は貴方の彼女よね? 心の中で、私は縋るように貴方に問う。 あの日、『ありがとう』って、私の気持ちを受け入れてくれて。貴方の隣にいた私は、貴方にとってどれほどの存在だったのかしら? 三ヶ月間、省みなくても大丈夫だと思えるほどに、貴方と私の絆はしっかりと結ばれているの? 信じられない私が、いけないの? 貴方は何があっても、私の気持ちは変わらないと信じてくれているの? 「まあ、気軽に連絡できる環境じゃねぇからな、病院ってとこは」 ツキヤの声が私の頭上で響いた。 病院――という、場違いな単語が私の耳に入り込んでくる。 目を見開き、顔を上げる私に、ツキヤは真剣な顔を返してきた。 「――留学なんていうのは嘘さ。キョウの奴、入院していたんだよ」 「……何?」 理解できない情報が流し込まれた私の頭は、真っ白になった。 「……何を……言っているのよ? ……そんなの」 嘘だと切り捨てるには、貴方の面影はあまりにも病的で、私は声を喉の奥で詰まらせた。 痩せた身体、青白い顔色。体育の授業に一切参加していなかった貴方は……。 「心臓に欠陥があったんだよ」 私の心の準備が整わないうちから、ツキヤが答えを突き出してくる。 「放置していれば、二十歳までは生きられないだろうって、宣告されるほど重度らしい。手術すれば、完治するらしいけど。かなり難しい手術らしくってな。アイツの体力云々もあって、のびのびになっていたんだ」 長く伸ばした前髪の影で、ツキヤは眉をひそめた。 「全く、考えてもいなかったのか? ああいう性格の奴が、自分の目的のためだけに学校行事をフケたって?」 ツキヤが言う貴方の性格――真面目に生きているその姿勢。 勉強がしたいからとか、面倒だからとか、そんなありきたりな理由で片付けられない人柄を私は知っている。 「参加したくても出来なかったんだよ。修学旅行も、途中で発作なんか起こしたら大変だろ? 体育祭は言わずもがな。文化祭だって、準備は結構ハードだからな。疲労がたまったら、心臓に悪い。キョウ自身は参加したかったらしいけれど、親や教師たちが止めた。当然、準備もしなかったのに本番だけ楽しむなんて、アイツの真面目な性格じゃありえないだろ?」 だから一人で――。 「他に気を逸らさなきゃ、やってられない。だけど言い訳も出来ない。医者になるっていう目標掲げて勉強するしか、アイツには出来なかったんだよ」 苦々しく吐き捨てるツキヤを前に、私は瞳から涙をこぼした。 ツキヤの一言一言が鋭い刃となって、私の胸をえぐる。切り裂く。 ――痛烈に、残酷に。 痛みに泣くしか、私には出来なかった。 だって私は、同じことを貴方にしたの。 命の刻限を宣告された貴方の前で、私が安易に口にした『死にたい』という一言。 その言葉がどれだけ残酷であったのか、私は初めて知った。 何不自由なく生きられるのに、それを放棄しようという私は――知らずに、貴方を傷つけた。 私、酷い女だわ。貴方に放っておかれて、私だけが傷ついて、悩んでいるように錯覚していた。 だけど、私よりもずっと重たいものを貴方は抱えていて。それを愚痴ることはなかった。 「……どうして、キョウは言ってくれなかったの」 搾り出した声は震えていた。何て弱いのかしら、私。 「言えないだろ、アイツの性格なら」 他人の言葉に傷ついてしまう貴方は、自分が口にする言葉が周りに与える傷を知っている。 だから、心臓のことも言えなかったのね? 同情されるのが嫌だったんじゃない。同情させてしまう負担の方が、貴方には辛かったのよ。 痛みも辛さも、自分だけが背負っていればいいと、貴方は考えた。 「俺は小学校から、アイツとは知り合いで。