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お題提供・色彩の綾

title.20   降り注ぐ冷たい雪は


 白い雪片の(つぶて)が唸る風と共に、窓ガラスに打ち付けられる。ガラスは窓枠の内側で震え、凍りつく。
 毎日、磨き上げ透明度が自慢の窓も、今は室内と外気の温度差に白く曇って、外の様子がよく見えない。それだけ吹雪が激しいことを物語っていた。
 メイドのセレリアーナは掃除の手を休め、震える窓ガラスの表面に指をあてた。
 彼女の指先の仄かな熱に、曇りは露と溶けた。涙のように、それは筋となってガラス窓を流れる。
「……大丈夫かしら」
 セレリアーナは唇の中で小さく呟き、微かに眉を顰めた。
 この吹雪の中ではろくに視界が利かないに違いない。外仕事の人間も、今日ばかりは急な用事でもなければ、家に閉じこもってやり過ごすだろう。
 彼女の心配は無駄に違いないが、何故かセレリアーナの心は騒いでいた。精霊が何かを教えようとしているのだろうか。
 今日は西の都に出掛けていたエーファ城の主であり、帝国の第二皇子クロレンスが帰還する予定日だった。だが昨日から外は白い雪が激しく降りしきる悪天候となっていた。
 外出日程は五日と定め、帰還予定に合わせて、迎えの準備も整えているのだが――この悪天候ならば、大事をとって途中の町で宿をとるだろう。
 そう、セレリアーナとしては願うところだ。
 道中無理をして、風邪でもひかれたら皇子の世話役でもあるセレリアーナの仕事が増えてしまう。
 だから……。
 心配する本音を、面倒と偽って、セレリアーナは再び窓の外に目を向けた。
 この吹雪の中でも強行軍で、城に帰還するのではないか? と心配してしまうのは、クロレンスが時に突飛な行動に出るからだ。
 本物か演技か、真相はわからないが馬鹿皇子と陰で囁かれているクロレンスが、政務に真面目に取り組んでいるところをセレリアーナは見たことがない。
 毎日、皇子を部屋から執務室に追い出すのは、彼女の仕事でもあるが、職務中のクロレンスを監視するのは秘書官のアランだ。
 そんな秘書官のアランと共に政務をこなしているはずの時間、クロレンスはときとして掃除をしているセレリアーナの前に現われては、メイドである彼女を熱心に口説こうとするのである。
 第一皇子との帝位争いを避けるために馬鹿を演じているというのなら、実は聡い人間なのかもしれない。だから、そう長く机についている必要もなく仕事を片付けているのかもしれない。
 だがしかし、本物の馬鹿で身分違いの相手に真剣に求婚しているのなら、秘書官やその他の者たちに全てを預け、仕事を放り出している可能性もあった。
 そこでセレリアーナが問題視するのは、クロレンスを辺境アルシュの領主に向かえてこの六年、領地経営は破綻しておらず、むしろ帝都から見捨てられた感があったアルシュに於いて、第二皇子の評判は上々であるということだ。
 それは皇子自身の才覚か、はたまた彼の部下たちのお手柄なのか。
 皇子が有能か無能かの真相がわからないということだった。
 第一にアランの監視能力にも疑問が残る有様であったし、クロレンスの馬鹿皇子がふりであるのなら、なおさらにこの雪の下で無茶をやらかすのではないか。そんな彼がはたして、宿で大人しくしているものだろうか。
 策士が演じる道化か、本物の馬鹿者か。
 セレリアーナは小さく、唇を噛む。自分にとってどちらが都合がいいのか、考えるのも面倒な現実に悩まされるようになったのはいつからか。
 大陸を支配する唯一神アインスの教義の下、精霊を信仰するのは異端とされ、セレリアーナの故郷ファーブニル王国は炎によって滅びた。
 従姉妹たちが魔女として処刑されるなか、セレリアーナは命からがら国を脱して隣国のクロイツ帝国に辿りつき、辺境アルシュにあるエーファ城に身分を隠し、メイドとして住み込みで働き始めたある日、クロレンスと出会ってしまった。
 その翌日に求婚され、何とか断ったものの、彼の近侍役を命じられてこの六年。
 故郷を失くし、悲しみに傷ついていたセレリアーナの心は、第二皇子の振る舞いに振り回されるうちに癒され、さり気なく垣間見える優しさに惹かれるようになっていた。
 決して結ばれるはずがない相手だというのに、である。
 だからこそ、セレリアーナは困る。
 彼の本心を知りたくて、知りたくなくて。
 迷路を果てしなく彷徨うような悩みは、いまだに出口がわからず、心だけが翻弄されて戸惑う。
 こちらが一人勝手に想うだけならば、ただ静かに心の内側で、己の過去と共に秘密にしておけるのに。クロレンスが声を大にして騒ぎたてるから、セレリアーナとしては彼を拒むしかことしかできない。
 過去を隠すために。また、彼の傍に居たいという恋心を守るために。
