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 姫君の仰せのままに

 女装騎士は罠を仕掛ける・前編


 全く、冗談じゃない――と。
 僕はこめかみを締め付ける、花飾りのついたヘッドドレスが引き起す痛みに、顔をしかめながら心の中で毒づく。
 頭痛の種はそればかりではないけれど、今すぐに許されるならば、頭にのっかっているくるくるした、縦巻きロールの金髪カツラを捨てたい。次に、足周りにまとわりつくスカートを脱ぎ捨てたいし、胸を膨らませるための詰め物も、くずかごの中に放り捨てたい。脇腹から腰を締め付けるコルセットも外したい。宝石を縫い込んだ華奢なハイヒールも――宝石は頂いておこう――絹のストッキングも。
 ああ、顔に塗りたくられた白粉やら、頬紅、口紅も洗い流せたら、どんなに素晴らしいだろう。
 今の僕にその自由を許してくれるのなら、金貨百枚をくれてやってもいい。
 もっとも、それができるならばの話だ。可能なら、僕自身が自由を勝ち取るために、行動をとっているさ。それが叶わないから、人は儚くも願うのだ。
 悲しい事実を語るなら、願いがすべてが叶うことはない。願望は、それに見合った対価を支払った者だけに喜びが与えられるのだ。
 それはときに、努力であったり、才能であったり、良心であったり。
 この僕の場合、自由を得るために何を支払うべきだろうか。
 名誉? そんなものは騎士である男の僕が、絹のドレスを纏って女装しているこの時点で、既になきものだ。
 地位? 伯爵家の三男坊である僕には家督を継ぐ権利など、二人の兄の失脚を望まなければ叶うまい。
 しかし現在、ディアチール公国大公の一人娘、セシリア姫つきの侍従騎士たるお役目は、兄たちが歯軋りするほど、恵まれているといっていいだろう。
 僕は姫様のお気に入りだ。姫様が十歳のときから数えて六年、お風呂に入られているときと寝室でお休みになっているとき以外は、ほぼお傍に付いていると言っていい。
 名前すら覚えてもらえない兄たちに比べれば、大公陛下の御前に顔を出すことも度々ある。あくまで姫様付きの騎士としてだけれど。
 そこに名誉はない、地位もあるとは言い難い。
 ならば、何を犠牲にすれば、僕のこの馬鹿げた女装を解きたいという願いは叶えられるのだろう?
 考え込む僕の気持ちなど知る由もなく、今回の諸悪の根元である姫君は、ぽってりとサクランボの果実のように潤った唇を半開きにして、小さなあくびを一つこぼした。
 涙でうっすらと濡らした、サファイア色の瞳を僕に向けて、暢気に呟く。
「カルバンクールの宮殿は、まだ遠いのかしら」
 ああ、その愛らしい唇を僕の唇でもって塞いでやれたらどんなに気持ちがいいだろう。
 もっとも、それが出来やしないからこその夢想だ。軽く聞き流してほしい。
 僕は知りませんよ――と。
 姫様のお言葉を無視したい衝動にかられながらも、馬車の窓から外を眺めて、現在地を脳内地図と照らしあわせる。
 国境は既に越えた。閑散としていた街道沿いが整備されているところを見ると、首都に入ったのは間違いない。怖いくらい順調な道程。夜には計画通りかの宮殿で行われる舞踏会に出席できるだろう。
「後、一刻ほどで着くでしょう」
 姫様の問いに僕は答えを返していた。
 情けないが、僕は姫様には逆らえない。従者として当然である前に、惚れた弱みがあるのだから誰が悪いのかと問われれば、僕が悪いのだろう。
 姫様のサクランボ色の唇に口づけしたいとか、白魚のごとき指に触れたいとか舐めたいとか、絹糸みたいな艶やかな髪を撫でたいとか、その華奢な身体と対比した豊かで柔らかそうな胸元に顔を埋めたいとか。健全で不埒な夢想に身を焦がす僕が悪いのだ。
 ――変態? 馬鹿を言うな。
 姫様に愛らしくお願いされ、カルバンクールへの旅程の手筈を整えたり、女装のためのドレスを手配したり、舞踏会の招待状を入手したり。
 ええ、すべては僕自身が準備しました。それが何か?