アイツの心臓の欠陥は知っていた。まあ、だから、入院中の間、お前のことをキョウから頼まれた。フォローしてくれってな」 「……キョウは私のこと、嫌いじゃないの?」 「――はぁ? 何で、そんな発想になるんだよ? ……ああ、今さらこんなことを聞かされたことに腹を立てているのか? 最後まで知らなかったほうが良かったって?」 怒ったような語気と冷たいツキヤの視線の前に、私は首を横に振った。 揺れる髪が頬を打つ。痛い。けれど、もっと強い痛みが欲しかった。 私が貴方に与えた痛みは、きっとこんなものじゃなかったはず。 何も知らないで、貴方に甘えて。貴方に依存するように、私は未来を選んだ。 その存在は、重たかったんじゃないの? 投げ出してしまいたくなるほどに。遠ざけてしまいたくなるほどに。 自分自身を省みれば、貴方に嫌われてもしょうがないと思うの。 「あのな。お前にこのことを話すのは俺の判断だよ。キョウには絶対に、話すなって、言われている」 「……ツキヤ?」 「でも、俺は内緒にするなんて、約束しなかったからな」 悪びれた様子もなく、ツキヤは唇の端で笑う。深刻な話を吹き飛ばすような、快活な笑顔は中学時代、クラスの中心にあったものだ。 ああ……そっか。 この笑顔に励まされた人がいたのなら。ツキヤを慕う女の子たちの存在も、理解できる気がする。 「いいか、間違えるなよ? キョウはお前には、言うなって言ったんだ。その意味、わかるよな?」 「……どういう……こと?」 「お前、マジでわからねぇのか? 手術は難しい。ちょっとの手違いで、あの世行きだ。そんな話を聞いて、誰もが不安にならないはずがないだろ? だから、お前には言えなかった。キョウは、不安にさせたくなかったんだよ。それと同時に、お前に切られたくなかったんだよ、アイツは」 「……えっ?」 「いつ死ぬかもしれない人間と付き合うなんて、シンドイだろ。お前が、不安に疲れて、自分とは付き合っていけないと思ったらって――キョウは考えていた」 「そんなこと思うはずないっ。むしろ、捨てられるのは私のほうでしょ?」 貴方の支えにもなれなくて。残酷で、無神経で。自分だけが悲劇のヒロインのように感じていた。 こんなバカな女、うんざりするでしょ? そっと涙をこぼし続ける私に、ツキヤは少しうんざりしたように前髪を掻き上げる。 「何勘違いしているのか、わかんねぇけど。キョウがお前を捨てられるわけないだろ。生きていられるかわかんねぇ先の目標より、お前と同じ高校に進むんだっていう、目先の未来がどれだけアイツにとって、励みになったと思う?」 私が貴方と同じ道を歩いていけたらと思ったように、貴方も私との未来を考えてくれたの? ツキヤの言葉が、どこまで貴方の本心にそっているのか、私にはわからない。 けれど、ツキヤの言葉を信じてもいい? 「手術がのびのびになっていたのは、キョウの精神的な負担もあったらしい。手術をしなければ、おとなしく生きていれば、最低二十年は生きられるかもしれない。でも、手術をしても失敗したら、そこで終わりだ。十幾つのガキが決断するには重い選択だろ? アイツの親御さんはさっさと手術を受けさせたかった。いつまでも爆弾を抱えたままじゃ、手術をする前に爆発するとも限らなかったからな」 重たい運命を改めて聞かされれば、貴方が穏やかに笑っていた日々が嘘のように思える。どうして、貴方はあんなにも優しく笑えていたの? 未来なんて見えない現実の中で……。 「死にたいと思っていたのは――キョウだ」 その言葉に反射的に顔を上げれば、ツキヤは苦笑した。 貴方の穏やかな笑みは――諦めの微笑? 「アイツは未来を夢見ているようでその実、諦めていた。