ひめ星 〜三日月の微笑〜 「お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうぞ!」 ハロウィンのお決まり言葉を口にしたアタシをテンガさん――星が好きだったお父さんの命名で「天の河」と書いて、「テンガ」と呼ぶ――は振り返ると、睨むような鋭い視線の一瞥で冷たく見つめた。 金色に染めた髪と無愛想な表情と素っ気ない態度は、接客業に向いているとは思えない。 けれど、意外と細やかな気配りをする人だから、そのギャップに驚かされる。そして、その優しさに女の子は結構弱かったりして、テンガさんはよくモテる。過去には何人もの人とお付き合いがあったらしい。 でも、長くは続かない。 元々、来るもの拒まずといったところから始まっているようなのだけれど、そこから先にテンガさんは積極的に進める気はないらしく、テンガさんの生活の中心はお家が経営している喫茶店「ベガ」に集約されていた。 「ベガ」はテンガさんの亡くなったお父さんが始めて、今はテンガさんのお兄さんであるミソラさんが――こちらは「満天」と書いて、「ミソラ」と呼ぶのだそうだ――マスターを継いでいる。 早くに亡くなったお父さんの代わりに、自分を育てて大学まで入れてくれたマスターのことをテンガさんは尊敬していて、大学生活の空いた時間はすべて「ベガ」のお手伝いにつかっているのだ。 だから、お付き合いが始まったとしても、デートもない。クリスマスなどのイベントも、商売を営むお店ではかきいれ時なので、恋人たちのイベントなんてどこ吹く風だ。それで、女の人たちはテンガさんとの付き合いを諦めちゃうらしい。 テンガさんの気持ちが、自分に向いているとは確証できないままに始まった交際なら、当然ながら自分よりお店を大事にされれば、自信は揺らぐだろう。 本当に好きになって貰えるのかなんて、彼氏彼女と呼ばれる関係になってまで、普通は悩む問題じゃないんだから。 だけど、テンガさんと付き合うということは、そういうことに悩まされる。 実際に、今現在のアタシは悩まされている。 もっとも、アタシの場合、お付き合いは「お友達」からだ。 高校に進学してから、アタシは片想いしていたテンガさんに告白した。 ハッキリ言って眼中に入っていない女の子が告白したからと言って、劇的な進展があるわけない。 アタシの決死の告白にテンガさんからの反応は、『それで?』だった。 熱のない、あまり気のなさそうな声にアタシがキョトンと視線を返せば、テンガさんは少し頬を傾けて、斜めに見下ろしてきた。 『それでヒメはどうしたいんだ?』 アタシの名前「ひめ」と名指しして、どうしたいと、問われるとは思わなかった。 中学校を卒業したばかりのアタシと大学二年生のテンガさんの間には、五歳の年の差がある。 今までの態度からみても、テンガさんがアタシを恋愛対象にして見ているとは思えなかった。 だからアタシは、とりあえず気持ちだけは伝えようと思ったの。 直ぐに振り向いて貰えなくてもいい。いつか、きっと。そう思っていたから、最初の告白で何がどうなるとは、考えてもいなかった。 だから、予想外の反応に頭が真っ白になった。 テンガさんの、今までのお付き合いの傾向をみれば、もしかしたらアタシも付き合ってもらえるかもしれないと思わなくもなかったけれど……。 本当にテンガさんにとって、女の人と付き合うことは恋愛感情の有無は必要ないのかな。 付き合っては別れてということを繰り返していた過去のことから、テンガさんには実際に元カノに対して恋愛感情なんてなかったような気がする。 断る理由がなかっただけ? それですべてが説明できそうだ。 『ええっと、お付き合いしてください!』 アタシはそう言ってみた。多分、過去にテンガさんに交際を申し込んだ女の人たちは『じゃあ、友達から?』という、あまり真剣みのない言葉に頷いたんだろう。 アタシも頷いた。 