title.21 血の涙を流して
器の中のスープを半分残して、セレリアーナはスプーンを置いた。
胸の辺りにあるもやつきに食事が喉を通らず、もう三十分近く、テーブルについているのだけれど、一向に食が進まない。
使用人の食堂は今の時刻は閑散としている分、室内の温度も低い。
白い湯気を立てていたスープも、すっかり冷え切り、脂が白く固まりだしていた。
身体が不調なわけではないのをセレリアーナ自身が弁えているだけに、舌が感じるものとは違う苦さを覚える。
食べ物を残すという行為は、精霊たちを信仰していたファーブニル王国の人間にとっては約束を破るかのような悪しき行いであった。食が進まないのなら、最初から控え目に摂るべきであったのに、それを怠ってしまったなんて。
セレリアーナは唇を噛む。
食物たちがその身を捧げて、人の糧となっているのである。恵みを得る人間はそこに宿る精霊たちに感謝し、余すことなくその身に取り込むのだ。そうして精霊たちを我が身に宿し、共に生き、また大地に新たな食物を育み、精霊たちを還す。この循環を揺るがすことは罪であった。
もっとも、そのような信仰は唯一神アインスの下では異教とされ、セレリアーナの故郷であるファーブニル王国は地図の上から姿を消した。
とはいえ、故郷を失ってもセレリアーナは精霊たちと生きていくと心に誓っている。そのために異教の魔女とされた王女であった過去を隠し、クロイツ帝国に身を寄せ、メイドという地位に身を置いているのだ。
セレリアーナは冷めたいスープを無理矢理、喉の奥に流し込んだ。空になった皿を手に洗い場へと向かう彼女に背後から声が掛かった。
「セレリアーナさん」
名を呼ばれて振り返れば、菓子職人のデレクがいた。彼は厨房から出てくると、セレリアーナの顔を覗いてきた。
「……大丈夫なの?」
問いかけてくる声は慎重に潜められていた。表情に微かな翳りが見えるのは、気のせいではないだろう。
何故なら、この城の主は数日前に凍りついた湖に落ちた子供を助けるために水に飛び込み、ずぶ濡れのまま数時間を過ごしたのだ。
それで何事もなかったのならば、セレリアーナとてこんな思いを抱えてはいない。
問題の御仁、帝国の第二皇子クロレンスはその後、高熱を出して床に伏せっていた。騎士団に混じり、身体を鍛えていてもさすがに病には勝てなかったらしい。
熱に浮かされ意識朦朧とした日々が続いた。今朝方、熱が下がり始めたが、まだハッキリと意識を取り戻してはいない。
暫く前に、セレリアーナ自身も風邪で倒れたが、周囲の騒音を聴き分ける意識はあった。だが、熱に浮かされる昏睡状態のクロレンスを傍で見ていたら、自分よりも遥かに深刻ではないかと気が気ではない。
それはセレリアーナに限った事ばかりではないだろう。デレクや他の城に仕える者たちすべてがクロレンスの回復をいまかいまかと待っている。
「……大丈夫よ」
セレリアーナは囁くように呟いた。唇の端に力を込めて、無理やり微笑んで見せる。
「もう熱は下がったから。後は殿下のお目覚めを待つだけ」
洗い場に食器を預けて、階上へと戻るために踵を返す。
「そうじゃなくって。いや、勿論、殿下のお加減も心配だけれど。それよりセレリアーナさんも」
食堂から立ち去ろうとするセレリアーナの腕を、デレクの手が掴む。覗き込む顔は近くなり、彼の憂いがどこにあるのか探らなくてもわかった。
「ずっとお傍について、寝てないんじゃない? それじゃあセレリアーナさんも倒れてしまうよ。誰かに傍付きを代わって貰ったら?」
彼の水色の瞳が、こちらの隈を見据えているような気がして、セレリアーナは顔を反らす。
朝方、鏡で覗いた自らの顔に愕然としたのは記憶に新しい。
「だって、私は殿下の近侍だから」
掴まれた腕を解いて、セレリアーナは彼に背を向けながら告げた。
今まで、自分はハウスメイドなのだと主張してきた言動に、矛盾しているのが堪らない。
――どうして?
クロレンスの侍医、バーンズは助手などに皇子の看護を任せて構わないと言ってくれた。だが、セレリアーナが離れ難く、食事の時間などにだけ交代して貰っている。
最初の晩は自室に引き上げたが、やはりクロレンスの様子が気になって眠れなかったのだ。傍についていた方が、ずっと落ち着いていられた。
例え意識がなくとも、彼の呼吸を確かめていられるのだから。
今まで皇子の口説き文句に気のないそぶりを見せ、彼の求婚など歯牙にも掛けていないことを取り繕ってきた建前が崩れそうだ。
――早く目を覚まして!