 だってしょうがないじゃないか。
 あのキスしたくて堪らない、ふっくら艶々した唇から、甘い声で「カール、お願いね」と言われて、断れる男は男じゃない。教会に行って、神にお仕えするがいい。
 セシリア姫は僕より二つ年下の、御年十六歳。男なら一度は閨でお相手をお願いしたい、可愛らしい美貌の姫君だ。
 大公は一人娘のセシリア姫の結婚を考え、婿となる男児を諸外国の王家から探しているところだ。
 そして今回、姫君と従者である僕が女装して乗り込もうとしているカルバンクールの第二王子が、姫様の婿候補である。
 第二王子の名前はディートリッヒ。姫様より十以上も年上の、御年二十八歳。男盛りの美男子だと言う。女性の情報網は恐ろしい。
 大公陛下が内密に進めていた婿取り計画を姫様のお耳に、先に入れてくれたのだから。
 おかげで僕は嫉妬に狂って、大公陛下の食事に毒を盛る前に、女装させられてしまった。
 そして、ディアチール公国から遠路はるばる――とはいっても、一昼夜馬車を走らせれば国境は簡単に越えられるんだけど――カルバンクールへとやって来た。
 婿候補のディートリッヒ王子を、彼が出席する舞踏会に乗り込んで偵察するのが、今回のお忍び計画である。
 王侯貴族にとって、お忍びは王道といっていい冒険の一つだろう。
 だがこの場合、正面切って突っ込んでいくところが、僕の姫様の可愛いというか、大胆というか。
 相手側に姫様の絵姿とか、送られていると思うんだよね。結婚を打診しているんだから、お見合いの設定など計画段階なんじゃないかなと、僕は思ったわけだ。
 そんなところへ、正体も隠さずに乗り込んでいってもバレバレだと思うんだよ。
 こういう場合、男装して姿を隠すべきなんじゃないかと首を傾げた僕に、姫様は「カール、ディートリッヒ王子を素敵に誘惑してね」と、にっこり笑ったんだよ。
 何て恐ろしいんだ、姫様。
 偵察なんて段階じゃない。端からディートリッヒ王子を抹殺する気満々だ。
 男色家の噂は四方八方で聞くが、教会が同性愛を禁じている現状では、王族とて醜聞だ。ディートリヒ王子にとって、男の僕と恋仲になったとしたら、致命的だろう。
 王侯貴族より教会の権力が強かったりするから、それはもう一撃必殺。
 特に結婚話が持ち上がっているところでの醜聞は、カルバンクールにとっても痛手を負う。きっと国王は王子を一族から放りだすに違いない。当然ながら、姫様とディートリヒ王子との結婚話は御破算になると思われる。
 それは僕としても願ったり叶ったりである訳だけど、女装している僕をディートリヒ王子に「男」と知らしめるとしたら、当然ながらドレスを脱ぐよね? えっ、どこで? となれば、考えられるのは閨だろう。
 ――僕の操は姫様にだけ捧げると決めているのにっ!
 女大公となられた姫様の愛人となって、その生涯を果たすのだと、心に誓っているんだ。誰にも、この野望は譲らない。
 できるなら、愛人と呼ばれる立場ではなく、夫として姫様を愛したい。他の男が姫様の白肌に口づけするなど、想像しただけで、僕の気は狂わんばかりだ。
 相手が大公陛下だろうと王子だろうと、知ったこっちゃない。毒を入れてくれよう、闇に乗じて抹殺してくれようと思っちゃうところは、あの姫様にして、この僕ありといったところだろう。麗しい主従の、絆のなせる技だね。
 とにかく僕の貞操が危機に陥る前に、ディートリッヒ王子を再起不能にするのは、僕としても異存ない。
 幸いに、女装した僕は姫様よりも悩殺美人度が上がっている。
 姫様は美人というより、可愛い系のお顔だから、十歳も年が離れてしまうとちょっとロリと疑われてしまうだろう。
 その点、僕の女装はばっちりだ。少し濃いめの化粧で、エキゾチックで謎めいた美人に変身した。この僕によろめかない奴は、男じゃない。姫様の夫になる資格などあるものか。修道院へ行け。
 つまるところ、計画は至極単純だ。
 ディートリッヒ王子を僕の美貌で悩殺し、メロメロにさせたところで、正体をばらす。この際、ベッドの中ってのは避けたいところだ。男と一緒に閨を共にするなど、僕は嫌だ。
 そして、男を相手に本気になってしまったディートリッヒ王子は、この醜聞をなかったことにしたいだろうから、こちらの条件を呑むしかない。呑まずとも、醜聞を盾に婚約を破棄させることは容易い。人間、弱みを見せたら終わりだよ。
 特に、僕の姫様にかかったら、死神の鎌が首に掛かっているのと同じだ。抵抗すれば、あの世へさようなら。
 男に対して「同情」なんて言葉は姫様の辞書にはない。姫様は男に同情されるのが、大嫌いな人だ。
 女だから、女であるから――そんな言葉で、姫様の意気地を挫いてきた男たちの無神経に、姫様はご立腹し腹を黒く染めあげた。
 女公となるのを認定しながら、大公も重臣たちも、姫様に政治に口出しするのを良しとしなかった。それは他でもない、姫様が女であるから。
 女の姫様は、ドレスを着て優雅に微笑んでいればいいと、大公陛下は姫様に礼儀作法の教師をつけても、勉学の教師はつけなかった。女は世継ぎを産む鶏であって、知性は要らないと思っているらしい。
 貴族の男たちが姫様に求めた下劣な価値観。
 姫様が奴らの利己的な考えに絶望し、自らの権利を勝ち取るために腹黒くなったところで、誰に文句が言えよう。
 己の自由を勝ち取るために、姫様は魂を悪魔に売った。――もとい、努力した。素晴らしい。それでこそ、僕が愛する姫様だ!