いつか、テンガさんの特別になれるように、そう信じて。 そんな決死の告白から早数ヶ月。春が過ぎて夏が終わり、駅前のイチョウ通りが黄金色に染まり始めた、秋もかなり深まった十月末日。 今宵はハロウィンという日になっても、アタシとテンガさんの関係はあまり変わっていない。 一応、周りにはアタシはテンガさんの彼女だと目されているけれど……。 デート一つしたことがない。手を繋いだこともない。好きだと言われたこともない。 過去にテンガさんとお付き合いした女の人たちと、同じ道を辿っている。 もっとも、過去の女の人たちは三ヶ月以上も続かなかったと言うから、アタシは記録を更新中だ。 それに単にアタシには何もしないだけで、過去の女の人たちとも同じように何もなかったのかは、定かじゃない。 アタシがまだ子供っぽいから、手を出してこないだけかな。 それともアタシが積極的に迫っていないからだろうか。 とはいえ、告白するのさえアタシとしてはかなり勇気のいったことだから、迫るなんてとんでもない。手ぐらい繋いで欲しいなとは思うけれど、嫌がられる気がして言い出せない。 テンガさんの素っ気ない性格からすれば、ベタベタした付き合いはあまり好きじゃなさそう。 だからと、アタシとしては友達のままで満足できないから、ちょっとだけがんばってみた。 それは他でもない、「ベガ」のアルバイトに立候補したことだ。 アルバイトとしてお店に出入りすれば、テンガさんと一緒にいられる時間が増える。 その試みの結果、家庭教師の曜日以外、アタシは「ベガ」のアルバイトをしている。 実を言うと、アルバイトは押し掛けだ。 アルバイト店員を募集していたわけじゃない。 商店街の一角で、洋食メニューが人気で評判とはいえ、そんなに店員を雇うほどにお店が広い訳じゃない。 マスターとテンガさんの二人がいれば、十分だった。 アルバイトさせて貰えないだろうかと打診したとき、テンガさんは 『必要のない人間を雇って、無駄な金を使えと?』 商魂逞しいテンガさんは、世間で言うところのケチなのかもしれないと思う。 まあ、お店のその後のために、大学で経営の勉強をしているのだから、お店の会計はテンガさんの担当だろう。無駄遣いすることなく、利益を出そうとすれば当然、アルバイトは要らないという結論に達しても、無理はない。 アタシは慌てて言い訳した。 『バイト代は要らないです!』 アルバイトの目的はお金じゃない。少しでもテンガさんの側にいたいからだ。 側にいる口実にアルバイトさせてもらえないかと、言ったにすぎない。その辺りをマスターは敏感に察してくれたみたいだったけれど、肝心のテンガさんは気づいてくれないから、戸惑う。気が利くテンガさんだから、鈍感ということはないだろう。お店の中でまで付きまとわれるのが、嫌なのかな。 本当にアタシ、テンガさんの彼女になれるのかな? と、心配になった。 一応、「お友達」として付き合い始めてから何ヶ月も経つのに、いまだにアタシは眼中に入っていない気がした……。 それでもやっぱりテンガさんが好きで、諦めきれないアタシにマスターが取り合ってくれて、お手伝いとして毎日、「ベガ」に通うことを許された。 パパとママの説得は簡単だった。二人とも仕事で忙しいから帰りは遅い。そのことに罪悪感を抱くくらいには、娘のアタシのことを大切に思ってくれているから、安心感を与えればいい。 高校生になったとはいえ、娘一人を家においておくよりは、信頼のおけるところで過ごしてくれたほうが安心できるでしょう? その一言で決まった。 パパとママのお仕事がお休みの日に「ベガ」に二人を連れていった。人が良さそうなマスターに、二人はアタシを任せても大丈夫と感じたようだった。 一応、彼女であるアタシの両親を前にしても、テンガさんは相変わらず無愛想だったけれど。 でも、風邪気味だったパパにさりげなく喉に優しい飲み物をすすめたりとかしていて、パパもママもテンガさんのことを気に入ってくれていた。 