親や周りに気を使うバカだから、それこそ医者になるなんて大ボラを嘘に出来なくて、がむしゃらに勉強していたけれど。ホントのところ、未来に期待なんてしちゃいなかった。だから、お前が冗談で口にした「死にたい」って言葉に、キョウは反応したんだよ」 ツキヤが何でも知っているのは――貴方が話したから? 「そして、それを痛いと感じたアイツは、自分が思うほどには生きていることを諦めきれない自分も知った。キョウにとって、それこそお前は命の恩人だ」 私の「死にたい」という言葉に痛みを知って、貴方がもう一度、自分の命を見つめなおしたと言うのなら……。 私が貴方を傷つけたこと、許してもらえる? 「キョウが手術をするって決断したのも、お前がいたからだ。だから、キョウはお前に待っていろなんて言ったんだよ。絶対に、生きて帰るって――そう決めたから」 大量の涙が堰を切って、ボロボロと私の瞳から溢れ出す。 子供のようにヒックヒックと喉の奥を鳴らして、恥ずかしいくらい涙がこぼれる。 「――泣くなよ」と。 困り果てたような、苦々しいツキヤの呟きが聞こえるけれど、止まらないの。 貴方が私のために生きようと思ってくれたこと、それが嬉しいの。 さっきまで悲しくて泣いていたのに。 人って、嬉しくても涙が出るのね? でも、周囲の目が気になり始めるから――丁度、背を向けたホームに電車が滑り込んで来たから――泣き止まないと。ツキヤが可哀相よね。 目の端をゴシゴシと拭うけれど、やだ、止まらない。 「――だからさ、泣くんならキョウの前で泣けよ。ホラ、そのヒデェ面、アイツに見せてやれよ」 ツキヤの腕が動いて、私は顔を上げた。振り返ったその先、走り去る電車がまるでカーテンを捲ったかのように、向かいのホームの光景があらわになる。 そうして、電車から降りた乗客の中に、痩せた貴方の姿を見つけて私は息を呑んだ。 驚きにしゃっくりが止まって、同時に涙もピタリと止まった。 貴方が退院し、こちらに帰ってくるために乗る電車の時刻を、ツキヤは知っていた。貴方の入院を知っていたんだもの、当然、貴方と連絡を取るのは難しくなかったでしょうね。 待ち合わせの場所が変だったのも――普通なら、駅前とか、改札口とかでしょう? ――納得した。ビックリする私にツキヤの声が笑う。 「言ったろ? 来なかったら、後悔するって」 そうね。何も知らなければ、私はこれから先、貴方の気持ちをはかれずに不安に揺れ続けていただろう。そして、貴方の気持ちを信じきれずに、離れることを選ぶ日が来たかもしれない。 貴方の全てを知った今なら、私は迷わずに貴方と向き合える。 ツキヤ様のおかげって、感謝してもいいくらいよ。面倒見の良さは、後輩に限ったことではなかったのね。 「ああ、キョウに伝えてくれ。俺からの生還祝いだってな――まあ、勉強を見てもらった礼だよ」 ニッと、イタズラを成功させたかのように笑うツキヤは、ホームの向こうへ声を張り上げ、 「――キョウ!」 衆人の目も気にせずに、貴方の名前を響かせた。 貴方はツキヤの声に導かれて、こちらを振り返り、驚きに目を見開く。 きっと、少し前の私も同じ表情をしていたんだと思えば、そのマヌケ顔も愛しく思えるわ。 貴方がこちらへ来るために駅舎の階段を昇れば、私も駆け出して階段を昇る。 二つのホームを繋ぐ渡り廊下の真ん中で、私たちは三ヶ月ぶりの再会を果たした。 泣き腫らした私の顔は、さぞかし滑稽だったと思うけれど、貴方は優しく微笑んでくれた。 「――ただいま」 ねぇ、貴方が口にしたその言葉が、私の中でどれだけ尊く響いたのか。 ――貴方は知らないでしょう? 「ひびき星 完」 |