最悪な一日?
――最悪だ。
最悪な日というのは、意識した途端、どうしようもなく救いのない絶望を連れて来る。
繰り返される日常、穏やかな日々は何も変わらないように見えるのに。
確実に時間は流れていた。
そうして、気づけば僕一人だけが取り残されているように思えた。
突然切り出された、別れ話。
「だって、貴方って、私に興味なんかないんでしょ?」
断定的に言う彼女の声を、僕は呆然と聞いていた。
興味がない女の子に付き合うほど、僕は暇人なんかじゃない。
ただ、僕は用がないから君への電話を掛けなかった。メールをしなかった。
だってさ、僕のせいで貴重な時間を潰されるのは嫌だろう?
君が友達と出かけるというのを、詮索しなかったのは、君を信じていたから。
君が望めば、僕は君に付き合った。
君の喜ぶ顔が好きだったから。
だけど、僕から干渉することはしなかった。
君を困らせたくなかったから。
「もう、貴方に振り回されるのは沢山なの」
僕からの言い訳に耳も貸さずに、君は電話を切った。
――最悪だ。
そう思えば、世の中全てが悪い方に回っているような気がしてくる。
テレビが伝える事件、事故。
僕が関わっているわけでもないのに、亡くなった人の名前が告げられると、どうしてその人が死んで、僕が生きているのかと思う。
例えば、その人が僕よりずっと幼くて亡くなっていたら。未来は幾らでも希望に満ち溢れていただろうに、と思わずにはいられない。
その人が生きた年数と、自分が生きた年数を数えてみる。
間に数えた年の数、自分の人生を振り返ってみれば、確実に流れた時間は驚くほどに平穏であると同時に、退屈な日々。
ずしりと圧し掛かる、生きていることへの罪悪感。
例えば、この無駄に過ごした日々を僕の寿命から削って、死んだ人に分け与えられたら、この感覚はなくなるだろうと思う。
でも、そんなことは出来ない相談だ。死んだ人を生き返らせるなんて、神様でも出来ないだろう。
――最悪だ。
何も出来ない自分の無力さを知れば、僕という人間が存在すること自体が間違っているように思う。
ねぇ、僕は何のために生きているの?
君を喜ばせることも出来ないままに、こうして諾々と日々を過ごすことは許されるの?
自ら命を絶つということは、生きたくても生きられない人達に申し訳ない。
僕の寿命の数年でも分け与えられたら、本当にいいのに。
神様が僕の願いを聞き届けてくれるかどうか、それもまたわからない。
僕はただ、死ぬことが許される日まで、生きることしか出来ない。
――最悪だ。どうしようもなく、最悪だ。
誰かの手助けになれたらと思うけど、何をしていいのかすら、わからない。
――最悪だ。
僕は何を学んできたのだろう。
思考が暗闇に落ちていく。じっとしていることすら、罪深く思えて、家を出た。
外に出れば外に出たで、僕は何をすればいいのだろう。
「――キャ」
不意に、小さな悲鳴が僕の耳に飛び込んできた。振り返れば、街路樹の桜の枝葉に、長い髪を絡ませている女の子が一人。
髪をほどこうとしているけれど、丁度後頭部のところなのでよく見えないらしい。
半泣きで、髪をいじくっている。
「とりましょうか」
僕はそっと声を掛けた。女の子は僕を見上げると、お願いします、と言ってきた。
「あの――どうしてもとれなかったら、切ってもいいです」
女の子は手にしていたバックから、小さな裁縫キットをとりだして、手のひらよりも小さいハサミを僕のほうに、指を掛ける穴の部分を差し出してきた。
僕はちょっとだけ、目を見開いた。
刃の部分を差し出すのは、人として思いやりが足りないということは、ちょっと長く生きていればわかること。間違って相手を傷つけてしまう危険性があるから、刃物を手渡しする際は、渡す側が刃の部分を握るのは常識だけど。
どう考えたって、こんなハサミじゃ人を傷つけることは出来ない。
しかも、こんな場面でそこまで気を回している余裕なんて、ないだろうに。
「でも、切ってしまうと……困るでしょ?」
ハサミを受け取りながらも、僕は問い返す。女の子は目を伏せがちに、小声で囁いた。
「でも、お手数をお掛けするわけには……。どこかへ、お出かけの途中だったのでは?」
「……僕なら、大丈夫だよ」
女の子の優しい気遣いが、嬉しかった。
僕なんかに気を使ってくれなくてもいいのに。
「少し時間が掛かるかもしれないけれど……いい」
僕は枝に絡まった髪の状態を見て、尋ねた。
この子のほうこそ、どこかへ急いでいるんじゃないかな?
そう思って尋ねれば、女の子は笑う。
「散歩の途中だったんです。桜が綺麗だったから、傍で見たくて。そうしたら、強い風が吹いて」
僕はそっと女の子の髪に触れる。腰まである長い髪は柔らかくて、フワフワしている。
「癖っ毛が酷くて、昔から良くやるんです。もっと短くすればいいのだと思うんですけど、短いと頭の爆発具合が半端じゃなくって」
童話の絵本に出てくるお姫様みたいで、可愛くて良いな、と思ったけれど。
女の子にはかなり深刻な悩みらしい。
「大変だね」
「私はもう慣れましたけど……こうして、周りの人に迷惑掛けているのが辛くて。でも、パーマは学校で禁止されているし」
「そっか」
女の子と会話をしながら、髪をほどく。
十分間の悪戦苦闘の末に、髪を桜の枝から解放する。
女の子の髪に散った桜の花びらを拾ってあげると、女の子は嬉しそうに笑って言った。
「ありがとうございました、すごく助かりました」
この場面では、ごくしぜんの一言。
その言葉が口にされるのは、予想の範囲なのに、僕の胸はじんわりと温かくなる。
最悪だと思っていた一日。
最悪だと思う自分。
そんな僕でも、誰かの役に立てたということが嬉しい。
少し前まで泣きそうになっていた女の子を、笑わせてあげられたことを誇りに思う。
僕にはこれくらいのことしか、誰かの役には立てないけれど。
これくらいのことでも、役に立てるなら。僕の残りの時間もまだ、有意義に使えるかもしれない。
「こちらこそ――ありがとう」
僕が口にすれば、女の子は目をぱちくりと見開いた。
問うような視線を投げて来る彼女に、僕は少し考えた。
お礼の意味を語りだせば、長くなりそうなんだけど。
綺麗に咲いている桜の下、お花見もいいかもね。
「最悪の一日? 完」
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