テンガさんがモテるのは、何も女の人に限った話じゃないらしい。 かくして、アタシのアルバイトは決まった。 バイト代がないかわりに、マスターとテンガさんからお仕事の合間にお料理とお菓子づくりを教えて貰うことと、パパとママへのお土産に売れ残ったケーキを貰うこと――実際のところ、テンガさんのケーキは売り切れるほど人気だ。でも、すっかり「ベガ」のファンなったパパとママのために、テンガさんがケーキをこっそり取り置きしておいてくれているのをアタシは知っている――、そして帰り道をテンガさんに送って貰うこと。 その三つが それでテンガさんとの距離が少しは縮まるかと思ったけれど、お付き合い期間は七ヶ月になろうかというのに……何も変わっていない。 「お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうぞ!」 そう繰り返したアタシにテンガさんはシラケた視線を返してくるだけ。 ゆらゆらとテーブルの上で、カボチャのランタンに灯したロウソクの火が揺れている。 ハロウィンの今日は、仮装をした子供たちには無料でお菓子が配られるという、駅前の商店街でイベントが行われた。 商店街はイベントを盛り上げるべく、どのお店もハロウィンに合わせて飾り付けをしていた。 当然ながら、「ベガ」も例外じゃない。 窓には「 骸骨の小さな模型人形やお化けのぬいぐるみがカウンターに陣取り、窓辺には黒猫のぬいぐるみが顔を覗かせ、道行く人たちの視線を「ベガ」へと誘った。 雑貨屋で買ってきたハロウィンっぽい小物を配置したのは、アタシだ。 この一週間は、膝丈の黒いワンピースドレスにとんがり帽子の魔女の格好で接客した。 ちなみに、いつもはTシャツにジーンズにスカイブルーのエプロン姿のテンガさんは、白いシャツに黒のズボン、黒のベストにリボンタイで何となく吸血鬼を演じていた。さすがにマントは接客に向かなかったの。 マスターは狼の絵柄が入ったエプロンで済ませた。厨房でのお仕事に、さすがに着ぐるみは無理だった。 『犬耳のヘアバンドなんてどうですか?』 と聞いてみたけれど、マスターのちょっと困ったような顔を見て、アタシは提案を引っ込めた。 さすがに百九十センチ以上はありそうな背丈の、二十代も後半の大人の男の人に人前で犬耳のヘアバンドは――拷問かもしれない。 ハロウィンウィークと定めたこの一週間。最終日の今日は、お店に来たお客さまには無料で、テンガさん特製のクッキーが配られた。 そんな賑やかなお祭りも終わり、閉店時間を迎えた「ベガ」の店内で、片づけをしながらアタシはちょっと呟いてみた。 「お菓子をくれなきゃ、イタズラするぞ!」 返ってきたのは冷たい視線。くだらないことを言っている暇があったら、ぬいぐるみを箱に詰めろと言いたげだ。 テンガさんの視線が横へずれて、テーブルの上に置かれた段ボール箱へと向けられる。 ぬいぐるみたちの小物は来年のハロウィンまで、箱の中でおやすみだ。 アタシは胸に抱いたそれを一つ一つ、箱の中に横たえながら、テンガさんをちらりとみれば、ロウソクの灯りを吹き消していた。その横顔にアタシは懲りずに呟いてみる。 「お菓子をくれなきゃ、イタズラするぞ!」 ちょっとくらいお遊びに付き合ってくれてもいいと思う。そんな風に考えるのはわがままかな? アタシはテンガさんとお喋りしたいだけ。なのに、テンガさんときたら告白する前もその後もお小言に似たことしか言わない。テスト期間中は早く帰れと追い立てたり、夏の間はマメに水分をとるようにとか、寒くなってからはうがいと手洗いを忘れるなとか。 それは全部、アタシを気遣ってくれていることばかりだけど、日常的な会話はあまりない。 アタシが学校では今日こんなことがあったと話せば、耳を傾けては途中、突っ込んでくれたりするけれど、お客さまがきて話が中断しても、再開を促したりしない。 アタシのこと、興味ないのかなと思ってしまう。 