 ――本末転倒もいいところだわ……。
 セレリアーナは苦笑して、ため息をついた。そうして再び、掃除にとりかかろうと気持ちを切り替えたその瞬間、ベルの音が鳴り響いた。時を知らせる鐘の音とは違う、主の帰還を知らせるものだ。
「帰って来たの?」
 碧い瞳を驚愕に見張る。
 この吹雪の中を馬車を走らせたのか。御者も従者もいい迷惑だと思うも、それはセレリアーナが使用人の身分にあるからなのかもしれない。
 帝国の皇子であるクロレンスにとって、雪の礫に晒される御者も従者も供の騎士たちも、いつでも代えのきく者ならば、彼は我儘を通すだろうか。
 クロレンスには下々を思いやる優しさがあると、そう信じていたのは恋心が見せたまやかしか。
 それともエーファ城近辺だけの吹雪で、クロレンスたち一行の道中は心配するほどこの吹雪に悩まされていなかったのか。
 セレリアーナは慌てて、掃除用具を片付ける。主が帰還すると言っても、上級使用人たち以外が出迎えをするわけではない。だが、クロレンスの近侍役であるセレリアーナはハウスメイドであるにもかかわらず、出迎えの場に姿を見せることを求められた。
 開口一番にクロレンスが彼女の所在を訊ねるのが、その原因だった。いつしか、捜し回る労力を軽減すべく、執事とメイド頭に共に皇子を迎えるよう厳命された。
 セレリアーナはエプロンに汚れが付いていないか、確認した。汚れても構わないためのエプロンであるが、こういった場面で実際に汚れたエプロンをつけて出れば不評を買うのは必至だ。
 スカートの裾をからげ、セレリアーナは小走りに使用人階段へと向かう。
 思わず走ってしまうのは、クロレンスの無事な姿を早く目にしたいためか。それとも、使用人としての心構えがそうさせるのか。
 嫌々、近侍役を務めているという手前、走る必要などないはずだけれど、頭で理解するより早く身体が動いてしまっていた。
 吹き抜けの玄関ホールには既に上級使用人たちが、第二皇子たち一行の帰還を迎えるべく整列していた。
 執事、メイド頭に、留守を預かっていた騎士たち。セレリアーナは彼らの後ろに控え、そっと息を整えたところで重厚な扉が開かれる。温められた室内の空気が一気に外へと流れ、変わりに入って来た外気が忍び寄るように身体を包み、冷やす。
 白く煙る吹雪の中、四頭立ての馬車が玄関へと横付けされた。従僕が馬車の扉を開くと同時に秘書官アランが転がるように出てきた。
「誰か、殿下にお着替えをっ! バーンズ先生をお呼びしろっ!」
 血相を変えたアランが悲鳴じみた声で侍医の名を叫ぶ。その切羽詰まった気配に場がざわつき、セレリアーナの心を騒がせた。
 ――何……。
「如何なされたのですかっ?」
 普段は落ち着いている執事が声を上ずらせながら、問う。
「道中で、子供が湖に溺れているのに遭遇し……殿下が止めるのも聞かず、飛びこまれて」
 喘ぎながら応えるアランの背後で、クロレンスが馬車から姿を現した。毛皮を裏打ちしたマントを羽織っているが、内に着ている服はずぶ濡れであるのが目にとれた。
 金色の髪が濡れて色が変わり、毛先は白く凍っている。血の気が失せ、唇は青紫色に染まり震えていた。身体を重たげに揺らし、一歩踏み出すごとに靴から濡れた水が染み出す。それは大理石の床にじわりと広がった。
「……騒ぐな、大事ない……」
 口を開くのもままならぬのか、かすれた声が吐き出された。見ている側が思わず背筋を震わせそうな様相に、場に居た誰もが息を詰まらせる。
 そんななか、アランが我に返ったように声を荒げた。
「大事ないなんてっ! 貴方は皇族としての自覚がないのですかっ!」
 今まで溜めておいた感情が堰を切ったように溢れだし、アランはクロレンスに喰ってかかる。
「子供も殿下の無事だったからそのように言えますが、殿下の御身は、殿下御自身のお一人のものではありません! 帝国の、我らの未来の為にあるのです。例え、帝国の民のためであろうと、軽々しく扱ってはならぬのですよっ!」
 怒りもあらわに噛みつくアランに、皇子は黙れというように腕を大きく振るった。肩にかけたマントが水を吸って、重たく床に落ちる。
 それに構わずクロレンスは秘書官の方に一歩、身を乗り出した。
「俺に見殺しにしろと言うのかっ、またしてもっ!」
 今まで聞いたこともない皇子の怒号に、アランは後ずさり、周りの者も凍りついた。血の気の失せた頬を怒りの朱に染めるクロレンスに気圧され、誰もが動けないなかで、床に滴る水音が響いた。
「…………湯を」
 セレリアーナは意を決して、声を吐きだした。場の空気が解け、緊張の糸がほぐれたかのように、彼女の声に視線が集まる。
 一介のメイドがこのような場で口を出すのはあらぬことであろうと思う。だが、このままではクロレンスが倒れてしまう。
 ――早く、着替えさせなければ!