セレリアーナはクロレンスの元に走り寄って叫びたかった。
そして、今までの日常を取り戻して欲しかった。
皇子が冗談のような口ぶりで、セレリアーナに対する口説き文句を口にして、それを斬って捨てる日常を。
身分違いの二人の間に、恋なんて生まれるはずがないことを。
誰の目にも明らかな日々を繰り返して、元に戻りたい。胸の想いは秘密のままで、誰にも暴かれることがないように。
「ねぇ、セレリアーナさんっ!」
立ち去ろうとする彼女を追いかけてきて、横に並ぶ。彼を無視するように、セレリアーナは足を速めたが、彼女よりも背が高いデレクの歩幅に、距離が開く気配はない。
「やっぱり、セレリアーナさんは殿下のことが――」
デレクにそれ以上言わせないために、セレリアーナは口を開いた。
「違うわっ! 私は職をなくしたくないだけよ」
肩越しに振り返って告げた声は悲鳴じみていた。その剣幕にデレクが一瞬、驚いたように目を丸くした。
「帰る家も、迎えてくれる家族も、故郷も私にはないの。この仕事だけが私のすべてなの」
それは実際に真実だった。
まだ、この城にやって来て日が浅いデレクは、セレリアーナに表向きの経歴上でも家族がいない事実を知らないのだろう。
セレリアーナの故郷、ファーブニルは炎に巻かれて滅びたのだ。異教徒の魔女として、ファーブニル王国の王家に連なる女性たちもまた、火刑に処された。
敵味方入り乱れる混沌としたあの国から、峻険なるクローネ山脈を越えて生き延びたのは目下の所、セレリアーナただひとり。
家族は誰一人として、残ってはいない。
王女だった身分を捨てて、メイドとして生きていく道だけが、今の彼女を守ってくれるのだ。
「だから、殿下に何かあったら困るのよ」
もう自分には彼とともに過ごす日常しか、望めるものがない。
恋も結婚も、手に入れることなど望めやしない。
だからこれ以上、自分から奪わないで欲しいと、セレリアーナの心は血を滲ませながら願う。
自分が持つ秘密に踏み込んで来ないで欲しい。
この想いが暴かれたら、過去が知られたら、もう生きていくは叶わないだろう。
そして、そんなセレリアーナを身近に置いていたクロレンスを始めとする、この城の者たちにも危害が及ぶのではないだろうか。
唯一神アインスは、千年以上の歴史を持つ国をいとも簡単に灰へと変えたのだから、帝国皇子としても無事では済まされないかも知れない。
そんなことなどデレクの想像には及ばないだろうが、怒れるアインス信者たちの苛烈さを知っているセレリアーナとしては考えただけで、背筋が凍る。
「お願いだから、これ以上は余計な詮索はしないで」
懇願するように言葉を吐けば、唇が震え瞳から涙がこぼれた。
クロレンスと出会ってから、彼の馬鹿げた言動に振り回されるようになってから、泣くことはなかったのに。
真珠のような涙が溢れては、エプロンの上に転がって弾ける。
「……セレリアーナさん」
思わず顔を覆うセレリアーナの頭上から、心配そうな声が降ってくる。
「ごめんなさい。でも、本当に……」
一歩後方に下がりデレクと距離をとって、背を向けようとするセレリアーナに彼の声が追いかけてきた。
「ねぇ、家族はいないと言ったけれど……もし、君の家族になりたいって奴がいたら?」
「そんな人、いないわ」
馬鹿げていると、セレリアーナは唇を歪める。
だって、誰も帝国の皇子を相手に恋の鞘当てをしようなどと思わなかったから、セレリアーナはクロレンスに振り回されて来たのだ。
引きつった笑い顔でデレクを見上げれば、彼は真顔で問いを重ねた。
「もし、居たならば?」
それはデレク自身なのだろうか。
少し心が揺れたが、セレリアーナの答えは既に出ていた。
自分が望むものは、結婚でも家族でもないのだ。誤魔化し続けたけれど、これ以上は彼の真剣な目を前にすれば許されないのかも知れない。
セレリアーナは小さく息を呑んで、だけどキッパリと首を振った。
「無理よ」
「でも」
「駄目なの」
――他の誰かでは駄目なのだ、あの人でなければ。クロレンスでなければ。
そんなことは口が裂けても言えないから、セレリアーナはきつく唇を噛んだ。ちくりと痛みが走り、唇に血が滲む。
それを目にしてデレクは一歩、下がった。諦めてくれたのか。
「……そう」
「ごめんなさい。気にしてくれて、ありがとう」
彼女もまた一歩下がって、距離をとった。決定的な答えを出してしまったような気がする。
きっと明日には使用人仲間の間で、囁かれるかもしれない。
セレリアーナが皇子に恋をしている――と。
だけど、それは叶わない恋だと誰もが知っているから、恐らくは何も変わらないはずだ。
クロレンスが本気にならない限り。
そして、メイドと皇子の恋など、彼の周囲が許さないから、これからも未来も、変わることはない。だが、もうこの城には居られなくなるかも知れない。
……あと、どれだけ側に居られるのかしら?
終焉を予感してしまうと、気持ちがそぞろになった。目の前にデレクが居るのに、心はクロレンスの元へと向かっていた。
「もう行くわ」
身を翻して、セレリアーナは階上へと向かう。
階段を駆け上がり、第二皇子の寝室がある階に辿り着く頃には息が弾んでいた。呼吸を整えるために立ち止まり、大きく息を吐く。
心を落ち着かせるために外に目を向ければ、先日の吹雪の名残はなく、薄い灰色の冬空が穏やかな日差しに溶かされながら広がっていた。
その空を鳥が渡っていくのを見送って視線を落とすと、外に佇み空を見上げているデレクの姿があった。先程のことがあったので、仕事をする気になれないのか。
どこか悄然とした姿に、少しだけ胸が痛んだが、微かに首を振ってセレリアーナは顔を上げた。
頬に触れ、泣いた跡が残っていないことを確かめて、クロレンスの寝室に向かう。
いつもの日常が取り戻されることを願いながら。
「血の涙を流して 完」