同時にアタシは大学でのテンガさんのことも知らない。 テンガさんのことは、マスターやテンガさんの先輩でアタシの家庭教師をしてくれている先生から教えてもらったことばかり。 例えば今日だって、テンガさんはハロウィンのことどう思っているのか気になる。 仮装を提案したときも、テンガさんは特に文句をつけることはなかった。嫌がるかなと思ったけれど、商魂逞しいテンガさんはお客さんを呼ぶためなら、仮装くらいしてもかまわなかったらしい。 でも、楽しかったのか、どうか。本音を知りたい。 テンガさんの気持ちを知りたい。 アタシのことをどう思っていますか? お友達のまま? 少しは彼女として認めてもらえていますか? アタシの魔女の仮装はどうだった? 割と可愛い魔女になれたと思うけど、それは ぶつけたい質問がいっぱいありすぎて、結局、アタシの口から出てくるのは、 「お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうぞ!」 ハロウィンのお決まり言葉だけだ。 「――お前、腹が減っているのか?」 片眉をひそめて、テンガさんはアタシを見つめ返してくる。 「ち、違います」 今日は確かにお客さまが多くて、よく働いたけれど! もう。アタシはテンガさんに構って欲しいだけなのに、テンガさんは全然わかってくれない。 アタシは少しだけ唇を尖らせると、頬を膨らませて言った。 「イタズラしても、いいですか?」 お菓子をくれないのなら、イタズラ決定だ。 「何をするってんだ?」 テンガさんはここでようやく片づけの手を止めた。テーブルの縁に腰を預けて、腕組みしてアタシを見つめ返してくる。 テンガさんの鋭い視線にアタシは慌てた。テンガさんとお喋りをしたくて話を振ってみたけれど、どんな風に会話を繋いでいけばいいんだろう? 「ええっと……」 イタズラが思いつかない。どうしたら、テンガさんの表情を崩せるかな? テンガさんの顔を見つめて考える。ヘの字に折れ曲がった唇が笑うこともあるけれど、そんなときは三日月みたいに、片側の口の端がつり上がた微笑が多い。本人にそのつもりはないと思うけれど、少し皮肉めいて意地悪そうに見える。 テンガさんの唇を見つめて、アタシは口を開いた。 「例えば、キスしたり……」 するりと口から漏れ出た言葉に、口にしたアタシ自身が驚いた。 会話の流れから冗談と受け止められるだろうけれど、大胆にも程がある。 思わず頬を染めるアタシにテンガさんは言った。 「キスするのがイタズラかよ。何だ? お前はキスがしたいのか?」 テンガさんの問いにアタシは戸惑った。 キスしたいのかな? 自分の思考と向き合ってみると、まだ早いような気がした。大体、恋人同士らしい会話すら成立できていないのに、関係だけが先に進んだって、何だか虚しい。 ただ、アタシは……。 アタシはテンガさんとの距離を縮めたい。テンガさんにアタシを好きになって貰いたい。 そして、それは形よりもまずは気持ちで応えて欲しい。 例えば、テンガさんの方からアタシにキスをしたいと思うような……。それにはアタシの努力がまだ足りないのかな? 中学生の頃から胸の内に秘められていたアタシの想いが、告白という形で開花してからは毎日毎日、テンガさんが好きだって、気持ちは訴えているのに。 テンガさんには届いていない。 もっと言葉にしなきゃダメ? 「好きです」って、日課のように繰り返さなきゃ、テンガさんには効果がないのかもしれない。 「アタシ……テンガさんが好きです」 思い切って、テンガさんに告げる。告白してからこちら、改めて「好き」という気持ちを言葉にすることはなかった。 そんな当たり前のこと、もう既に知っているはずだから。知られているはずだから。 だから「お友達」からでも、付き合って貰えることになった。アタシはテンガさんの彼女になれた気がしていたけれど……。 テンガさんにとってアタシは、「お友達」のままなのかもしれない。 