 帝王学、経済学、天文学、医学、農学、歴史、果ては兵法と、姫様は独学で学ばれた。ついでに僕も、姫様から教えて貰って、そこいらの学士よりも知識はある。
 医学は敵の急所を狙う上で実に役に立ったし、農学は実際に手に入りにくい毒草を育てるのに大いに助かった。歴史からは要人を抹殺する暗殺のいろはを学んだ。
 そして、姫様は独自の経済理論で様々なところに投資しては、着々と私財を増やし、家計が立ち行かなくなっている――貴族と呼ばれる人種は往々にして、見栄を張りたがるから懐具合が逼迫している奴らも多い――重臣たちを買収していった。
 また、姫様は宮中内に仕える女官たちを完全に掌握していた。
 貴族の男たちに手をつけられ、腹を膨らまされて捨てられた女たちを姫様は手厚く保護しては、原因であるその男たちを社会的に抹殺して、正義をなす。
 そんな剛毅な姫様に惚れない女がいるはずもない。
 姫様は女たちを庇護しても、寵愛をくれたりはしないから、女たちが僕の姫様に惚れるのは寛大に許そう。
 そして、彼女たちは我らが姫様のためにと、壁の耳となり目となって、情報を仕入れてきた――今回の、婿取り計画もそのようにして、姫様の耳に入ってきたわけだ。
 宮中内の事細かな秘密を握る姫様は、知略でもって政敵を排除、または取り引きを持ちかけて服従させていった。
 それらの重臣たちは、身を持って知っただろう。姫様が女大公となられた暁には、我がディアチール公国は大陸の覇権を握る、と。
 いまだ暢気に姫様の婿候補選びに没頭している大公陛下には、近々引退して貰うだろう。
 姫様の野望は、誰にも口出しさせない権力を得ることだ。結婚相手も、自ら選ぶ。
 王侯貴族にとって、結婚は政略や外交の手段であって、愛情など二の次だ。
 だけど、姫様はそんな固定観念に屈する人じゃない。誰かが用意した男と結婚して子供を産むなんて、論外だ。
 自分を理解してくれる男と結婚する。そう言い切った姫様を僕は全面的に支持する。
 少なくとも僕は、姫様をこの世で一番理解している自負がある。だから夫になれなくても、愛人にはしてもらえるだろう。何度も言うように、夫になれればそれが一番いい訳だけど。
 愛人という名の、退廃的な悪徳感が漂うような位置から、姫様を愛するのは、身分差恋愛の醍醐味でもあるだろう。障害があればあるほど、姫様と僕の愛は燃え上がる。いいじゃないか、それもまた。
 人目を忍んで逢い引きを繰り返す、そんな僕と姫様の姿を夢想しているうちに、馬車はカルバンクールの宮殿へと到着していた。
 事前に入手していた招待状で僕と姫様は、難なく潜入に成功した。
 既に舞踏会は始まっていて、ダンスホールには楽団が奏でる音楽が人々の喧噪とドレスの衣擦れの音に混じって、流れている。
 羽根飾りのついた扇を広げて、姫様は極力目立たないよう気配を殺した。肩の力を抜いて心持ち猫背になれば、頭一つ分小さくなる。それだけで、皆の視界から消えるのだ。
 姫様の凄いところは、まるでそこに誰もいないみたいに気配を消せるところにある。この特技を生かして、大公の座を狙う従兄弟たちから放たれた刺客たちを何度、返り討ちにしただろう。
 捕まった暗殺者たちは、己の技能に自信をなくし、足を洗っては姫様の秘密私兵団の一員となった次第だ。
 そいつらは現在、大陸に散らばり姫様のために各国の秘密を探っている。弱みを握ってしまえば、外交戦略なんて、チェスの駒を動かすより簡単だ。
 壁と一体化した姫様に、僕は感嘆の吐息をこぼす。素敵だ。完璧すぎるよ、僕の姫様は。
 僕もまた貴婦人の真似事をしながら、標的となるディートリッヒ王子を捜した。
 姫様の期待に添えないなど、あってはならない。必ずや、ディートリッヒ王子を二度と立ち直れない地獄の底へ尽き落としてくれよう!




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