「湯を用意してくださいっ! 湯殿の用意をしてくださいっ!」
 声を張り上げ、セレリアーナは場に集う人々を掻き分け、クロレンスの前に進み出た。
 セレリアーナの言葉を受けた数名の従僕たちがホールから走っていく。湯は彼らに任せていいだろう。
 どこで、その溺れた子供を助けたのだろう? セレリアーナはこの状況に麻痺しそうになっている脳を巡らせ考える。
 この吹雪のさなかに子供が遊び出歩くとは思えない。だとしたらこの近くではないだろう。やはり吹雪いていたのはこの一帯だけのことだったのか。
 恐らく吹雪の影響が出ていない地区で、凍りついた湖などで子供たちが氷滑りの遊びを楽しんでいたのではないだろうか。冬場には時折見られる光景である。
 もっとも、氷が厚く張っていない場所もあるので大人たちは氷滑りを許しやしないだろう。だが、大人の言いつけに従うばかりの子供たちではあるまい。
 そうして事故は起こり、エーファ城へ帰還中のクロレンス一行が遭遇したとした。溺れた子供を連れていない時点でやはりこの近辺での出来事ではないだろう。だとしたらどう近く見積もっても、一時間は経っているだろうか。
 馬車の中に火鉢を持ち込んで暖をとっているとはいえ、濡れた格好でそれだけの時間を過ごしてきたとなれば身体は冷え切っているだろう。
 靴は? ずっと履いていたのなら、指が凍ってしまっているのではないか? もしそうであったら、最悪、切断ということになりかねない。
 どうして濡れたまま帰るなどという策をとったのか。騒ぎになることを拒んだ? 皇族であることを知られ、気を使わせることを良しとしなかったから?
 セレリアーナは茫然と立ってこちらを見つめるクロレンスの腕を取った。
 濡れた服の冷たさが彼女の指から熱を奪う。あまりの冷たさに怖気づいて、手を離しそうになるのを唇を引き結んで堪えた。
 グイッと力を込めて引っ張れば、クロレンスは瞬きをした。
「お部屋へ参りましょう!」
 腕を引っ張って、セレリアーナはクロレンスを部屋へと導く。いつもは陽気な皇子は黙って彼女に従う。
 一応、帰還予定だった為、部屋の暖炉には火を入れておいた。適度に暖まった部屋でセレリアーナはクロレンスの上着をはぎ取った。水びたしのシャツも脱がせ、新しいシャツを着せ毛織物のガウンを羽織らせる。
 暖炉の前に椅子を持ってきて彼を座らせた。床に膝をついて、クロレンスの足から靴を脱がせ乾いた手拭いで血が通うよう擦ってやる。幸いに指は凍っていないようだ。
 良かったと、安堵の息を吐きつつ、セレリアーナは立ち上がった。
「今しばらくお待ちください、殿下。直ぐに湯殿の準備をいたしますから」
 湯を用意する従僕たちの手伝いをしようと立ち去りかけたセレリアーナをクロレンスの腕が捉える。
「なっ?」
 何を――と問いかける声は、クロレンスの胸にふさがれた。二本の腕に絡まれて、身動きが出来ないセレリアーナは自分が抱きしめれられていることに気づいた。
 こんな時に、馬鹿な真似は――そう抗おうとしたが、頭上から降って来た懇願に思いとどまる。
 寒さで噛み合わない歯の間から、クロレンスのか細い声が囁いた。
「今だけ……は」
 背中に回された腕にさらに強く引き寄せられ、セレリアーナは静かに彼の身体に寄り添った。
 抱きしめられているのは、冷えた身体を温めるために、熱が必要だから……。
 そのために、彼は。そして自分は――。
 冷たい肌の向こうで、セレリアーナはクロレンスの心臓の音と窓の外で吹雪く風の()を聞いた。


                          「降り注ぐ冷たい雪は 完」



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