だから「キス」したくないのかな。手を握ってもくれないのかな。デートに誘ってくれないのかな。 今までの女の人たちと同じように、アタシが諦めるのを待っているの? 告白の後の沈黙に、何となく息詰まりになってアタシは俯いた。 どうしてテンガさんは、何も言ってくれないのだろう? 嫌いじゃないのなら、少しはそういう言葉を返して欲しい。テンガさんは口下手というわけじゃない。ただ、ぶっきらぼうだから、一見すると無愛想に見えるだけ。 アタシが欲しい言葉をテンガさんが口にしないのは、与える義理がないから? 「これ、持って帰れ」 不意にテンガさんが差し出してきたものをアタシは手のひらで受け取った。黒猫のぬいぐるみがちょこんと鎮座して、アタシを見上げてくる。 「……えっ?」 「お前が持っていろよ。それで来年のハロウィンの飾りつけをするときになったら、貸せ」 「それって……」 アタシにこの子をくれるということ? テンガさんは雑貨屋でハロウィンの小道具を買う時、アタシがこのぬいぐるみを気に入って「アタシも一つ買おうかな」と、こっそり呟いていたのを知っていたんだ。残念ながらぬいぐるみはこの子が一体だけで、買えずに終わった。 「貰っていいんですか」 「要らないのなら、返せ」 アタシの問いにテンガさんは相変わらず愛想のない態度で、素っ気ない声を返してくる。 それはいつものこと。いつものことだけど……。 「要ります! 返さないもん!」 アタシは黒猫を胸に抱いて、子供みたいに駄々をこねる。 だって、テンガさんから形のあるものを貰ったのは初めてだ。 お菓子は今までに貰ったことはあるけれど、それはアタシのなかで甘く溶けて、記念として残すことはできない。 でも、このぬいぐるみは、今日という日の記念になるものだ。 アタシはこの子を見るたびに、今日のことを思い出す。そして、このぬいぐるみを買いに二人で雑貨屋に出掛けたことも。 思えば、あの買い物も、デートと言えばデートのように思える。 毎日、テンガさんがアタシを家まで送ってくれる帰り道も、傍から見れば仲の良いカップルに見えなくもない。 ……あ、何だ……。 アタシは気付いた。色々なことを求め過ぎて、アタシは大事なことを見落としていた。 ちゃんと、アタシはテンガさんの傍にいる。 一年前には想像できなかった距離に、アタシはテンガさんに近づいている。そういう風に近づくことをテンガさんは許してくれている。 「大事にします。この子にテンガさんの名前を付けて、毎晩、抱いて寝ます」 「それは止めろ」 テンガさんは心底、嫌そうに顔を顰めた。テンガさんの崩れたポーカーフェイスに、アタシはくすりと笑って、心のなかで決めた。 黒猫の名前は、「テンガさん」に決まりだ。家に帰ったら、パパとママに「テンガさん」を紹介しよう。 「お前、何か企んでるだろ?」 テンガさんが睨みつけるのをアタシは素知らぬふりをして、小首を傾げた。 「何のことですか?」 「それがお前の言うイタズラか?」 「えー、なんのことだが、わかりませんー」 「頭の中身が入っていない女子高生のような口を利くな」 テンガさんはさりげなく毒を吐く。口が悪いから誤解されるのに。 でも、アタシはテンガさんが凄く優しいことを知っているから、もう迷わない。 アタシはこれからもテンガさんが許してくれる限り、傍にいる。 もっともっと好きになって、そしてテンガさんにもいつか同じくらい、アタシを好きになって貰うのだと、心に決めた。 そんなアタシにテンガさんが「帰るぞ」と、ぶっきらぼうに言って、カウンターに置いていた白い箱を取ると、こちらに差し出してきた。 それはアタシのささやかなバイト代。パパとママ、そしてアタシの分もちゃんと入れてくれているケーキのお土産だった。 なかのケーキが崩れないように慎重に受け取るアタシに、突如としてテンガさんが言った。 「 「えっ?」 瞬きして、間抜けな顔を返すアタシにテンガさんが一歩近づいてきた。 「イタズラ、決定」 直ぐ傍で、テンガさんの声が聞こえたと思った瞬間、アタシの唇にテンガさんの唇が触れた。 それは刹那の触れ合いで、アタシがその事実を理解したときには、テンガさんはコートを着込んでいた。 「……イタズラ?」 アタシは茫然と呟く。 今、イタズラで「キス」されたんだろうか? 「そう思うなら、そう思えば」 テンガさんはアタシのコートを差し出しながら言った。 いつも余裕ありげな皮肉な笑みを浮かべているテンガさんの唇は、真っ直ぐに結ばれていて笑っていない。 真面目な顔のテンガさんを見て、アタシは泣きそうになった。 「イタズラじゃないもん。違いますよね?」 「それはお前が決めろ」 「どうして?」 「オレは何もしてやれねぇだろ?」 「えっ?」 「だから、お前が止めたきゃ、いつでも止めていい。選択肢はお前にくれてやる」 何を? というのは、問わなくてもわかる。 テンガさんは「彼女」に構ったりしない。 「ベガ」が大事だから、恋人らしい時間もイベントも。 多分、恋する女の子たちが欲しいと思うものをテンガさんは「あげられない」。何もしてやれない。 「好き」とかいう言葉を返してくれないのは、その言葉で縛りつけてしまうのを知っているから……。 テンガさんは「好き」とは言ってくれない。言えない。 言ったら、気持ちを知っていて、それでもテンガさんの事情を理解しない女の人たちが、悪者になってしまう。 ……だから、「友達から」なんだ。 友達のままに終わるか、彼女に昇格できるか、それはテンガさんが決めることじゃない。 アタシが決めることなんだ。 さっきのキスをイタズラだと認めてしまえば、アタシはテンガさんの気持ちを知らないことで終わる。 テンガさんとの付き合いに気持ちが続かなくて、別れることになっても、悪いのは「彼女」にまったく構わなかったテンガさんになる。 見かけによらず優しいテンガさんは、自分が悪者になるためにこれから先も「好き」とは言ってくれないかもしれない。 諦めるか、続けるか。 その選択肢の答えを決めるのをテンガさんはアタシの権利として認めてくれた。 アタシはさっき、自分の唇に触れたテンガさんの唇の熱を思い出す。 優しい人がイタズラで、好きでもない女の子に、キスをしたりするはずがない。 テンガさんは告白したときから、ちゃんとアタシの気持ちを知ってくれていた。傍に近づくことを許してくれた。 そして、アタシが出す答えを受け止めてくれることを決めているから、距離を縮めて、キスしてくれたんだ。 「……そんなのズルイです」 「ズルイか? 優しいの、間違いじゃねぇの?」 「ズルイです。だって、アタシがテンガさんを嫌いになるはずないもの。恩着せがましいです」 「……お前も、なかなか言うな」 テンガさんの唇の端が持ち上がる。三日月のような微笑。きっと、こんなテンガさんの笑顔を惹き出せた女の子は今までいなかっただろう。 テンガさんは今までずっと待っていたのかもしれない。自分の事情を知って、それでも傍にいたいと思う女の子が現われることを。 現われたら……テンガさんは、決めていたのかな? その子を好きになろう――と。 ならば、アタシを好きになってください。 そうしてくれたら、アタシはもっともっと、テンガさんを好きになるから。 「当たり前です。だってアタシはテンガさんの彼女だもん」 「……あー、はいはい。そうですか」 テンガさんは気のない返事をしながら「行くぞ」と手を差し出してきた。 アタシは迷うことなくその手に自分の手のひらを重ねて、笑顔を返す。 「アタシ、テンガさんが好きです」 「お前、趣味が悪いな」 「そんなことないもん!」 アタシは抗議の声を上げた。テンガさんは三日月の微笑で、アタシを振り返った。 繋いだ手のひらが優しく包んでくれるから、アタシのなかに咲いた花は、これから先いつまでも綺麗に咲き続けるだろう。 「ひめ星 〜三日月の微笑〜 完」 |